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西村和夫の神楽坂

西村和夫の神楽坂
12
2004/09/15

神楽坂雑感

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神楽坂界隈 連載(17)最終回 <2004/9/15>

  1月から16回にわたり理窓会埼玉支部のご好意で「神楽坂界隈」の連載をしておりましたがこのあたりで一区切りをつけ終了させていただきます。長期間のご愛顧ありがとうございました。
  江戸時代から太平洋戦争まで、特に明治、大正のもっとも華やいだ神楽坂を中心にまとめましたので、戦後の復興、現代、再開発の課題など、現在神楽坂が抱える苦悩、問題点には触れませんでした。
  これらについては、改めて項を興して再度お目にかかりたいと存じます。
 
神楽坂雑感 
     文学作品にも数多く登場した神楽坂   いまだに残る花街の雰囲気

 
  江戸時代、無骨一遍だった武家屋敷の町が明治改元から粋な芸者衆が行きかう町に変わった。そして毘沙門天の夜店の賑わいは神楽坂を東京で三指にまで数えられる有名な繁華街に育てた。明治には金色夜叉の尾崎紅葉、婦系図の泉鏡花を初めおおくの文豪を生み、大正の初め島村抱月と松井須磨子が日本に新劇の分野を切り開いた芸術座が創設されたのも横寺町だった。
 
  関東大震災でも無傷だった神楽坂には銀座で焼失した三越をはじめ多くの有名店が仮店舗を出店、あたかも山の手に銀座が出現したかのように思われた。通寺町のコロンバンは久米正雄、広津和郎、宇野浩二、など作家のたまり場になっていた。震災後はじめて牛込会館で公演された水谷八重子の「ドモ又の死」[大尉の娘]には東京中から多く観客を集め、その列は電車通りまであふれた。神楽坂にとって最も華やいだ時代だった。やがて東京の街が復興すると、津波が引くように全て銀座に戻ってしまった。

  昭和の初めには中央線、山手線が全線開通、東横を始め小田急、京王、帝都(井の頭線)など郊外電車が市外に延びるのに従い、東京の人口は市外に移り、そのターミナルステーションとなった渋谷、新宿が神楽坂を抜き急激に繁華街として頭を持ち上げてきた。それまでの渋谷、新宿は神楽坂から見れば宿場町ぐらいにしか見えぬ田舎町だったのである。
  昭和になると花柳街も異変がおきた。銀座を始め東京の各所にカフエーと女給、ダンスホールとダンサーが出現して、その存在を脅かすまでに至った。芸者の数600を誇った神楽坂も多数が仕事が失う有様で、表面は華やかでも内は火の車、驚くべき安値を強いられるに至った。蓄音機1台と板張のバラックがあれば開業できるカフエーとダンスホールは花柳街にとっては強敵であった。客が芸者をともなってカフエーやダンスホールに現れることもめずらしくなかった。この時代から芸者の素養にダンスが加わり、駒下駄が草履に変わるなど花柳街に大きな影響力を及ぼした。
 
 昭和4年、東京にダンスホールが認可されるとすぐに揚場町に新橋、銀座、京橋に並んで開業している。しかし2年ほどで神田に移転するが,同じ年、逆に新宿では日本橋から移転している。山の手銀座を誇った神楽坂はその地位を次第に新宿に明け渡すことになった。 
  西條八十は昭和4年にビクターから発売した「東京行進曲」で銀座に、
         昔恋しい 銀座の柳
         仇な年増を 誰が知ろ
         ジャズでをどって リキュルで更けて
         あけりゃ ダンサアの なみだあめ
カフエーとダンスホールを読み込んでいる。
 だが、昭和5年同氏の「新東京行進曲」では神楽坂が登場するが
         名さへ賑はし あの神楽坂
         こよひ寅毘沙 人の波
         可愛い雛妓(おしやく)と 袖すり交しや  
         買った植木の 花が散る
と昔と変わらぬ夜店と芸者の世界であった。神楽坂には当時、時代の先端を行くカフエー、ダンスホールは似合わなかったのである。
 
  新橋,葭町、柳橋、と並んだ神楽坂の花柳街も、女給、ダンサーという新たに生まれた職業婦人と浜口内閣の高圧的緊縮政策で社会から次第に見放されてゆく運命をたどる事になる。
 大宅壮一は昭和3年の文芸倶楽部で「神楽坂は全く震災で生き残った老人のような感じである。銀座のジャズ的近代性も無ければ新宿の粗野な新興性もない」と批評し「あの相当長い道りにカフエーらしいカフエーが一軒も無い」と書いている。昭和の初めといえば、新橋や銀座の東京の繁華街ではカフェー、女給、ビヤホールの大流行の時代であった。  
  神楽坂を東京で知られた繁華街にした花柳街と芸者はもはや時代遅れになり、町全体を非近代的な雰囲気に包んでしまったのである。当時の世相を代表する西條八十の流行歌「東京行進曲」で銀座、浅草、丸の内そして新宿の中からも外されてしまった。皮肉なことに八十は牛込生まれ、そして神楽坂を大の贔屓にしていた。
 やがて神楽坂の風物詩だった芸者の姿が早稲田,法政の学生の姿に変わりどの喫茶店、麻雀店、飲み屋、撞球場、寄席のすべてが学生に占領されるようになった。6大学で早稲田が優勝すると神楽坂は早稲田の学生が渦巻いた。やがて日本は暗い戦争に突入していくわけだが、神楽坂が学生の町だった時代については改めて触れたい。
 
 昭和18年3月5日(1943) 警視庁が高級料理店(精養軒,錦水等850店)待合・芸妓屋
                (4300店・ 芸妓8900人)バー・酒店(2000店)を閉鎖。(朝日新聞)
 昭和23年7月10日(1948) 風俗営業取締法交付、待合が対象営業に指定される。
 昭和33年4月1日(1958)売春防止法施行(全国約3万9000軒・従業婦12万人消える。(官報)

  戦後、目覚しい日本の復興と共に金偏、糸偏ブームで花柳界は息を吹き返し、政界、財界の社交場として再開、毎夜黒塗りのハイヤーが神楽坂を夜遅くまで行き交った。
  昭和27年、神楽坂贔屓の八十は神楽坂はん子を歌手としてデビューさせて[こんな私じや なかったに]を唄わし、さらに〈 私のリードで 島田もゆれる 〉芸者ワルツの大ヒットで神楽坂を全国的なものにまでした。

町とは一体何だろう。中華街を歩く    
                高層ビル街に無い魅力に人が集まる

    
  9月初め、みなとみらい線が開通して私は中華街を訪れた。街は何時もどおりに込み合っていた。久しぶりに20年来懇意にしている喫茶店に寄ってみた。
 「何時も繁盛で」と声をかけると「人通りばかりですよ」と意外な返事が戻ってきた。店のオーナーの話だと昔は中華街の客と言えば街のどこかで食事をして帰ったものだが、今は見物するだけで素道りするだけの客が多くなったという。そういえば特大の中華饅頭を齧りながら歩く若者の姿が確かに増えている。

 「みんなお金が無いんですね。うちも税務署が調査に来てよく商売が続けられると気の毒がられます。土地、建物が自分のもので、細々と身内でやっているのでもっているようなものです。家賃を払って従業員を雇ったら1日ももちませんよ。」中華街にも廃業、転業する店が目立つようになったという。景気は上向きと言われるが世間では厳しい不況の風はまだ収まってはいない。
 卍と竜で飾られた中国風の豪奢なレストランの隣に中華饅頭を蒸し通行人呼びかける店、中国服を飾る洋品店、中国料理の素材を扱う食料品店が並ぶ街中に人が多いというより群集である。レストランで豪華な円卓を囲む人も、豚饅を食べながら歩く若者もそれなりに中華街を楽しんでいるのである。
 「うちも不景気で客の数が減り、収入も減っているが、客の入りに合わせて生活に工夫をすればまだまだ営業を続けられる。お客といっしょに考えたい。」と語る喫茶店のオーナーの顔には中華街で商売をする誇りと根強さが感じられた。
  この現象は中華街だけに限ったことではないらしい。都内に再開発される高層ビル街でも同じ現象が起きているらしい。展望台に弁当持ちの見学者が増えていると言う話しを聞いた。

昔の馴染みに惹かれて神楽坂の路地を行く

  これらの話はかなりの点で神楽坂に当てはまる。
  20年ほど昔の話である。今から考えれば嘘みたいな時代で、都心の地価は地上げによるうなぎ登り、株は何を買おうが儲かった。何箇所もゴルフの会員権を持ち、本業そっちのけで狸の皮算用で日を明け暮らす人間もでてきた。確かに日本中何処もかしこも景気が好かった。仕事が終わると「一寸やりますか」と言った調子で行きつけのスナックによったものだった。誰でも3~4軒の馴染みの店があり行き先には事欠かなかった。
 
  私にも毘沙門天の裏に心安い行きつけの店が1軒あった。誰かに1度つれて来られたのが縁となって、神楽坂に来れば帰りには必ずといってよいほど寄ったものだった。ママはもと、神楽坂の料亭で仲居をしていたとかで、その時代からのお馴染みさんも多いらしく、店は何時行ってもこんでいた。手伝いも置かずに一人で切り盛りしていた。
  店と言ってもしもた屋を改造したらしく玄関の格子戸を開けるとすぐ5~6人腰掛けられるカウンターがある程度で、何の飾り気も無いだけに値段も気にしないで飲むことができた。当時は神楽坂を1歩横町に入ると暗がりの中にこういう飲み屋が流行り、店には夜遅くまでスーツ姿の男性の姿が目立った。
 
  景気の好かったのは2年程で、バブルがはじけるとすぐ店を閉めることになった。店に特に親しかった者の話しでは「売り上げが激減して家賃が払えなくなってしまった」からだそうだ。収入が減っても家が自分のものなら、お馴染みさんも多いことだし女1人生活するくらいどうにでもなると嘆いていたと言う。消えたのは行きつけの飲み屋だけでなかった。あまり縁はなかったが紅灯の明かりも次々に消えていった。
  神楽坂を裏通りに入るとこんな店はどこにでもあった。店は廃業しても不思議なことに家並みだけは昔をとどめている。今でもたまに神楽坂に来ると「この辺だったかな」と昔の記憶をたよりに横町を曲がってみることがある。いつまでたっても神楽坂を知っているものは誰でも郷愁を感じる不思議な町である。
 
散歩するだけでぬくもりを感じる不思議な町
 
  最近、東京の街を紹介する刊行物を広げて神楽坂の文字を見ることは少なくなった。以前なら浅草、銀座、渋谷、新宿、に並んで神楽坂が紹介されていたものだ。
  今の神楽坂は繁華街としては渋谷、新宿などと比べて比較にならぬほど町は小さい。大きな劇場も無ければ、若者のファッションを生み出すような店も場所も無いに等しい。デパートも無い。昔、華やいだ花柳街も全くといっていいほど活気が無い。見るべきものが無いということらしい。山の手の七福神毘沙門天が祀られる善国寺にも浅草寺の雷おこし、水天宮の人形焼といった土産物も見当たらない。つまり日本の何処にでもある平凡な町ということだ。
  新しく作られた六本木ヒルズ,汐留ビルなどモダンな町作りに比べれば、いわば都心に残された田舎町なのである。だが、人どおりだけは何処にも負けない。                 
  買い物をするなら新宿や銀座に出た方が店も商品が揃っている。しかし、それにもかかわらず神楽坂を散歩する人が以前と変わらず多いのだ。つまり歩いているだけで人間のぬくもりが伝わるのを肌で感じられる町だからである。私が今は無い古い飲み屋に惹かれるように、ここを訪れる人は長い時間をかけ気の遠くなるような時間の中で育んできた石畳の露地や横町、そして家並みに郷愁を感じるのである。
                                                   (最終回)

神楽坂界隈 連載(17)最終回に当たり 

  1月から17回にわたり理窓会埼玉支部のご好意で「神楽坂界隈」の連載をしておりましたがこのあたりで一区切りをつけ終了させていただきます。長期間のご愛顧ありがとうございました。
  江戸時代から太平洋戦争まで、特に明治、大正のもっとも華やいだ神楽坂を中心にまとめましたので、戦後の復興、現代、再開発の課題など、現在神楽坂が抱える苦悩、問題点には触れませんでした。
  これらについては、改めて項を興して再度お目にかかりたいと存じます。
 
神楽坂雑感 
     文学作品にも数多く登場した神楽坂   いまだに残る花街の雰囲気

 
  江戸時代、無骨一遍だった武家屋敷の町が明治改元から粋な芸者衆が行きかう町に変わった。そして毘沙門天の夜店の賑わいは神楽坂を東京で三指にまで数えられる有名な繁華街に育てた。明治には金色夜叉の尾崎紅葉、婦系図の泉鏡花を初めおおくの文豪を生み、大正の初め島村抱月と松井須磨子が日本に新劇の分野を切り開いた芸術座が創設されたのも横寺町だった。
 
  関東大震災でも無傷だった神楽坂には銀座で焼失した三越をはじめ多くの有名店が仮店舗を出店、あたかも山の手に銀座が出現したかのように思われた。通寺町のコロンバンは久米正雄、広津和郎、宇野浩二、など作家のたまり場になっていた。震災後はじめて牛込会館で公演された水谷八重子の「ドモ又の死」[大尉の娘]には東京中から多く観客を集め、その列は電車通りまであふれた。神楽坂にとって最も華やいだ時代だった。やがて東京の街が復興すると、津波が引くように全て銀座に戻ってしまった。

  昭和の初めには中央線、山手線が全線開通、東横を始め小田急、京王、帝都(井の頭線)など郊外電車が市外に延びるのに従い、東京の人口は市外に移り、そのターミナルステーションとなった渋谷、新宿が神楽坂を抜き急激に繁華街として頭を持ち上げてきた。それまでの渋谷、新宿は神楽坂から見れば宿場町ぐらいにしか見えぬ田舎町だったのである。
  昭和になると花柳街も異変がおきた。銀座を始め東京の各所にカフエーと女給、ダンスホールとダンサーが出現して、その存在を脅かすまでに至った。芸者の数600を誇った神楽坂も多数が仕事が失う有様で、表面は華やかでも内は火の車、驚くべき安値を強いられるに至った。蓄音機1台と板張のバラックがあれば開業できるカフエーとダンスホールは花柳街にとっては強敵であった。客が芸者をともなってカフエーやダンスホールに現れることもめずらしくなかった。この時代から芸者の素養にダンスが加わり、駒下駄が草履に変わるなど花柳街に大きな影響力を及ぼした。
 
 昭和4年、東京にダンスホールが認可されるとすぐに揚場町に新橋、銀座、京橋に並んで開業している。しかし2年ほどで神田に移転するが,同じ年、逆に新宿では日本橋から移転している。山の手銀座を誇った神楽坂はその地位を次第に新宿に明け渡すことになった。 
  西條八十は昭和4年にビクターから発売した「東京行進曲」で銀座に、
         昔恋しい 銀座の柳
         仇な年増を 誰が知ろ
         ジャズでをどって リキュルで更けて
         あけりゃ ダンサアの なみだあめ
カフエーとダンスホールを読み込んでいる。
 だが、昭和5年同氏の「新東京行進曲」では神楽坂が登場するが
         名さへ賑はし あの神楽坂
         こよひ寅毘沙 人の波
         可愛い雛妓(おしやく)と 袖すり交しや  
         買った植木の 花が散る
と昔と変わらぬ夜店と芸者の世界であった。神楽坂には当時、時代の先端を行くカフエー、ダンスホールは似合わなかったのである。
 
  新橋,葭町、柳橋、と並んだ神楽坂の花柳街も、女給、ダンサーという新たに生まれた職業婦人と浜口内閣の高圧的緊縮政策で社会から次第に見放されてゆく運命をたどる事になる。
 大宅壮一は昭和3年の文芸倶楽部で「神楽坂は全く震災で生き残った老人のような感じである。銀座のジャズ的近代性も無ければ新宿の粗野な新興性もない」と批評し「あの相当長い道りにカフエーらしいカフエーが一軒も無い」と書いている。昭和の初めといえば、新橋や銀座の東京の繁華街ではカフェー、女給、ビヤホールの大流行の時代であった。  
  神楽坂を東京で知られた繁華街にした花柳街と芸者はもはや時代遅れになり、町全体を非近代的な雰囲気に包んでしまったのである。当時の世相を代表する西條八十の流行歌「東京行進曲」で銀座、浅草、丸の内そして新宿の中からも外されてしまった。皮肉なことに八十は牛込生まれ、そして神楽坂を大の贔屓にしていた。
 やがて神楽坂の風物詩だった芸者の姿が早稲田,法政の学生の姿に変わりどの喫茶店、麻雀店、飲み屋、撞球場、寄席のすべてが学生に占領されるようになった。6大学で早稲田が優勝すると神楽坂は早稲田の学生が渦巻いた。やがて日本は暗い戦争に突入していくわけだが、神楽坂が学生の町だった時代については改めて触れたい。
 
 昭和18年3月5日(1943) 警視庁が高級料理店(精養軒,錦水等850店)待合・芸妓屋
                (4300店・ 芸妓8900人)バー・酒店(2000店)を閉鎖。(朝日新聞)
 昭和23年7月10日(1948) 風俗営業取締法交付、待合が対象営業に指定される。
 昭和33年4月1日(1958)売春防止法施行(全国約3万9000軒・従業婦12万人消える。(官報)

  戦後、目覚しい日本の復興と共に金偏、糸偏ブームで花柳界は息を吹き返し、政界、財界の社交場として再開、毎夜黒塗りのハイヤーが神楽坂を夜遅くまで行き交った。
  昭和27年、神楽坂贔屓の八十は神楽坂はん子を歌手としてデビューさせて[こんな私じや なかったに]を唄わし、さらに〈 私のリードで 島田もゆれる 〉芸者ワルツの大ヒットで神楽坂を全国的なものにまでした。

町とは一体何だろう。中華街を歩く    
                高層ビル街に無い魅力に人が集まる

    
  9月初め、みなとみらい線が開通して私は中華街を訪れた。街は何時もどおりに込み合っていた。久しぶりに20年来懇意にしている喫茶店に寄ってみた。
 「何時も繁盛で」と声をかけると「人通りばかりですよ」と意外な返事が戻ってきた。店のオーナーの話だと昔は中華街の客と言えば街のどこかで食事をして帰ったものだが、今は見物するだけで素道りするだけの客が多くなったという。そういえば特大の中華饅頭を齧りながら歩く若者の姿が確かに増えている。

 「みんなお金が無いんですね。うちも税務署が調査に来てよく商売が続けられると気の毒がられます。土地、建物が自分のもので、細々と身内でやっているのでもっているようなものです。家賃を払って従業員を雇ったら1日ももちませんよ。」中華街にも廃業、転業する店が目立つようになったという。景気は上向きと言われるが世間では厳しい不況の風はまだ収まってはいない。
 卍と竜で飾られた中国風の豪奢なレストランの隣に中華饅頭を蒸し通行人呼びかける店、中国服を飾る洋品店、中国料理の素材を扱う食料品店が並ぶ街中に人が多いというより群集である。レストランで豪華な円卓を囲む人も、豚饅を食べながら歩く若者もそれなりに中華街を楽しんでいるのである。
 「うちも不景気で客の数が減り、収入も減っているが、客の入りに合わせて生活に工夫をすればまだまだ営業を続けられる。お客といっしょに考えたい。」と語る喫茶店のオーナーの顔には中華街で商売をする誇りと根強さが感じられた。
  この現象は中華街だけに限ったことではないらしい。都内に再開発される高層ビル街でも同じ現象が起きているらしい。展望台に弁当持ちの見学者が増えていると言う話しを聞いた。

昔の馴染みに惹かれて神楽坂の路地を行く

  これらの話はかなりの点で神楽坂に当てはまる。
  20年ほど昔の話である。今から考えれば嘘みたいな時代で、都心の地価は地上げによるうなぎ登り、株は何を買おうが儲かった。何箇所もゴルフの会員権を持ち、本業そっちのけで狸の皮算用で日を明け暮らす人間もでてきた。確かに日本中何処もかしこも景気が好かった。仕事が終わると「一寸やりますか」と言った調子で行きつけのスナックによったものだった。誰でも3~4軒の馴染みの店があり行き先には事欠かなかった。
 
  私にも毘沙門天の裏に心安い行きつけの店が1軒あった。誰かに1度つれて来られたのが縁となって、神楽坂に来れば帰りには必ずといってよいほど寄ったものだった。ママはもと、神楽坂の料亭で仲居をしていたとかで、その時代からのお馴染みさんも多いらしく、店は何時行ってもこんでいた。手伝いも置かずに一人で切り盛りしていた。
  店と言ってもしもた屋を改造したらしく玄関の格子戸を開けるとすぐ5~6人腰掛けられるカウンターがある程度で、何の飾り気も無いだけに値段も気にしないで飲むことができた。当時は神楽坂を1歩横町に入ると暗がりの中にこういう飲み屋が流行り、店には夜遅くまでスーツ姿の男性の姿が目立った。
 
  景気の好かったのは2年程で、バブルがはじけるとすぐ店を閉めることになった。店に特に親しかった者の話しでは「売り上げが激減して家賃が払えなくなってしまった」からだそうだ。収入が減っても家が自分のものなら、お馴染みさんも多いことだし女1人生活するくらいどうにでもなると嘆いていたと言う。消えたのは行きつけの飲み屋だけでなかった。あまり縁はなかったが紅灯の明かりも次々に消えていった。
  神楽坂を裏通りに入るとこんな店はどこにでもあった。店は廃業しても不思議なことに家並みだけは昔をとどめている。今でもたまに神楽坂に来ると「この辺だったかな」と昔の記憶をたよりに横町を曲がってみることがある。いつまでたっても神楽坂を知っているものは誰でも郷愁を感じる不思議な町である。
 
散歩するだけでぬくもりを感じる不思議な町
 
  最近、東京の街を紹介する刊行物を広げて神楽坂の文字を見ることは少なくなった。以前なら浅草、銀座、渋谷、新宿、に並んで神楽坂が紹介されていたものだ。
  今の神楽坂は繁華街としては渋谷、新宿などと比べて比較にならぬほど町は小さい。大きな劇場も無ければ、若者のファッションを生み出すような店も場所も無いに等しい。デパートも無い。昔、華やいだ花柳街も全くといっていいほど活気が無い。見るべきものが無いということらしい。山の手の七福神毘沙門天が祀られる善国寺にも浅草寺の雷おこし、水天宮の人形焼といった土産物も見当たらない。つまり日本の何処にでもある平凡な町ということだ。
  新しく作られた六本木ヒルズ,汐留ビルなどモダンな町作りに比べれば、いわば都心に残された田舎町なのである。だが、人どおりだけは何処にも負けない。                 
  買い物をするなら新宿や銀座に出た方が店も商品が揃っている。しかし、それにもかかわらず神楽坂を散歩する人が以前と変わらず多いのだ。つまり歩いているだけで人間のぬくもりが伝わるのを肌で感じられる町だからである。私が今は無い古い飲み屋に惹かれるように、ここを訪れる人は長い時間をかけ気の遠くなるような時間の中で育んできた石畳の露地や横町、そして家並みに郷愁を感じるのである。
                                                   (最終回)


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2004/09/01

夜店

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神楽坂界隈 連載(16) <2004/9/1>
 
夜店の草分け
      毘沙門天の雑踏に揉まれる神楽坂芸者

  戦争を境に神楽坂の夜店が姿を消してから半世紀以上も経つ。しかし、神楽坂と聞くと、いまでも、まず夜店と芸者の姿が頭に浮かぶ。戦争前は、夜、神楽坂に来さえすれば夜店も出ていたし、座敷に通う芸者さんも見かけものだった。ところが、現在ではその様な光景は全く無くなってしまった。
 むかし江戸庶民は夏の夕方から夜にかけ[夕涼み]と言って涼しい場所に出かける習慣があった。両国の川開きはその最たるもので,両国橋を中心に川の両岸には夜店や食べ物屋の屋台が並び、大人から子供まで一夜を楽しんだ。[夕涼み]は両国に限らず江戸に各所に存在した。江戸庶民の狭い住宅事情によるものだったのであろう。
 神楽坂が東京の繁華街と呼ばれた最大の理由は、夜店の数とおびただしい人出を指したものと言って間違いはないだろう。神楽坂に始めて夜店が出たのは明治20年(1887)のことであり東京で歴史が一番古いとされている。                 
  神楽坂は江戸時代から毘沙門天の寅の日の植木市として知られていた。折も折り当時東京市内の家庭で盆栽や季節の草花を植えることが流行っていたこともあって、寅の日には植木を求める客でかなり繁盛していた。シーズンになると朝顔をはじめ季節の草花が並び、彼岸や盆には切花、暮れになると松竹梅のよせ植えや福寿草の鉢植えに正月を祝う客が東京中から集まった。                                     
  神楽坂に夜店が出るようになると、牛込の住人は大人から子供まで、家中で神楽坂へと出かけた。やがて人出は神楽坂周辺の住人だけに止まらず遠く四谷、早稲田、戸塚あたりからも続々と人の波が押し寄せることになった。
 初めの夜店は坂上から外濠まで植木屋が中心に並んだ。毘沙門天の境内には猿芝居やノゾキからくり、大蛇の見世物などがいくつもかかり、神楽坂の両側には、季節の草花から盆栽、庭木にいたるまで並べられた。やがてそれに露天商が加わり、市内で3位と言われる程の賑わいを見せるまでにいたった。夜店を散策する学生の群れ、子供の手を引く親、若い男女、女学生、その間を走り回る子供、ありとあらゆる階層の人が何回も坂を上下して人の渦巻きをつくった。
 盆栽の鉢を抱え、また庭木を担ぐ人が人の流れに逆らわず雑踏の渦に揉まれながら歩いていた。その中を座敷に通う芸者が人をかき分けていく光景が神楽坂の風物詩として知られるようになると、それがまた人を呼んだ。通行人は、物売りの口上や香具師の啖呵に耳を傾け、座敷に通う芸者に見ほれているうちに、すぐに時間はたっていった。腹がへれば蕎麦屋で蕎麦を啜り、屋台か居酒屋で一杯引っ掛けてまた雑踏の中に消えていった。花柳街を冷やかすのも神楽坂の夜店の遊びの一つだった。

 娯楽の少ない時代で明治の終わるころには神楽坂には寄席が流行っていた。飯屋の2階が○○亭と言うように女義太夫の席であったりして、気軽に客が集まった。東中軒雲右衛門が修行をした若松亭も神楽坂にあった。しかし、表通りの喧騒をよそに1歩でも横町に入りと静寂の中に流れる三味線の音色が醸し出す世界も神楽坂だった。酒、料亭、芸者、待合、夜店、寄席総てが神楽坂の繁華に繋がっていたのである。この頃が神楽坂情緒の最も豊かな時代だったと言えよう。
  子供たちも夜店の出る日は夕方から落ち着かなかった。親からいくら小遣いを貰うかが最大の関心事だった。夜店は大人だけでなく子供の別世界でもあった。男の子だけでなく女の子も連れ立って出かけた。もちろん子供目当ての店も多かった。女の子に人気のあった千代紙の着せ替え人形、海ほおづき、ぬり絵は夜店でしか手にすることができなかった。種類も多く選ぶのに時間もかかり小学生の女児が黒山になっていた。よくできた作品は店の周りの電灯の下に氏名と共に展示された。
 貧乏徳利を揺すり塩酸と亜鉛の板から発生させた水素でゴム風船が膨らむのをじっと待つ親子、玩具屋でブリキの電車をせがみ父親の顔色をうかがう男の子、セルロイドの西洋人形に見入る女の子こんな光景は何処にでも見られた。
     
200軒の夜店に人が溢れ神楽坂は「車馬通行止」
 
  さらに夜店が明るく華やいだは電気とアセチレンランプが現れた20世紀以後からのことだ。夜店が明るくなるにつれ震災前後を境に「バナナの叩き売り」で代表されるような威勢のいい香具師の啖呵が聞こえるようになると、植木屋は次第に隅に追いやられることになった。 
 そればかりかアセチレンランプからでる異様な臭いは夜店の臭いとも思われる時代に変わっていく。街路灯も少なく、ネオンもイルミネイションもない時代、日が暮れ神楽坂の夜店が一斉に明かりを灯すと、光の帯が明るく道路を歩く人を浮び上がらせた。そして時間がたつにつれて光に集まる虫のように人の数は次第に増えていった。
 寅の日だけの縁日がやがて午の日にも出るようになり、寅の日と午の日は寅毘沙、午毘沙と言って200軒以上の夜店が狭い道路の両側に2列に並んだ。やがてそれが連日になり、人の出盛りの時間になると坂が人間で埋めつくされ、坂下と坂上には[車馬通行止]の提灯が下げられ坂は歩行者天国にされた。これで通行人は安心して神楽坂の夜店見物を十分に楽しむことができたのである。夜店を訪れた客は坂を2~3時間かけて2~3回上下するのが普通だった。200軒もでる店を見て回るのには1日や2日で終わるものではなかった。
 夜店の範囲も通寺町から矢来町に達するいきおいでのび、大久保通りも人と店で溢れるようになったが、しかし、通行人は神楽坂の夜店のほうが格が上だと考えていたようだ。この状態は日中戦争が始まるころまでつづいたが、戦争が激しくなると急速に姿を消してしまった。敗戦後、米軍の空襲で焼土と化した街は復興したが再び夜店を見ることはなかった。
 
バナナ屋の啖呵で植木市が東京屈指の繁華街   
 
  震災を前後して「バナナの叩き売り」が本田横町の前辺りに店を出し夜店の立役者になると、それまで植木屋が主体であった神楽坂の縁日が露店中心の夜店へと変わっていくことになる。
  ねじり鉢巻に腹掛けどんぶり姿はバナナ屋のユニホームだ。戸板の上の山盛りにしたバナナの一房を片手に、一方の手にムチを持ち戸板を叩いて値段を競るのである。
 「サア買った。安くしとくよ。もってけ泥棒」の啖呵が響く。1房1円が70銭になり50銭になる。「もってけ泥棒」の声で30銭になる。客は競り落とすタイミングを考え次々と声をかかる。バナナの房は新聞紙に包まれて客にわたされる。威勢のいい啖呵と見物人のやりとりに人が集まり、バナナが無くなれば店が終わる。売れ残ったバナナを見たことは無く、店じまいも一番早かった。夜店に来た見物人は必ずと言って足を止めるところであった。

神楽坂の夜店は古本屋が多いことで知られていた

  神楽坂の夜店は早稲田が近いせいでもあるまいが他の地域に比べて古本屋が多かった。古本をつめた細長い木箱をリヤカーに積んで移動、木箱をリヤカーの上に並べるだけで古本屋は開業する。裸電球の下で月遅れの月刊雑誌の連載小説や、講談本を読もうと子供から大人までいつも群がっていた。商店街の小僧さんや女中さんも暇をみてやってきた。                         
  もちろん、参考書から英和辞典、店によっては専門書まで並べられていた。たまに本にはたきをかけるぐらいで、本屋の主人もお客が声をかけるまでうつむいて何時も本を読んでいた。しかし、流行作家や売れ行きのよい本や雑誌は手元において目を光らせていた。もちろん売れ行きのいい古本は高値で買い取ってくれたし、交換もしてくれた。                                                        
  昭和の初期は不景気な時代であったが各出版社はこぞって全集物を出した。文学から講談、童話、教養全集と多岐にわたっていた。出版社が倒産すると,その本がそのまま古本屋に並び1冊でもばらして売っていた。                                               

嫌われ者の蝮も夜店では立役者
     
 蛇屋という商売があった。これには生きた蛇を売るのと、黒焼きにしたものを売る店とあった。生きた蛇を売る店は照明も無く周りの明かりを頼りにするものが殆どで暗がりが多かった。確か金網で栓をしたビンに生きた蝮をつめ、何本か籠にいれ、1本ずつ取り出して客に見せていた。黒蝮、赤蝮、蝮の産地・大きさで値段は客との交渉である。 
 店に蝮を並べないのはビンが壊れ、蝮が逃げると困るからだ。蛇屋は客が付くまで蛇の効能について得々と講釈を続ける。昭和の始めころまでは、蝮は万能薬と信じ込まれていたらしい。見物客は遠まわしに輪をつきり、覗き込むようにしてびんの中でとぐろを巻く蝮を見た。
 「ビンの金網の栓をはずすと蝮が飛び出すから焼酎は必ず網の上から入れる。焼酎を注ぐと蝮は大きな口をあけて苦しがり焼酎の中を泳ぎまわる。この時蝮が口から吐く精が体にいい。1日さかずき1杯で十分効力がある。」と言う蛇屋の講釈に見物人は納得して聞いていた。

何故か蛇が最高の民間薬だった時代

  もう一つの蛇屋は黒焼きの蛇を売る店である。黒焼きと言っても、殆どがシマヘビの燻製である。この店構えは、生きた蛇を売る店にくらべると明るく派手だった。人寄せのためか、何に効くのかセンザンコウの剥製、気味悪い素焼きの甕で蒸し焼きにしたサルの頭蓋骨を何時も並べていた。蛇の卵、ハブのアルコールづけのある店もあった。
 蛇屋と相談する客の話に見物人はそっと耳を傾けていた。売り物のシマヘビは燻製にされてうず高く積まれ、申し訳に金網のかごに生きたシマヘビが動いていた。
 注文があると、とぐろを巻き燻製にされたシマヘビを客の目の前で手回しの粉砕機で粉にして缶に入れる。初めから粉に挽いてあるものは売れない。蛇の効能のある部分は頭で、初めから粉になったシマヘビは頭を外してあると客が疑うからだ。同様に蝮の黒焼きも少なかった。焼いてしまえば蝮もシマヘビも同じに見えるからだそうだ。
 昭和の初め、まだ蛇は万病の薬と考えられていた時代だったのである。
 
毘沙門天境内の植え込みは実は植木屋の売り物だった  
 
  夜店のはずれにはきまって古戸具屋と植木屋が店を出していた。古道具屋の店は暗かった。暗い店の奥で時折ハタキが動かなければ骨董の仏像と見違うように店主が座っていた。大きいものは長火鉢から茶箪笥、掛軸、骨董、焼き物がぎっしりと並べられ、売り声も無い静かな店だった。店の前を通り過ぎるものが殆どで、目ぼしいものを発見した客が声をかけて店が開いた。
 震災を前後して植木屋の数は減り濠端の方へ押しやられた感があったが、朝顔など季節の鉢物が売られるときは活気があり、人が込み合ったが普段は静かだった。枝振りのいい松の盆栽から、万年青などの鉢物、桜、梅、躑躅,バラ,木犀、海棠の庭木の苗木を並べ、仕事着姿の植木屋が店番をしていた。
  特に毘沙門天境内の植木屋は縁日に関係なく常時店を出し,売り物の樹木が元もと境内に植えられたものであるかのように茂っていた。四季折々に植え替えられて、緑が毘沙門天の伽藍に妙に合い風情を与えていた。
 
飴細工もシンコ細工も無形文化財
 
 夜店というと大人も子供も食べ物に人気が集まった。飴屋もいろいろ出ていた。金太郎飴も鼈甲飴も飴細工もすべて見物人を前においての実演販売でどこも人だかりだった。
 
鼈甲飴
 暖めた銅版の上に砂糖を煮つめた飴を鍋の口から流して孔雀、犬、猫を初め鳥から自動車、飛行機と客の注文によって何でも描いてくれる。しばらくすると飴は固まり銅版から外れる。ところが、これらの芸術作品は売れることはないらしく、いつも棒につけて店先に懸賞の賞品として並べられていた。 
 子供たちは1銭程で丸く棒に延ばした鼈甲飴を買う。飴の表面には瓢箪か刻印がされていて、飴をしゃぶりながら上手に瓢箪を外すと店先に飾られた作品が貰える仕組みになっていた。鼈甲飴の芸術の寿命は短く、一晩で形が崩れてしまい子供をがっかりさせた。
 
飴細工
 水飴をねり飴の中に空気を入れて水分をとばすと白く固まってくる。さらし飴である。固まる寸前に飴に細工をするのだ。現在でも水天宮あたりの縁日で「無形文化財」の看板をかけて出ているのを見かける。
 飴が冷えて固まらないように自転車の荷台に積んだ銅壺(どうこ)で暖めてある。10センチ程に切ったしの竹の先に飴をつけ、指先で丸めながら竹を吹くと飴は丸く膨れる。後はまったくガラス細工の要領である。飴が冷えて固まるまでの時間との勝負だ。成形は指先と和鋏一丁、赤と緑の食紅で色を施せば出来上がり。材料が大理石のように白くつやがあるのでお稲荷さんのきつね、狸、招き猫,鳩、犬がよく似合った。
 
シンコ細工
 シンコ細工も[無形文化財]の一つだろう。うるち、つまり白米の粉を蒸して搗いたもので細工をして彩色する。粘土細工のようなものだ。
 まず、シンコを捏ねるおやじの手から5センチほどの小さな皿が出来上がる。さらにシンコは手のひらの上で細く伸ばされへらの先で形をつけると、茄子や胡瓜,南瓜といったミニチユアが出来上がる。リンゴ、バナナ,柿などの時もある。次々に作られた野菜や果物が赤や緑に彩色され次々に皿に盛られると出来上がりだ。
 おやじに頼めば何でも応じてくれた。出来上がると、見物人に披露して楊枝を添えられ黒蜜をかけて渡される。食べるには勿体ない出来ばえである。そっとシンコの皿の隅から蜜を舐めなめると黒砂糖の甘さが舌先に伝わってくる。
 
夜店の食の風物詩、夏は風鈴にカキ氷、冬は焼き芋に今川焼
 
  夏になると朝顔に並んで風鈴がなり、暗がりには回り灯籠が回わっていた。蛍が篭に入れられて青白く点滅すると子供たちが周りをしゃがんで取り囲んだ。かき氷屋が店を出すのもその近所だった。秋には虫かごで鈴虫が鳴いていた。
 冬になると氷屋が焼き芋屋、今川焼、お好み焼きの店に変わった。屋台の寿司屋、おでんや、今川焼などは常店のように縁日に無関係にのれんをかけていた。暮が押し詰まると救世軍が街角に社会鍋を下げトランペットを吹いて「歳末助け合い」の募金を呼びかけた。
 人道りの疎らなところにの五目並べ、詰め将棋にはいつも5~6人の客が腕組みをして盤を眺め長考していた。また、易者が小さな机に蝋燭を灯し、筮竹をたて算木を並べて瞑想をしていた。
 
騙されても腹の立たぬ舌先三寸の香具師の商売
 
  暗記屋なる商売があった。角帽に学生服の男が一段高い踏み台にのり、巻紙を片手に見物客に数字を言わせ筆で書きとめていく。ある程度数字が揃うと、巻紙が客の方向に向くように頭上にかざし数字を順番に暗証するのである。実演が終わると薄っぺらの暗記術なる本を売っていた。実際に本が役立ったか聞いた事は無い。
  七味とうがらしの口上が始まれば、赤い帽子を被った唐辛子屋に集まり、何を売ろうが関係なく香具師の舌先に吸い寄せられていった。思わず手を出して「しまった」とすぐに後悔しても、翌日になるとまた同じことを繰り返すのだが、誰も腹は立てなかったようだ。
 雌鶏になって卵を産むはずヒヨコがすべて雄鶏だったり、実演中はよく研げたはずの砥石が用をなさなかったり、書けない万年筆、なまらな刃物、おかしなものをつかまされても「夜店の品物だもの」と一笑に終わらせる構えがあったからこそ気楽に付き合えたのだろう。
  だが一方、質を問わねば十分使用に耐える陶器、台所用品からメリヤスのシャツまで市価より安く手に入れられ、「値切る」魅力は夜店の楽しみであった。
 何処の店にも寅さんがいた。品物はともかく香具師の啖呵に惹かれる 夜店の香具師には一芸を持つものが多かった。客集めに「寅さん」のように舌先三寸で客の足を止めるものと、がまの油売りを代表するように一芸を披露して客の流れを変えた。
 表札屋が仕事を始めると、店先に人だかりができる。見物人の目は黙って表札屋の筆先を追っていた。間違えると何事もなかったように鉋を取り出し表札の表面に軽くあてた。代筆もかねるらしくたまに履歴書から表彰状までも書いていた。
 大道に紙を広げ講釈交じりで虎や竜の絵を描くものがいた。虎の毛並みや、竜の鱗が筆さばきで驚くべき速さで描かれていく。別に絵を売る気配はない。人が集まると何かを取り出し見物客に売りつけてしまうのである。
 当時の大道商人は人集めに、誰も真似のできない一つの技を持っていた。空中回転をするたびに幾つものどんぶりを出してみたり、両端を和紙で吊った竹を、紙を切ることなく木刀で竹を割って見せ、「客の中に掏りがいる。いま財布を掏りとり逃げようとしている」とまことしやかに喋り、通行人を引き止め、それから店を開くのである。その事情をよく知っている客は、技だけ見ると帰ろうとする。それを引き止めるのも技であった。
大道芸をみていてもすぐに2~3時間はたってしまう。
 
  神楽坂の夜店を知っている人は少なくなった。地域の風俗史に係る夜店などの記録は無いに等しい。過去の東京の案内本などに記載されているものを中心に聞き込み資料を交え、不明の点は同時代の他地区の夜店を参考にした。
  夜店に出た店も時代によって大分変化しているようだ。香具師の啖呵売りの口上は関東では共通のものが多い。また、同じ香具師が市内の縁日を回っていたようなので夜店の地域差は特に大きな差異は無いと考えた。
 神楽坂の夜店について詳しいことをご存知の方がいたらご教授をお願いしたい。


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2004/08/15

田原屋そして紅屋の娘

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神楽坂界隈 連載(15) <2004/8/15>

神楽坂が東京三指の繁華街として華やいだ時分


 神楽坂がもつとも華やいだ時代は大正
3年(1914)から始まった第1次世界大戦から関東大震災をはさんで昭和のはじめの大不況までといって間違いはないだろう。第1次世界大戦がもたらした戦争景気は国内に成金を続々登場させた。
 一部の成金は自分達の成功を自慢するため辺りに札を撒くような常識はずれの贅沢をするものが現れた。この現象は花柳街で特に顕著であった。真偽のほどは分からないが、芸者に履物を探させるのに
100円札を燃やし明かりにすることが流行ったと聞いている。一般社会の不況をよそに花柳界は戦争景気に沸いたのである。神楽坂もその例にもれなかった。そして震災後のひと時は上野、浅草とともに東京で三指に上る繁華街に数えられるまでに至った。               


 世間では物価の暴騰に賃金が追いつけず、全国で労働運動がおこるなど社会的不安を抱きながらも、神楽坂は華やいでいたのである。
 昼間は町自身その辺の町となんら変わらないのだが、花柳街の石畳に打ち水がされ、灯がともるとあたりの様子は一変する。そして夜店に人が集まり、その雑踏に揉まれ座敷着の芸者が座敷を行き来する光景が神楽坂だとされていた。
 今でも表通りから一歩奥に入いれば花町の雰囲気は残っているが、所詮過去のものとなってしまった。神楽坂を繁華街として支えきた夜店は姿を消し、芸者の影もなかなか見られなくなってしまった。「そんなことは百も承知だ」と言いながらも、神楽坂を訪れるものは、横丁から芸者さんが出てこないかという妙な妄想に駆られるような、どうしても街そのものに華やぎ艶めいたものを期待してしまう。
 
 今の神楽坂は若者の町に変わろうとけんめいに努力している。昔の名声があるだけに、なかなか変わりきれない。しかし、それが一つ魅力で人が集まるのだとしたらそれでもいいのだと思う。

日蓮宗善国寺の毘沙門天は麹町の火事で焼失、
寛政
5年(1793)神楽坂に移転してきた。山
の手の七福神の一つで正月と寅の日には参詣
人が絶えない。寅の日の縁日は徳川時代に始
まる

昭和のはじめ15軒の料亭と128軒の待合に
            芸妓置屋166軒に619人の芸者

 昭和のはじめには神楽坂の検番(芸妓置屋、料亭、待合の組合)2派に分かれていて旧検は芸妓置屋121軒、芸妓446名、料亭11軒、待合96軒、新検は芸妓置屋45軒、芸妓173名、料亭4軒、待合32軒という繁栄ぶりだった。狭い神楽坂にこれだけの店がひしめいていたのだから、一歩でも横丁に入れば芸者置屋、料亭、待合が軒を並べていた。       
 だが、新たに台頭してきたカフェーとバーにおされ、さらに追打ちをかけるように浜口内閣の高圧的な緊縮政策で目に見えて衰え始めた。市内の花柳街では一晩に働く芸妓の数が全体の1割にも満たない状態になり、山の手髄一を誇った神楽坂でも玉代の値下げを迫られた。          
 震災で焼け出された多くの市民が山手線の外周,そしてそこから伸びる東横線、小田急などの私鉄沿線に住むようになり、市内の歓楽街として3指に入った神楽坂は気づかぬ間に渋谷、新宿、池袋に抜かれることになった。地価だけをみても震災後、三越が新宿に進出したときは坪1500円だったものが年とともに上昇するのに対し、神楽坂では高いところで500円から300円に値下がりしている。
 やがて長い戦争が続き敗戦となり花柳街にとっては受難続きであったが、戦後の経済成長とともに神楽坂は花柳街として再び息を吹き返した。しかし、バブルの波には勝てずその存続すら危ぶまれている。しかし、神楽坂を訪れるものの多くは現在の神楽坂の中から失われた過去の華やかな色町の姿を求めようとして散策する。色町としての影を失なった今でも、よき時代の神楽坂のイメージを持ち続けているのである。                         
 繁華街として東京で一、二を争ったよき時代の神楽坂を毘沙門天を中心に思い起こしてみたい。

本田横丁から坂上(肴町交差点)まで


この辺りはいつの時代でも神楽坂で一番繁華なところとして知られているところだ。
創業300年の歴史のある店は、漱石を始め多くの有名文士が原稿用紙を買った紙屋の相馬屋ぐらいになってしまったが、ほんの少し前までは150年の歴史のある酒屋の万長、薬屋の尾沢、果物屋というよりレストランで知られた田原屋など古くから名の知られた老舗が集まっていたところである。

ジョン・レノン・ヨーコ夫妻がおしのびで鰻を愛でた
「たつみや」は本多横町を入るとすぐ左だ。江戸時代
本多修理の屋敷があったことでこの名が付いている。
昔、車屋や神楽坂検番のあったところだ

 大正12年(1923)関東大震災で被害を受けなかったことで神楽坂は銀座で焼けた三越、松屋、明治製菓などが臨時売場をこぞって開店した。
 一時は山の手銀座とまで言われたが銀座の復興とともに
2年ほどでみな引き上げてしまった。毘沙門天の並びにしばらく営業していた村松時計店と資生堂も、間もなく引き上げてしまった。         
 
 しかし大正の終わりから昭和のはじめにかけ、この期間の神楽坂は東京中の人がみなここに集まったと思うほどの人出で賑わった。    

  神楽坂が大きく変わる中で、本田横丁角の履物の近江屋、お茶の楽山、婦人服のアワヤ、坂上の河合陶器店は震災前からの老舗で、現在も営業を続けている。操業150年の万長や小沢はいつの間にかマンションやテナントビルに建て替えられた。

辻説法や易者が人を集める雰囲気があった

古い神楽坂ファンなら忘れてはならぬ店が毘沙門前のモスリン屋「警世文」である。店の主人は日蓮宗の凝り屋らしく、店先に「一切の大事のなかで国が亡ぶるが大事のなかの大事なり」といったのぼりを掲げ、道行く人に「思想困難」とか「市会の醜事実]を商売をよそに論じ、その周りに人だかりができ、暗がりには易者が店を出すといった、神楽坂が銀座や新宿の繁華街と違った雰囲気を持っていた。

神楽坂毘沙門天側には田原屋につづいて本屋の芳進堂、佃煮の近江屋、八百屋、乾物の伊勢屋、菓子の紅谷と続く中にカフェー、すき焼屋が並んでいた。このうち今でも営業を続けている店は数軒もない。特に著名な店を除いては日用雑貨を売る店と飲食店が多い。

 神楽坂と言うと話題になる田原屋は、開店以後第1次世界大戦の好況に恵まれ、坂下にも果物屋の店を出していたが、市内でアイスクリームを食べさせるのは資生堂か田原屋と言われたほど有名で遠くからわざわざ来る客もあったほどだ。ここの2階がレストランになっていて、この2階でハヤシライスを食べることが神楽坂を歩く若者たちの憧れだったという時代もあった。                               
  牛込の文化人のサロン的な存在にもなっており、当時の客筋は夏目漱石、長田秀雄、幹彦、吉井勇、菊池寛、震災後は15代目羽左衛門はじめ歌舞伎役者、水谷八重子、佐藤春夫、サトー・ハチロー、永井荷風、今東光・日出海、などの文化人の集まるところとして知られていた。映画のロケにも使われ、入江たか子などの有名な俳優の出入りがあって新聞でも報道され全国でも名前だけは知られていた。

 芸者全盛時代は、 芸者と連れ立って来る客も多く、家族づれ、文化人、奥様づれと多様な客が集まることでも知られていた。いろいろ話題を振りまいた田原屋だったが最近玄品下関ふぐ料理店に変わった。
夜になると毘沙門天の周囲に露店の都寿司、今川焼の草薙堂、おでん屋などの店がでて通行人の足を止めた。

廃業する前の田原屋の写真である。戦前は
東京で名の知れたレストランだった。大正
から昭和のはじめにかけて山の手の文化人
と言われる人は大体ここを訪れている。

 戦前はアイスクリームや生ビールにお目に
かかれるのも神楽坂ではこの店だけだったと
いう。

昭和初期、神楽坂で流行歌で唄われた菓子屋の紅谷

田原屋の並び、坂上近くに紅谷という菓子屋があった。初めは和菓子屋だったらしいがシュークリームやエクレヤなど洋菓子で山の手一帯に有名になり、2階が喫茶店で早稲田の学生や抒情派詩人がたむろしていた。道路から詩人に女子学生の声が飛んだという話だ。
 詩人に憧れたのかお菓子に吸い寄せられたのかどちらか分からないが、いつでも女学生が集まる場所になっていた。当時流行していた「紅屋の娘」野口雨情作詞、中山晋平作曲は、この紅谷を歌ったものだといわれている。

            紅屋の娘

         紅屋で娘の いうことにゃ
         サノ いうことにゃ
         春のお月様 薄曇り
         と サイサイ 薄曇り


 大正3年、松井須磨子の「カチューシャの唄」以来ひさびさの流行歌であった。どちらの唄も作曲は中山晋平である。レコードでは紅屋の娘の表面が「東京行進曲」(西條八十作詞、中山晋平作曲)になっているが、これも神楽坂に因縁が深い。 西條八十は早稲田の先生で神楽坂の贔屓で、生まれも牛込の払方町であり、中山晋平も島村抱月の家で書生をしながら東京音楽学校を卒業している。
 昭和2年日本ビクターが創立,翌3年日本コロムビアが出来ると日本でもレコードの量産体制ができるようになった。ラヂオもテレビも無い時代各レコード会社独自で「流行歌」を作り流行らせる方針をとった。当時流行したカフェーで、レコード店の店頭で、また映画館の休憩時間に積極的にレコードを鳴らした。

  当時流行歌などあまり書かなかった西条八十をこの世界に引きずり出したのは中山晋平と言ってよいだろう。前にも紹介したように、昭和3年大衆雑誌「苦楽]に掲載された八十の詩「当世銀座節」に曲をつけさしてほしと晋平が八十に頼み込んだことに始まる。ここで八十・晋平コンビが生まれてなければ後の「東京行進曲」[唐人お吉]「銀座の柳」「東京音頭」の流行はなかったと言ってもよいだろう。

東京行進曲に神楽坂が唄われなかったわけ
               銀座と新宿に盛場を明け渡す


  昭和4年の日活映画「東京行進曲」は月刊雑誌キングに連載された菊池寛の小説「東京行進曲」を映画化したものである、その主題歌を西條八十と中山晋平のコンビに依頼してビクターから発売した。「昔恋しい 銀座の柳」で始まる「東京行進曲」は25万枚という当時したら空前の売れ行を示した。

ところが「いっそ小田急で 逃げましょか」の歌詞が問題なり、小田急がビクターを相手に訴訟を起こすまでにいたった。しかし、歌の流行が電車の乗客を増やすことになり訴訟は取り下げられることになった。真偽のほどは別にして有名な話である。

しかし[浅草で会い・小田急で駆け落ちする]ような歌詞はけしからんと当時の日本放送協会・愛宕山のラジオ放送は禁止された。
 一方、神楽坂の商店街では早稲田の先生で一方ならぬ神楽坂の贔屓筋の西條先生が「なぜ歌詞に神楽坂を入れてくれなかったのか」と責められるはめになった。東京行進曲の中に[銀座の柳] [恋の丸ビル]「いきな浅草」[変わる新宿 あの武蔵野の]と唄われるが、いくらビルが建ったといってもあの[馬糞に虻が舞う]と軽蔑した新宿が唄にあるのになぜ神楽坂が無いのか]という不満だった。
 
 はじめ神楽坂の歌詞はあったがレコードにするのに長すぎたので割愛したという話が伝わるが、ウソではじめから無かったのだろう。そこで八十は「レコードは出来てしまったが、東京行進曲の節で唄える神楽坂の唄を作りましょう」ということにした。
 
 発表会は牛込館で行われたらしいが誰がどんな歌詞で唄ったのか手元に資料が無いから分からない。罪滅ぼしでもないだろうが昭和5年ビクターから八十、晋平コンビで[新東京行進曲]が発売されている。
        名さえ賑わし あの神楽坂
        こよひ寅毘沙 人の波
        可愛い雛妓(おしゃく)と
        袖すり交しや
        買った植木の 花が散る


 東京行進曲から丸の内と新宿をはずして出来た唄だが神楽坂だけが持つ独特の風景である。不思議なことに上野、銀座、浅草、渋谷、新宿は聞くが、東京の3大歓楽地のひとつだった神楽坂が新東京行進曲以外で唄われたことは無いようだ。

 昔から[神楽坂は色町というイメージが強烈で、芸者という古い道具立て以外に唄うものが無い]つまり時代の先端をいく流行歌には古くなりすぎていたと言うのは間違いだろうか。
                                  
         
再び過去をふりかえって
                                   

  神楽坂は夜の街だった。昼間は際立って特色の無い街だが、夜になり横町の石畳に芸者の履く駒下駄の音と賑やかなおしゃべりが響くようになると辺りの様子は一変した。

2次世界大戦後、神楽坂は占領軍の車の通路になり露天を出すことが禁止された。したがって、名物の夜店が出ることは無かった。
 しかし、昭和の始め毘沙門天の寅と午の日の神楽坂の夜店は寅毘沙、午毘沙といって最盛期は坂下から肴町の交差点まではもちろんのこと、その先矢来町に至る勢いで、大久保通りにも夜店が並んだ。特に神楽坂の夜店は交通を遮断して道いっぱいに2列に並んだ。そして坂下と坂上には「車馬通行止」の提灯がかげられた。

 坂は人で埋め尽くされ、その人の波にもまれ、お座敷に通う座敷着の芸者の姿が見られる神楽坂の光景だった。 

 毘沙門せんべいの福屋とうどん会席の鳥茶屋にはさまれた横町を入ると突き当たりに東京理科大学森戸記念館がある。
 神楽坂には、見返り横町、かくれんぼ横町と地元の人が名づけた可愛らしい名の横町がたくさんある。先を歩く人が突然見えなくなる曲折の多い路地をいうらしい。ここもその一つで両手を広げれば左右の家の壁に当たりそうな細い石畳の路地の両側には、昔ながらの黒塀が続く。
 神楽坂で花柳街の姿を今に残す一角である。黒川鐘信氏の「神楽坂ホン書き旅館」で紹介された往年の大女優小暮実千代さんの経営する旅館[若可菜]がある。


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2004/08/01

時代は流れ今の神楽坂へ

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神楽坂界隈 連載(14) <2004/8/1>

大きなビルが無いのが歩行者にとって魅力 
               夜は光のトンネルの散歩道

 神楽坂は大きなビルの少ないところだ。高くても5~6階どまりで高層のものは無いといってよい。だから歩いていて都心のビルの谷間のような圧迫感は受けない。
  外見では商売が変わった位にしか見えないが、バブル期に建てられ倒産したビルの中には、「あの〇〇銀行さんが、建築資金を融資してビルの建築を勧めなければ、不良債権にならなかっものを。明治からの老舗が夜逃げした。」真偽のほどは分からぬがビルのオーナーが変わるとよくこんなうわさを聞く。

  神楽坂は大きなビルの少ないところだ。高くても5~6階どまりで高層のものは無いといってよい。だから歩いていて都心のビルの谷間のような圧迫感は受けない。
  外見では商売が変わった位にしか見えないが、バブル期に建てられ倒産したビルの中には、「あの〇〇銀行さんが、建築資金を融資してビルの建築を勧めなければ、不良債権にならなかっものを。明治からの老舗が夜逃げした。」真偽のほどは分からぬがビルのオーナーが変わるとよくこんなうわさを聞く。

  ビルの多くは間口が狭く、奥行が広いものが多い。だから正面から見る細身で背の高いビルが並んで建っているという感じだ。昔、どこも間口5~6間の店がそのまま上に伸びたからであろう。恐らく戦前の木造2階建て、表通りは店、裏は住まいといった商家が軒を並べていたことが想像される。ビルの幅からかっての店の規模が分かるといった具合だ。
  2階以上がテナントになっているところが多いようだ。各階毎に目立つ看板を出し、ビルの壁全体を覆ってしまっているところがある。夜になると、全てのビルの壁が一体化して看板が種々の光を放ち、神楽坂が万華鏡を覗くように一つの光のトンネルになる。夜、散策する人の目に映る神楽坂の姿だ。

昭和29年の住居表記変更で消えた肴町の地名

  むかし、善国寺毘沙門天から坂上交差点までを肴町と呼んだ。しかし、肴町と上宮比町はお互いに絡みあって境界が分かりずらく、昭和29年の住居表示変更の機会に、神楽坂4~5丁目にまとめたことで肴町の地名は消えてしまった。肴町は徳川の入府以前からあった町でもちろん地名としては神楽坂より古いようだ。ということは、ここには古く北条統治の時代から民家が存在していたのだろう。
 
  神楽坂は明治以降、東京を代表する歓楽街として全国に知られ、第1次世界大戦後の発展は目を見張るものがあった。町がもっとも華やいだのは関東大震災の後である。
 第2次世界大戦の戦災からの復興、1世紀以上にわたる神楽坂の繁華を振り返り、創業100年の歴史を誇る老舗、消えていった店、新しい店舗が幾多の歴史の波を掻潜り、今にいたるまで神楽坂で華やかに生き抜いてきた。

神楽坂の右側は旗本屋敷、左側は町屋あとは寺院と門前町

  徳川時代が終わる頃まで神楽坂の右側は本田横丁、毘沙門せんべい、理科大森戸記念館あたりまで旗本屋敷が軒を連ねていた。それを境に大久保通りの先は通寺町の地名の通り多くの寺と門前町が広がっていた。左側は坂下から東京三菱銀行周辺まで町屋が並び毘沙門天から上は右側と同じように門前町が大久保通りを越えて続いていた。             
  神楽坂は毘沙門天辺りで平坦になる。肴町に割り込むように古くから藁筵を扱う商人が住んでいたという藁町があった。江戸時代に寄席があったと言われているぐらいに繁盛していたらしい。ここから坂上の交差点までが藁町を含めて昔の肴町である。嘉永図には「肴町を藁町と言う」と書いてあることから見てもふたつの町の区別は難しい。
  江戸時代の神楽坂の大半は武家屋敷と寺で占められ町屋の存在は限られていたといってよいだろう。      
幕末から明治初年にかけ
         住み手が無く捨値で売られた武家屋敷


  慶応4年4月、三田の薩摩藩邸では幕府側の代表勝海舟と新政府の西郷隆盛の二人が江戸の命運に関わる会談を行っていた。交渉が決裂して新政府軍が江戸に総攻撃をしかけた場合、勝は江戸に火を放ち新政府軍と決戦を挑むつもりであった。最悪の場合、江戸庶民を船で房総へ避難させるなど、かなり綿密な手筈が練られていたといわれる。100万都市江戸は消滅の危機に曝されていたのである。結果、西郷が勝の要求をのむことで江戸が火災から救われ、江戸の町は表面的には江戸時代と何の変わりはなく明治の新しい時代へと移ることができた。                

  だが、混乱を恐れ武士でさえ江戸から避難するものも多く江戸の人口は半減することになった。明治に入ると武士は碌を失い生活のみちを断たれ家を離れる者がさらに増加していった。神楽坂も例にもれずの武家屋敷に空家が目立つようになった。
  さらに追い打ちをかけるたのは、明治の新政府がこれまで非課税地であった武家屋敷地域も市街地同様の課税対象地にしたことだった。明治5年の地租改正により神楽坂の武家屋敷地域にも神楽町1~3丁目の地名が付けられることになった。
  もともと武士たちにとっては土地も家も幕府から貰ったものである。武家屋敷に税金を取られるぐらいなら二足三文で処分したところで損はないと、捨値で売却され、ほとんどの武家屋敷が市民の手に移ることになるのである。  

神楽坂は毘沙門天の夜店と三業地で目を覚ます

  さびれていた神楽坂がようやく目覚めるのは西南戦争からである。戦争景気で、この辺りから神楽坂の武家屋敷は急速に商店と三業地に姿を変え始める。
  東京で一番古いとされ市内で3位と言われる神楽坂毘沙門天の夜店が始められたのは明治20年である。この頃になってようやく、神楽坂の商店街は今の形に整えられたと思って間違いがない。武家屋敷と門前町が三業地を抱える繁華街として変貌をとげるまで明治の始めより20年の歳月を要したと見るべきであろう。                       
  神楽坂に銀行らしい銀行が出来たのは明治30年である。川崎貯蓄銀行神楽坂支店(現東京三菱銀行)と東京貯蓄銀行牛込支店(現第一勧業信用組合)が今の場所で開業している。銀行ができたことは地域経済の発達を示すものである。神楽坂の発展は地域の急速な宅地化とそれに伴う毘沙門天の縁日の影響も欠くことが出来ない。                 
  縁日も植木市から始まり香具師的な店が日用雑貨を買う店に変わり、老舗や新興商店が軒を並べて繁栄を示すようになった。さらに明治27~28年の日清、つづいて37~38年の日露戦争の好景気で三業地で酒と芸者に遊興する人が増えたことも町の繁栄につながったと見てよい。
  第一次世界大戦の前には市内の繁華街の一つに挙げられるにまでになり、毘沙門天の縁日だけでなく常に人通りの絶えぬ町に育った。夜、一歩横丁に入ると、三味線の音色のなか、艶かしい座敷着姿の芸者が歩く姿は、別の意味での神楽坂があった。                     
  このことについて牛込に住んでいた花袋は「電車がないから、山の手に住んだ人達は、大抵は神楽坂の通へ出かけて行ったから……」そして都市交通の発達とともに銀座や日比谷が繁栄するようになったと書いているが、電車が敷けてからも花袋の予言はあたらずにそれにもまして第一次世界大戦、関東大震災後も賑あうことになる。

一見田舎臭い庶民の町のたたずまいが愛されてきた神楽坂

  江戸時代と何の変哲のない、豆腐屋、八百屋、乾物屋といった生活に欠かせない店が肴町を中心に並んでいたものが、神楽坂全体に広がっていったという感じの町だ。商店全体を見渡して高級品を扱うとか流行を追うとか、有名な商店といったものは少なく市民が毎日の生活をするのに必要な品を扱う店舗が殆どだったが、むしろそれらの家並みが落着きをみせ、散策を楽しむ人に「神楽坂気分」と愛されてきたと思われる。   
  関東大震災の後と戦災で神楽坂は大きく変貌を遂げるが、その変わり方は遠い過去のものとなり余程意識的でも無いかぎり理解するのは難しい。神楽坂を便宜上、毘沙門天、本田横丁辺りを境に坂下と肴町と言う具合に二つに分けてみる。
  坂下つまり神楽町1~3丁目は明治以後武家屋敷が商店に変わったところで、肴町は江戸時代から町屋と門前町が栄え、もつとも神楽坂の中心をなしたところだ。

坂下から本田横丁まで神楽坂を上る

  明治39年(1906)は夏目漱石が『坊っちゃん』を「ほととぎす」に発表 した年であり東京物理学校(現東京理科大学)が神田から坂下へ移転してきた年でもある。その前の年、38年には外濠線が神楽坂下まで通じた。
 それまで遠く早稲田、四谷、麹町、本郷辺りから神楽坂を訪れる人は、大久保通りを肴町から来るのが通常だったが電車の開通は人の流れをかなり変えることになった。早稲田の学生もこのルートを利用するものが増え、坂下の人通りも一段と増すこととなった。
 
  銀座の木村屋の支店第1号店が出店したのは明治40年である。それでも出店当時はまだ夜になると暗く淋しい所だったそうだ。神楽坂にはすきまなく木造2階建の商店が並び、電灯がつき始めた時代である。10燭光1ケ月、1円20銭と電力代はまだ高く、まだガス灯の時代で「物理学校」の教室の写真には天井から下がったガス灯のホヤが写っている。


  明治の中頃を過ぎると、神楽坂下のかっての武家屋敷の様相は全く失われ山田紙店、寿司の紀の善、蕎麦の翁庵、鰻の島金(志満金)、靴の尾崎屋、赤井足袋店が店を構えるようになった。
  コヒー店アカイは足袋店だった。日本人の履物が下駄と草履の時代神楽坂には5~6軒の足袋屋があった。どの店にも店先に3~4人の職人が並んで足袋を縫っていた。足袋はすべてオーダーでお客の足の型紙がたくさん置かれている店ほど老舗であった。
  山田紙店の半分を東京メトロ飯田橋駅の神楽坂口に削り取られてしまっているが、漱石が愛用した本郷の松屋と並んで原稿用紙が有名である。いまは文房具屋だがむかしは文房具屋というのが無かったので今だに紙店を名乗っている。
  明治の中頃を過ぎると、神楽坂下のかっての武家屋敷の様相は全く失われ山田紙店、寿司の紀の善、蕎麦の翁庵、鰻の島金(志満金)、靴の尾崎屋、赤井足袋店が店を構えるようになった。

  コヒー店アカイは足袋店だった。日本人の履物が下駄と草履の時代神楽坂には5~6軒の足袋屋があった。どの店にも店先に3~4人の職人が並んで足袋を縫っていた。足袋はすべてオーダーでお客の足の型紙がたくさん置かれている店ほど老舗であった。
  山田紙店の半分を東京メトロ飯田橋駅の神楽坂口に削り取られてしまっているが、漱石が愛用した本郷の松屋と並んで原稿用紙が有名である。いまは文房具屋だがむかしは文房具屋というのが無かったので今だに紙店を名乗っている。

  神楽小路は以前は紀の善横丁といった。角の甘味の紀の善はかっては寿司屋だった。戦後、甘味に変わり女性雑誌に人気のある店になった。寿司屋だった時代高浜虚子、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、長田秀雄、幹彦等に愛された。今の寿司屋とは違い料亭に近い店で客を座敷にあげて寿司を食わした。花柳街が華やかな時代奥座敷にはたえず座敷姿の芸者衆が見られた。また2・26事件の時は鎮圧部隊の駐屯地となり、美濃部達吉が来店したあとに憲兵が来るなどまさに昭和史の舞台になったところといえよう。

  戦後は消えてしまったが、坂下の「ブラジル・コーヒー」と「松竹梅酒蔵」の2軒はこれから神楽坂を漫遊しようという人がまず寄るところだった。席が空いていることは少なく、物理学校の生徒がノート整理に使っていた。「松竹梅酒蔵」は坂上の「官許どぶろく飯塚」と共に戦争中国民酒場として最後まで酒が飲めたところだ。戦後間もなくメトロ映画劇場ができたが、客の入りが芳しくなく廃めた。

鏡花も白秋も住んでいた理科大裏

  紀の善前のそばの翁庵、理科大に通じる鏡花横丁をへだてて鰻の志満金、靴のオザキヤと明治からの老舗が続いている。戦前は志満金は神楽坂から一歩鏡花横丁に入った所にあって、通りの角に「蒲焼」の行灯があった。江戸時代から神田川の鰻卸業者で、現在の場所は「ブラジル・コーヒ」があったところだ。三業地の華やかな頃芸者の足が絶えなかった店である。 オザキヤも昔は靴職人が何人かいて店先で靴を縫っていたのが道路から見えた。石橋甚山はじめ多くの政治家・文化人が贔屓にした店だ。    

  鏡花横丁を右に理科大の石垣に沿って上ると神楽町2~22に鏡花と桃太郎の新居があった。同じ家かどうか分からないが同番地に明治42年頃、北原白秋が居を構えていた。東京理科大学の前身東京物理学校が神楽坂に移転して間もない頃である。
  野田宇太郎の「文学散歩」でご存じの方も多いと思うが、北原白秋は北山伏町から明治41年10月末、神楽町2~22に移ってきた。石川啄木の10月29日の日記によれば、29日に白秋から転居のハガキをを受け取り、午後神楽坂の白秋宅を訪問している。  
 ……北原君の新居を訪ふ。吉井君が先に行ってゐた。二階の書斎に物理学校の白い建物。瓦斯がついて窓といふ窓が蒼白い。それはそれは気持のよい色だ。そして物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える。……
  白秋は「東京景物詩」の物理学校裏で               

   ・・・・・・・蒼白い白熱瓦斯の情調(ムウド)が曇硝子を透して流れる。
        角窓のそのひとつの内部に
        光のない青いメタンの焔が燃えてるらしい。 
        肺病院のやうな東京物理学校の淡い(うすい)青灰色の壁に
        いつしかあるかなきかの月光がしたたる。 
                                                      
        Tin…Tin…Tin.n.n.n.…Tin.n.…
        tire…tire…tin.n.n.n.…shan…  
        ti…ti…ti…ti…tote…tsn.n…shan.n.n.n.n….   
         静かな悩ましい晩。 
        何処かにお稽古の琴がきこえて、……

と詠んでいるが啄木の印象とは程遠い。
  白秋と啄木の出会いは「明星」新詩社だったと思われる。当時、啄木の家は小石川にあってなにかにつけて神楽坂を歩いた。

坂下から本田横丁まで

  志満金を過ぎると坂は急勾配になる。恋人同士語らいながら上れば苦にならぬ坂だが、年寄には少しきつい。東京三菱銀行まで坂が続く。両側に歩道があるが日中から夜更けまで人道りが絶えないのは昔も今も同じである。ファッションでも普段着でも気軽に歩けるのがこの坂のよいところだと言えよう。                            
  昔は昼頃になると首だけ白く濃い白粉の下塗りをして銭湯から帰ってくる芸者や、三味線を抱えお稽古にゆく半玉を見かけたものだが今は片鱗さえない。昼は周辺のオフィスで働く男女が一斉にといっていいほど神楽坂に繰り出し昼食探しのプロムナードと化す。ラーメン前に長い列を作り、若いOLが賑やかにカウンターの前を陣取り、男女共にファーストフードのレジ袋を下げ、パン屋が込みあうのもこの時間だ。
 スーツ姿の男のサラリーマンが気後れすることなく、OLと一緒に弁当屋のメニユーを覗き込む様子は丸ノ内や銀座のビニネス街には見られぬ風景である。

  気取らない町、時代がたっても何でも雰囲気にぴったり合わしてしまう神楽坂だけが持つ不思議な魅力と言えよう。戦災を経て池袋、新宿、渋谷を中心に山の手は大きく様変わりしたが、依然として神楽坂は昔ながらの山の手である。

創業1世紀に近い店が並ぶ神楽坂

  明治から一世紀以上の歴史の中で神楽坂は震災、戦災と大きな変化のあるごとにそれなりの変貌を遂げてきた。
  しかしバブル期以降ここ20年の変わりい方はそれまでの変わり方に比べて問題にならない。数十年も続いた店が消えていく一方、テナントビルに建て替えられるものが目立ち、ビルの中には新しく開店する店が増え、いつこんなところに、こんな店がと思うま間もなく、また消えていくのが今の神楽坂なのである。

 
 ふた昔も前なら目を閉じても歩けた町だったが今はそうはいかない。新しくお目にかかる看板がやたらと目に付くようになった。勘定をしたことはないが恐らく昔からある店の何倍かになったと思う。雑誌かなにかで神楽坂の有名店ですと紹介されても古い人間にとっても知らないところが増えている。ということは神楽坂が新しい町へと脱皮をはかっていると見るべきであろう。
 創業以来の店舗の経営者は5代目が普通で、現在はビルのオーナーだったりして実際に店の経営にあたっている人はすくないらしい。新しい店には神楽坂

以外から通う経営者も従業員も増えているのが現状のようだ。
   そんな町並みのなかに5代におよぶ昔から店舗を構える店を追ってみたい。
 
  坂の左側東京三菱銀行までせんべい神楽屋、夏目写真館、岡田印房、帽子・傘の山田屋、履物の助六、正面はお香の店椿家になっているが宮坂金物店など。
  右側本田横丁までの敷物の菱屋、化粧品の佐和屋、パンの木村屋、坂本ガラス店など創業1世紀に近い歴史をもつ商店が軒を並べている。

  宮坂金物店の路地入ったところで神楽坂演芸場が戦災で焼けるまで木戸を開けていた。客には人形町の末広、上野・鈴本と並ぶ寄席で早稲田の学生が多かった。今は駐車場になっている。
  そのなかに不二家のペコちゃん、きんとき、中華・神楽坂五十番などは創業100年の店に比べれば新しいが町並みにとけこんでいる。ペコちゃん焼きは不二家チェーンで此処だけの商品らしいが、昼下がり女学生が集まる。
  しかし新しい店が誕生するのと裏腹に消えてゆく店がある。筆屋、半襟屋、人気俳優の写真を扱った絵はがき屋、かもじ屋、お汁粉屋など時代に合わなくなった店である。さらに古くは神楽坂を訪れる人に娘義太夫など定席もあった。
                                                    以下次号


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2004/07/15

須磨子の情景

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神楽坂界隈 連載(13) <2004/7/15>

  神楽坂といえば昔は花柳街があり町中を着飾った芸者さんが歩いていた粋なところだったぐらいにしか思われていない。今でもカラオケで時たま歌われる「カチューシャの唄」「ゴンドラの唄」「さすらいの唄」は大正の初め牛込横寺町にあった芸術座で松井須磨子が劇中歌(主題歌)で歌ったものである。このように唄だけ残り神楽坂が新劇の発祥地だったことは誰からも忘れてしまった。新国劇の沢田正次郎も新派の水谷八重子のみな芸術座の出身である。
  昭和の初め「東京行進曲」「女給の唄」「銀座の柳」「東京音頭」を流行らせた作詞の西條八十も作曲の中山晋平も神楽坂で活躍していた。

最寄駅だけでは分かりにくい神楽坂

  東京メトロ東西線の「神楽坂」駅は矢来町にあり、都営地下鉄大江戸線「牛込神楽坂」駅は箪笥町にある。どちらの神楽坂の駅も神楽坂からかなり外れたところにある。だから、駅名だけで神楽坂に来ると、地上に出た途端「神楽坂はどこ」と面食らう。東京都が行なった昭和29年の住居表示変更で、神楽町1~3丁目周辺とその先の通寺町などを含めて、神楽坂1~6丁目に広げられたが、それでも2つの駅はこの町内に入っていない。
  神楽坂を訪れるには、東京メトロ有楽町線か南北線の飯田橋で下りるのが便利である。神楽坂口から出るとそこが神楽坂である。JR飯田橋駅でもよいが、市ケ谷寄りの改札をでなければいけない。いずれにしろ出口を間違えると厄介なことになる。                    
  まだ都電が走っていた時分は、外濠線の神楽坂下停留所だけが坂の存在を示していた。戦後、都電が廃止されると神楽坂の名のつく駅名が、全て消えた。しかし、新たに地下鉄が敷けることで、坂からいささか離れたところだが2ヵ所に再び神楽坂の駅名が付けられることになった。
  昔、神楽坂といえば坂下(電停・神楽坂下)から坂上(電停・肴町)まで400メートル程の道筋を指した。神楽坂とその先通寺町とはっきり区別していたが、今では早稲田通りまで神楽坂と呼んでいる。

朝夕読経が聞こえて通寺町、横寺町界隈
        雨が降れば傘をさした二人が歩くのがやっと


  大正の初めまで大久保通りを隔てて二つの町の間には大きな違いがあった。神楽坂を山の手銀座にたとえるなら、通寺町は町名が現わすように江戸時代から寺の多い地域だった。寛永時代江戸城整備のため、麹町周辺の寺を集めた地域で、現在でも一歩横丁に入ると寺が目立つ。明治初年の排仏毀釈で寺の数が大分少なくなったといっても、寺町の名のとおり震災前は朝、夕、何処ともなく念仏や経を読む声が聞こえたという。      
  大久保通りから先早稲田通りに至る道は、雨が降れば傘をさした二人が並んで歩くと両側の長屋のひさしにあたるというほど狭い道だった。寺の門前には、寺参りの客を相手の花屋、茶屋、駄菓子屋、長屋、アパート、髪結いといった店がぎっしり並んでいた。さらにその隙間をうめるように飲み屋が昼間から軒を並べ客を待っていた。そして夜ともなれば牛込亭は一流どこの落語がかかり早稲田の学生も交えて大入り満員の盛況だった。
  しかし、道路沿いの家並みをはずれるとまだ空き地が点々と広がりを見せていた。日清・日露戦争から始まった江戸川(神田川)沿いの工場の発展にともない、人口は急速に増えていった。第1次世界大戦中の景気はこの現象をさらに加速させ、都市計画もない町には人が溢れでんばかりになっていた。明治後期になって山の手と呼ばれても神田川流域、小石川、四谷周辺の新開地には山の手族とはいささか雰囲気の異なった低所得の住人が増えいくことになった。
  ほとんど身動き出来ないほどの神楽坂周辺の夏の夜の人出は、道路の狭いということにもあるが、当時の牛込周辺の人口密によることが大きかったと思う。

火事で広がった道筋
      肴町停留所付近は飲屋と飲食店が軒を並べた


  明治38年、東京電気鉄道(都電の前身)外濠線が開通すると牛込見付から神楽坂を上り狭い道を抜けて早稲田まで歩く学生が増えていった。そして、その狭い道路は前にも益して一段と込み合うことになった。
  明治の末期、文明館という名の勧工場(勧業博覧会で売れ残った商品を値引きして安く売る市場として市内の各所に作られた。初めは市民に人気があったが、信用を傘に粗悪な商品を扱ったため急激に市内から姿を消した)が火事で焼けたのを機会に、周辺の寺を移転させ道路が拡張されることになった。文明館は映画館に変わり、三流映画を映し、牛込亭は一流の落語家の定席としてかなりの人を集めていた。神楽坂下に神楽坂演芸場ができると浪速節の定席になり前どうりに繁盛していた。

  広げられた道路にはすき焼屋を初め飲食店が多くカフェの前身というか当時はやりのバーなる洋式の飲み屋が縄のれんに仲間入りしてきた時代だ。とりわけ肴町の電停付近は夜遅くまで人通りが絶えなかった。    ヤマニバーは現代のチエン店で、当時市内の何処にでもあり、国産の安ウイスキーが売り出されて間もないた頃で、新しもの好きの客でかなり繁盛していた。
  だが、道筋は広がっても、大久保通りから先は華やいだ神楽坂とは違った寺町独特の独特の雰囲気が残っていた。ところが関東大震災はこの大きな壁を取り払ってくれた。神楽坂を含めてこの地域一帯は、関東大震災で火災をまのがれたことで下町の繁華が怒涛の如く神楽坂に押し寄せることになった。その余波が寺町まで飲み込んでしまった。神楽坂の夜店も大久保通りを越えて通寺町の先までのび矢来まで達する勢いだった。     
  戦後、昭和29年(1954)住居表示変更で牛込、四谷、淀橋の3区が合併 して新宿区になり、通寺町が神楽坂6丁目になったように、今ではその境さえ分からなくなっている。               

震災後、わずかの期間銀座のプランタンも出店

  銀座で焼けたプランタンが通寺町に出店したのもこの時である。本格的なカフェがやってきたと牛込の文化人は喜んだが、高級サロンで一般の人には人気がなく、いつも銀座の常連客が集つまっているという状態だった。また新潮社が近かったせいか久米正雄、広津和郎、宇野浩二、佐々木茂策、間宮茂輔ら作家の溜り場になっていた。
 しかし、銀座が復興すると三越、松屋の臨時売場と同じように、閉店して銀座に帰ってしまった。一時は新潮社が買って存続させるといううわさが飛んだが、希望的観測に過ぎなかったようだ。

新劇の発祥地赤城神社の清風亭
                           
 神楽坂を坂上まで上り、さらに大久保通りを越えて少し歩くと早稲田通りに突き当たる。すると斜め正面に大きな森が見えてくる。東西線の神楽坂なら神楽坂口から出ると目の前である。赤城(明)神社の森である。民家が境内に侵食するように社を取り囲んでいる。今では面影もないが昔、この辺りは門前町が開け、岡場所として賑わったところと聞いている。

  赤城神社はその名のとおり祭神は上野の国赤城山赤城神社と同じ霊だと伝えられる。はじめ大胡氏が赤城から早稲田田島(現鶴巻町)に勧請したものを、勝行の時代に江戸川(神田川)の谷を隔てて小石川の高台を望む今の場所に移したものだと言われている。早稲田田島を元赤坂神社と呼んでいる。
  赤城神社の境内の突き当たりにかって清風亭という貸し座敷があった。ここは坪内逍遥を中心に早稲田の学生らが脚本の朗読や舞台稽古に使った所で、後の「文芸協会」の基礎を作ったところである。その後清風亭は江戸川べりに移り、その跡は「長生館」という下宿屋に変わり、広津和郎など同時代(大正6年頃)の多くの早稲田の文士が住んでいた。広津和郎などはわざわざ神楽坂の銭湯まで来たという話が残っている。

芸術座の横寺町は早稲田の学生と     
 
          プロレタリアートの街


  赤城神社から神楽坂を大久保通りの方向に少し戻り朝日坂を上った所が横寺町である。
  昔から寺に混じって安カフエー、飲食店、染物屋、アパート、製本屋、質屋、髪結といった店が渾然と建ち並ぶ地域だった。尾崎紅葉の住居があり[明治24年(1891)~39年(1906)]、逍遥から別れた島村抱月と松井須磨子の芸術座[大正4年(1915)~7年(1918)]があったところである。
  大正7年(1918)米騒動のあと貧民救済として東京市は神楽坂公衆食堂 を開設している。食堂では朝飯10銭、昼・夜15銭で、労働者、学生、勤人等、多くの独身者は食堂を中心に生活していた。ちなみに昭和3年の利用者は年間 1,232,907人収入金額 139,326・40円で市内9ヵ所のうち20パーセント以上の利用者を占めていた。1日延べ 3、000人の人が安値に集まっていた。言わばプロレタリアートと学生の町という所だった。
  何軒かの酒場は朝から夜遅くまで多くの人が集まり、何時でも、どの店もおびただしい数の空いた徳利がテーブルに転がされていた。なかでも、縄のれんが懸かった官許どぶろくの看板で知られた「飯塚酒場」は、神楽坂を知るものなら誰でも知っていた。ここで一杯引っ掛けて神楽坂を回るのを「通」のやり方とも言われた。太平洋戦争の最後まで国民酒場として酒飲みを楽しませたところである。

坪内逍遥の文芸協会と抱月の芸術座

  明治35年(1902)東京専門学校が早稲田大学と改称されると、それまで専門学校で倫理と英語を教えていた坪内逍遥は、早稲田中学校の校長になった。その頃から新舞踊劇の創作に熱意を燃やし、新劇運動の準備をしていた。                                
  逍遥は欧米演劇視察旅行から帰るとすぐに明治39年(1906)新宿区余丁 町の自宅の敷地内に抱月らと文芸協会演劇研究所を設立した。島村抱月は早稲田の文科、2期の卒業生で、松井須磨子は研究所の第1期生である。抱月とは師弟関係であった。
  抱月と逍遥はお互いの人生観や芸術感の違いから演劇に対して意見が合わなかった。そのうえ、抱月の起こした弟子であり人気の女優須磨子との恋愛事件は当時の社会状況からして興味と疑いの目を向けられても当然のことであった。特に協会内の恋愛問題についてとりわけ厳しかった逍遥は、須磨子に文芸協会を諭旨退会を命じた。須磨子が退会する同時に抱月も文芸協会を去ることになった。                

  抱月と須磨子の退会によって文芸協会が解散と決まったとき、夜更け一人で金槌で演劇研究所の舞台を狂人のように叩き壊しているを見たと言う話からも、逍遥の無念さが伝わってくる。抱月は妻子を捨て須磨子と同棲生活に入り、大正2年(1913)7月に新たに江戸川べりの清風亭で松井須磨子、沢田正次郎らと芸術座を結成する。そして同年9月に有楽座で第1回の公演を開催している。
 ふたりの同棲生活ぶりは周囲の劇団員を辟易させるほど相思相愛のなかだったという。須磨子の熱情的な演技は絶賛を博したが、私生活は奔放な女性で、料理が不得意で連日納豆が続き、牛込の芸術倶楽部で生活していたときは、納豆のわらづとが山積みされていたという話が伝わっている。 

新聞号外まで出た須磨子の自殺

  だが、抱月は大正7年(1918)11月、当時世界中で猛威をふるっていた スペイン風邪がもとで急死する。それから2ヵ月後、演劇活動と伴侶を失った須磨子は「カルメン」の公演を終えた大正8年1月5日絶望のあまり抱月の後を追うように命を断った。
  いまなお唄い継がれる「復活」の主題歌「カチューシャの唄」と共に日本で初めての近代劇の女優として一世を風靡した松井須磨子の後追い自殺のニュースは号外が出るほど世間を驚愕させた。
 「抱月と一緒に葬ってほしい」の須磨子の遺言は、抱月の家族の反対で果たされず、彼女の墓は生家長野県松代と弁天町の多聞院にある。翌年、須磨子を哀れみ多聞院の須磨子の墓のそばに「抱月・須磨子・芸術比翼塚」が建てられた。
 ちなみに、同じ時期女優として活躍した川上音二郎の妻・貞奴は明治32年(1899),35年(1902)の2回にわたる海外公演を終え、明治37年(1904)に日本で初めて女優として「オセロ」に出演している。

徳川夢声、山野一郎、松井翠声が出演した牛込館

  毘沙門天の先、地蔵坂を上り光照寺に向かう途中藁店に戦前まで洋画のファンなら誰でも知っていた牛込館があった。2番館だったが名画を上映することで山の手でかなり有名な小屋で、電車でわざわざやってくる客も多かった。芝居をした名残か舞台が広く映画のほかレビユーが上演されることでも人気があった。無声映画時代、徳川夢声、山野一郎、松井翠声ら当時一流の弁士が出演したことも、牛込館の名をあげた理由の一つかもしれない。
 「オッペケペ節」で知られた壮士劇の川上音二郎と一緒に活躍した役者であり劇作家であった藤沢浅次郎が明治41年(1909)、寄席・和良店亭を改装して俳優養成所(牛込高等演芸館)を設立したところである。藁店の寄席といえば初代都々逸坊扇歌が天保9年(1838)初めて都々逸をここでうたったと言われる。       
逍遥と別れた抱月と須磨子は芸術座を旗揚げするまで、清風亭で同好の士が集まり二人について脚本の朗読や舞台稽古に励んだ。そして、しばしば高等演芸館で試演を試みたと聞いている。
  大正4年(1915)飯塚酒場の先、横寺町11に抱月と須磨子は劇場兼練習 場・芸術座(芸術倶楽部)を建設する。この建物は大正3年上野で開かれた大正博覧会の演芸館を移築したもので、木造2階建・客席200・緑色のペンキを塗られ、この辺りとしたらなかなかモダンな建築物だったそうだ。 
  後に新国劇で活躍した沢田正次郎と須磨子のトルストイの「闇の力」や、有島武郎の「死とその前夜」はここの舞台で演じられ大きな話題となった。 大正5年(1916)神楽坂生まれの水谷八重子は「アンナカレーニア」でセルジーの役で出演している。須磨子が抱月のあとを追い自殺した後は、芸術座の建物は新宿周辺の歓楽街の女性が住むアパートにされたと聞く。

水谷八重子に観客が神楽坂下まで並んだ

  演劇でもう一つ忘れてはいけないのは牛込会館である。
  牛込見付から5~60メートル神楽坂を上ると右角に、コンビニ・サーク ルKがある。むかしここは「江戸名所図会・牛込神楽坂」で見られる土塁で囲まれた屋敷があり、神楽坂に面する角の部分だけ石垣が組まれていた。牛込会館ができる前は石垣の上に銭湯があったことで通称温泉山と呼んでいた。関東大震災の少し前、貸し座敷牛込会館が竣工した。
  震災で市内の芝居小屋はほとんど焼失したので、劇場が修復するまで多くの演劇がここで公演されることになった。震災後初めて水谷八重子が大正12年12月(1923)「ドモ又の死」「大尉の娘」を公演した時は、観客が市電の通りまだ並んだ。八重子は13年(1924)第2次芸術座を発足させてい る。そのあと、牛込会館は白木屋が営業したがほとんど客が入らず廃業している。今でもよく観察するとサークルKの裏に石垣跡が見られる。   
  赤城神社の清風亭にはじまり、余丁町の坪内逍遥の文芸協会つづいて島村抱月の横寺町の芸術座、藁店の藤沢浅二郎の俳優学校・牛込高等演芸館と明治末期から大正の初めにかけて神楽坂は日本の新劇運動に非常に縁の深いところであったと言えよう。
  
抱月との恋愛事件が須磨子の名声をあげる
          新しい時代を生きる女性として共感

  明治45年(1912)有楽座で幕を開けた文芸協会第3回公演、ズーデルマン作『故郷』は、初日から8日目に警視庁から上演中止を申し入れられた。
 『故郷』は頑迷な軍人の父の反対を押し切り、オペラ女優になった女性の物語である。久しぶりに故郷に帰ってきた女優マグダが父から私生活をなじられてふたたび口論になり父を憤死させてしまう。その結末が当局を刺激してしまったのだ。
 文芸協会では『故郷』の訳者であり演出家の抱月に時の内務次官床次竹二郎のもとに陳情に出掛けさせた。そして劇の最後にマグダに「みんなわたしの罪です」といわせ、神の前にひざまずく場面を入れることで、公演中止を撤回してもらった。

  この事件によって『故郷』は全国に知れ渡り、文芸協会の名を有名にさせてしまった。その1年前のイプセンの『人形の家』で主人公のノラを演じた須磨子の評判とこの事件が相乗して女優・須磨子の人気を決定的なものにした。世間では須磨子を個性的なノラやマグダに重ね合わせ新しい時代を生きる女性の姿として共感を持ったのである。そして抱月との恋愛事件は舞台を通してふたりの恋愛の自己主張の場のように思われ、一層の魅力を感じ須磨子の名は全国に知られるようになった。
  大正2年7月、抱月と芸術座を旗揚げした須磨子は9月に有楽座で第1回の公演にメーテルリンクの『内部』『モンナ・ヴァンナ』を上演したのを皮切りに、ワイルドの『サロメ』、イプセンの『海の夫人』、チエホフの『熊』、トルストイの『生ける屍』『復活』、ツルゲーネフの『その前夜』など自殺する前の5年間に、上演種目33、上演日数880、上演箇所195、上演場所は国内はもとより朝鮮、満州までに及んでいる。

  須磨子は長野県松代の旧士族の家に生まれた。17歳で姉の婚家先を頼って上京したが、結婚生活に破れて女優を目指した。女優になることを決意したとき一族の海軍中将から「一門の恥辱」と激しく罵倒されたという。須磨子の生き方があまりにノラやマグダに似ていたのが世間の興味をひいたのかも知れない。

今でも唄われる「カチューシャの唄」はラヂオもテレビもない時代
                       爆発的な人気で津々浦々で歌われた


  なかでも大正3年(1914)3月帝国劇場で初演された『復活』はふたりの名を不動のものとした。全国を巡回、芸術座解散までに上演回数440回にも及んだ。
  劇中、カチューシャに扮した須磨子の唄う『カチューシャの唄』は、爆発的な人気で、蓄音機がまだ一般にそんなに普及していない時代にレコードが2万枚売れるという大流行を巻きおこした。京都南座で公演中、「駱駝印・オリエント レコード」に吹き込んだものだが「カチューシャの唄」は現在の歌手とは比較にならないが素朴な歌い方が人気を呼んだ。
  明治43年(1910)日本蓄音器商会(現日本コロンビアの前身)で蓄音機とレコードが生産開始してから5年は過ぎていない時代の話である。
 ラジオもテレビもない時代、全国の公演で各地を回るとその場所、場所で『カチューシャの唄』が先回りして歌われていた程日本中を魅了したのであった。劇中に劇中歌(主題歌)を入れる初めての試みであり、そしてこの唄は「流行歌」の歴史に新時代を画するものとなった。

     カチューシャ かわいや わかれのつらさ
     せめて淡雪とけぬ間に
     神に願いをララかけましょか

 『カチューシャの唄』の第1節を島村抱月、2節、3節を相馬御風が作詞、作曲を島村家の書生をしていた上野の音楽学校を卒業した中山晋平が受け持った。
 それから芸術座は名作を演じるときは劇中歌を入れるようになった。大正4年(1915)ツルゲーネフ『その前夜』には吉井勇の、命短し、恋せよ乙女……「ゴンドラの唄」、5年(1916)トルストイの『生ける屍』には北原白秋の、行こか帰ろかオーロラの下を……「さすらいの唄」が歌われている。いずれも作曲は中山晋平の手になるものだ。

演歌から流行歌へ先鞭をつけた八十と晋平コンビの
                      『当世銀座節』『東京行進曲』


  相馬御風、吉井勇、北原白秋、中山晋平はみな神楽坂周辺に住んでいた。
  須磨子の自殺で、わずかな期間だったがこれらの新しい流行歌の流れに一時終止符が打たれた。そして昭和にいたるまで、明治から引き続き街頭で演歌師が唄う時代や事件を風刺した手作りの流行歌に逆戻りし、卑俗な唄が町に流れた。
  昭和3年7月、ビクターから発売された「当世銀座節」が、翌4年に爆発的大流行すると、西條八十と中山晋平のコンビが生まれ「東京行進曲」「新東京行進曲」「女給の唄」「銀座の柳」「東京音頭」と現代にまで歌い継がれるいわゆる東京のなつメロの時代へと移るのである。
  大衆雑誌「苦楽」昭和3年4月号に載ったすでに詩人として名声の高かった八十の「当世銀座節」を見た晋平が、「是非作曲させてほしい」と西條家を訪問したのがこのコンビの始まりである。八十も早稲田、神楽坂の花街で遊んだ一人だった。
  次回は神楽坂がもっとも華やいだ大正の終わりから、昭和の始めに話を進めよう。


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2004/07/01

道灌はどうして江戸を手に入れたか

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神楽坂界隈 連載(12) <2004/7/1>

江戸氏に代わって道灌がどうして江戸を手に入れたのか

  室町幕府のもとでは関東8か國に甲斐・伊豆を加えた10か國が関東公方の支配区域であった。都から離れた東国のような辺境の地では余程のことが無いかぎり全て公方にまかせっきりの体制が関東公方を独走させる原因になった。
  上杉家は足利尊氏と姻戚関係にあり、尊氏の次男基氏が鎌倉公方の職につくと、関東管領の地位は代々上杉家に世襲されることになった。上杉一族には扇谷・詫間・犬懸・山内の4家があり、なかでも上総の守護職犬懸家と、伊豆・上野の守護職山内家の両家が勢力があり、互いにいがみ合っていた。
 
  たまたま、鎌倉公方足利持氏が犬懸家の上杉禅秀の官領職を山内家の上杉憲基に与えたことが契機になり持氏・山内対犬懸をめぐる争いが(上杉禅秀の乱)(1416)、各所に飛び火して東国を揺るがすことになった。
  一方で、憲基の子憲実が止めるのも聞かず幕府の後継者をねらったとされる持氏が幕府に反旗を翻すが結局、憲実によって滅ぼされてしまう。(永享の乱) (1438)持氏の死後1年、下総の結城氏朝が持氏の2人の遺児を擁立して挙兵をするが、憲実はこの合戦の陣頭にたち遺児を捕らえ死に追いやってしまった。(結城の合戦)(1440)               
  ところが、山内家の一族,越後の守護・上杉房定が都にいた持氏の子成氏を鎌倉公方に迎えた(1449)ことで再び一族間の争いが生まれることになった。永享、結城、ふたつの戦いを通じて、憲実は幕府の命に従い主君を殺したかのように見えたが、裏では上杉家の保全と発展に周到な手を打っていたと思われている。
  憲実は主家への反逆罪をわびて伊豆の國清寺に引きこもるが、その実、嗣子憲忠を関東管領職につけようとしていた。そのような中で(1454)成氏が憲忠を謀殺して常陸の古河に逃れる事件がおきた。成氏が古河に本拠を定めると幕府は両上杉氏に成氏討伐の準備に当たらせた。

  康正元年(1455)主君の扇谷上杉定正は太田持資(またの名を資長、入道して道灌を名乗る)に、利根川の西側を成氏に対する防衛ラインとして固めさせた。道灌はその1年後、定正の命で川越城の修復と江戸築城にかかり、永禄元年(1457)わずか1年で江戸城を完成させた。以後文明18年(1486)まで約30年間、55歳で暗殺されるまで江戸城を中心に活躍した。   
 (1457)幕府も成氏を討ち関東を平定させようと、足利政知が下ってきた。しかし、成氏のあなどりがたい力を知り、廃墟になった鎌倉には入らず伊豆の堀越(韮山)に止まってしまった。この時から政知を堀越公方、持氏を古河公方呼んでいる。                       
  この戦いは表面的に見ると堀越と古河の対立のように見えたが、実は上杉氏を含めて関東の守護さらにその輩下まで含めて敵、味方の分からぬまでの勢力争いであったと言えよう。打ち続く混乱を静めたのは太田道灌の力によるところが多い。かくして関東の実権は確実に山内・扇谷の両上杉家に移ることになった。       
     わが庵は松原続き海近く
               富士の高嶺を軒端にぞ見る

  江戸の名の起こりには多くの説があるが、「江」は大きな川を意味し 「戸」は出口というのが定説になっている。つまり『江戸』とは隅田川が江戸湾に流れだす河口にできた村もしくは湊という意味があるという。
  道潅時代、新橋から日比谷、丸ノ内周辺は入江で有楽町、東京駅付近には江戸前島と呼ばれる半島状の洲が海に突き出していた。そして平川は半島のつけ根のあたりで江戸湾に注いでいた。その河口周辺の低地に江戸の城下町が開けていたと考えられている。(連載3参照)
  鎌倉時代から江戸氏によって繁栄してきた江戸湊は、道潅によってさらなる発展を遂げるのである。
 日比谷の海を見下ろす武蔵野台地に築かれた江戸城の威容は、2つの史料によって伝えられている。1つは応仁の乱をさけ諸国を回っていた京都五山と鎌倉五山を歴任した僧侶、蕭庵龍統(しようあんりゅうとう)ほかの手になるもので(1476) 、あとはそ れから9年後(1485)道潅が江戸に 招いた高僧・万 里集九(ばんりしゅうく)ほかによって書かれたれた詩文である。2つの詩文は、江戸城の道灌の書斎・静勝軒に掲げるものであった。いずれも漢詩であることからかなり誇張が多いと思うが、ふたつの詩文が当時の江戸の様子を語る。

二人の僧侶が書いた詩文が伝える道灌の江戸城

  城の一方は海に面し、一方は平川で守られている。 子城(二丸)、中城(本丸)、外城(3丸)の三郭からなり、長さ延べ十数里の垣と、谷を利用した濠でめぐらされ2つの櫓と5つの石門は鉄で固められ跳橋まで架かっている。           
  城内には旱魃にも涸れぬ5~6の井戸があり、馬場では毎日数百人の武士が騎射の訓練をしている。子城・外城には多くの倉と厩がならび、本丸の道潅の館、静勝軒は10余丈(1丈=約3.6㍍)の懸崖のうえにある。
  江戸湊の品川と江戸の間には人家が続き「東武の一都会」をなしており、浅草の浜には観音堂の「巨殿宝塔」が「十数里の海に映え」そびえている。江戸前島周辺には大小の商船や漁船が群がり、江戸湊は「日々市をなす」とある。市に集積する物資には「房の米、常の茶、信の銅、越の竹箭(ちくぜん)、相の旗旌騎卒(きせいきそつ)、泉の珠犀異香(しゅさいいこう)、塩魚、漆■(しっし)、梔茜(しせい)、筋膠(きんこう)、薬餌(やくじ)」多岐に及んでいる。

「倭寇」の補充要員を送り出した?江戸湊

  房州の米、常陸の茶は敵方・古河公方の勢力範囲の産物である。越の竹箭をそのままにしても、面白いのは相模の旗旌騎卒で、文字からは「旗・指物を持った騎馬武者と歩兵」としか読み取れない。恐らく、傭兵の市場が江戸湊にあって、当時東シナ海で恐れられた「倭寇」の補充要員をここから送り出していたと推測される。
  泉(福建省)からも宝石、香木、漆器、染料、膠、など工芸品の材料が運ばれていたことが分かる。江戸湊からは、これに見合う日本からの輸出品として、日本刀、硫黄、信濃の銅はもちろん、越後や相模からの傭兵を海外に送っていたのである。                     
  特に後の詩文には、傭兵隊のことについて細かく触れている。江戸築城以前の道灌は品川湊に面した御殿山にいたと伝わる。道灌はもともと事務屋で武家集団としては小さい存在だった。だから、道灌の軍隊は主従で結ばれたものでなく、金銭契約で成り立った傭兵隊であり、それだけに訓練も行き届き圧倒的な強さを誇っていた。

戦火で追われ京、鎌倉から有能な人材が江戸の城下町に集まる

  応仁元年(1467)、諸家の相続争いが、天下を2分する応仁の乱にまで発展した。戦乱は地方まで拡大して天明9年(1477)まで11年の長きにわたって続いた。
  一方、鎌倉の町は永享10年(1438)永享の乱の戦火で大半焼かれた。たまたま2つの戦乱と道灌の江戸城構築の時期とが重なり、多くの市民を含み学者や僧侶までも京都や鎌倉を後に、30年間も兵火を見ない江戸道灌のもとに集まってきたと想像される。それだけに江戸城下町の繁栄ぶりがしのばれる。
 
江戸城は北条氏に落とされ小田原城の支城になる

  治承4年(1189)頼朝が伊豆で挙兵後、石橋山の 合戦で破れ安房に逃れるが、再度下総から利根川を渡り武蔵の国に進出した。その際、渡河に協力した江戸太郎重長は代々江戸家の本家として、康正3年(1457)太田道灌が江戸築城までの約300年の間、一族と共に江戸周辺に勢力を保っていた。
  室町時代に入っても、成氏・政氏から江戸氏宛ての歳暮の礼状が届いていることから(牛込文書)、鎌倉公方(古河公方)に仕えていたようだ。 
  ところが享徳3年(1454)成氏が上杉憲実の嗣子憲忠を謀殺して古河に逃れたことで、江戸氏は幕府から疎んじられる存在になったのだろう。これにに追い打ちをかけるように道灌が「江戸館」の跡に江戸城を築城するとなれば、江戸氏としても江戸を明け渡す以外に術はなく追われるように牛込に落ち延びたのだろう。康正3年(1457)道灌の江戸築城以前に、江戸を出たと思われる。江戸氏の一族豊島氏が道灌に皆殺しというまでに滅ぼされていることからも、あくまでも推測であるが、本家江戸氏も相当に迫害を受けと想像できる。

 道灌も江戸氏と同じように江戸湊を本拠に活動したことは、二人に共通したものが感じられる。もともと、道灌の江戸湊の経営には江戸氏が邪魔な存在であった。江戸氏が道灌の敵だった古河公方政氏方であったことを理由に、江戸から追われる大きな原因になったと思う。         
  文明18年(1486)道灌が、謀反を企んだという疑いをかけられ上杉定正に相模糟屋の定正邸で謀殺されると、江戸城は定正の手に帰すことになる。
  一方、相模の国では新勢力の北条早雲が勢力を伸ばしはじめ堀越公方の乱れに乗じて伊豆に攻め入り、続いて小田原をおとしいれて根拠地としていた。北条氏綱は早雲の嗣子である。父の後を継ぎ小田原城主となって、北条氏を名乗った。俗に後北条である。

 大永4年(1524)江戸城は早雲の嗣子北条氏綱に攻められ、城主太田資高の裏切りで上杉朝興は江戸城を放棄する(大永の乱)。そして江戸城は小田原城の支城にされてしまった。朝興は何回か江戸城の奪回をはかるが、思いは果たせなかった。北条氏の関東進出と本拠を小田原においたことで江戸は一宿場に落ちぶれ、かっての賑わいを失うことになった。
  牛込文書に大永6年10月13日(1526)北条氏綱より牛込助五郎にあてたものがある。このことは牛込に移り牛込姓を名乗っていた江戸氏が、江戸城を手にした氏綱の輩下に入ったと考えて間違いはないだろう。     氏綱はあえて勢力圏を広げず、領地の経営に専念し、それから12年後の天文5年(1536)北条は江戸 周辺の検地を始めた。氏綱は55歳で病死するが嫡子氏康がその意志を継ぎ永禄2年(1559)「小田 原衆所領役帳」を残している。
 「小田原衆所領役帳」によると江戸城には富永四郎左衛門と遠山四郎五郎をおき太田資高を住まわせた。富永と遠山の子孫は天正18年(1590)徳川が江戸に入るまで城主をつとめている。「落穂集」には、家康入国当時、江戸は遠山の居城で、石垣などなく、芝土舎を築いた形ばかりの城で、町屋などは日比谷あたりにちらほらあったと記している。富永は今で言えば北条の海軍司令官であった。

大胡勝行が江戸氏のあとを継ぎ牛込氏を名乗る

  神楽坂を上り毘沙門天の先を左に折れ、袋町と肴町の境の道(地蔵坂)を通称藁町といった。むかし藁を商う商人がいたことに起因する。坂を上りつめたところに光照寺がある。慶長3年(1598)神田にあったものが移転してきたものだと いう。この辺りに牛込城があり神楽坂に向 けて大手門が作られていた。
  地蔵坂は光照寺の「子安地蔵」に由来する。鎌倉時代の名工安阿弥(快慶)の作といわれる木造の地蔵菩薩像は、もと延命安泰地蔵といって、もと三井寺にあったものが芝の増上寺に移されたのち、光照寺に伝来したとつたわる。
 「後宇多天皇の皇后が難産で苦しんでおられたとき、一人の老人が夢枕に現われ地蔵をおいて消えた途端、皇后の苦しみから救われ、無事男の子を出産された。」これにあやかろうと江戸時代から参詣客が絶えない。
  ここは出羽国松山藩主酒井家の菩提寺で一族の墓が50ほどある。江戸時代大名が葬式で、国元に帰るのが大変なことから江戸に菩提寺をおいた。境内には昭和16年(1941)都内の海ほうづき業者が立てた 供養塔がある。地蔵坂は藁坂ともいわれ明治、大正、昭和にかけて映画館、寄席、夜店で賑わった所である。これについては後で触れる。

大胡氏も江戸氏も共に牛込を名乗る

  群馬県勢多郡大胡町、現在の地名である。上野の国大胡(おおご)の土豪大胡氏が重行の時代に牛込城に移ったあと北条氏に属していたらしい。天文24年(1555)重行の子勝行の願いで北条氏康から牛込姓を許可するむねの写しながらも北条氏綱の印判状がある。大胡氏が牛込に移る際分祠したといわれる赤城神社については後に譲る。
  勝行の子勝重も北条氏直に属し、天正12年(1584)家督安堵の書状をもらっているが、北条滅亡後の翌年天正19年(1591)徳川家康に帰順している。牛込城は恐らく廃されたのだろう。徳川の一旗本として石田三成の関ケ原の戦いにも活躍している。

牛込から消えた江戸氏

  牛込を名乗っていた旧江戸氏の後継者が絶え、上野の国大胡氏が牛込に移り氏康に仕え牛込姓を名乗る許可を得たというのがごく一般的である。旧江戸氏が名を変えた牛込氏が後継者を失ったというが、だが、北条氏の麾下に入った牛込氏のその後の活動を各所で見ることができる。
 「小田原衆所領役帳」(1559)よると牛込氏が与えられた知行は、牛込、日比谷、葛西の堀切をあわせて177貫、太田氏は1919貫と記載されている。太田 氏に比べ、牛込氏の知行は少ない。しかしその後、牛込氏の盛時 の所領は、牛込村、今井村(赤坂辺りか)、桜田村、日尾屋村(日比谷辺りか)に及んでいる。かっての江戸周辺で江戸氏が領していた地域だと思われる。
  しかしここでの北条麾下に加わった江戸氏と大胡氏の関係、お互いに牛込氏を名乗る経緯については不明な点が多い。
  かくして時代は徳川に移っていった。


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2004/06/15

古代、都から東国への道

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神楽坂界隈 連載(11) <2004/6/15>

古代、都から東国への道程

 古事記・日本書紀、ふたつの物語が伝える日本武尊・弟橘姫のロマンの舞台となった古代の東海道は両者でいささかルートに相違があるが、相模の国を抜け走水(浦賀水道)から船で上総に渡ったところでは一致している。
  それから下総・常陸へ向かった。このルートは武蔵野国を迂回するように外れていた。そんなわけで、都から武蔵への旅するものは近畿から中部山地を銃弾、碓氷峠を越えて上野国から入る東山道に頼った。

  奈良時代の後期になると走水から海を渡って房総半島に向かうルートは廃止された。新たに足柄峠を坂本に下り相模の国のほぼ真ん中をぬけて、店屋(東京都町田市)、小高(川崎市高津区)の両駅を通過、丸子付近で多摩川を渡る新たな東海道が整備された。さらに道は大井を経て豊島・浅草(台東区花川戸)へと続き、ここから隅田川(利根川)を越え下総から常陸に入った。ルートの変更で東海道と武蔵の国が直接結ばれるようになった。

  隅田川の河口・浅草は道潅の江戸城築城以前からも浅草観音 [推古天皇36年(628)隅田川で3人の漁師の網にかかった l寸8分(約6センチ)の黄金の聖観音像]で知られ、多くの信者を集めるほか浅草湊としても賑わいをみせた。本尊の発見前後は、海岸づたいにたどりついた渡来人がここから武蔵の国の内陸部に進出していったことも知られている。


なぜ古代の東海道は東京湾を渡ったか

  古代のルートでは武蔵野台地から下総台地に渡るのには大変な困難をともなった。この区間は(1)プロローグで述べたように6000年ほどむかし縄文海進が埼玉県の奥まで進んでいたところで、その後の海退で利根川を中心に多数の川が流れこみ、できあがった低湿地帯であった。
  繰り返す川の氾濫で至る所に無数にできた自然堤防とそれに囲れた湖沼が各所で見られた。今ではそんなことは忘れたかのように都市化されてしまったが、ごく最近まで自然堤防の上に作られた農家には、洪水に備えて舟が用意されていた。

  ここを通過するのは徒歩や馬だけでは不可能で、何度か舟を利用する必要にせまられた。そんな理由から古代の東海道は三浦半島から舟で上総へ渡るルートをとったのである。
  地形上、武蔵の国が上総、下総、常陸に比べ開発が遅れたことは、平安初期になって初めて牛込に牧場ができたことなども、これを裏付けるものとして考えてよいだろう。
  延喜式に記載される武蔵の国の神崎牛牧を牛込にあてていることは前にも述べたが、延喜式民部にも奈良時代初期から各地の牧場で乳牛が飼育され酥(そ)チーズが薬用として献上されたと記録されている。


延喜式東海道と当時の武蔵の国の状態

  平安時代に入り、延長元年(927)に延喜式が完 成すると、東海道は延喜式で定められた道路に手直しされ駅馬なども常備された。
  この時代の東海道は東京湾にせり出した武蔵野台地の縁をたどるように大井を経て豊島(浅草)に至り隅田川を渡りさらに先へとのびている。これからも分かるように、都からみちのくへの旅人は牛込神楽坂周辺を通過していったと考えるのは間違いだろうか。

  当時のこの辺りの様子は 1000年程昔、 上総介藤原孝標の娘が父と任地の上総から都まで戻る旅を記した『更級日記』から知ることができる。武蔵と相模の境、隅田川を渡る様子を次のように書いている。

  「今は武蔵の国になりぬ。ことにをかしき所も見えず。濱も砂子白くなどもなく、こひぢ(泥)のやう
  にて、むらさき生ふと聞く野も、蘆萩のみ高く生ひて、馬に乗りて弓もたる末見えぬまで、高く生い
  茂りて、中をわけ行くに、竹芝といふ寺あり。(港区三田辺りにあったという寺)」

  「野山、蘆萩のなかを分くるよりほかのことなく、武蔵と相模との中にゐてあすだ河といふ。在五中
  将(業平)の 『いざこと間はむ』 (名にしおはばいざこととはむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと)
  とよみけるわたりなり。中将の集にはすみだ河とあり、舟にて渡りぬれば、相模の国になりぬ。」

  業平(825~880)の歌は隅田川周辺の淋しい当時の様子を偲ばしてくれる。


頼朝にまつわる神楽坂  戦勝の祈願をした襟懸け尊像

  さて、牛込(神楽坂)が初めて歴史に登場すのは鎌倉以降になってからである。
神楽坂を上ると毘沙門天の少し先右手に天台宗東叡山に属する牛頭山行元寺(ごづさん・ぎやうぐわんじ)、俗称千手院呼ばれた古刹があった。明治末期五反田に移転して跡形もないが、この境内から神楽坂の色町が生まれたとされているところだ。

  起立年代は分からないが 開山は慈覚大師と伝わる。かっては牛込見付 辺りに総門があり、神楽坂はその中門の跡、寺域は三千坪という広人な面積を誇っていた。昔.境内に南天の木が多かったので南天寺と呼ばれていた。大水4年(1524)に起きた大永の兵乱(上杉朝興と上条氏綱の戦い・上杉氏が敗北し江戸城が小田原北条氏の手に落ちる)で破壊されてしまったという。

  頼朝が一夜、本尊に祈願したところ、その夜夢に「頼朝卿自らこの霊像を襟にかけたてまつり、源家の武運開くと見給ふ。後、果たして天下を統一せられたりしより、頼朝襟懸の尊像と称へ奉ると云々。」(江戸名所図会)と本尊縁起がある。本尊の千手観音大士は俗に襟懸の本尊と呼ばれていた。
  行元寺で祈願した話が事実ならば、奥州追討の時と思われる。事情については後で述べる。


若宮八幡宮に奥州討伐の宿願を

  理科大の先、外濠通りを少し市ケ谷に向かうと、逢坂の手前に幽霊坂という坂がある。気味悪く薄暗い幽霊坂と呼ばれる坂は何処でもある。嘉永市谷牛込絵図にはシンサカと記載されているが、坂を上ると毘沙門天のわきに通じている。上りきると以前は神楽坂花町通じていた。それは明治になってからの話で、昔は幽霊でもでそうな坂であったのだろう。
  この坂の途中に若宮八幡神社〈若宮八幡宮)がある。文治5年(1189)の秋、頼朝が奥州の泰衡追討に出発する際の宿願によって、奥州平定後ここに社を建立しという。後、文明年間(1469~1486)太田道灌が江戸城鎮護のため社を江戸城の方向に向けて再建、鎌倉鶴岡若宮八幡宮分祀移したと伝えられている。
  東海道はこの辺りで、信濃、上野、下野、奥州へと分かれていったのだろう。

頼朝、精兵3万を擁して隅田川を渡る

  治承4年(1180)8月、源頼朝が伊豆で挙兵して初めて戦った石橋山の合戦(相模足柄下郡石橋山)で、平家方の大場景親らに大敗する。しかし運よく大場景観の一族一梶原景時に助けられ三浦半島を経由して海路安房上総に逃れることができた。頼朝の下総上陸後、石橋山の合戦では敵方の武将だった畠山重忠以下多くの豪族が次第に頼朝の陣に加わり精兵3万の大軍を擁するようになり武蔵の国に進出する機会をねらっていた。
  頼朝の進路を阻んだのは利根川(隅田川)河口域の湿地帯と対岸の『江戸館』の主江戸太郎重長であった。重長は一般の武士集団とは異なった利根川河口の水運を差配する通運流通業者の棟梁だったと見るべきである。
  頼朝は重長との戦いを極力さけ、しばらく市川に止まったが、江戸氏の士族豊島靖光・葛西清重らの説得で、重長が頼朝に降伏する形で双方が折り合った。とはいえ精兵3万を渡河させることは容易ではなかった。 当時河口には相当数の民家があり、これを壊して湿地帯に敷くことも考えたが結局、3日がかりで釣舟と西国船とで舟橋を作ったようだ。
  降伏しても敵は敵と頼朝は江戸湊への上陸をさけて利根川を渡り滝野川から板橋を経て武蔵の国へと進んだ。このことについては「義経記」「源平盛衰記」に詳しい。

  ここで面白いのは、利根川河口域にかなりの民家が存在していたこと、釣舟はともかく西国船が四国.中国の船か、中国の貿易船を指したものか不明だが西国船の存在である。当時、利根川流域・佐野の鉄、上州吾妻郡の硫黄は中国最大の輸出品であったことからも貿易船であったことが窺える。

  さらに面白いのは、「大正2年鍛冶橋改築架工事の際、濠底より発掴せる頭骨」である。南北朝から室町に至る中世のものと思われる3個の梅毒重症患者を含む23個の頭骨が発見されたことだ。(日本人の骨、鈴木尚、岩波新書)いくつかの骨が梅毒患者であることで、自然死であり発掘された場所が墓地であったことが分かった。
  家康が江戸湾を埋立てる以前から.神田から日比谷にかけて江戸前島という半島状に突き出した陸地があった。鍛冶橋をはじめ中世の寺院や墓地の遺跡がすべてこの半島上にあることから、江戸前島には中世から陸地で漁師などの庶民の集落があったことが証明された。


当時の江戸湊の光景を想像してみよう

  今までの話を大胆にまとめ江戸館を中心に江戸湊を俯瞰すると、武蔵野台地を開析して流れる平川に沿ってできた沖積地には沼や水田が広がっていた。そして平川は江戸出島のつけ根、日比谷入江の奥で江戸湾に注いでいた。
  一段と高い麹町の台地上に建てられた江戸館からは日比谷の入江が眼下に広がり、日比谷入江を取り囲む台地には一族の館が並んでいた。理科大森戸記念館の発掘調査で須恵器、土師器が発見されたことからも、平安から中世にかけかなり裕福な生活をしていたと思われる。遠く牛込台地には行元寺の、甍が望まれ、台地には牛の牧場が開かれていたかもしれない。

  江戸湊の繁栄は江戸氏の利根川の水運を利用した通商と外国まで視野に入れた交易にあったと考えるのは間違いだろうか。
  入江には多数の舟と四国からの貿易船が行き交っていた。江戸前島や海岸に沿って寺院や民家が建ち並び釣舟から下ろされた魚や、周辺の農作物で市もたっていた。少し離れた浅草は浅草寺の参詣と隅田川の渡しに人が集まっていた。
  海岸沿いの東海道には隅田川を渡り下総、常陸に向かう旅人、ここで別れみちのくへ旅する者もいただろう。
  この状況は江戸、鎌倉の衰退と同時に北条氏の隆盛により、江戸が鎌倉への中継基地の役割を失い、大部分の船が江戸を通らずに直接小田原に向かうまで続いた。「家康の江戸入り」に伝わる一寒村江戸の光景の原因はここにあったのだろう。


頼朝は江戸太郎重長を何故か重職につけなかった

  頼朝は降伏後、御家人になった重長を武蔵国在庁官人(武蔵國衙の事務員)と諸郡司に任じたが、幕府成立後はあまり重用しなかったようだ。そればかりか江戸館の目の前の江戸前島を取り上げられたことは江戸の海運を差配する重長にとって人きな痛手だったに違いない。一度は頼朝に敵対してしまったことが理由か重長は、幕府成立後、歴史の表面から姿を消してしまった。

  しかし、江戸氏は幕府にとって他に変えられない江戸漠の運営に重要な存在だった。それは利根川上流の山林管理と木材の輸送、中・下流域の耕地の開発と維持、鉱石の採掘と冶金など全てを含めた経営と鎌倉ほか他地域を結ぶ海運業務だった。
  現在の皇居東御苑、麹町台地平川ぞいの東端に建てられた『江戸館』を本拠に一族の館は東京23区内に広がっている。
  畠山重忠が北条時政に殺された後、重長は江戸.木田見、丸子、飯倉、渋谷、高田、小日向一帯の重忠の土地を領したと言われるが(牛込区史)一族の流れと大体一数している。

                    (1250年前後の江戸氏の流れ)
 
江戸重盛
   氏家
   家重
   冬重
   重宗
   秀重
   元重
江戸太郎
木田見次郎
丸子三郎
六郷四郎
柴崎五郎
飯倉六郎
渋谷七郎
千代田区千代田
世田谷区喜多見
川崎市丸子
大田区六郷
千代田区大手町
港区飯倉
渋谷区渋谷

東国武士の出現

  平安時代から鎌倉時代にかけて武蔵、常陸、など関東一帯に武上集団が姿を見せてくる。
  武勇にすぐれた東国の人々は、奈良時代まで宮廷を守る衛士として、また北九州で唐、新羅の侵入を防ぐため防人とされてきた。8世紀から9世紀の初頭にかけて数回にわたる蝦夷征伐の軍事基地になったのも東国であった。このことが東国に多くの武士集団を育てた大きな原因になった。

  武士集団が、館兼城砦を中心に周囲の原野の開拓を始め、一族や従者をその中に土着させ、戦いになれば数百騎の兵力を動員できる体制を作り次第に力をつけていった。つまり、館の主は農場主であり、武士は百姓から年貢を取り立てるほか、外部の敵から農場を守るためのものだった。
  館を中心に推し進められた広い武蔵野の原野の開拓事業が武士集団を作り上げたといえよう。つまり広い農地を擁することが、強い武士集団を意味したのである。律令制度が弛むにつれて武士集団が随所で割拠して土地を奪合い増やしていた。
  しかし、江戸氏一般的な武士集団と異なった商人的な要素を持つ集団であったことが理解できよう。

江戸氏が牛込に移り牛込氏を名乗る

  やがて15世紀、室町時代に入ると江戸は関東管領上杉氏の支配するところとなった。ところが幕府の後継者問題をめぐり鎌倉公方・足利持氏が幕府に反旗を翻すと、その間の和解をはかろうとした関東管領の上杉氏に滅ぼされてしまうことになった。しかし、持氏の遺子成氏を京都から迎え鎌倉公方の後継ぎにすると両者の間の関係が再び険悪になった。鎌倉を追われた成氏は下総の古河に逃れ、古河公方を名乗り利根川をはさんで上杉方と対決することになった。利根川の覇権を守ることは上杉氏にとって江戸氏以来の至上命令であった。

  上杉氏は古河公方成氏に対して太田道灌に、利根川ラインを結び川越城修復と、その支城として江戸城の構築を命じた。結果、関東の実権は上杉氏が握ることになった。
  江戸氏が江戸館を築いてから300年、康正3年(1457)管領の執事、上杉氏の補佐役太田道灌が『江戸館』のあとに約1年を費やし新しく江戸城の建設を行なうことになる。当時の江戸城は石垣がなく、土塁と濠が3重にめぐらされた平城であったという。
  故牛込三郎氏(物理学校卒、元理窓会幹事)所蔵の牛込文書によると道灌の江戸城築城当時、江戸氏は江戸を去り牛込に移っていた。『江戸館』は無人の状態であり工事に何の妨害も受けなかったと考えられる。

  江戸氏は何故牛込に移り、牛込の姓を名乗るようになったか、はたして道灌に江戸を追われたのか、この間の事情について史料が乏しく分からぬ点が多い。ちなみに那智神社廊之房に残された記録によると応永5年(1420)の時点では大殿(江戸本家)として存在している。
  14、15世紀の江戸氏は16氏2流に分れたが、その 経緯について不明な点が多い。しかし、これが本家としての江戸氏を維持できなかった理由になったのかも知れない。
  牛込に移った後も江戸氏は律儀に関東公方方に仕えていた。江戸氏宛の持氏の感状、成氏から歳暮の礼状書状が牛込文書で見られることでも理解できる。江戸城主太田道灌は上杉方に仕え、江戸氏は関東公方方だったため江戸城の出現は、牛込にいた江戸氏にとって脅威であったに違いない。



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2004/06/01

江戸芸者のルーツは両国橘町の踊り子から

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神楽坂界隈 (連載10)<2004/6/1

江戸芸者のルーツは両国橘町の踊り子から


  毘沙門天が麹町から神楽坂に移されたのは寛政5年(1793)と前にも紹介した。江戸川柳「三度目は面白い地へ御鎮座」からも分かるように、この頃すでに神楽坂周辺に岡場所があったと考えて間違いはないだろう。しかし、吉原や深川などに比べて記録が少ないことから、推測の域を出ないということも否めない。       元文(1736)の始めからから寛保(1743)にかけ 両国橘町に町芸者の祖先ともいわれる踊り子が姿をあらわした。同じ時期、行元寺辺りにも踊り子がいたと記載されているから、神楽坂に町芸者が誕生したのは深川よりも古いかも知れない。      

粋でいなせな辰巳芸者を育てた深川

  江戸の町芸者はもとを正せば踊り子である。始めの頃は、町芸者は踊り子の振り袖の姿で茶屋に来て、留袖に着替えて接客した後、もとの振り袖に戻り帰っていった。幕府の踊り子禁止政策に対する抜け道だったのかも知れない。
  後になって、町芸者は前回述べたように娘風の縦縞の小袖に年中素足という姿に変わり、深川だけは「羽織」を着た。これが粋だと江戸中から愛され、「羽織」を着るのが深川だけの特権のように思われ、「羽織」と言えば深川芸者を呼ぶことにもつながっていった。

一方、江戸の各所に低級淫売女       川辺に夜鷹・大川筋にお千代船が現われる

  寛保元年(1741)踊り子はころび芸者と取り締まられたことで、逆に芸者は芸だけでは生活が成り立たず売淫することを余儀なくされた。そんなわけで両国回向院、行元寺など寺社の周囲に山猫という名前の淫売女が跳梁することになった。       
  この頃一方では、わずか100文、200文で媚を売る、最低の淫売女、夜鷹、切見世、船中で売春する船饅頭、お千代船などいろいろの名で呼ばれた私娼が江戸の各所で姿を見せるようになった。多くは貧家の女性の内職が多かったようだ。
  当時は、女性が職業につける場所はこんな所にしか無かったのである。

    客二つつぶしてそばを三つくい

  夜鷹の相場は28文と決まっていた。俗にいう二八そばが一杯、洒落ではないが二八の16文、夜鷹の稼ぎは客2人分つまりそば3杯というわけだ。たまに宵越しの銭を持たぬ江戸っ子が100文はずんだとしても零細な稼ぎだったのである。ちなみに当時の米相場は1升100文だったという。         
  宝暦年間(1751~1763)から明和・安永(1764~ 1780)にかけ、赤坂氷川明神の社寺地で隠売女がさかんに客を呼んだかどで3回も追い払われたことがあった。当時の江戸町ではこんなことは日常茶飯事であった。                    
   辰巳よいとこ 素足が歩く    羽織やお江戸の誇りもの……(江戸小唄)

  しかし、安永元年(1772)田沼意次が老中になると隠売女を黙認し運上金を取り立てたので江戸の各所に岡場所が出現町、芸者の全盛時代をみることになる。
                     
  岡場所の筆頭深川は、深川芸者・辰巳芸者で知られるようになった。深川は江戸から見て辰巳(東南)の方向にあり、吉原から見れば千住は場末の田舎、根津は職人相手、品川は旅人、僧侶に田舎侍、深川は商家の番頭・手代クラスの遊び場と相場が決まっていた。
  その後、深川は江戸詰家老クラスの会席の場としての性格を帯びるようになり、ごく最近まで「待合政治」の原型としてその悪弊が残されることになった。

  吉原では足袋をはき羽織を着ることが許されなかった。深川ではその逆をいき、素足に羽織を着た。特に天保の頃まで子供と呼ぶ14~5歳以下の見習い芸者に男装をさせ羽織を着せ座敷に上げたのが江戸中から評判になり羽織芸者の名で江戸中の人気をさらった。
 天明7年(1787)、天明の大火で吉原が全焼し、復興まで深川で仮営業することになった。これにより深川は今までにまして活気づくことになった。
 しかし、深川は岡場所でありもともと遊女がいた。深川は吉原の芸者と違い売春を兼ねた町芸者だったので遊女と金銭上のトラブルが絶えなかった。元来、芸者は芸のみを売り売春はしないことが建前になっていたから、町芸者は下級の淫売女からもそしりをまのがれ無かった。               

  そこで深川芸者ははっきりと一人2役、つまり芸と売春の2枚鑑札を掲げることになった。この風潮が次第に江戸中の町芸者に伝わり、文化年間(1804~1817)になると芸者と売春を職業とするものが下町・山の手を問わず江戸市中に定着しすることになった。                      
  ただ三味線を弾けるだけでは一人前の芸者と扱われず、目下芸者の修業中とされてしまい玉代も少ないことから半玉と呼ばれた。芸者など客商売の女を玉と言ったことに起因する。           
  もともと町芸者は自由業で、母親がマネジャーになり娘を酒席に侍らせた。そこで美人の娘であれば三味線をまねごと程度に習わせ、芸者にして売春で稼がせ楽に暮らそうとする親子も決して少なくなかった。その結果芸者の品位が低下したのは勿論だった。                         
     駒下駄の雪見に転ぶ奥二階         三味線のこまがゆるむと転ぶ也               三味線の下手はころぶが上手なり

 幕府はたびたび町の風紀を乱すと「女を召抱、芸者ニ致候儀一切相成候」と岡場所の取締を行なったが、逆に岡場所の盛況を見るにいたった。これにはわけがあった。取締が形式的であり、さらに「親兄のため無拠(よんどころなく)娘妹などの内、芸一ト通ニて茶屋向え差出候儀ハ格別」と例外を認めていたからだ。                  
  やがて家が貧しく、親の金欲しさから娘を置屋に売るものもでてきた。俗にこれを年期勤めといって前借、つまり身売りした娘を年期で縛り、25~6歳を満期として14~5歳から「下地ツ子」として長い 時間をかけて芸ごとを身につけさせ芸者に育てた。 置屋には年期勤めのほか、好きでこの道に入るものもいたが、養女が多いのはこんなところに理由があるのかも知れない。              
  この風習は戦前まで続いた。

辰巳芸者から江戸芸者までの変遷
    江戸末期に黒縮緬に染出しの紋   緋縮緬の襦袢のスタイルが決まる

  田沼時代には町芸者は全盛時代を迎え江戸芸者のスタイルが完成を見るのである。
 『素足に黒ビロードの細鼻緒の下駄をはき、黒縮緬に染出しの紋、裾回には金糸の縫い、江戸褄の二つ重ねの江戸紫の無垢の下着、緋縮緬の長襦袢、緞子の廣帯』といった町芸者の姿は取締りをよそに江戸の各地へ広がりを見せた。
  寛政年間(1789~1800)深川仲町、根津、芳町など、文化・文政になると芝高輪・下谷広小路・浅草仲町・湯島・柳橋に広がり幕末になり新橋・神楽坂の名前が上がってくる。

安政4年(1857) 神楽坂に芸者がやってくる

  善国寺の毘沙門天の縁日が始まる以前からある神楽坂周辺の寺社の御開帳、霊場参りにあわせ境内、門前町に茶屋が開かれ山猫が跳梁したことは容易に想像できる。

  岡場所の筆頭深川辰巳の里が天保の改革(1830~1844)で営業停止の処分を受けることになった。深川は、前々から、各藩江戸詰幹部が幕臣と繋がりを密にするという名目で、接待の場として使われていた。接待費つまり藩費も馬鹿にならず、営業停止の理由になったのだろう。
  職場を失った深川辰巳芸者が集団で移動したのは大川(隅田川)の船遊び拠点、柳橋だった。ここから花火舟、涼み舟、雪み舟、猪牙舟の客の供をするようになった。柳橋芸者の起源である。

  爪先に紅をさし素足で屋形船にひらりとすべりこむ小粋な姿は江戸芸者の原型とも言われ、深川辰巳芸者の面影を唯一残すものと自他共に許した柳橋も、明治からの遊客の変動で後発の新橋にその座を奪われることになった。
 
西の「都をどり」に対し東の「東をどり」は新橋の美妓によって舞われる

 幕末の、安政4年(1857)同じ年に牛込神楽坂と新橋の2ケ所に花町が誕生している。それから2年して安政6年に烏森、赤坂は明治4年と新しい。
 だが、明治5年の鉄道の開通によって新橋が東京の玄関口になり、銀座が目覚ましい発展をとげる。したがって新橋、赤坂の花町が官僚、政党、政商が結びつくヨーロッパのサロンに代わるものとしての性格を帯びるようになると、新橋芸者・赤坂芸者の名声が上がり、柳橋と同等かそれ以上とも言われるようになった。

 牛込神楽坂芸者の起こりをどう見るか。これについては周辺の山猫が進化したもの、よそから移転してきたものと二説あるが、私は後者を取りたい。
 当時の規模や場所については確かめられないが、もともと武家屋敷と寺社地の多い神楽坂では花町が作られた範囲は決められてくる。門前町か藁町・肴町・通寺町辺りが候補に上げられるだろう。
  

招魂社(靖国神社)の並びに料亭    神楽坂から人力車で芸者が通う

  そして芸者は幕末から明治にかけて江戸川沿いの花見、船遊びに色を添えた思われる。神楽河岸から船で江戸の各所への招きに応じかなり遠い所まで足をのばしたようだ。神田川を下ると神田、日本橋、隅田川に至ると柳橋である。
  明治になり神楽坂は一時さびれたようだが、明治4年、幕府の歩兵屯所後に靖国神社の前身招魂社が建立され、鳥羽・伏見の戦以後函館戦争まで官軍の戦没者が祀られた。初めての大祭以降、門前に作られた競馬場で競馬が行なわれ、東京市民から人気をさらった。

  富士見町には招魂社の創立により生まれた料亭が並ぶようになり、さらに近衛連隊ができると、将校を相手に盛況を極めたと聞いている。神楽坂から芸者も毎日のように忙しく人力車で牛込橋を越え乗りつけた。    明治20年頃になると、富士見町にも芸者置屋ができ日清・日露戦争、第1次世界大戦と急成長した花町であった。しばらく前まで古老は懐かしげに富士見町の名を口にしものだ。

武家屋敷屋敷跡に色町が広がる    富士見町は軍人・神楽坂は文化人

  明治の始め頃の神楽坂は色里といっても大半は武家屋敷と寺社でしめられ、それに寄り添うかのように神楽坂、横寺町、通寺町には左官、石屋、豆腐屋、八百屋、乾物屋、錺屋(かざりや)などの江戸時代からの町屋が並んでいた。徳川崩壊と共に武家屋敷と寺社には空家が目立ち、想像以上に荒廃していたと思われる。維新、屋敷を維持できなくなった武士が二束三文で手放したことが原因という。

  維新後、しばらくの間おとろえを見せた神楽坂も、明治10年(1877)西南戦争を境に前にも増して賑わいを見せ始めた。さらに、日清・日露の戦争はこの状態に拍車をかけた。聞くところによると当時、神楽坂の中心部は横寺町、通寺町周辺にあり牛込亭を始め沢山の娯楽場、鰻屋、牛鍋屋、飲み屋が立ち並び賑わっていたそうだ。
  明治14年(1881)通寺町に東京貯銭私立銀行が資本金2万円で開業している。昭和30年刊新宿区史によると「昨今牛込神楽坂に待合の増える事大分ならず、一昨年までは僅か7,8軒なりしも今では15,6軒の多きに及べり」(明治編第9・明治28・9・7)とある。嘉永年間の地図に料亭、置屋、待合の位置を重ねてみると、武家屋敷の跡が色里に変わっていった様子が理解できる。
 加えて、明治15年、早稲田大学の前身東京専門学校の開校(大正9年に早稲田大学となる)、牛込が文化人の住宅地となることで神楽坂がさらに一段と賑いを見せるようになる。
 さて明治からの神楽坂については一時後に譲り次回から中世以降の神楽坂の歴史を追ってみたい。


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2004/05/15

芸者の原型は吉原芸者

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神楽坂界隈 連載(9)<2004/5/15>                        
   
  周辺の岡場所についての記述はかなり知られているが、神楽坂の色町の変遷の詳しい歴史を記した書物は少ない。
  それらの少ない資料をもとに時代とともに変わっていった色町を神楽坂を中心にて探って見よう。

吉原の遊びが江戸庶民のものに
      町人のニーズで岡場所の出現


  一晩に十両(約六十万円)、これが吉原ではごく普通の遊びだった。江戸時代初期、吉原の客は大名・旗本それに一部の金持ちの町人に限られていた。しかし、元禄に近づくと一般庶民が経済的に豊かになり、吉原のほか、江戸各所に庶民階級のニーズに応じた岡場所が現われるようになった。
  江戸の始めの、吉原の遊女は管弦から舞、和歌、俳句、書道、茶の湯、生け花、碁、双六までこなし、容姿抜群、どんな男の客にでも対応できる教養人であることが望まれた。ところが、時代がたつにつれ次第に歌舞音曲よりさきに美貌と性技が望まれるようになった。                  

  元禄時代(1688~1704)に近ずくと、吉原(遊廓)の遊女に三味線さえ満足に弾けぬ者が次第に増え、それに代わって三味線弾き専門の芸者を抱える店が出てきた。これを内芸者といって遊女と区別した。
  宝暦年間(1751~64)になると、歌舞音曲で酒席 を取り持つ芸専門の芸者が出てきた。始めは男芸者(幇間)と女芸者の二つがあったが男芸者は疎まれいつ間にか姿を消し女芸者が残った。      

現代に見る芸者の原型は吉原芸者
     町芸者の質素のみなりが「粋」だと江戸の通人から愛された


  日が落ちて夕闇が迫る頃、吉原の遊女屋の夜見世開きは、内芸者の弾く「すがかき」の三味線の音によって始まった。これを合図にお職(最高位の遊女)から、末の遊女まですべてが店の格子内に居並ぶ。お職は中央奥の上座に、以下格式応じて順に座ると奥の障子が開き主人の席に簾がおろされる。主人が鈴を振ると、これを合図に店の行灯に灯が入り客が大門をくぐり始めるのが仕来りだった。
 
 吉原の芸者には遊女屋に同居する内芸者と、ほかに検番を通す仲の町芸者の2種類があった。ところが芸者の中に密かに売春をする者があらわれ遊女の職を脅かすものがでてきた。そこで幕府は寛政年間(1789~1801)芸のみを売る芸者と遊女をはっきりと区別するようにした。そして、違反した者には廓内から追放するなど制裁を行なったため、芸者は歌舞音曲に専念するようになり吉原芸者の名を高めることになった。そして、吉原芸者だけが芸者と名乗ることを許された。 
 
 吉原芸者は特に権力を持ち、他の芸者と同席するときににはいつも上座に座り、他の芸者が客に酌をすることがあっても、三味線を弾くだけにとどまっていたという。
 深川、柳橋などで芸者の呼称は禁じられていたのでしょせん酌婦に過ぎず、そのうえ吉原芸者の形をすることかたく禁じられていた。町芸者は、白衿に裾模様、着物の変わり裏、平打の笄にいたるまですべて身につけることは出来なかった。       
  そこで、多くは唐桟仕立て(紺地に浅葱・赤などの色合を細い縦縞に配した綿織物、現在の桟留縞)を着ていた。これが逆に粋だと当時、江戸の通人から愛されていた。深川の芸者などは毎月1日「江戸行」といって吉原の会所に挨拶に行かなければならなかったという。これを破ると察当(サット)といって吉原から抗議を申し入れられた。

町芸者の起こり  
   橘町の踊り子は転び芸者の代名詞  しかし、庶民の三味線文化を育てる


 町芸者の起こりは定かではないが、元禄時代のすこし前から、江戸市中に踊りを看板にした踊り子が姿を現し始めた。宝暦(1751~1761)から明和(1764~72)にかけて柳橋に近い横山町、橘町辺り、江 戸の下町に踊り子と称する町芸者が評判になり、またたくまに江戸市中に広がっていった。      
 三味線に合わせて唄い踊る、いわゆる三味線文化は町人文化を広く育てていった。その中心的役割を果たしたのが踊り子たちであった。      
 幕府の日常化する権威、権力に反発出来ず、物見高い町人達のエネルギーが新しい遊び作り、三味線に合わして唄い踊るいささか下品な大衆を作り上げたのだろう。ある意味で現代日本の世相に似たところがある。
  その人気は「江戸評判記」を賑わせるにまでにいたった。市中では、廓内の芸者に対し踊り子を町芸者と呼ぶようになった。若い芸達者な娘たちが振り袖に帯を長く垂らし料理茶屋(料亭)、船宿のほか武家、町方の屋敷の宴席や遊山船行にまで随行して酒席を取り回し、唄と踊りで彩りを添えた。  

おどり子を五 六人前あつらえる

  しかし、ひそかに遊女と紛らわしい行為をするものが増え吉原や品川の遊廓から「生業の妨げ」と幕府に訴願が出るまでにいたった。橘町の踊り子は転び芸者の異名でもあった。                                      
  踊り子に踊れと留守居むりを言い  ころぶは上手~おどるはお下手   転びすぎましたと女医者に言い     
  幕府は捨ててもおかれず町芸者に禁令を出し吉原へ移住させられる者も出たが、町芸者は年々増える一方で衣裳も華美になっていった。そして、深川、橘町、両国、湯島、日本橋が岡場所として知られるようになった。                
  天明(1781~89)頃まで町芸者が座敷の往復に振袖を着たのは若い娘が多かった踊り子の名残であろうといわれている。振り袖に左褄を取る姿は町芸者の原型とも言われ、一般に踊り子の発祥地は橘町とされている。

踊り子に張り合った美人の茶屋娘

 これとはり合ったのが水茶屋の美人茶屋娘である。
もともと水茶屋とは散策とか寺社参りの折り、文字どうり休憩に立ち寄り茶を飲んだ場所だった。  
 もともと、江戸の茶屋の起源は関西から伝たわったものらしいが飲食と遊興をする場所か貸し座敷の総称ぐらいに考えておこう。茶屋にはいろいろあるが普通茶屋というと待合茶屋を指すようだ。単なる休憩所、水茶屋と区別している。
 水茶屋は行楽地や寺社の境内に多く、ふつう葦簀張りで囲い、縁台を置き茶汲女(茶屋娘)に茶を出させたが、いつか美人の茶屋娘を置いて客を呼んだ。茶屋娘を目当てに通う客もあり、しばしば近くの待合茶屋で売春も行なわれていた。
  待合茶屋は瀟洒な一軒家で単なる休憩所ではなく貸し座敷業をかね、簡単な飲食もでき芸者を呼んで遊ぶことも出来た。茶汲女の名目で女性を抱える店もあったようだ。

  水茶屋で娘の顔でくだす腹       さわらば落ちん風情にて茶屋はやり
  茶を五、六十杯飲んで手を握り    水茶屋でせい一ぱいが手をにぎり  

  江戸時代、寺社の境内や盛場に茶を飲ませる水茶屋(茶店)が繁盛した。水茶屋には赤前垂れで茶釜の脇に立つ美人の茶汲み娘がおかれた。「明和の三美人」「寛政の三美人」はいずれも茶屋娘から選ばれている。            
 「明和の三美人」の筆頭、谷中笠森稲荷の水茶屋鎰屋おせん(笠森おせん)が、明和5年鈴木春信の浮世絵に描かれると江戸中で大評判になり町芸者と茶屋娘をめぐって一大ブームを巻きおこすことになる。茶屋娘を目当てに茶屋の前を行き来するイキな黒ずくめの衣裳のファッショナブルな若者の姿が目立つようになったのもその一つだ。        
  翌明和6年(1769)はこれらの流行を受けて浮世 絵や7~8種の板本が飛ぶように売れるほど茶屋娘や町芸者が評判になった年であった。
      
  明和の茶屋娘おせんはもちろん、浅草楊子屋柳屋おふじ、芝高輪の甲州屋お松、鷺森(芝白金)の玉屋おまん、深川二間茶屋の伊勢屋お春の評判は平成の現代まで知られている。 
 日本橋文字久、橘町弁天おみつ、油町おとら、麻布おかねなど踊り子連中も茶屋娘と現代の週刊誌よろしく板本に紹介されたので、その評判はまたたく間に江戸市中に広がっていった。         
  
神楽坂の岡場所をシュミレイトする

  さて、岡場所をめぐる町芸者と茶屋娘の話を念頭におき「神楽坂の岡場所」を想像してみよう。
  神楽坂周辺の岡場所について詳しくしるした記録を見たことはないが、前にも述べたように深川八幡、根津権現、音羽護国寺など当時名の知れた寺社では門前に幕府は政策上岡場所つまり私娼窟を黙認して門前市をなす繁盛を見ていた。赤城神社、行元寺を始め神楽坂周辺の寺社門前のあるものには岡場所があったと考えるんが妥当である。
 
 それを裏付けるように、江戸名所図会の挿し絵からも市谷八幡宮境内の茶屋、芝居小屋、門前町、さらに濠端に並んだ葦簀ばりの水茶屋、赤城明神社境内の茶屋などから当時の寺社門前の賑わいを見ることができる。
 風来山人の「風流志道軒伝」宝暦十三年(1763)に市ケ谷の八幡前、赤城の私娼窟が上げられている。(牛込区史)
  昭和5年刊「牛込区史」区内の私娼窟(岡場所)として次のような記載がある。 
  江戸時代の私娼窟で、あまり顕著なものは区内にはないが、豊芥子の『岡場遊廓考』で見ると、赤城、行願寺、ぢく谷等の名があがっている。その内赤城には『晝夜四つ切、(一ト切チョンノマ一分)又好色ぢんこう記に十匁と記す……
          
  紫鹿子に此浄土風儀回向院前におなじ、髪の結よう、衣裳、武家をまなぶあまりさわきわならず』とあり、行願寺には『晝夜四ツニキル、一ト切七匁五分…… 
  瀬田問答に云、江戸神田の地に山猫とて隠売女を置候事、根津などはじめに候哉、何頃初り候哉。答、始まりはおとり子にて、橘町其外所々、牛込行願寺邊の方より事起り候哉に付、寺社境内にて猫の號を顕はし候者、元文の始より寛保年中へかけ、専おぼへ候と記せり……
  豊芥按、赤城行願寺共、山猫と云者此時両国回向院前土手側に妓あり、是を金猫と云、銀猫と称す。金一分と七匁五分の價なれば、斯云なるべし。当所者山の手にて、赤城者一歩、行願寺は七匁五分なり、故に山の手の猫と云事を略して山ネコト者いゝしならん……
 
 選怪興に云、山寐子、山の手には赤城、水邊にては両国回向院前にのみありしか、近頃は市ケ谷八幡の山へも出て會をなすよし』とある。市谷ぢく谷は市谷谷町の異名であるが、此処に関しては『世俗奇語云、此地松杉鬱蒼として晝くらし、雨天後路あしく、俗呼んでぢく谷と云。局長屋あり……
  選怪興に云、(安永四未年印本)五十象じくじく谷、(昔一ト切五十文、いま百文ト云々)畠(大こん畑ノ事)などに住、そゝり唄のツサという所に感じ姿をあらわし、己が穴に引きずり込む。彼元興寺の暮化(ほんくわ)の類なり』とある。
 
  岡場所でやや高級なもので金1分(1両の4分の1)を払うものを金猫といい銀2朱(7匁5分・1両の8分の1)のものは銀猫といった。市ケ谷の谷町は下等なものであり、中でも、畑の中、ぢく谷は最下等に属するものであったらしい。(約4,000文=1両)

  明治の始め地方藩の下級武士が急に政府の高官なり、芸者に威張り散らすので江戸芸者は

  「猫ぢや、猫ぢゃと、おっしゃいますが、  猫が下駄履いて、傘さして、
   絞りの浴衣で来るものか。   オッチョコチョイノ チョイ」

と唄って成り上がりの高官を揶揄した。

  猫とは芸者の異名で座る格好が猫に似ているとか、猫の皮をはった三味線を持っているからともいわれるが、もともとは京都の祇園社の裏山に住む芸子を山猫と呼んだ。僧侶がよく買ったからとも云われる。
(寺は〇〇山△△寺という)
  芸者でありながら客の求めに応じて売春するものを山猫と言い売春芸者の異名である。芸者買いと言うと売春と誤解されるもとになった。関西では茶屋遊びという。

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2004/05/01

桃太郎

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神楽坂界隈 連載(8)<2004/5/1>

鏡花も桃太郎も共に不幸な生い立ちを背負っていた


  前回でも少し触れておいたが、鏡花は彼自身の年譜にも書いているように、流浪に近い生活をかさね苦労のすえ、運よく横寺町の紅葉の玄関番として住み込ませてもらうことができた。紅葉から貰う月額50銭の小遣いを割いて金沢の祖母と弟に仕送りを続け、鏡花の生活は清貧を極めていた。
  紅葉は「青葡萄」で「…金沢には七十余の祖母と十五六の弟とを抱へて、我玄関にゐながら、幽に粥の料を仕送った男である」と書いている。
  これらの生活環境が鏡花の人間性と作品におおきな影響を与えているが、ここでは桃太郎との関係についてのみ一般的に是認されている範囲で話を進めたい。
 
  妻伊藤すヾこと桃太郎の母は夫に死なれ、芸者になった。すヾも母に芸妓屋に売られ吉原仲之町で育った。仲之町は吉原のもっとも華やか場所で、江戸に向かって開く大門から南北に桜並木の続くメインストリートに面した一帯である。茶屋から変わった揚屋が並び、芝居やテレビでお馴染みの桜が満開の吉原の風景はここだと思ってよい。芸者の母が相場師の世話になっていた時代、すヾは裕福に育てられる。しかし、事業に失敗した相場師に恩義を感じていた母はその穴埋めにすヾを手放したのである。

鏡花と桃太郎の神楽坂、料亭常磐での初めての出会い

  尾崎紅葉は同好を募って「硯友社」を組織し、「我楽多文庫」創刊、明治の文壇に一時期「硯友会時代」を作った。「硯友会文学」は江戸の戯作者の徒弟制度的なものをそのまま引き継いだ紅葉の門人集団によって作られていた。紅葉は神楽坂の料亭で硯友会つまり門人の会合をたびたび開いた。

  鏡花も門人とともにそのお供をして、いつも末席に座り先輩達の話を黙って聞き、彼らと芸者の遊びを遠くから眺めていた。それまで後にも先にも鏡花自身茶屋遊びはしたことはなかったという。
  桃太郎は座敷ではあまり目立たない取り柄のない芸者で座敷の隅に座っていることが多かった。そんな2人が明治32年1月、神楽坂の料亭常磐屋で開かれた硯友会の新年会で初めて出会い、夫婦約束まで交わす間柄になる。
  玄関番だった鏡花も「夜行巡査」「外科室」「湯島詣」「高野聖」等の作品を発表して次第に流行作家の地位を固めていった。
 当時、紅葉は「金色夜叉」「続金色夜叉」を連載した読売新聞と契約を破棄、他社と契約を結ぶという事件を起こしていた。これが原因で紅葉は読売新聞を辞めることになるが、鏡花はその後釜に連載小説を書くよう依頼される。が、師匠を辞めさせた読売には書かぬと断わる。鏡花の流行作家としての実力はそこにまでいたっていたのである。
 それから4年後、桃太郎を落籍した鏡花は紅葉の家の目と鼻の先で師紅葉に内緒で夫婦同然の生活を始めていた。そんなことは狭い神楽坂で師匠の耳に入らないわけがない。

桃太郎と夫婦気取りの鏡花になぜ紅葉が激怒したか

  一方紅葉も鏡花の才能を十分見抜いていた。世間の人気も日に日に鏡花に集まり、病気で衰えて行く紅葉は自分と対象に、弟子の鏡花が自分を追い抜き作家として前途が開らけるのをはっきり意識し嫉妬した。その門人鏡花が師匠に内緒で芸者と夫婦気取りでいる。
  紅葉一門の鏡花が流行作家なり一人歩きするようになると、師匠と弟子の立場が逆転、弟子がライバルになる。この場合、一門の秩序を保つには弟子を追い出せばよい。それをせず、師弟関係を続けようとするなら、師匠に隠れて桃太郎と同棲していたことを理由に鏡花を門人の前で叱責しなければならない。

  それで、紅葉は鏡花を他の弟子たちの前で恩知らずの不埒者にして折檻におよんだというのが大方の見方である。
 村松定孝はそんな難しい問題ではなく、紅葉は単純に鏡花を芸者桃太郎と別れさせ、然るべき家から嫁を迎えてやり末長く師弟関係を続けたかったのだろう結論づける。ごくありふれた世間的な理由に過ぎなかったという。あとは読者に判断してもらおう。
 
  どちらの理由にせよほとぼりがさめれると師匠との約束を破り、桃太郎を家に入れている。その師匠をなめたやり方を知っていたが、紅葉はすでに病状が進み、鏡花を詰問する体力を失っていた。
  紅葉の6月24日の日記には「9時晩食を了へ、鏡花を訪はんとせしかど胃張り気萎へて果たさず、懐炉を擁す」とある。3ケ月前の折檻があまりに激しかっただけにもし仮に鏡花が居直った場合、自分の惨めな姿がはっきりと目に浮かんだからであろう。

紅葉の愛人小ゑんがばらしたか、内緒のはずの二人の情事は筒抜け

  二人の秘密はかなり以前から紅葉にばれていた。しかし、鏡花は知らぬ存ぜぬで押し通していた。紅葉には神楽坂の芸者で毘沙門横丁の芸妓置屋相模屋村上ヨネの養女「小ゑん」という愛人がいた。「婦系図」の酒井先生の小芳である。

  この話は、昭和28年、朝日新聞に連載された邦枝完二の小説「恋あやめ」によって紹介されている。同業の小ゑんを通して紅葉が鏡花と桃太郎のうわさを聞かぬはずはない。二人の一部始終は紅葉に届いていたものと考えて間違いはないだろう。
  いくら小ゑんが師匠紅葉の愛人であったとしても、所詮愛人にしか過ぎず妻の座を狙うことは不可能なことは分かっている。桃太郎は紅葉の弟子であっても鏡花のれっきとした妻である。小ゑんにしてみれば桃太郎は後輩だし売れない芸者である。こんな僻みから、鏡花と桃太郎の関係が嫉妬を込めて相当悪意に満ちたものとして小ゑんから紅葉に伝わったと想像される。

  鏡花が神楽坂の家で紅葉から折檻を受ける前の年に逗子に一軒屋を借り自炊していたことがある。
たまたま神楽坂から遠出した桃太郎が鏡花と一緒にいたところに前触れもなく突然紅葉が訪れ大騒動になった。恐らく小ゑんあたりからえた情報だろう。   
  急いで桃太郎を隣家に逃がすが、物干しの腰巻を見つけた紅葉は「誰のものか」と詰問する。周囲のものは「近所のお手伝いに来る娘さんの物」と誤魔化そうとするが「…素人の女が紐のない腰巻をしめるか。あれは商売女に違いない…」と一喝され皆青くなり震えだしたと、村松定孝は「泉鏡花」で書いている。
                                         
明治の文学史を語る上で重要な神楽坂
「もるひねの量ませ月の今宵也」   その秋もすぎ偉大なる文豪紅葉の死

          
 明治36年4月桃太郎が神楽坂の鏡花の家を出て半年後、10月30日紅葉は「死なば秋露の干ぬ間ぞおもしろき」の辞世を残し死んだ。
 狭い横寺町の道は車や馬車や生花と人でいっぱいに埋まり、ほとんど歩くことは出来なかった。棺は神楽坂を通り、濠端を市ケ谷、四谷見付を抜け青山へ向かった。

  近代思潮に浴した新文学でなかった。しかし、江戸文学に学び戯作集団だったとは言え、日本に近代日本文学が興るまでの過渡期に、美文調で日本的な思想や感情を写した文学として硯友会の残した足跡は大きい。紅葉の死と時をおなじくして近代思潮の波と共に自然主義運動が起こり、硯友会派の文学は文壇から急速に姿を消していくことになる。

 葬儀に参列し、このことを深く感じ取った花袋は、次のように記している。
「…私の胸には、個人主義が深く底から眼を覚まして来てゐた。宇宙にわれ唯一人あり、共同は妥協だといふ心持や、普通の悲哀を強いて噛殺して了ふやうな新しい思潮や、乃至は自然主義的思想が、外国の書物を透していつとなく私の中心を動かしてゐた。私は紅葉の葬式に列しながら、かう心の中に叫んだ。『かゝる盛大な葬式、世間の同情、乃至義理人情から起る哀傷、又は朋黨、友人、門下生などに見る悲哀、さういふものは新しい思想から見て、何であらう。舊道徳のあらはれの単なる儀式ではないか。寧ろこの盛んな葬禮よりも、まごころの友の二三によって送らるゝ方が、かれの爲めに美しくもあり又意味もありはしないか。こうした外形的、壟断的勢力は、もはや新しい世界には起らぬであろう。かうした大名か華族のやうな葬式をする文学者は、かれ紅葉をもって終りとするだろう。友人の情、門下生の義理、さういふものに、我々は既にあまりに長く捉へられて来た。普通道徳に拘束されすぎて来た。これからは、我々は我々の「個人」に生きなければならない!』かう思った私の眼からは、拂っても拂っても盡きない涙が流れた。」

 花袋は紅葉の死で、自然主義の作家の世界が開けると涙を流して喜んだのである。花袋が感じ取ったように日露戦争が終わるとすぐに自然主義が台頭、秋声、花袋、藤村の全盛期になるのと反対に鏡花は全く売れなくなってしまった。桃太郎と逗子に引っ込み生活にも困る状態の中、明治40年1月からやまと新聞に
「婦系図」の連載を始めた。

ふたつの芸術が生まれた朝日坂

  それからわずかもたたぬ間に、同じ横寺町に島村抱月が松井須磨子とともに日本の近代演劇を誕生させた芸術倶楽部を興こす。紅葉宅も芸術倶楽部も神楽坂6丁目朝日坂を入ったところである。  

武骨な武家屋敷町に牛込花街の出現

  岡場所、岡惚れ、岡っ引というのがある。岡とは正式に認められていないものをいう。銭形平次は小説や映画では十手をあずかるお上の御用聞きとなっているが、実際は番屋の下働き位にしか過ぎず、正式に認められない町方で、十手など持たしてもらえない、いわゆる岡っ引きであった同じく岡場所も幕府が正式に認めない花街を指した。        
  江戸時代、幕府の認めた吉原は格式が高く庶民はそう簡単に出入りが出来ず、長引く江戸の不況もあって人の足はとうのく一方だった。それと反対に1760年(宝暦10年)頃から一般庶民が手軽に遊べる「岡場所」と呼ばれる遊女屋が増えはじめた。度々の幕府の取締にもかかわらず、品川、千住、板橋、新宿などの宿場町を含めて70ケ所に及んだと言われる。その最も繁盛したのが「深川」である。
 
三度目は面白い地へ御鎮座


  神楽坂毘沙門天をさす江戸の川柳に、神楽坂を面白い地とよんでいる。善国寺は寛政4年(1792)の火事で全焼、翌5年に麹町から神楽坂に移転した。
  神楽坂を上り左手、毘沙門天の裏辺りに安政4年(1857)神楽坂花町(牛込花町)が出来たいう。 川柳どうりなら善国寺が移転する前に、すでに花町が出来ていなければならない。順序が反対である。 神楽坂に花街が出現する以前からこの辺りに「山猫」と呼ばれる売春婦が跋扈していることは江戸市中でもしられていた。
  もともと神楽坂の大部分は武家屋敷で占められていたが善国寺の裏一帯は藁店という菰筵を商う町屋があり賑わいをみせていた。この辺りの町屋中心に花街が出来てもおかしくない。同じ時期、新橋[金春花街](安政4年)、烏森(安政6年)にできている。

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