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物理学校意外史

物理学校意外史
12
2005/12/01

戦中戦後を切り抜け昭和26年最後の卒業式

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連載(16)<2005/12/1>  (最終回)
 
開校60年にして校章、校歌、創立記念日が決まる

  昭和9年(1934)維持員最後の校長中村恭平の死去にともない第4代校長に大河内正敏を迎え学校のスタイルががらりと変わった。
  昭和12年、日中戦争が始まった翌13年、創立以来半世紀にわたって制服、制帽も無かった母校に新たに校章と校旗が制定された。
 校章は象形文字の「牛」で「物」を表し、これに「理」の文字を組み合わせ「物理」としたものだが、デザインがチューリップに似ていたことから「チューリップ」の愛称で親しまれた。襟章は各科問わず1年生は緑のチューリップの中に「理」、2,3年生になると紺、赤のチューリップに変わり数学科は「S」、理化学科は「R」、応用物理学科は「B」、応用科学科は「K」と刻印されていた。アルファベットの文字のついた襟章を付けると本当の物理学校の生徒になれたと自他共に認識した。
  矢継ぎ早に翌14年、創立記念日が制定され、15年には校歌が作られた。創立記念日は東京物理学校の母体となった東京物理学講習所の設立広告が郵便報知新聞に掲載された日が明治14年6月13日であったことから6月13日とした。来年東京理科大学は創立125周年を迎えるが記念式典は創立記念日の6月13日に行われる予定である。
 15年、皇紀2600年記念事業として「東京物理大学」の設置が具体的に検討され申請まで至ったが19年戦時体制のため不審議となり中断されたことは前回述べたとおりである。

軍事教練が制服を決めさせたのか?

  もともと母校は夜間が主体で、日中社会人である生徒が夜間学ぶという学校であり思い思いの服装で登校していた。学生服を着用する者は校章が決まるまで、洋服屋が勝手に意匠した校章をつけていたという。
  半世紀という間学校も生徒も、校章、制服などどうでもいいと言う気風があったのだろう。だが、昭和14年、第1部の生徒に軍事教練が正科に課せられると、そうもいかなくなった。
 大正14年に公布された「陸軍現役将校学校配属令」より中等学校以上の学校では現役将校による教練が実施されることになっていたが、大学学部と私立校は申請制だったため母校では教練は正科として実施されていなかった。しかし昭和14年文部省が大学などにおいても軍事教練を必修にしたのにともない母校もそれに従った。
 16年になると8月8日文部省は各校に学校全体を組織した報国隊(団)を編成させ全ての学生を国の要員に組み入れることを図った。さらに8月30日になると、大学などにも軍事教練担当の現役将校を配属することを義務づけた。それに先立って東京物理学校は陸軍に「陸軍現役将校」の配属を申請して2月10日、陸軍大佐大森多忠を受け入れた。これ以来学校の公式行事には校長と並んで大森大佐が同席することになった。4月1日には「本団ハ数学ノ本義ニ基キ全校一体ノ活動ノ下ニ心身ノ修練ヲ為シ以テ報国精神ニ一貫スル校風ヲ発揚スルヲ目的トス」を目標に東京物理学校報国団を結成した。
  以後、学校報国団が主体的な自治を否定し、国の方針に沿う一方的な統制的指導下に入ることになり、軍事教練、学徒動員などに協力することになった。この制度は戦争終結後も続きこの呪詛を取り除こうと20年10月学校の民主化を求めて物理学校は戦後わが国で初めての同盟休校に入るが詳細は後に譲る。
 10月16日になると戦時措置として大学、専門学校などの卒業が3ヵ月短縮され12月に卒業式を行い、さらに翌17年からは6ヵ月繰り上げて9月に卒業することになった。かくして東京物理学校も時間とともに第2次世界大戦の方向に巻き込まれて行くことになった。狭い中庭や屋上で絶え間なく軍事教練が開始され、号令の大声が構内に響き渡るとともに学校は日増しに戦時色を深めていくことになった。
 昭和16年は国が戦争に向けての準備を進めている中でもまだ6月14日に創立60周年の記念式典をあげることが出来た。だが12月8日、ついに太平洋戦争に突入することになってしまった。

戦時色が深まるにつれて学校体制が混乱
                 それでも最後まで授業を続行


  昭和17年に入り半年は戦況を何とか持ちこたえたが、6月5日ミッドウェーの海戦で4空母を失うなど戦局は目立って厳しい状態に陥ったが戦争はさらに続けられた。一方国内では1月塩、2月味噌,醤油,衣料の配給が実施され生活必需物資の困窮が目立ち始め、5月には金属回収令で寺院の梵鐘はもとより家庭の鍋釜まで兵器にと集められていったが、国民はまだ戦勝気分に浸っていた。「欲しがりません勝までは」の標語が出来たのはこの年である。
  昭和18年6月25日「学徒戦時動員体制確立要綱」の閣議決定は学徒に本土防衛のための軍事訓練と勤労動員の徹底を図ることにした。さらに翌19年1月閣議は緊急学徒勤労動員方策要綱を決定、はじめ学徒の勤労動員期間を年間4ヵ月継続して行うとしたが、3月になり通年実施と決定した。これにより母校の生徒の一部は大宮の第一造兵など各所へ報国団の名で動員されることになった。
 19年から学徒動員の体制はさらに強化され、1部の生徒については正常に授業が行うことは難しくなったが「本来、学生は勉強すべきものである。勉学を中止して学徒動員とはいかがなもの」という教師がいて学内に学徒度員に消極的な意見が根強かった。しかし口には出せぬ時代だった。 
 そのためか他校に比較して動員された生徒は少なく、学校に残った者は疎開の取り壊しや、空襲が激しくなると報国団員の一員として首都防衛の仕事に従事しながらでも学校で勉強していたと聞いた。動員されていた生徒も夜間学校に戻され授業を受け厳しい試験を受けたなど物理学校らしい話が残っている。国を挙げての戦時体制の中で厳しい圧力の中、学校の取れた精一杯の処置だったのであろう。

  数学科を除いて母校には徴兵延期の制度が適用されたので、これを理由に入学者が極端に増えるのを懸念した文部省は19年度の1学年から入学定員を400名、2部を250名と決めこの遵守と入学試験の実施をせまった。しかし入学志望者の数が多く入学試験を行えないとの理由で書類選考にかえて入学生を決定した。落第だが各学年、各学科ともに200名に制限され、あとは放校処分にされた。このことは19年3月には落第があったことから18年度は学校が正常に運営されていたことになる。
  昭和20年官公私立の高校、専門学校の入学試験は取りやめになり書類選考で入学者を決定した。この年、私の友人で東京物理学校に志願した者がいて、試験を受けずに「合格」の手紙が郵送されてきたそうだ。日本中の学校ではもはや入学試験どころではなかったのである。
 
東京大空襲でわずかな損傷で残った校舎
 
 19年に入ると神楽坂にも異変が起きていた。3月警視庁は高級料理店、待合芸妓屋などの閉鎖を命じた。それまで「星に錨に闇に顔」と細々ながら営業を続けていた神楽坂から完全に灯が消えた。疎開で家をたたむ者も多く輸送できぬ家具を神楽坂に値札をつけて並べた。連日報国団が手伝いに出かけていった。アップライトのピアノに10円の値段が付けられても買い手が付かなかったという。商店もみな閉まり時間が来ると雑炊の店と国民酒場が開き長い列ができた。
  夜電気をつけているところといえば神楽坂演芸場ぐらいで空襲で焼けるまで木戸を空け先代の正蔵などが落語を聞かせていた。
 11月24日マリアナ基地からB29爆撃機70機による東京初空襲に始まり、B29による波状的な爆撃は日を追うごとに東京の町から全国の町へと広がっていった。学校に残った生徒は教職員と寝泊りして校舎の警備をする一方連日のように夜間交代で市内の各地区の消防署、役所などの応援に出掛けた。
 3月9日江東地区を襲った東京大空襲当日この地区へ応援に出掛けた生徒は帰ってこなかった。この日、学校周辺にいくつかの焼夷弾が落ち校舎の外壁に炸裂した油脂焼夷弾の油脂が付着して燃焼したが警備の教職員や生徒で消し止めた。幾度か東京が空襲で襲われる中で神楽坂に直接被害をもたらしたのは4月13日と5月25日の両日である。
  4月13日の空襲で校舎周辺に火災が生じたが校舎の延焼はまのがれた。だが5月25日の東京大空襲では山の手一帯が一夜にして焼土と化した。校舎にも20発に及ぶ焼夷弾が落下したが幸い消し止められ火災を回避することが出来た。この空襲による火災で神楽坂に残されたのは物理学校と研究社の建物だった。
 
かくして神楽坂は焼土と化した
 

 25日の空襲は25日深夜から26日早朝にかけて行われた。2時間ほどの時間だったが被害者にとっては一生のうちでもっとも長い一日となった。
  その晩も皆、神楽坂に焼夷弾が落ちぬことを願い固唾を呑んで空を凝視し敵機のさるのを待っていた。だが、サーチライトに照らし出されたB29の編隊が頭上に来た瞬間、投下された焼夷弾が空中で炸裂し、線香花火のように無数の火の玉が弧を描き暗闇に吸い込まれていった。ほんの数秒間、坂上に突如火の手が上があがったと見る間に、坂下にも焼夷弾が落ち始めた。
  どの位の時間が経過したのだろう。坂上の火勢が目の前に迫ってきた。「もう駄目だ」避難を始めたときにはすでに周囲に真っ赤な炎に包まれていた。驚くべき火の早さに家族に声をかけあい、飛び出すのがやっとだった。神楽坂の町内会では被害を受けたら避難先は靖国神社と申し合わせていたが、避難先まで走れず外堀の土手までがたどり着くのが精一杯だった。火は牛込見付を逃げまどう人を赤々と照らした。誰も無言で地獄絵のように燃えさかる神楽坂に誰もが放心の状態だった。
  5月の日の出は早い。26日の朝はどんよりとして暗く明けなかった。煙が空を覆い陽がささず太陽が輝きを無くし黄色の球のように見えた。
 「皆さん物理学校に行きましょう」町内会の役員の声でようやくわれにかえり人々が土手から動き始めた。幸い空襲の災害を免れた校舎に26日学校付近の罹災者1970人を収容したと記録にある。
 罹災者の受け入れ、救援物資の搬送に手を貸したのは生徒の協力に負うところが大きかった。当時は炊き出しの握り飯ぐらいだったが誰彼と無くトラックに乗り救助に手を貸した。罹災者の大半が数日のうちに落ち着き先を見つけ学校を引き払っていった。

混乱からの復興、民主化を求めて同盟休校
            戦後わが国ではじめてのストライキ 
    
           
 学校は空襲の被害を受けなかったものの大半の生徒は学徒動員に徴発されており、900名以上の生徒の家が焼かれ、20名近い教員が罹災する有様では学校運営はもはや不可能の状態におちいっていた。さらに空襲による都内の交通の麻痺はそれに輪をかけていた。
  その中で一人平川仲五郎が授業を続けていてことは伝説として語りつなげている。

  8月15日悪夢のような戦争は終わった。
  戦争が終わると個人的に授業を始める教師もいたが、正式に学校が再開されたのは8月30日1部1学年の授業が始まったことによる。学徒動員に出ていた生徒が学校に戻った。9月、3学年1030名の卒業式を行い、卒業式の終了後復員してきた3年生は翌21年3月卒業している。だが、学校らしい雰囲気を取り戻すのにはまだ時間を要したが翌21年2月、全学級の授業が再開することができた。
  学徒動員に出ていた生徒も学校に戻り、学校が再開されると2年生の一部から学校の民主化を求める声が出てきた。当時は自治会などという組織はなく戦時中結成された学校報国団がそのままの形を維持、生徒集団をまとめていた。大きな目的は学校報国団に変えて自治制の学友会の創設を学校側に求めるものであった。
 戦争が終わってわずか1ヵ月あまり、わが国では学校のストライキが珍しい時代東京物理学校、水戸高校、上野高女ほか各地で学校民主化を求めて同盟休校が起きている。あまり自慢にはならないが物理学校はそのトップバッターというべき存在であった。上野高女は教員の生徒の勤労奉仕による農作物の横領事件から校長辞任問題まで発展した事件であった。盟休に当たって上野高女の生徒が「女性では心もとないから先輩の物理校の生徒の助言を」という話が残っている。
  さて物理学校の同盟休校だが、10月に入り1週間にわたって行われ主催者の呼びかけで上野公園で学生大会を開催「学生の自治による学友会の創設」などを決議し、学校側も全て容認することで何の混乱も無く解決した。世間ではお堅い物理校がストライキと全国ニュースになり多くの卒業生が心配して学校に訪れた。

最後の物理学校長は本多光太郎

 20世紀の前半、科学者の自由な楽園と始められた理化学研究所の所長大河内正敏は18年、陸軍から原子爆弾の製造の依頼を受けことになった。戦争終了後、軍需産業、内閣顧問、原爆製造計画の責任を問われ12月6日戦争犯罪人に指名され13日巣鴨拘置所に収監されることになるが、その後容疑が晴れ翌21年4月に釈放された。大河内は20年11月理化学研究所所長を辞任、12月25日東京物理学校の校長を辞任している。大河内が昭和9年4月から昭和20年12月まで11年余にわたり東京物理学校の校長だったことは物理学校の関係者以外にはあまり知られていない。ほとんどといっていいほど大河内を紹介した書物にも触れていない。
  大河内自身学外にあまりに要職が多かったのか、学校では11年5月から12年9月まで理事を務めるが、11年から20年まで校長事務代理を置き平川仲五郎、小倉金之助などがこれにあたっていた。戦争を批判した著書が批判され18年小倉が学校を去った後は平川が終戦の混乱期、ストライキ、大学開設等を乗り越えている。大河内辞任の当日、平川仲五郎が第5代校長に選出された。東京理科大学125年の歴史の中で母校出身の校長は平川一人である。
 ちなみに大学の開設に当たって24年から東京物理学校校長は東京理科大学学長本多光太郎が兼ねることになり26年最後の卒業証書は本多光太郎の署名で出されている。
  戦争終結の際、校舎の一部を軍隊が使用、空襲時には罹災者を収容、大半の生徒が学徒動員と一時期正常な授業体制を失った学校は21年(1945)に入るとほぼ正常に戻った。21年度には毎週水曜日を休日として実験室を日吉の校舎を米軍に接収された慶応義塾大学工学部に使用させるなど便宜を与えている。その後混乱期を乗り越えた東京物理学校は急速度で東京理科大学へ向けて急ピッチで衣替えをしていく。
                                                     おわり

  激しいインフレの波が襲う中、大学設立基準を満たすため学校周辺の用地の獲得、校舎建設、図書館・研究室の整備、とりわけ体育設備を持たなかった大学はどの様にしてその場をやり過ごしたかなど表面に出ないなみなみならぬ工夫と苦労があった。
 その積み重ねが現在の東京理科大学が存在しているのだと思う。しばらく時間をおいて今では想像もできないような神楽坂で生まれた小さな大学の誕生の物語について触れてみたいと思う。


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2005/11/01

小倉金之助と物理学校

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連載(15)<2005/11/1>

小倉金之助と物理学校
 
  東京物理学校の卒業生で大学に進まず独力で学問をつづけ私学の卒業生としては日本で始めて理学博士となり、国際的に名が知れた数学者であった。さらに数学教育、思想家として百科事典にまで名前が載る小倉金之助の価値は当時としては想像に絶するものがあった。著書の数も極めて多く、小学校の教育現場に特に小学校教師に影響力を与えた大正13年刊「数学の根本問題」(玉川大学出版部から復刻)、昭和5年『思想』に発表した「階級社会の数学」は日本の科学史思想界を大きく変革するものであった。しかし、東北大、阪大に席を置いた小倉は助教授、教授など重要なポストから外されていた。小倉が帝国大学の出身者でなかったことに理由があるといわれている。

  小倉金之助は、明治18年(1885)酒田市船場町の回漕問屋、小倉金蔵の長男として生まれ祖父母に育てられた。鶴岡の荘内中学校を卒業直前に家族に無断で出奔、上京する。明治38年(1905)東京物理学校全科を卒業、東京帝国大学理科大学化学科選科に入学するが、39年祖父の病気で酒田に戻り生家の家業を継ぐことになった。しかし学究の念去りがたく家業を継ぐ傍ら物理化学を捨て実験を伴わず一人でも学問をつづけられる数学を選ぶことにした。
  小倉の学力と家庭の経済力からしても東京帝国大学に進学できるだけの条件が整っていたが何故東京物理学校を選んだか分からない。このことが東北帝国大学と大阪帝国大学の教授の席を得られないことになったが、これにより彼の反骨精神が国際的に知られた数学者に育てたばかりか数学教育から思想家まで広い分野で独自の世界を作り上げることができたと思われる。

  数学者林鶴一の指導で数学の研究を始めた小倉は明治43年再び上京して1年間、母校の講師に名を連ねる。この間、小倉の独学による研究は東京物理学校雑誌の38年から43年にわたり掲載されている。
  明治40年(1907)東北帝国大学が設置されるが、教授予定者が外国留学中などの理由で準備が遅れ、開学したのは43年(1910)ことであった。林からの誘いで小倉は物理学校講師から東北帝国大学の助手として移り林らの「東北数学雑誌」の編集を手伝いながら本格的に数学の研究に取り組んだ。
 
小倉金之助、東北帝国大学より学位、私学出身初の理学博士
 
 44年には東京物理学校の卒業生は外国語の試験のみで理学部に入学、無試験で選科に入学できることになった。  
  もと平川仲五郎理事長(明治41年全科)と黒須康之介(44年数学科)は明治41年母校を卒業している。平川と黒須が東北大で学んだのは小倉の助手時代である。東北大の大正4年第2回の卒業写真に3名が写されている。
  黒須が母校の教員になったのは大正4年、大正7年、8年には真島正市が教員として名を連ねる。真島は東北大で平川より1年先輩で真島は大正3年、平川は4年に卒業している。平川と真島のつながりは物理学校から理科大まで続き特に理科大時代は平川理事長と第2代学長真島のコンビで薬学部と工学部を開設している。そして野田キャンパスの黎明期を演出した。ちなみに初代学長本多光太郎は明治30年東大卒、大正1年東北大教授になっている。

  小倉は大正5年(1916)「保存力場に於ける質点の経路」で東北帝国大学がら理学博士の称号を授与される。当時東北大学には総長推薦による学位授与制度があり、これにより多数の学位が生まれたようだ。しかし、論文提出による博士は小倉金之助が最初であると同時に私学出身者として、また物理学校卒としても始めての博士であった。だが、小倉はすでに国際的に知られた数学者であり思想家であったが将来東北大では講師にも助教授になれる見込みはなかった。
 そこで、翌大正6年、前年塩見正治が塩見理化学研究所の建設資金100万円の寄付で新設された大阪医科大学と医大付属塩見理化学研究所の所員兼大阪医科大学予科の教授に招聘に応じることにした。(大阪医科大学と塩見理化学研究所は昭和6年大阪府の寄付で大阪帝国大学の医学部、理学部として開学する)
 第1次世界大戦でドイツから染料や医薬品などの輸入が止まりわが国の化学工業が危機にひんしたのを機会に多くの民間研究所が発足した。大正6年、理化学研究所が創立され、それと前後して塩見理化学研究所、北里研究所などが設立された。
 8年小倉は3年間ヨーロッパ各地を歴訪してフランスパリのソルボンヌ大学,コレージュ・ド・フランスに留学、帰朝後大正14年から塩見理化学研究所長、となり、昭和6年の大阪帝国大学の創立の際にはかなり尽力したが教授の選から外され勅任教授扱いの講師に止まった。当然理学部のトップの座と考えられたが第1代阪大総長長岡半太郎の反対にあったと言われている。当初研究所が大学の校舎として使用される時、小倉は何を考えていただろうか。

  冒頭にあるように小倉が数学だけで幅広く社会、歴史に至るまで探求した自由主義者であり著書は多くの人々に感銘を与えた。東北大の助手時代日本の数学教育の欠陥に気付き海外のすぐれた数学教科書を翻訳したが、フランス留学中特にこのことに痛感して、大正13年「数学教育の根本問題」を著し、数学教育の改造運動に大きな影響を及ぼした。特にわが国の戦争突入を真近に控え、昭和11年中央公論に発表した「自然科学者の任務」は台頭するファシズムに警鐘をならした。昭和12年(1937)52歳で研究所を辞して東京に戻りもっぱら著作の仕事に従事した。

  昭和14年5月、母校の理事長に選ばれるが翌年15年1月辞任する。しかし、15年11月に再任され、18年10月まで理事長に就任、校長事務代理を勤めた。大河内校長が多忙で昭和11年4月から20年12月まで学校では校長事務代理を置いている。
  だが、16年ごろから情報局の言論機関に対する圧力があからさまになってきた。「個人的に忠告」という非公式な要望というかたちで小倉は執筆禁止の状態になり失意のまま酒田寿町の正伝寺に疎開、さらに黒森の郵便局に疎開して終戦を迎える。18年小倉が母校 を去るについて想像に余りある。
  戦後ただちに言論活動を開始、「自然科学者の反乱(21年世界4号)」「自然科学者と民主戦線(21年中央公論5月号)」「科学発達史上における民主主義(21年自然6月号)」などを矢継ぎ早に発表して敗戦後の科学界の指標となった。21年から民主主義科学者協会会長、23年日本科学史学会会長、37年日本数学史学会会長を歴任し、同年77歳胃ガンで逝去。

東京物理大学の構想
          昭和15年(1940)紀元2600年記念事業として

 
  昭和24年東京理科大学設置の認可がおりた。同年2月20日、東京物理学校同窓会は理窓会と改称して初代会長に小倉が就任した。7月8日には財団法人東京物理学校が財団法人物理学園と改称され、さらに昭和26年になると私立学校法施行に伴って3月14日学校法人東京物理学園になった。小倉は再度、第13回理事として戻った(24年11月~28年3月)。ちなみに東北勢、本多、小倉(理事長)、平川、黒須の4名が理事に同席についている。

  昭和15年紀元2600年を記念して母校に大学を設置する計画が持ち上がった。母校の卒業生には向学心の旺盛の者が多く大学への進学希望者が多かった。しかし物理学校の卒業生には大学への門戸は閉ざされていた。唯一開かれていたのは明治40年に開校した東北帝国大学ぐらいで後は高等学校の卒業生でなければ入学できなかった。明治末期までに開学されていた帝国大学は東京帝国大学、京都帝国大学(明治30年新設)、東北帝国大学(明治40年新設)、九州帝国大学(明治43年新設)の4校であった。
 明治14年21名の東京帝国大学理学部物理学科の卒業生で始められた東京物理学校の生徒は全て東大卒の先生に教わることになったが、卒業生は決して大学に進学して学べない仕組みになっていた。当時大学といえば東京帝国大学が1校あるだけで、大学で学ぶためには高等学校から改めて入りなおさなければならなかった。吉田茂のように明治29年物理学校入学、30年学習院に移り、華族の外交官を養成する学習院大学に進むが37年廃止になり東京帝国大学に転入している。

  このように物理学校を足がかりに東京帝国大学に進学していった生徒に明治23年第7回卒業の建部遯吾(文学博士、昭和14年貴族議員に勅撰、第6、8、9回理事)がいるが、卒業後高等学校から入りなおしている。母校の卒業生が物理学校から直接大学に進学できるようになったのは前にも述べたように明治40年東北帝国大学の開学からである。開学と同時に平川、黒瀬、長尾譜志朗(大正8年~昭和12年理事)らとともに東北大に入学している。
  当時は東大と京大を除いて高等学校から東北大学に進む生徒は少なかった。物理学校の卒業生を収容できる余裕があったのである。それに加えて母校からの生徒は成績がよかったのであろう44年度から外国語の試験のみで入学が許可されるようになった。だが東北大学の志望者が年とともに増えるしたがい、物理学校の卒業生の入る余地は次第に狭められていくことになった。と言うことは実質上すべての大学の門から閉ざされることになったのである。
 母校の卒業生は大学に入れない以上独力で勉強をするほか手段が無かったのである。

同窓会は親睦団体と言うより研究組織だった
                   学内に大学の講座を開講する 


  昔から母校の卒業生は向学心が旺盛だった。同窓会の規約第1条にもあるように

「本会は東京物理学校の目的を體し理学の普及を助け併せて同窓の親睦を厚うせんとするにあり。会員は本校卒業生及生徒に限り毎月1回本校に集会して理学の関する維持員、講師、及び会員の理学に関する談話演説等を催し、毎月1回雑誌を発行して本会記事、論説、講義、雑録等を掲載し・・・・雑誌は当初『東京物理学校同窓会雑誌』と題し明治22年6月其第1号を発行す」と 同窓会自身親睦団体というより研究組織だったようだ。
  明治26年「10月、生徒の有志者70余名、学習院教授森則義を聘し、毎週3回本校内に於て仏蘭西語学を修む」と50年小史に残されている。
 
  明治38年12月攻学会を結成している。東京物理学校雑誌明治39年2月号に

「昨秋東京物理学校同窓会大会の席上にて三守先生より時々同窓の有志相会して談話講演等の方便により知識を交換し兼て交情を親密ならしむるやうなしては如何との説を述べられたるに基づき客年12月10日有志者25名物理学校に会しこゝに攻学会なるものを組織し去る1月14日(第2日曜)午後始めて其例会を開きたり」とある。
 
 明治41年9月、同窓会員中の有志が何人か集まり、学校内に高等予備講習会という受験科つまり予備校を開校した。大正5年、高等予備講習会は高等受験科として学校に吸収されたが大正9年に廃止された。東北大に向けての母校の受験対策だつたと思われるが高等学校から大学を目指す者が増え始め次第に専門学校など傍系から大学に入るのが困難になってきた。
 この年大学令により始めての私立大学として慶応義塾大学、早稲田大学が設立認可されると明治、法政、中央、日本、国学院、同志社の各私立大学が続いた。昭和元年までに20の私立大学が認可されている。
 
専攻科で大学進学の夢を果たす
 
  昭和5年度から修業年限を2年の帝国大学理学部程度の学術を修める専攻科を置き、数学、物理、化学の3科を設置することにし、とりあえず数学科から開講した。7年に第1回生として7名が卒業を出し、10年には高等教員検定試験の合格者2名を出している。さらに同年研究科を新設するが19年専攻科は研究科統合、修業年限が1年に短縮されるが24年理科大学が設立されるまで大学レベルの授業を続け大学設立の足がかりとなった。
 
 これについて「東京物理学校同窓会会報14号」には次のように書かれている。
 「正規の系統を履まずに数学の蘊奥を学ばんとする人々にとって此の専攻科こそは全国唯一の機関であろう。・・・数学を1歩進んで研究せんとするも、帝大数学科は門戸を堅く閉ざして、現在は聴講の制度すら廃止せられ、空しく希望を抱いて長嘆するのみであったのであるが、此の専攻科の設置によって充分と迄と行かずとも、相当の満足を得られることになったのは、実に吾等の甚だ愉快とするところである」
 いずれにしろ卒業生の大学進学の夢は閉ざされていたのである。
 
文部省が卒業生の大学進学を54名に制限
             「自分たちの大学を作ろう」の機運起こる

 
  昭和4年東京工業大学が設置されると、ここは物理学校の卒業生を受け入れてくれるとあって、かなりの数が受験、それなりの入学生を見た。しかしこの問題について他所から苦情が出ることになった。「高等学校の卒業生を押しのけて入ってきては困る」に対して昭和16年10月14日、文部省は通牒で物理学校の卒業生のうち大学に学部に入学志望できる人数を54名以内にするという制限を設けてきた。
 10月16日、戦時中の措置で大学、専門学校などの卒業を6ヶ月短縮することに決定、母校でも12月525名を卒業させた。つまり大学進学志望者は卒業生の10パーセントに制限されることになった。このように卒業生の大学進学の道が閉ざされるなら、いつそ物理学校を大学にしてはどうかという機運が具体的に盛り上がっていた。
 昭和15年(1940)紀元2600年記念事業に「大学設置」を目標にすることに学校、同窓会が決定した。戦後、紙がない時代「大学設置趣意書」の裏側を試験用紙に使ったことがあるが[東京物理大学]と印刷された文字を見た。関係者に配布された残りか、配布を予定していたか分からない。
 準備は着々と進められ昭和17年府中町国分寺に大河内校長の寄付4万円の資金援助もあって大学予科設置を予定して約6万平方メートルの敷地を購入した。この土地は理科大のラグビー部が練習や試合の会場に使用していたが昭和33年東芝に売却して、野田の土地2万6466坪(8万7491平方メートル)を購入している。
 また昭和18年に八王子市中野町に大学予科校舎に当てるため戦争で廃業した機織工場用地を建物付き約700坪(約2500平方メートル)を購入した。建物は手入れも殆どなされぬまま昭和21年から開講した農業理科学科が一時使ったようだが,学生が神楽坂に戻ってきた後は学生が宿舎に使っていたようだ。
 大学設立の準備が着々と進められ19年大学設置認可申請をするまで漕ぎつけた。もう1歩のところで戦争が厳しくなった理由で国の方針として新規事業は取りやめと不審議にされてしまった。

 母校は戦後21年八王子の郊外に約8万900坪(約16万3000平方メートルの土地を入手している。周囲を関東山地で囲まれ見渡す限り遮るものはなく、なだらかな平地が続いていた。もともとは農地で地主が「物理学校が大学を作るなら学校用地として使って欲しい」と寄付を申し出たものらしい。地主にしてみれば農地解放で失われてしまう土地なら学校用地にという思惑があったのであろう。学校では新設した農業理科学科の教室と実習場を予定していた。そしてこの土地を拠点に戦時中、中止になった東京物理大学の設立の夢を託した。しかし、23年、自作農創設特別措置法(第2次農地改革案)(昭和21年10月11日衆議院成立)により強制買収されてしまった。
 このようにして敗れ去った大学設立の構想は、昭和22年来日した第1次米国教育施設団の勧告による教育改革、いわゆる6・3制が始まることになり、殆どの専門学校が新制大学に改変されることになり東京物理学校も本多光太郎を学長に東京理科大学として生まれ変わった。昭和24年4月1日のことであった。
 東京物理学校の生徒を募集したのは昭和23年度までだった。この年入学した生徒は24年に開学した東京理科大学の1年生として再度入学したが、大学進学を希望しない者は2部の数学科と理化学科に集約され物理学校の2年生に残った。24年の物理学校の卒業生は編入試験を行い大学3年になった。

  こんな訳で校舎内は角帽姿の大学1,3年の学生と、丸帽姿の物理学校1部3年生と2部2、3年生とが混在することになった。今ではどの大学でも角帽姿は全く見られなくなったが理科大の角帽は東大型で理大の漢字を隷書にした校章を付けていた。開学当時は珍しいのか角帽を被る学生が目立った。
  25年になると大学3年に物理学校の卒業生が転入して1~4年生がそろい最後の物理学校2部の生徒が3年生になった。そして26年3月10日、東京物理学校最後の第100回卒業式、3月31日には東京理科大学第1回卒業式が行われた。このようにして東京物理学校70年の歴史に幕を下ろした。
  ちなみに21年から開校した農業理化学科は八王子の農地が23年農地改革で強制買収されることになり実習場を失うことで25年廃止された。24年と25年の2回の卒業生を出すに止まった。23年の入学生は24年大学の1年生に入学した。

東京物理学校応用物理学科・応用科学科・農業理科学科
          廃止直前で教員免許無試験検定指定校認可試験を受ける


 戦後焼け野原になった都会にも人々が戻り学校が再開され、新学制63制が実施されると日本中の市町村で教員の採用が目立って増えた。戦争後の不景気の中で母校の卒業生にとっては良い就職口であった。だが数学科と理化学科以外の卒業生には教員免許状の無試験検定の認定がされず、応用物理学科、応用科学科、農業理科学科の生徒から免許状取得の要望が多く出された。 
 卒業試験も終わり率業式を目前に控えた25年2月13日、「平均点が合格すれば全員が免許状がもらえるから1点でも取るように頑張ってほしい。就職の決まった生徒も他の生徒を助けるつもりで真剣に受けてくれ」と廊下に並んだ先生に励まされて試験会場の講堂に入った。ここで不合格になったら実力を標榜していた物理学校の世間に対するいい恥さらしと学校の名誉がかかるだけに真剣だった。
 試験監督は文部省の役人で「教員免許無試験検定指定校認可試験」が無事終わり25年以降の卒業生が免許状を取得で来るようになった。と言っても25年の後には卒業生は出ていない。

戦中戦後にかけての物理学校事情              
 
 昭和の初めから教員の就職難の被害をまともに受けた母校であつたが、昭和6年満州事変を境に卒業生が教員から工場の技術者として進出する者が目立って増え解消されていった。技術者の養成を目指した応用理化学科(応用物理、応用科学)は勿論のこと、理化学科の卒業生までも引き手あまたの状況であった。昭和13年「会報」の第97号に当時の模様を「昨年度迄は就職者が大凡卒業生の3分の1か良くて2分の1でありましたが、本年度は1人残らず全部決定し殊に応用理化学部の如きは昨年11月中に全部決まり、芳しくない口は御断り申上げてゐるといふ有様であります」と記載されている。
 この時代を振り返ると、首都圏には国立、私立共に理工科系のある大学は東大、工大、藤原工大(後の慶大理工学部)、早稲田大があったが、専門学校は不思議なことに母校を除いては皆無に等しかった。国立の高等工業は近くでも横浜で、あとは浜松、桐生と離れていた。戦争が苛烈になるに従い軍需工場が拡大し極度に技術者が不足していった。
 
物理学校が徴兵のシェルターになった   
 
  昭和16年12月ハワイ真珠湾の空襲で開始された太平洋戦争は日本軍の連戦連勝かに見えたが翌17年6月、半年たつや経たずのミッドウェー海戦で空母4隻を失い戦況に影を落とし始めた。昭和18年に入るとガタルカナル島撤退、アッツ島玉砕、と連合軍の攻勢に日本軍は戦線の縮小を迫られていった。
  戦争が激しくなるにつれ政府は17年より大学、専門学校などの修業年限を6ヵ月短縮の決定にあわせ母校でも卒業を6ヵ月繰り上げた。
  昭和18年10月12日、政府は戦争遂行上技術者を養成する目的で文科系の大学にも理工科系の専門学校を併設させ、技術系の各種学校は全て専門学校に格上されるという措置を講じた。さらに理工科系と教員養成校を除く全ての学校は徴兵延期の措置を停止され、文科系の学校の生徒は21日、明治神宮外苑競技場で雨の中行われた「出陣学徒壮行会」を皮切りに続々とあきらめに似た複雑な心境で戦場に赴いていった。
 これらのことを予期してか昭和17年母校の入学志願者は第1部5495名、第2部3680名に達した。
 18年までは何とか無試験入学制度が続けられたが翌19年2年生の進級時に進級のほか各科原級を200名に制限され残りが放校処分にされた。放校処分された者にはただちに徴兵が待っていた。
 この年の6月「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、6月から生徒の一部が東京陸軍造兵廠大宮製造所に動員され風船爆弾の研究開発を行っている。しかし終戦までの詳しい動員体制については明らかでないが、あまり動員には協力的でなかったようだ。
 その様な中でも2部の授業は続行されていた。動員されている生徒を夜間集めて授業を行った教師もいたと言う話がつたわる。

 19年に入ると戦争が一段と厳しさを増し6月のマリアナ沖海戦で日本海軍の空母、航空機の大半を失い太平洋の制空権を失った。日本軍は転戦先で完全に孤立無援の戦いを強いられた。7月の東条内閣総辞職で、はっきりと勝敗は明らかになった。
 この年から無試験入学制度に目を付けていた文部省は入学定員と入学試験の実施を学校に指示した。学校では数多く集まった志願者を書類選考で合格者を決めた。無試験入学の伝統のこだわりだったのかも知れない。新入生には学徒動員が待っていた。2年に進級すると、どうせ軍隊に行くのならと手当ての貰える陸海軍の科学研究要員になった方が得とばかり依託学生を志願する者も増えた。
 20年には日本中全ての学校で入学試験が取りやめになり入学者を書類選考に拠った。東京物理学校で他校と同じように入学試験が実施されたのは昭和21年からである。
 
「何の因果か知らないが高等学校に見捨てられ、泣く泣く物理に入り来て・・・」すーちゃん節に唄われたように、戦争が厳しくなる中で、高等学校の入試に失敗した者が再度の希望を物理学校の無試験入学、徴兵延期の制度に身を寄せた。だが戦争末期になり文科系学校の徴兵延期制度が中止になると戦争が終わるまでの徴兵のシェルターとして文科系はもとより芸術、音楽系希望の生徒まで物理学校に入学してきたことも事実である。中には華族から政府高官の子弟まで物理学校には似合わない生徒まで在籍していたと聞いている。戦争が激化する中、アングラで仲間が集まり美術、音楽、文学が息づいた瞬間でもあった。
  戦争が終結すると彼等はそっと学校を去り、軍隊から復員した学生が教室に戻ってきた。

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2005/10/01

専門学校第1回卒業式、卒業生より多い来賓

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連載(14)<2005/10/1>
 

  維持員は同窓会と協議の結果、東京物理学校を財団法人にして同窓会が存続経営することに決定した。二者は土地、建物、器具、図書などすべての学校財産を5万5000円と評価した。そのうち同窓会が寄付した金額と新たに維持員が寄付した金額を控除して残り2万2000円を維持員に支払うことに取り決めた。
 支払いは大正4年から始まり5年間を費やし完了した。このようにして東京物理学校は大正4年5月26日文部省の認可を受け維持員の手を離れ財団法人にして同窓会が経営することになった。
 
専門学校の第1回入学生は269名、3年後無事に卒業したのは15名
 
  大正6年4月、同窓会は東京物理学校を専門学校に組織替えして財団法人東京物理学校校長に中村精男、主事に桜井房記を選んだ。この年新たに発足した専門学校には本科、高等師範あわせて269名が入学した。入学資格は中学校卒業程度とし入学試験は行わなかった。
 専門学校は従来の3年6学期制を3学年制に改め、大正9年3月専門学校として始めて第1回の卒業生を出す。記録によると高等師範科の卒業生は15名だったことからも進級は相変わらず難しかった。

臨席した有名著名人の来賓の数は卒業生より多かった

  3月28日に行はれた第67回(専門学校第1回)の卒業式に出席した来賓は次の通りであった。菊池大麓(理化学研究所初代所長)、辻新次(日本教育学会初代会長)、浜尾新(帝大総長)、桜井錠ニ(東京帝国大学理科大学長)、久原躬弦(学士院会員)、中川元、山川健太郎(東大総長)、藤沢利喜太郎(学士院会員)、渡辺洪基(帝大総長)、高松豊吉(稿本化学訳語集の編者)、杉浦重剛(東宮御学問所御用係)、田中館愛橘(学士院会員)、村岡範為馳(算術教科書著作者)、木下広次、長岡半太郎、大森房吉(地震大森公式の発見者)、平山信(小惑星の研究者)、田中正平(邦楽の5線譜化)、高山保綱、隈本有尚、池田菊苗、鶴田賢次の諸氏が列席した。[役職名は卒業式時点とは必ずしも合致しない]

  とくに前回明治39年、創立25周年を兼ね神楽坂新校舎落成の記念式の来賓(前回記載)と、第67回卒業式の来賓名を列記したのは、母校を現在に見る総合理工科系の大学の基礎を作ったと言うべき第4代校長大河内正敏を迎える人脈があったと考えられるからである。これについてはあとで詳しく触れる。
 卒業式に列席した学校職員と来賓の数を加えれば卒業生の数をはるかに上回った。この年を境に昭和4年まで卒業式を中断する。理由は明らかでないが大正8年から銀時計下賜と卒業式を廃止した東京帝国大学に習ったのではないかと言われている。
  この間の,本科、高等師範科他入学した生徒、在学生の数は次の通り。

          予科     本科・高等師範科
         (1年制) 1学年  2学年  3学年  聴講生  計
 大正 6年    54名  269名           25名  586名
    7年    45名  331名  42名      18名  656名
    8年    52名  325名  84名  20名  8名  665名
    9年   164名  403名 111名  47名 23名  807名
    10年  286名  534名 111名  69名 29名 1047名
    13年  453名  928名 140名  59名 34名 1614名
    14年  477名 1410名 171名  92名 38名 2188名
    15年  648名 1540名 209名 112名 41名 2550名
 昭和 2年  583名 1742名 212名 138名 32名 2707名
     3年  446名 2014名 256名 130名 38名 2884名
     4年  448名 2170名 284名 156名 39名 3097名
     5年  311名 2197名 297名 194名 41名 3071名
         計には別科(大正10年廃止)、専攻科(昭和5年開始)の数を含む 
                              (50年小史による)

     大正6年入学志望者が1000名を越え200名の入学を断る
     12年1部(昼間部)を作って生徒増問題を解決   
          
  上記の表からも分かるように、専門学校になってからの生徒増は著しい。神楽坂に移転した明治39年から専門学校に組織替えをした大正6年までの生徒数は大体400名を推移していた。ところが大正10年には在籍が1000名を越えることになり、校舎に収容できず入学生を200名断るという事態が生じた。
  もともと物理学校は2部つまり夜学を主体とする学校であったが、大正12年から昼間部1部を作って入学生の増加に対応した。数字だけで読み取ると1部が出来た大正12年から生徒数が増えている。生徒数は大正の終わりから昭和にかけてざっと7倍以上に膨れ上がった。
  入学生の増加は教員志望の学生が多かったことにもよるが、授業料の安かった点が上げられる。中学校の教員を目指す昼間の勤めを終えた小学校の先生や勤め人が夜間勉強に集まったのである。
  だが大戦後のインフレは授業料を月額2円50銭(大正8年)から5円(大正12年)まで2倍に押し上げてた。生徒数が多く「落第生が学校を支えていた」と悪口を言う輩もいた。
 幸いなことに関東大震災、空襲にも校舎の炎上が避けられ、2回にわたる東京が焦土と化した中で学校が続けられたのも幸運だった。
 いずれにしろ生徒増は学校の経済を豊かにして、徐々に周辺の土地、建物を買収して昭和11年、旧1号館が完成したときは明治39年神楽坂に移転した当時の規模(敷地面積340坪、建築面積226坪)を大きく上回り(敷地面積1178坪、建築面積624坪、4階建て1部5階延2291坪)になっていた。
 
戦局の悪化を理由に昭和19年文部省の指示で無試験入学制度を廃止
 
  母校の特色、無試験入学と徴兵延期の制度は、満州事変から太平洋戦争までわが国が軍事色を強める情勢の中でも続けられた。軍需産業の台頭で理数科の人気と徴兵を避ける志願者で入学願書受付けの朝、校門の前には長い行列が出来る有様で生徒増に益々拍車がかかった。
 この加熱ぶりに戦局の悪化を理由に、昭和19年文部省の指示で無試験入学の制度が廃止され入学定員を1部400名、2部250名と定め入学試験を実施した。開学以来の無試入学験制度はここで終了することになった。
 
そのころの東京物理学校の置かれた時代背景

  大正3年7月、第1次世界大戦が始まると欧州諸国の経済は一時麻痺状態に陥り、遠くヨーロッパから離れた日本でも様々な影響を受けることになった。為替相場が混乱し、海運の不安から輸出は止まり主力の生糸は3割も暴落する有様であった。一方、欧州からの染料、薬品などの輸入品が品薄になり逆に暴騰し染色会社などは打撃を蒙った。
  ただでさえ日露戦争後の不景気の世の中、さらにこれらの影響を受けて各地の銀行で支払い停止の銀行が出てきた。
  しかし翌4年の後半になると欧州に向けての軍需品の輸出が増え、戦争景気の米国への生糸の輸出が好況になった。さらに戦争でストップしていた欧州から中国、インド、東南アジア、遠く豪州、南米に向けた輸出品に代って日本の商品が進出すると同時に海運界も引き手あまたの状態だった。
  5年~6年にかけて企業は高収益を上げるにいたった。しかし労働者の賃金は物価高の追いつかず、インフレは常に生活を脅かした。大正3年の物価指数を100とすると7年には202、賃金指数は同年153と差を大きくしている。
  大戦中の産業の発展は都市に人口を集中させ、好景気で労働者が都市に集まった。だが大戦後、巨額な利益を上げた者の多くは戦争の波に乗った投機的なもので、戦後の恐慌には一たまりも無かったのである。
  大正7年、大学令が公布され公私立大学の設立が認められると、私立の専門学校が大学に昇格するものが多く大学生の数が増えていった。大学生の増加は年とともに中学から専門学校、大学へと順に下の学校の入学者を増加させる結果になった。
  その様な時代背景の中で、東京物理学校は大正4年維持員から同窓会が経営する財団法人に改組し、6年には専門学校になった。
  しかし、大正の終りから昭和の始めにかけ日本中に吹き荒れた恐慌により、昭和2年、小津安二郎監督の映画「大学は出たけれど」題名が流行語となったように就職難を迎えることになる。大学を出て実際に就職できたのは65パーセント位だったという。だが、進学率は衰えを見せなかった。
  昭和の初めまでにわが国では人材の登用には学歴が尊重される慣習が出来上がっていた。国民の誰もが高学歴を望むようになっていた。これにともなって大正5年(1916)から15年(1926)にかけて中等学校の生徒数は2倍以上に増え、特に女子においては3倍以上に達した。
  大正6年に母校が専門学校に組織替えしたときは、中等学校の教員養成という学校であり教員の求人も多かった。就職難を尻目に教員の採用は比較的順調だったのである。教員志望者も多くこの意味では母校はラッキーだったと言えよう。やがてそれも昭和になると学校数も頭打ちになり卒業しても教師の口を探すのが難しい時代が来ることになる。
 
大正5年~15年の学生数と学校数の増加
 
          大正5年(1916)       大正15年(1926)
 
 種別       学校数  生徒数      学校数  生徒数
 中学校       325校 147467人    518校 316759人
 師範学校      92   26307      102   48647
 高等女学校    229   80764      662  299463
 実科高等女学校 149   21168       199   26745
 実業学校     568   99714      853  233433
 専門学校      90   42430      139   73909
 高等学校       8    6346       31   18107
 高等師範学校    4    1676        4    2719
 大学           4    9705       37   52186
                     
                    大学の生徒数には大学院予科を含む。
                    『学制百年史資料編』(1972)より
 
 昭和5年刊「東京物理学校50年小史」の最後のページに昭和5年までの母校の卒業生の職務状況表が示されている。

     職務          生存者      死亡者       計
教育者 大学及び専門学校   70       10        80 
    中学校           1011       45      1056
    その他            30        3        23
官吏                206        3       209
実業家 保険関係         79        2        81
    銀行及会社         77        6        83
自営                  66        2        68 
官営に在らざる研究所      28        -        28
その他                 9        -         9  
不詳                 71       170       241 
計                 1637       241      1876

 実に50年間の卒業生1876名のうち不詳241名を除く84パーセントが教育者と官吏になっている。保険、銀行、会社、民間の研究所など企業に就職した者は12パーセントに過ぎない。 
  だが、昭和2年3月15日大規模な金融恐慌が勃発した。その前日、14日の3時頃衆議院予算総会で『震災手形』の処理問題で質問に立った野党政友会の吉植庄一郎代議士の答弁にたった大蔵大臣片岡直温の「渡辺銀行」の破綻の公言から始まった。
  別に片岡蔵相の失言で金融恐慌が起きたのではなく、前々から多くの銀行では経営状態が極めて悪くなっており何時破綻しても可笑しくなかった。4月に入ると鈴木商店の破産で台湾銀行が休業に追いやられ若槻内閣がたおれ銀行界は全国的な大混乱に落ちいった。巷では相次ぐ倒産で失業者は町に溢れ、各所で労働争議が続き、それでも比較的恵まれていた教員希望者にも刻々と就職難が押し寄せてきた。
 
             東京物理学校年度別卒業者数
          卒業生数             卒業生数
    大正2年   31名       昭和2年   74名
      3年   44名         3年  110名
      4年   45名         4年   99名
      5年   32名         5年  123名
      6年   31名         6年  135名
      7年   35名         7年  166名
      8年   27名         8年  140名
      9年   31名(専門学校第1回卒業式)
     10年   51名         9年  216名
     11年   37名        10年  175名
     12年   48名        11年  203名
     13年   53名
     14年   45名
     15年   71名(1部,2部卒業生)

  昭和9年の就職状況を見ると同年の卒業生は開校以来最高の216名を送り出した。しかし、その大多数が高等師範部の生徒であり2~30名の卒業生が教員としての職を得えられなかった。つまり過剰な教員希望の卒業生をだすことになったのである。ちなみに9年の就職状況を見ると
      
             卒業者数  教員就職者  その他就職数
       数学科   104名    28名     44名
       理化学科  104名     9名     73名

この数から見ても教員になる者の数が極めて減っている。教員にならず技術者として他の職業を探すにも不景気な時代困難を極めたのである。
 
教員養成校だけでは立ち行かなくなった東京物理学校
                         新たな方向を求めて

 
  さらに追打ちをかけるように昭和5~6年になると、税収の上がらない市、町、村では給料の値下げ、未払いの出るところまで現われ、新卒の採用どころでなかった。卒業生の大半が教員、官吏でしめる母校では卒業生の就職に頭を痛めることになった。
  私も中学生時代この不況時代教師になった先生から授業の中で「教師になるのにしばらく市電の仕事をしていた。数少ない教員になるのには競争が激しく、給料も引き下げられていた」という話を聞いた。教員養成校として年毎に生徒数を伸ばしてきたが、教員需要は年毎に減り卒業しても教員の就職口は無く不景気の中教員以外の職業を探す有様に母校と同窓会はジレンマを感じていた。

  昭和2年4月、時代を察知した東京物理学校同窓会では人事部を設置した。人事部には部長1名、常務委員3名、人事部委員5名を置き、各支部には委員1名を置いた。部長には東京物理学校校長を推し、委員は部長が選出した。常務委員には幹事が当たった。人事部は同窓会と連絡を取り合って卒業生の状況を調べ就職に参考となる資料を備え、常時就職の斡旋が出来るよう便宜を与えるものであった。目に見えてきた同窓の教育界への教員就職難に対応するものであった。
  同年7月に新たに年4回同窓会報(6,9,12,3月)を発行して会員全員に配布する。もともと同窓会には「東京物理学校雑誌」という機関誌があったが内容が学術的で、同窓相互の厚情を図るようなものではなかった。新たに企画された「同窓会報」はそれまでと異なり論説、母校の記事、会員の動静、詩歌、俳句、所感に至まで同窓の関係を密にする企てを図るもので、不景気と卒業生の就職難は同窓の絆を深めるものであった。昭和6年6月号の会報(14号)より季刊であった会報が月刊になっている。
 
昭和5年、中村恭平は維持員最後の校長、同窓会長も兼ねる
                                                     
  昭和5年、初代校長寺尾寿の後を継ぎ明治29年から第2代校長を勤めた中村精男が死去した。維持同盟者21名の内生存者はすでに中村恭平、三守守、玉名程三の3名を残すのみになっていた。
  東京物理学校同窓会は昭和5年1月7日、第3代校長に中村恭平を委嘱した。
 
 財団法人東京物理学校寄付行為
 第8条 理事及幹事は東京物理学校同窓会之ヲ選定シ・・・・・
 第9条 理事ハ教務ヲ教務ヲ処理セシムル為メ校長主事其ノ他ヲ委嘱スルコトヲ得
 
  この年、昭和5年母校は創立50周年を迎えた。10月17日、午前中亡くなった東京物理学校創立者以下教職員276名の追悼式を神式で行い、午後は閑院の宮臨席のもと東京物理学校50年式典が行はれた。式のあと内閣総理大臣代理橋本伯、文部大臣田中隆三、東京府知事牛塚虎太郎、東京市長代理、来賓代表山川健次郎らの祝辞があり、田中伴吉の「ヴイタミンBの主体に就て」の講演で記念式を閉じた。
  記念式典は3日にわたって行われ、2日目は丸の内報知講堂で記念講演会、3日目は生徒の祝賀会が同講堂で余興や菓子が配られるなどして開かれた。
  なお、10月14日には天皇より金5千円が下賜されている。
 
昭和12年11月6日維持員玉名程三の死去で維持同盟員の全てを失う
 
 昭和7年1月22日、同窓会長三守守死去にともない、同窓会長は中村恭平が兼ねることになった。しかし、昭和9年1月21日第3代中村恭平死去で、同窓会長と校長を同時に失うことになった。規則によれば同窓会長と校長は維持会員のただ一人の生存者玉名程三になるはずだったが、取り敢えず、理事の田中伴吉が校長事務取扱をつとめた。東京物理学校同窓会規則によれば同窓会長は維持会員が推薦されることになっていた。
 
 東京物理学校同窓会規則
 第5条
  1、名誉会員トハ左記各号ニ該当スルモノニシテ本会ニ於テ推薦シタル者ヲ云フ
    (イ)東京物理学校創立者
    (ロ)特ニ本会ニ功労アリタル者
 第13条 会長ハ名誉会員中ヨリ之ヲ推薦ス
 
  玉名程三は維持員であったが京都に在住して東京物理学校には創立が8年間教鞭をとった以外は学校に就任した経歴は無く高齢でもあったことが理由と考えられる。昭和12年11月6日の死去で母校の創始者維持同盟員の全てを失うことになった。
 
卒業生が教員に代って産業界の進出が目立つ   
 
  前にも触れたように、昭和の初めから卒業生の多くが教員に代って、陸海軍や官民の研究所、軍需品工場を中心に精密機械工場、化学工場等に進出する者が次第に目立ってきた。だが、理数科の基礎知識は叩き込まれたが、もともと教員として養成され技術者としては応用能力に欠ける面が指摘された。
  中村恭平校長死去にあたって母校は2つの大きな課題を抱えていた。1つは極端とも言える生徒増に対応するため校舎の増築問題と、2つは、教員の就職難を解決すべく新たな卒業生の進路先の開拓を積極的に進めることだった。それには教員養成を目標においた従来の学科を、技術者の養成に向いた教科になおす必要があり、つまり時代が要求する技術者を生み出す新たな学科を開設することが急務だった。
 
初めて学外から学校長を招聘
          依頼するなら実力者理研コンツエルン創始者大河内正敏に 
 

 昭和9年1月21日、中村校長死去のあと財団法人東京物理学校理事の田中伴吉が当座校長事務取扱をつとめ、理事会は各方面から意見を聞いて第4代校長に理研の所長、工学博士子爵大河内正敏に依頼しようと決定した。それまで大河内は母校とは何の縁も無く、学校の記念日や卒業式の来賓にも名前さえ無かった。大河内は明治36年東大造兵学科を銀時計組で卒業、44年33歳で東大教授、寺田寅彦と同年である。大正10年に理化学研究所(理研)の第3代所長になった。

 大正4年、大隈首相が理研の創立を決定、いわゆる半官半民の研究所として理研が創設されたのは6年のことであり初代所長は菊池大麓、副所長は桜井錠ニが任命された。大麓が5ヶ月で死亡、古市公威が2代目を継いだが理研が実質的な活動を展開するようになったのは大河内所長になってからといってよい。在職期間、博士を150人、教授・助教授を100人を育てた。理研発展の裏で活躍したのは桜井錠ニと言われている。
 大河内が第3代理研所長になったのは山川健太郎の推薦による。大河内の画期的な手法は理研で開発研究したものを製品・商品化して利益を研究に還元すると言うものであった。
 理研のビタミン、理研の合成酒、理研のピストンリング、桜井錠ニの息子季雄の発明になる理研の陽画感光紙、理研のアルマイトなど、大河内の業績は理研コンツエルン約60社の創業であり日本の産業に果たした役割は大きい。大河内について書かれた書物は多いが何故か東京物理学校の校長だったことが記載されたものは皆無と言ってよいだろう。

  大正10年、大河内が理研の所長に就任した当時、所員はわずか100名に過ぎなかった。11年から主任研究員制度を採用主任研究員に長岡半太郎、池田菊苗、鈴木梅太郎、本多光太郎、真島利行、和田猪三郎、片山正夫、大河内正敏、田丸節郎、喜多源逸、鯨井恒太郎、高峰俊夫、飯飯里安、西川正冶の14人を当てるなど改革した。
  5年後に所員は400名にまで成長し、13年には大河内は寺田寅彦を理研に呼び、真島正市も参加し、真島利行、田丸、寺田は母校の教員だったこともある。神楽坂校舎の落成式の来賓、山川、菊池、真島利行は理研の関係者、専門学校第1回の卒業式の来賓には理研の主任研究員になった者が多い。こんなことから理研の関係者と東京物理学校とは密接な関係にあり、本多と真島正一は理科大の学長になっている。
 
仕掛け人は平川仲五郎と真島正市というが   
            全く面識も無い大河内に誰が校長を依頼したのか


  私が物理学校の学生時代、何回か先生から「仕掛け人は平川仲五郎と真島正市だった」と聞いた。真島は平川の東北大1年先輩で、真島を母校の先生に連れてきたのは平川であったと言われている。東京物理学校を教員養成校から技術者を育てる学校に脱皮させるためには経済方面に明るい大河内をおいて他にはないと白羽の矢を立てたのだった。
  話だと始めての会見は門前払い同様だったらしい。物理学校に関係の深い理研の先輩の口添えがあったと推測される。再度に渡る平川らの「これからの研究・技術者を育てくれないか。学校の経営は全て任せる」の説得に応じることになった。
  同窓会主催の大河内校長歓迎会の中で大河内は次のように所信を述べている。

――今日の産業は昔のやり方とは全然趣を異にし、少しでも理学を余計に取り入れた方が産業戦の勝を制するのであります。即ち理学を根底とした産業は生産費を低減するので、良品を安価に提供することが出来るのであります。
 実際工業に従事する技術者に理学の素養深い人が入るといふことは非常に重要な事であります。本校が率先理学の教育を施して、その普及を図り、今又時代の要求に応じて一部の者には応用方面の教科を課するといふことは、国家社会にとって最も必要なことと思うのであります。――

 大河内の学校経営の方針の一端が表れている。 そして、昭和9年4月2日第4代校長大河内正敏を迎えることになった。維持員に変わって外部から校長を迎えるのは開校以来始めてのことだった。
 
教員養成校から技術者養成の学校に脱皮
             鉄筋コンクリート校舎と応用理化学部の設置
      

  第4代大河内校長の就任によって、前々から懸案になっていた生徒増による校舎の拡張問題、教員の就職難を緩和する方策として卒業生の進路先を産業方面に向ける技術者の養成手段がここで矢継ぎばやに解決することになった。
  昭和10年校舎改築に当たって木造建築の意見があるなかで「これからの学校建築は鉄筋コンクリートでなければいけない」の大河内の主張が通ったと聞いている。工事は11年6月から始められよく12年10月に竣工した。旧1号館である。同月18日、来賓700名、生徒3000名が参加し校舎新築落成式が行われた。
 昭和10年1月18日には応用理化学部に設置認可がされた。応用理化学部設置の構想には大河内の主張がかなり入れられているという。4月より応用理化学部のうち「物理学を主とするもの(応用物理学科)」、翌11年4月「化学を主とするもの(応用化学科)」の授業が開始された。
 昭和12年7月7日、北京郊外の盧溝橋で起きた日中両軍の衝突は太平洋戦争まで広がりを見せ、皮肉にも卒業生は技術者として拡大する軍需産業を中心に進出して行った。

  第8回理事会長には大河内正敏が選ばれ、理事に平川仲五郎、真島正市らがメンバーに入った。始めて同窓会の外から理事が参加した。大河内が学校長に就任した翌年の昭和10年、応用理化学部が設置され、昭和11年5月から12年9月まで学校長と理事長を兼務した時代は旧1号館が竣工した。


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2005/09/01

神楽坂校舎開校

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連載(13)<2005/9/1>
                                           神楽坂校舎の開校

  明治39年9月29日午後2時より、神楽坂校舎で新築落成式をかね本校創立25周年の記念式典を行った。同年11月3日発行の東京物理学校雑誌(180号)には東京物理学校創立満25年、新築落成記念号に当日の模様が詳しく記載されている。
  式は午後2時にはじまり、冒頭中村精男校長より新校舎落成並びに創立25年を迎える祝辞と校舎建設の募金に協力した卒業生に対する感謝の言葉が述べられた。次いで同窓会と卒業生を代表して山下安太郎の挨
拶があった。来賓挨拶には加藤弘之男爵(明治10. 東京大学法理文綜理)、田中舘愛橘博士(大正14.第1回貴族院帝国学士院会員議員)は祝辞に代えてラジウムの実験を公開して式が終了した。
  当日の来賓は上記2人のほか菊池大麓男爵(理化学研究所初代所長)浜尾新東大学長、沢柳政太郎文部次官、藤沢利喜太郎、長岡半太郎、本多光太郎、田丸卓郎、桜井、高松、平山、池田等の諸博士、学士など理学に関係ある名士、同窓会員と卒業生をあわせて500名余が参集したとある。桜井は桜井錠ニ、池田は池田菊苗のことだと思う。
  桜井錠ニは維持員桜井房記の弟で東大在学中英国に留学、有機化学者A.W.ウィリアムソンの指導を受け、帰国した翌明治15年東大の教授となり退職するまで多くの優れた科学者を育てた。早くから理論化学の重要性を指摘した。研究として有名なのは門弟味の素の発明で知られている池田菊苗と共に溶液の沸点上昇の測定ベックマン法の改良で知られている。菊苗は漱石が英国に留学中、同じ下宿に同宿、親しい間柄であった。

 
錠ニは菊池大麓らと理化学研究所の創立に尽力し、大正6年開設後は副所長に就任している。大正15年帝国学士院長、後に学術研究会議長、日本学術振興会理事長を兼任しながら昭和14年死に至るまで国際的にも活躍している。東京物理学校職員録を見ると明治40年、寺田寅彦の名があるが漱石と桜井房記の関係かと思われる。明治30年前後に吉田茂が学習院に入学前に在籍するなど物理学校の人脈を調べるのも一興である。
 
今も変わらぬ志満金(島金)横の通学路 

  当時の母校の姿を復元、近代科学資料館として研究社の隣に建てられているが、昔は6号館の位置にあった。学生は志満金(島金)横の路地から入った。泉鏡花の「神楽坂の七不思議」の『島金の辻行燈』に「家は小路に引込んで、通りの角に「蒲焼」と書いた行燈ばかりあり。気の疾い奴がむやみに飛込む仕立屋なりしぞ不思議なる」とあるが志満金は神楽坂から路地を入ったところにあった。志満金が神楽坂で商売を始めたのは戦後からである。
 3号館角の石垣の上には私立竹内小学校があり石垣に沿って右に曲がれば鏡花横町、真っ直ぐ進めば物理学校だった。

 
来年は(平成18年)は物理学校が神楽坂に移転してから100年目の年にあたるが神楽坂下で当時から営業を続ける商店がある。志満金に続いて紀の善、山田紙店、オザキヤ靴店、翁庵、今は喫茶店になっている足袋のアカイで、山田紙店は学校へ試験用紙を納めていた。まだノートなどが無い時代で学生はまだ珍しかったB5の西洋紙を買い自分で綴じて帳面にして使っていた。当時紀の善は鮨屋で明治41年1月与謝野鉄幹の『明星』新詩社を脱退した北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、長田秀雄、長田幹彦などが蒲原有明を招いてしばしば会合を開いていた。

師範部を置くなど中等教員養成校としての性格強まる
       
 
神楽坂校舎の建設に同窓会員279名の寄付16,351円、維持同盟員13名、1人当たり300円の醵金とあわせて20,251円、小川町校舎の売却金を考えれば借金をしなくても済んだものと思われるが、母校は決して裕福では無かったようだ。 
  明治38年卒業の小倉金之助が物理学校の学生時代を回想し教員の国家試験の解き方のコツを教えるような学校だった書いているが、明治41年9月同窓会の有志若干名が集まり母校の一部を借りて高等予備講習会と名づけた予備校を始めた。
  この時代の入学者数を見ると、37年251名、38年283名、39年475名、40年334名、41年262名、42年245名、43年236名と明治41年から減少の傾向を見せている。学校経営の一助にと同窓会が始めた事業かもしれない。新校舎の建設、高等予備講習会など一連の同窓会活動は最早、学校の援助の面で維持同盟に代るものまで成長していたと考えてよいだろう。高等予備講習会は規則の改正で大正5年の4月から本校に移され高等受験科として正式な教科にされている。
 明治42年1月と5月2回にわたり入学規則が大きく改正された。これは文部省中等教員検定試験規則の改正に対応するものであった。それまでの検定試験には受験資格に制限がなく誰でも自由に受験することが出来た。しかしこの年から「文部大臣に於いて適当と認定した学校」の卒業生だけが特定科目(数学科、物理及び化学科、博物科、裁縫科、手芸科)に限って検定を受けることが出来ると受験資格を明確にした。 


 
これによって1月の改正では、
 「本校に入学する者は、修業年限2年の高等小学校(旧小学校令の規定による者は修業年限4年)を卒業し、かつ『略(ほぼ)代数学及幾何学ヲ解スル者若クハ之ト同等以上ノ学力ヲ有スル者』」と規定された。中学校、師範学校の卒業生は無試験で第2学期に入学を許可されることになった。
  さらに5月改正では、
「中等教育を施す学校の教員足らんと欲する者の為に特に本校に師範部を置く」そして師範部の生徒に「尋常科には毎週2時間、高等科には毎週1時間の終身を課し、成績の如何を問わず在学中3分に2以上の出席」(当時の規則では修業年限を3ヵ年として、これを6学期に分け第1学期より第4学期までを尋常科、第5,6学期を高等科としていた)を義務づけた。母校の師範部は文部省に認定され5月1日の官報にその旨が告示された。このような経過をたどることで母校は中等教員養成校としての色彩を強くしていった。しかし無試験入学の伝統は守った。
 ちなみに明治38年春の卒業生369名の内73パーセントにあたる268名が教職に、47名が技術者として実業界に進出している。坊ちゃんが東京物理学校を卒業したとされる1年前のことである。

日露戦争後、清国の留学生増える 
 
  明治44年7月母校の卒業生は外国語のみの試験で東北帝国大学理学部の正科に無試験でその撰科に入学が出来るようになった。これを機会に東北帝国大学の進む母校の卒業生が増えることになる。東大には高等学校卒業生以外は入学を厳しく制限したので母校からの進学はなかった。昭和4年、東京(蔵前)高等工業学校が東京工業大学に組織替えをした後、卒業生は集中して東京工大に進学するものが年毎に増えていった。そこで昭和16年から文部省は母校の卒業生を全てあわせて大学に入学できる者の数を54名以内に制限してしまった。東京工大に進学予定の高等学校の生徒を押しのける結果になったのが原因と聞いている。

 
物理学校は夜学である。昼間神楽坂で車の後押しを仕事にする学生が現われた。電機学校の学生と縄張り争いを起こすこともしばしばだったと伝わる。結構な稼ぎだったらしい。
 明治38年日露戦争が終わると清国から日本に留学するものが増えてきた。物理学校は留学生に門戸を閉ざさず自由に入学を認めたので38年の21名を皮切りに、40年から44年に至るまで72名、78名、57名、48名、43名と数を増していった。明治期だけでも360名を数えるほどだった。明治43年10月の東京物理学校雑誌に『東京物理学校卒業清国人』として当時の模様を報じている。
 「本年7月清国学部ニテ施行ノ瓢録試験(進士トナリベキ者ノ予備試験)ニ応ジタル者ハ総計770名ニシテ其中物理学校卒業生5名アリ、試験合格者300名中物理学校卒業生顧寶瑚ハ第1位、胡樹楷君ハ第2位、朱叔鱗君ハ第7位、周歩瑛君ハ第8位、彭清鵬君ハ第10位ノ好成績ヲ得テ何レモ合格せりと云フ」
 昭和20年終戦に至るまで物理学校を出た台湾人、朝鮮人、中国人が故郷に戻り活躍している。各国に同窓会の支部もあった。
        
物理学校の経営が維持同盟を離れ同窓会に移る

 大正2年7月5日、中村精男校長より維持会員並びに同窓会員役員に「学校の事に関し相談あり来集を求む」の案内がとどいた。
 明治14年、東京物理学講習所は21名の創立者によって始められた。その後学校の経営危機に陥った明治18年、学校の維持存続を図るため創立者のうち16名が維持同盟を設立しこれまで学校を運営してきた。
  学校の歴史には記載されてないが明治44年に私立学校令が「学校の維持に必要な資産、資金を備えた民法による財団法人を義務づける」と改正されたが、維持会が運営していた時代、東京物理学校が法人組織であったかどうか明らかでない。これを機会に学校を法人組織にしたのか検討の余地がある。
 大正2年中村校長が案内状を出した時点で維持員は死去等により減り13名になっていた。最高年齢者は桜井房記で61歳、最低年齢者は玉名程三の52歳であった。校長の中村精男ハ58歳に達していた。
  この三十数年間学校は維持員の合議によって全て運営されてきが、大正2年職員年表では中村精男校長、中村恭平幹事兼主計、菅沼温蔵書記の3名が常勤の職員であった。  
 校長の話の要旨は「維持員も最早平均年齢60に達し、而して設立当時の目的は今や予期以上に成功し、教育界、実業界、学会に多くの人材を供給せるは欣快とする所なり。是に於て今日我々同盟員が健在する間に適当な継続者の確定引継を見て、然る後此維持同盟を解かんは我々の切に祈望する所なり。学校は同窓会之を引受くるか、或は又同窓会中の有志者之を継承するか、兎に角学校は学校として経営し使用するを本義とすべしと思惟す。さて其了解、授受、条件、約束、等、両団体の間に後日の為十分の研究を要す。本日は腹蔵なく異見を述べられたし」(東京物理学校50年小史)であった。
  これに補足して中村恭平幹事から学校経営の現状、緊急事項の報告がなされた。内容について詳細は分からないが、会議の前後の関係から「将来的に見て最早維持会の学校経営は難しくなった。学校はそのまま今の状態で運営していくが、取り敢えず経営だけ同窓会で引き受けてくれ」というものだったと思われる。
  維持同盟員側から社団法人に関する書類がくばられ、学校を法人化して学校経営を維持員から同窓会に委譲するという方向に話は進められた。これまで維持員の個人経営に近い学校経営を学校を法人化して経営を同窓会に移そうとするものだった。集会はことが重大な問題なのでよく考え結論は後日出すということで終了した。
 だが当日参加した同窓会員の腹は決まっていた。集合した同窓会員は同夜ただちに会合を持ち藤井哲也を座長に協議をおこなった。そして

  1.同窓会が学校を引き受けること
  2.法人を組織するに就いては、維持員及び同窓会員の一部を以て理事を作ること
  3.維持同盟員との交渉委員7名を選ぶこと

の3項を決めさらに維持員との交渉委員には
藤井哲也、佐之井愿甫、田中伴吉・、金沢卯一、岡幸祐、笠原留七、後藤敬三の7名を決めた。
 その後、委員会を開くこと十数回、維持会との交渉も十数回に及び、維持、組織、教授、会計及び法的手続きに関し慎重、周到な協議を行ったすえ維持会と合意を得ることが出来た。
 
財団法人東京物理学校同窓会の発足
 
  大正3年5月17日の東京物理学校同窓会臨時大会で下記のように報告され、人見忠次郎を座長にして維持同盟員側から中村恭平、三輪桓一郎、同窓会員側から佐之井愿甫、笠原留七、池上泰次郎の説明があり満場一致で承認された。

  1.東京物理学校を財団法人として永遠に存続せしむること
  1.土地建物器具図書等一切の評価を5万5千円とし同窓会寄付の金額及新に維持同盟員会の寄付せらるゝ金額を控除し残金2万2千円を同盟会員に支払ふこと。但大正4年より毎年12月末日までに少くとも金1300円以上を支出し満5年にて皆済すること
  1.此返済期間三輪維持同盟員に学校事業の監理を託すること
  1.引継時期は大正3年8月1日とすること

以上の決定後引継準備委員7名 笠原留七、金沢卯一、後藤敬三、佐之井愿甫、河村深造、藤井鉄也、池上泰次郎を選出し法人決定までの事務処理を委任した。
  大正3年8月、維持同盟員は母校を同窓会に引渡し、学校の校舎、備品を譲り渡すと共に、敷地の寄付を行った。此の寄付行為により同窓会は社団法人東京物理学校を組織して同窓会員より理事5名、笠原留七、河村深造、山下安太郎、後藤敬三、人見忠次郎、幹事2名、建部遯吾、片桐鎌三郎を選出した。そして理事会は前維持同盟員中村精男を校長に、同じく前維持同盟員三輪桓一郎を主事に推薦した。 
 
 この原形は学校法人東京理科大学と理窓会の関係に残されている。
 
 財団法人東京物理学校寄付行為、第5 役員に関する規定 第8条には、理事及び幹事は東京物理学校同窓会之を選定しとある。
 
同窓念願の専門学校令による東京物理学校の認可  
 

 
大正4年5月26日、財団法人東京物理学校の設立が文部省の認可を得て発足した。
同年11月、同窓会は長年懸案であった母校の専門学校への改変に取り組み、定時総会の決議を経て牛窪徳太郎、山根真蔵、太田千頴の三委員を選出を行い専門学校基本金の募集を行った。
  ただちに549名の同窓会員が募金に申し出があり1万5931円の金額が集まり母校に寄付をした。神楽坂校舎建築の募金から15年余り同窓会の事業として快挙の出来事であった。この金額を専門学校の基本金に当て大正5年12月25日文部大臣に専門学校に組織変更認可を申請、翌5年3月26日、私立東京物理学校を同窓の念願だった専門学校令によって設置することがを認可されたのである。
  これにより高等師範科の卒業生は中等教員無試験検定を受ける資格を獲得、本科、高等師範科の生徒は徴兵猶予の特典を得ることが出来るようになった。
 
         早稲田派の忘年会や神楽坂   子規
 

 
明治38年と言うと母校が神楽坂に移転する前の年だ。東京電気鉄道外濠線が開通すると牛込見附の停留所から神楽坂を早稲田まで歩く学生が増えていった。せいぜい500名そこそこのそれも夜学の物理の生徒は数においても早稲田に敵わなかった。牛込亭(寄席)から安飲み屋まで早稲田の学生が占領し、早稲田と物理の生徒の出会いは数学の解答を頼むときぐらいだった。
  大正の始めは日本中に不景気の風が吹き荒れていていた。大正7年米騒動のあと東京市は貧民救済として横寺町に神楽坂公衆食堂を開設した。食堂では朝飯10銭、昼夜15銭で市民に支給し、この安値に1日、3000人のプロレタリアートと学生が集まった。神楽坂の色町と対照的に明暗を分けていた。

 
神楽坂は日本の新劇運動に縁が深いところだった。松井須磨子、水谷八重子、澤田正二郎もみんなここから育っていった。早稲田大学に起因する所が大きい。日本中を湧かせた抱月と須磨子の道ならぬ恋、赤城神社境内の貸席松風亭から生まれた芸術座、須磨子がトルストイの「復活」の劇中で歌った劇中歌「カチューシャの唄」は今でもカラオケで唄われている。須磨子が抱月の後追い自殺をしたときは日本中に新聞の号外も出た

 無声映画の黄金時代を築いた徳川無声、山野一郎、松井翠声も出演した牛込舘(日本出版クラブのあたりにあった江戸時代からあった寄席の跡)も東京物理学校と一緒に神楽坂に存在したが全く関わることは無かった。
                                                     (以下次号)

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2005/08/01

舞い込んだ同窓からの手紙

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連載(12)<2005/8/1>
                                                         
神楽坂校舎の建設
        舞い込んだ同窓からの一通の手紙

        
  明治33年9月同窓会の役員のもとに1通の手紙が届いた。差し出し人はその年の5月、同窓会の定期総会に出席した京都の幹事で、手紙の文面は「世間の評判で学校の生徒数が年々増加しているのは同窓として喜ばしい。しかし学校の建物は昔のまま、生徒は狭い教室にすし詰めの状態で勉強している。建物も10年以上もほとんど手入れもされず、卒業生として母校の見苦しい姿を見るに忍びなかった。この際思い切って校舎を改築したらどんなものだろう。校舎の新築費用は全国の卒業生から集めたらよい」というものだった。

 当時の小川町校舎は明治22年東京法学校(現法政大学)の建物を半分だけ買収したもので後に物理実験室、書記官舎を建てましたものの校舎は明治10年代初期に建てられた勧工場そのままで窓の少ないレンガ建ての暗いものだった。自前の校舎で自力で何とか経営が出来るようになった母校だったが、実験室も不完全であり、経済的にも設備の改善まで手が回らないのが実情だった。
 明治25年の記録によると教場面積は合計105.5坪とある。その後28年に物理実験室を増築したぐらいで、39年神楽坂に移るまで校舎は殆ど手入がされない有様だった。ここに常時300~400名、多いときには500名の生徒を収容していたのである。

  明治22年から母校の数学の教師を勤めた野口保興は大正14年の財団法人東京物理学校成立10周年祝賀会で当時の模様を「小川町ノ校舎如キ婉然勧工場ノ感アリテ教場ノ傍ニ便所ガアツテ講義スルトキナド随分臭イ思ヒヲナシマシタ」と見る影もない校舎の有様を回顧している。
 同時代、小川町1番地、物理学校の近隣にあった明治法律学校(現明治大学)は600坪、英吉利法律学校(現中央大学)は800坪の敷地を有しそれぞれ卒業生から寄付を募り、新校舎を建設して明治36年に公布を予定される専門学校令にあわせ着々と準備を備えていた。     

 当時の神田地区の地図を広げると明治、中央、専修の各大学は記載されているが物理学校が載せられているものは少ない。それだけ母校は小さく目立つ存在でなかったことがうかがえる。今この界隈を歩くと、多くの学校の発祥地を示す記念碑が建てられているが母校の痕跡を伝えるものは何もない。漱石の「坊ちゃん」を知らない日本人はいない。だから「坊ちゃんが物理学校の生徒募集広告を見たところ」と言うようなユーモア溢れる案内板ぐらい建てられてもよいと思う。
 多くの同窓の中から校舎の増築をしたらどうかと言う意見は何回となく学校の直接経営にあたる維持員に寄せられたが、母校の敷地は狭く、それに資金の目途も立たず、なかなか話しがまとまらぬうちに時間だけが経過していた。
 
学歴社会形成期の物理学校のジレンマ
 
  教員検定試験という国家試験に合格して卒業生の大半を中等学校教師として社会に送ってきた母校にとって「専門学校令」はこれから迎えようとする学歴社会に学校がどう対処するか大きな意味を持っていた。それまでの物理学校の卒業生は教員検定試験に合格するという大きな目標があり、ともすれば学校は国家試験の予備校的存在だった。だが、これからの社会は実力だけでは渡れないという危機感が学校にも卒業生にも醸し出されていた。
  明治の後期は「学歴社会」の形成期であった。「専門学校令」の公布で専門学校を帝国大学に次ぐ高等教育機関と位置づけて、政府の方針で専門学校の卒業生を帝国大学卒に続くエリートとして誕生させた。早稲田、慶応はいうに及ばず近隣の明治、中央など多くの私立学校は教育内容を整備して専門学校として新しい制度の高等教育機関へと組織替えをしていった。何はともあれ「専門学校」の魅力は徴兵猶予の特典と、教員試験の無試験検定の特典が与えられることであった。
  それまで理数科の世界では物理学校卒の実力は学校としては「予備校」「各種学校」的存在にもかかわらず東大に次ぐ理数科系のエリートを輩出する学校として世間から認められていた。教師も生徒も学校そのものの存在に関心を持たないのを母校の特質だとしてきた。
  だが、難関な教員検定という国家試験を突破して多くの中等教員になった物理学校の卒業生が、中学校で将来帝国大学、専門学校卒の学歴社会に羽ばたく幹部候補生を教えるという面白い現象が起きていることに気づいていた。卒業生にはかっての士官学校で士官候補生が叩き上げの下士官に教育されるのに似た矛盾を感じ始めていた。
 
物理学校卒「坊っちゃん」の学歴の社会的評価
 
  明治36年に専門学校として発足したのは主に法文経医の分野だけで、理工科のエリートは社会からの要望は少なく、設備に金がかかることもあって私学の設立は無かった。その頃の産業界はまだ建築は曲尺1本、工場の技術者は徒弟制度で十分間にあい、学歴は無くても実力と技術がものを言った時代であった。
 しかし教育界の前線にいる卒業生は教育情勢の変化を敏感に読み取っていた。物理学校が専門学校にならなければ、いくら実力を誇る母校でも世間から高等教育機関と認められなくなる。「予備校」か「各種学校」になってしまう時代が必ず到来すると予見していた。そのためには校舎の整備が急務だった。

  小説『坊っちゃん』は明治後期確立しつつあった「学歴社会」の実態を的確に捉えている。赤シャツの言う社会の上流だった四国の教員を辞め東京に戻り街鉄の技手に転職した坊ちゃんを実力はあっても学歴としては覚束ない物理学校卒としてよく捉えている。技手(ぎて)といえば技師の指示で仕事をする現場の職工の頭位に考えてよい。当時としたら別に落第を気にして物理学校を出なくても出来た職業であった。

  権威の上にあぐらをかく教授連に入試の採点委員を任命された漱石は採点委員を拒否、東大講師を辞任して小説家の道を選んだ。校長の狸と教頭の赤シャツに辞表をを叩きつけ街鉄の技手になった坊ちゃんは小説の最後は「清」と静かに暮らすが当時の社会現象をリアルに描いていると読めば一層興味が出てくる。漱石は小説の中で坊っちゃんを一度も物理学校を落第させずにストレートで卒業させ秀才にしているのも面白い。ちなみに漱石も東大を一番首席で卒業している。
 
先生も生徒も勉強以外のことは余り気にしなかった
         校歌や校章が決まったのは昭和になってから
 

 明治22年に発足した東京物理学校同窓会は母校の創立者を名誉会員に、卒業生を正会員とし名誉会員から会長を選んだ。同窓会は発足当時から東京物理学校雑誌の定期刊行、運動会の開催、攻学会など同窓の勉強会の開催、報徳会を作り実験室への実験機材の寄付等を行うなど母校と表裏一体の親密関係を保ち学校の発展を支えてきた。維持員を中心に教員、卒業生が家族のように一体になって学校運営に協力していたのも母校の特色であった。
 しかし、それまで余り気にせず10年以上も手をつけてこなかった校舎の改築問題が切実な問題として目の前に迫まってきたのだった。社会情勢に疎く優秀な卒業生を出しさえすれば建物など二の次だという物理学校独特の思想が教師と生徒に根強かったことは否めない。

  もともと母校は教師も生徒も勉強以外のことは無頓着であった。小川町校舎もそうだが母校は60年も長い間校歌も校章などはなかった。そんなものはいらないと言えばそれまでだが制服制帽もなかった。制服制帽が決められたのは昭和13年のことである。それまで洋服屋が困って物理の字を図案化して校章とボタンを作り学生帽と学生服につけたという話が残っている。学校のシンボル校章、制服が制定されたのは昭和13年(1938)、校歌が出来たのは昭和15年(1940)、学校が還暦を迎える時代になってからのことである。

 10年応用理化学科(応用物理学科、応用科学科)の設立が認可され、昭和12年鉄筋4階の新校舎(1号館)が落成すると学校の体質が大きく2部から1部、つまり昼間の理科系の専門学校主体に変わったので、新入生は新しく制服、制帽を着用することになった。戦争が苛烈になるにつれて2部の時代に無かった靖国神社の参拝、勤労奉仕、行軍、軍事教練などで昼間、学生が団体で校外おいて活動する機会が増え、対外的にも校旗、校歌の必要性に迫られたのであろう。

卒業生一人給料の2ヶ月分を醵金
          同窓会の寄付で学校の改築問題が一挙に解決

 
 専門学校になるためには今の校舎のままではどうしようもない。取り敢えず増築でもと言う意見があったが敷地と資金で行き詰まっていたところ、卒業生の寄付の話は校舎の改築に消極的だった維持会を動かし一挙に解決することになった。
 京都の幹事から寄せられて手紙は東京の同窓会員の中からも多くの賛同者が出て、明治34年に入ると同窓会有志で寄付金の募集が始められた。だが、募金の趣意書が全国の同窓に配布されると想像にも及ばぬ事態が起こった。
  卒業生5百余名の内279名から総額2万円を超える申し込みがあり1万6351円(預金利子を含む)の現金が学校に寄せられた。醵金したものは卒業生の50パーセントにあたり、1人当たり平均60円の寄付をしたことになる。当時の給与ベースから考えると2ヶ月の給料を醵金したことになる。
  このことは校舎の改築に消極的だった維持員13名からも3900円の拠出があり、寄付金の合計は2万251円に達した。創立20年、卒業生も500人足らずの学校としたら快挙の出来事であった。

  ただちに牛込区神楽町2丁目24番地に394坪(1304㎡)の土地を購入、明治39年2月から7月末までの工事で2階建て木造226坪(747㎡)の校舎の完成を見た。記録に敷地、建物、設備器具全て合わせて3万8192円16銭とある。実に校舎新築の半分以上の金額が同窓の寄付金で集められたのである。
 明治39年(1906)9月29日校舎落成の記念式典をかね創立満25年の式典を行った。母校は平成18年度(2006)125周年を迎えるが神楽坂に移って100年になることになる。
  北原白秋の『物理学校裏』はこの建物を詠んだものである。昭和11年の改築で校舎が4階鉄筋コンクリート建て(旧1号館)になるにあたって取り壊されるまで中央線の車窓から白亜の洋館が望見された。この建物で学んだ同窓の二村氏の好意で東京理科大学近代資料館として復元されている。復元にあたっては設計図など当時の詳しい資料は皆無で、唯一残された写真をたよりに手探りで建てられたという。
 
明治39年の神楽坂界隈
        
  明治38年つまり物理学校が神楽坂に移転する前の年、東京電気鉄道外濠線が開通、牛込見附停留所が開設された。すでに甲武鉄道(現JR中央線)牛込停車場が開業しており、神楽坂校舎は市内でも特に交通の便利なところに移ることが出来た。明治36年路面電車、東京電車鉄道株式会社(東鉄線)が品川―新橋間に始めて開通、数年足らずして東京市街鉄道(街鉄)、東京電機鉄道が開業して市内に路面電車網ができあがり、飯田橋は電車の乗換駅として賑った。ちなみに明治44年3社は東京市に買収され東京市電が誕生することになる。
 当時甲武鉄道の牛込停車場(現JR飯田橋駅)は警察病院のあたり外濠の石垣の下にあった。現在のボート小屋あたりから早稲田通りの下を平行に細い道が停車場に続いていた。春は花の名所として花見客で込み合っていた。白秋は停車場の情景を『物理学校裏』で次のように書いている。
 
―― 汽笛が鳴る。四谷を出た汽車のCadence(カダンス)が近づく ――
   ―― 汽笛が鳴る・・・・濠端の淡(うす)い銀と紫との空に
      停車(とま)つた汽車が蒼みがかった白い湯気を吐いている。
       静かな三分間。 ――

 明治37年に飯田町(現在の飯田橋駅ではなく、ホテル・エドモンドの辺りに甲武鉄道の起点飯田町駅があった)-中野間に日本で初めての電車が走るが、遠く甲州からの列車はまだ蒸気機関車が牽引していたのだろう。
 
町中を歩く艶やかな座敷着姿の芸者は神楽坂の風物詩
 
  明治39年、母校が移転をした当時の神楽坂を探ってみよう。江戸時代は無骨な武家屋敷と寺町だった神楽坂は日清、日露の戦争が終わる頃には銀座、浅草に次ぐ東京の繁華街として名を連ねていた。
 神楽坂と聞くと誰でも真っ先に華やいだ花柳界が頭に浮ぶ。日清、日露両戦争の好況で神楽坂は柳橋、芳町、烏森に次ぐ三業地として全国にその名を知られるようになっていた。東京理科大学森戸記念館のあたりは最も華やいだところだった。夜の帷が降りると路地の各所から新内流しの三味線の音色、声色やの呼び声が何重にも重なり合って遠く近く響いた。

  神楽坂の夜店歴史は明治20年と東京で一番古い。寅の日は寅毘沙といって露店が神楽坂から牛込見付を越えて濠端間まで並んだ。毘沙門天の植木市は「江戸名所図会」にも描かれているように徳川の末期から全国に知られていた。
  日が落ちると料亭や待合に通う艶かしい座敷着に着飾った艶やかな芸者衆が打ち水をされた石畳の上に駒下駄の音を響かせて黒塀の間を横町から露地へと繰り出した。寅毘沙の晩の神楽坂は人出で埋まり坂の上下には「車馬止」の提灯が下げられた。座敷儀の芸者が夜店の雑踏に揉みくちゃにされるのも神楽坂の風物詩として新聞や雑誌に取り上げられた。  
  この人出を相手に源氏節、講談、浪速節、女義太夫、色物を演じる寄席も賑ぎわっていた。毘沙門天の境内には大蛇の見世物、覗きからくりの香具師が大声を張り上げ、屋台の鮨屋、おでんや、牛鍋や、大福餅、しるこや、飲み屋が夜遅くまで客を待っていた。

  芸者に払う料金つまり玉代は大体2時間と決められているから、8時を過ぎると次のお座敷移る芸者衆の大移動がおこる。神楽坂に朝夕のラッシュのように何百の芸者が一斉に繰り出し神楽坂雑踏の中を縫って歩く。これが終わる頃神楽坂の表の夜は終了する。客と芸者のひめごとはここから始まった。
 江戸の川柳に「三度目は面白い地へ御鎮座」というのがある。安土桃山時代、文禄4年(1595)麹町に創建した毘沙門天は移転を繰り返し3度目に現在の地に移ったという。神楽坂を面白い地と言っているが、物理学校ならさしずめ「六度目は面白い地へ御鎮座」と言うところだろう。
 
明治39年は『坊ちゃん』が世に出た年
    
 神楽坂校舎建築のまっ最中、明治39年4月、『猫10回』と一緒に『坊ちゃん』が雑誌「ホトトギス」4月号に発表された。当時漱石は本郷区(現文京区)駒込千駄木町に住み37年秋から週一度明治大学で講義をしていたから小川町の東京物理学校の前を通ったと想像することができる。明治40年の地図によると明治大学は神田南甲賀町にあり母校とは目と鼻の距離にあった。
  明治41年10月末、白秋が牛込北山伏町から物理学校裏の崖の上の借家に移転していている。石川啄木の日記によると29日、白秋の転居通知を受け取った『明星』以来の親友啄木はその日の午後白秋宅を訪れている。
   「・・・北原君の新居を訪ふ。吉井君が先に行つてゐた。二階の書斎の前
   に物理学校の白い建物。瓦斯がついて窓といふ窓が蒼白い。それはそれ
   は気持のよい色だ。そして物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞
   える。・・・」
まだ照明が瓦斯灯だった物理学校の窓の奥までよく見ている。
 白秋も『物理学校裏』で啄木と同様に母校の情景を書いている。啄木が物理学校の校舎を「それはそれは気持のよい色だ」としているが、白秋は「肺病院のやうな東京物理学校の淡い(うすい)青白色の壁にいつしかあるかなきかの月光がしたたる」と書いているのが面白い。
 
―― 蒼白い白熱瓦斯の情調(ムード)が曇硝子を透して流れる。
     角窓のそのひとつの内部に
     光のない青いメタンの焔が燃えてるらしい。
     肺病院のやうな東京物理学校の淡い青灰色の壁に
     いつしかあるかなきかの月光がしたたる ――
    
―― 静かな悩ましい晩、
     何処かにお稽古の琴の音がきこえて、
     崖下の小さい平屋の亜鉛屋根(とたんやね)に
     コルタアが青く光り、
     柔らかい草いきれの底にLampの黄色い赤みが点る(ともる)。
     その上の、見よ、すこしばかりの空地には
     湿った胡瓜と茄子の鄙びた新しい臭が
   惶ただしい(あわただしい)市街生活の哀愁に縺れる・・・・ ――
    
  白秋の住んでいた家は明治36年3月に新築された2階屋で、泉鏡花が蔦永楽の芸者桃太郎(本名伊藤すず)と所帯を持ったところだ。蔦永楽は森戸記念館横を道なりに石段を軽子坂に下る途中の左側路地の奥にあった。
  鏡花と桃太郎の情事を今更語ることもないが、鏡花が師匠酒井俊蔵先生こと尾崎紅葉をモデルにしたと言われる『婦系図』に詳細に書かれている。明治40年「やまと新聞」に連載された『婦系図』は翌年の9月新富座で上演され喜多村録郎の当たり役になった。
  原作には無いが初演にあたって喜多村録郎が筋立てして紅葉の門下柳川春葉が台本を書き演出効果をあげるため清元の「忍逢春雪解(しのびあうはるのゆきどけ)」を使って、新派十八番『婦系図』の名場面「湯島境内別離の場」を作り上げた。
 
 ―― 切れるの、別れるのというのはね、芸者の時に言うものよ。今のあたしには、
 はっきり死ねと言って下さい。――
 
の名科白はいまの若い人には理解できぬことだが、鏡花自身の体験に基づいているものである。紅葉門下硯友会の連中が事あるごとに料亭吉熊でたびたび会合を開いた。お互いに宴会の末席に坐ったまだ無名の文士と売れない芸者との出会いはロマンスを生んだ。

 明治36年4月14日の紅葉の日記に
「・・・・夜風葉(小栗風葉)を招き・・・・相率で鏡花を訪う。?妓を家に入れしを知り、異見の為に趣く。彼秘して実を吐かず。怒り帰る。十時風葉又来る。右の件に付再人を遣って、鏡花兄弟を枕頭に招き折檻す。十二時頃放ち還す。疲労甚しく怒罵の元気薄し。」同じく16日には「夜鏡花くる。相率いて其家に到り、明日家を去るといえる桃太郎に会い、小使十円を遣す。」
とある。芝居では
「是も非も無い。さあ、たとえ俺が無理でも構わん、無常でも差支えん、婦(おんな)が怨んでも、泣いても可い。憧(こが)れ死んでも可い。先生の命令(いいつけ)だ、切れっ了(ちま)え。俺を棄てる歟、婦を棄てる歟。むゝ、此の他に文句はないのよ。」
 となるが『婦系図』の酒井の言葉に早瀬は「婦を捨てます。先生。」と言わざるをえなかった。まさに酒井の言葉は紅葉の言葉だった。

  もと隼(はやぶさ)の力といった早瀬主悦は、酒井俊蔵に諌められ改心して勉学に勤しみ、ひとかどのドイツ文学者になった。早瀬にとって酒井は大恩人である。鏡花にとっても紅葉は大恩人であった。まさに酒井の科白は紅葉の言葉と見てよい。神楽坂校舎のできる3年前、東京物理学校裏の崖上の借家で起きた物語である。
 「お蔦は湯から帰ってきた。艶やかな濡髪に、梅香の匂馥郁として、繻子の襟の烏羽玉にも、香や隠るヽ路地の宵。」昼下がり湯から路地づたいに帰る濡れ髪姿の桃太郎をいとしむように二階の窓から眺めている鏡花の姿が目に浮ぶ。場所から恐らく熱海湯と考えられる。地元の人はこの路地を鏡花横町と呼んでいる。
  紅葉は明治36年の秋『もるひねの量ませ月の今宵也』その秋も深まって『死なば秋露の干ぬ間ぞおもしろき』の辞世を残し死んだ。
  数学、物理という堅い物理学校には縁の無い話ようだが、そのど真ん中に突如として物理学校が降り立ったのである。東京理科大学125周年の神楽坂校舎の再構築計画で鏡花と白秋の住んだ借家も路地も大学の敷地内になるようだが文学碑でも建てたいところだ。
 
一里は神楽に明けて神楽坂、玉も甍も朝霞。
江戸川近き春の水、山吹の里遠からず、筑土の松に藤咲けば・・・・
船は首尾よく揚場から、霧の明かり道行きの・・・・
色に露添う御縁日、毘沙門様は守り神。
                   
  神楽坂周辺の地名を織り込んだ鏡花の詩は「神楽坂をどり」として長唄に作曲され今でも時たまお座敷で美技によって舞われる。
  大正6年3月26日東京物理学校は専門学校令による学校として設置が認可され、待望の中等教員無試験検定の資格と、徴兵猶予の特典を得ることになった。これには経済的問題などいくつものハードルを越えなくてはならなかった。神楽坂校舎の完成してから10年後のことであった。



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2005/07/01

明治20年やっと経済的に独立

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連載(11)<2005/7/1>               
         
 開校後5年、明治20年なって
               ようやく母校は経済的に独立することが出来た
 

  明治19年11月、神田淡路町成立学舎の仮住まいをわずか2ヵ月で引き払った母校は小川町1番地の仏文会に移転した。仏文会の建物というのは仏文会がフランス語の学校を開くため東京法学校(現法政大学)から借りていたもので夜間は教室が空いていた。そこでここを仏文会から夜間だけ借用して授業を開始したのである。また貸しという妙な貸借関係であったが小川町時代の始まりになった。この校舎が明治39年神楽坂に移転するまで20年間使われることになり物理学校の揺籃の地になった。
  明治18年中等学校の教員検定試験が始まり、翌19年、師範学校令、小学校令、中学校令(第2次世界大戦直後までの教育制度の基礎となった)が公布されると理数科教員志望者が次第に増えるにしたがい、検定試験を目指すものが母校に集まるようになった。当時の検定試験は受験資格を問わなかったので、在学中でも検定試験に合格するとすぐ退学してしまうと言う学校だった。つまり検定試験の予備校的役割を果たしていたのである。
 『坊ちゃん』が職員会で校長の狸から単独で団子屋だの蕎麦屋に出入りしないほうがよいと言われる。「すると赤シャツが又口を出し『元来中学の教師なぞは社会の上流に位するものだかして・・・・』」当時の「立身出世」は政府の優秀な行政官僚養成をめざす方針もあって法律を学んで官吏になることであった。しかし、一方赤シャツの言うように「中学教師」もその部類に入っていたと見るべきであろう。

  それらの世相を反映して、設立される学校は法科系のものが多く理科系のものは少なかった。明治22年に発行された「官公私立諸学校一覧」によると物理学校のほかに、数学専門敬勝舘、数理学校、数学専修舘、順天求合社など幾つかの理数系の学校の名前が見られる。しかし、いずれの学校も短時間で姿を消している。
  東京専門学校(早稲田大学)も15年、開学と同時に理学科を設置しているが翌年に廃止、22年、京都の同志社も理科学校を開校するが7年で閉校している。まだ一般社会では理数科の知識など必要なかったのである。順天求合社なども東京職工学校が発足すると母校と同じように受験生の指導を依頼されているところを見ても、当時の理工科の学校は職工学校の予備校程度に扱われていたものらしい。
  こういった状況からも分かるように当時私立で理数系の学校を経営をすることが如何に難しかったが理解できる。その中、母校だけが唯一私学で理数科の教員試験に合格できる人材を輩出できる学校として生き残った。
  明治36年、東京工業大学の前身東京職工学校(23年に東京工業学校と改称している)は専門学校令によって東京高等工業学校になっている。36年の専門学校令で理工科系で専門学校になったのは、東京高等工業のほか大阪高等工業の2校だけでいずれも官立であり私立では皆無だった。ちなみに早稲田大学に理工学部が開設されたのは明治42年のことで、東京物理学校が理数系の専門学校として発足したのは大正6年だった。
 
     
学歴社会の厳しい中「社会の上流」を目指して
          卒業生の7割が教員検定に合格して中学校の教員に

 
  当時の社会では、文部省の教員検定試験という国家試験に合格さえしてしまえば、たとえ小学校卒であっても、たちどころに赤シャツの云う「社会の上流」に上れる時代だった。明治30年代の小学校教員、巡査の月給は15円、中学校教員になると坊ちゃんは40円とやや高額だが30円
を下らなかったようだ。そんな理由から小学校の先生、役場の吏員など夜間時間が自由になるものが、夜学の物理学校に通い中学校の教師になる者が多かった。母校の卒業生の7割近くが教員試験に合格して教員免許状を取得しているとなれば教員になって「社会の上流」を目指す者にとって魅力のある存在だったのである。母校が昔、貧乏人の学校、苦学生の学校の代名詞のように言われた原因はこんなところにあるのかもしれない。

  そんな世相を反映してか明治20年から37年までの卒業生369名中、死亡23名、不明18名を除く328名の進路先の状況を見ると、中学の校長と教諭及び教員が186名、師範学校の教諭及び教員17名計203名がなんらかで中等教員の職に就いている。卒業生の62%が中等教員になっており、さらにその他教員・助手等53名を加えれば実に78%が教職に就いている。当時はまだ卒業生に技術者、実業家の道が開かれておらず、この方面に進んだ者は計47名で僅か14%に過ぎない。仮に数少ない企業や研究所に職を得ても当時の厳しい学歴社会では「坊ちゃん」のように街鉄の技手か天文台、測候所の助手どまりで、教師のほうが給料面で優遇されていたのである。
  この数字からも分かるように、卒業生の8割近くが何等かで中等教員の職に就いていたことは、難しいとされた中等教員の検定試験に合格していたことになる。卒業生は検定試験に合格できるだけの学力が求められた。つまり検定試験に合格出来る学力がなければ卒業させて貰えなかったのだ。必然的に落第も多かったわけである。おかしな話だが世間では落第が有名になり卒業生の評価を高めることになった。
  どんな地方に行っても、数学と物理と化学の先生は物理出身者であり、どの教師にも実力があると高い定評を受けた。ちなみに明治20年12月の学則改定で引き続き2年以上落第する者は退学と決められた。2年も続けて落第するようでは、教員検定試験の合格はおぼつかないことが予測されたからであろう。
 
      同窓会の結成は学校にも同窓にも生き抜くための急務だった
 
  現在では教員の採用から配転など教員の人事は全て各地方の教育委員会が行っている。従って県外の移動は殆んど無くなった。第2次世界大戦が終結するまでは、中学校の教員の任命と配転は校長の裁量に任されており、転勤先が見つかれば全国的な移動も可能であった。また教員の生殺与奪も校長の手に握られていた。小説『坊っちゃん』では赤シャツの策略で古賀さんが日向に飛ばされるが、この時の様子をっ坊ちゃんと下宿の婆さんの会話から窺おう。
 
 「校長さんが、ようまあ考えてみとこうと御云いたげな。それで御母さんも安心して、今に増給の御沙汰があろぞ。今日か来月かと首を長くして待って御いでたところへ、校長さんが一寸きてくれと古賀さんに御云いるけれ、行ってみると、気の毒だが学校は金が足りんけれ、月給を上げる訳にゆかん。然し延岡になら空いた口があって、其方なら毎月五円余分にとれるから、御望み通りでよかろうと思うて、その手続きにしたから行くがええと云われたげな。――」
 「じゃ相談じゃない、命令じゃありませんか」
 「左様よ。古賀さんはよそへ行って月給が増すより、元のままでもええから、ここに居りたい。屋敷もあるし、母もあるからと御頼みたけれども、もうそう極めたあとで、古賀さんの代りは出来ているけれ仕方がないと校長が御云いたげな」
 「へん人を馬鹿にしてら、面白くもない。じゃ古賀さんは行く気はないんですね。どうれで変だと思った。五円位上がったって、あんな山の中へ猿の御相手をしに行くと唐変木はまずないからね」(坊っちゃん・新潮文庫)
 
  明治20年を境にして、わが国の中等教育制度が整備されるに従って、教育社会に赤門派、茗渓派などいくつかの派閥が出来上がりお互い同士反目して勢力を競はじめた。やがて各派閥は、教員の採用から地位の消長まで大きくものを言うようになってきた。当時の官学優位の世界の中で私学の物理学校卒業生も、自分らが教育界で築いてきた既得権を擁護する手段として、また他の派閥と対抗するためにも同窓生集団をより強固にする必要に迫られた。同窓会の組織が出来たのは明治22年と、他校に比べても早いようだ。

  同窓が集まり精神的な人間関係を作ることは、自分の属する集団の利益を守ることになり、集団に属する一人一人が同窓会という組織を通して採用から転勤、昇進に至るまですべて自己の利益に直接つながるものであった。官僚の世界がそうであるように、教員の社会でも特に同窓との交流は日頃から大切であった。これらの相乗効果が理窓会(昭和24年2月20日、東京物理学校同窓会より改称)という東京物理学校同窓会を特に教育界で全国的な組織まで成長させたのである。
  物理学校から理科大学まで約1世紀にわたり多くの教員を輩出してきた母校の同窓会は教員社会に全国に有機的に広がる組織として広がりをみせると同時に母校の発展に大きく寄与することになった。このことについては後で詳しく述べたい。
 全国を県単位でわけ、さらに市町村に分割し、それぞれに責任者をおいて軍隊なみの同窓会を組織することは当時の教員社会では容易だった。現在も母校が地方で大学の説明会を開くとき、また学生の募集に同窓会の協力を強力に要請ができるのもその辺りに起因するものだろう。
 
            理窓会が教員主流だった時代  
 
  昭和28年、私がはじめて川崎市で教員として採用された時、先輩の一人が宿直の晩近くの学校から同窓を集めビールを抜き歓迎会を催してくれたことを覚えている。理窓会員になったのも確かその頃だ。機会があるごとに市内の同窓の知己が増え、1年足らずして50名近い殆どすべて市内の仲間の消息をつかめるまでに至った。
  先輩の昇進を祝い、後輩新任の歓迎会を開き、研究会や町で同窓に出あうと声を掛け合い、たまには一杯飲むときにも同窓の動静を知った。狭い地域であったこともあって同窓の交流も頻繁で冠婚葬祭の付き合いまでするほどであった。ばらばらな同窓を終結して、閉鎖的と言われながら他と対抗する必要上組織を強化する必要があった。そして「あいつは物理だ」と言われることが誇りにもなっていた。
  神奈川県の他地区を見ても同じことが言える。川崎を含み神奈川の各地区も何十年にわたり教員を主体に同窓会が組織されてきた。全国の支部を見ても同じことが言えるのではなかろうか。同窓の大半が教員になった時代であれば当然のことであった。

  だが、太平洋戦争前後から事情が大きく変わった。川崎市に多くの工場が進出するにしたがって、昔なら思いもよらなかった理科大の卒業生が技術者なって各企業に姿を見せるようになった。卒業生の就職先が学校から企業へと徐々に移り始めたのである。
  卒業生が技術者として実業界に進出が目立つようになるのは「中等教員の就職難に反し新興産業方面に技術者の需要多く、従来の理化学部の教科配当がこの方面に対して必ずしも適切でなかった。ここに応用方面の教科を加えて新時代の要求に応ずる技術者を養成し教員志望者の就職難を緩和しようとするものである」(東京理科大学百年史)と新しく第4代校長に大河内正敏を迎え昭和10年より応用理化学科(応用物理科、応用化学科)の開設以後のことである。
 
         何故卒業生が同窓会に入らなくなったか  
 
  企業で働く同窓の数を調べたことはないがその数は相当数に及ぶはずだ。同窓の数が多い企業では神楽会、○○理窓会と名づけて企業内に親睦団体を組織しているところが多数あると聞くが実態は分からない。川崎、神奈川によらず全国でも理窓会員の減少は、企業に働く同窓を組織出来なかったことに原因がある。今までに何度か理窓会の拡大発展のため企業の理窓会員の獲得を論議されたことが、具体的な手立てをさぐりえず現在に至っている。

  数年前、神奈川県支部総会を川崎地区が幹事役で開いた。会の運営は全て教員を主体とした従来の川崎の理窓会員で運営された。教員以外の会員も参加をと呼びかけたが、結果教員以外の会員の参加協力は殆ど得られなかった、と言うより呼びかける方法を持ち合わせなかったと言ってよいだろう。詳しい分析はなされなかったが、少なくとも半世紀にわたって教員によって組織されてきた理窓会が、手探りで理科大の卒業生全てに呼びかけた結果だった。
  現在まで東京理科大学の卒業生の数はおよそ15万人、理窓会の正会員(年額3000円の会費を納入している者)は1万人をはるかに下回っているのが現状だ。毎年開かれる理窓会幹事会でここ10年来会員の増強を訴えているが年とともに右下がりジリ貧の状況である。年4回に送られてくる同窓会雑誌「理窓」の支部だよりで各支部会の参加者数を見るとクラス会を開いたかと見間違う支部の多いことに驚く。
  卒業生が作る同窓会組織はただ単に旧知を楽しむクラス会、同好会のような小さいものから、学校を横並びにして組織される大きいものまである。母校のように卒業生の大半が教員になった時代、同窓会は理数科教員の専門職集団になり、全国的に教育界で強力な一つの「派閥」と言われるまでの集団として成長した。

 だが、物理学校と理科大の卒業生の数を比べると理科大になってからの数の方が圧倒的に多くなっている。ところが、最近の卒業生の就職の動向を見ると教職の分野に進む者の数が極端に減ってきた。卒業生も企業に進む者が増え理窓会の構成メンバーも大きく変わった。卒業生が日本中に分散、職域も大きく広がっている現在、従来のように教員を主体とするような軍隊なみの方法での同窓会の組織することは難しくなった。その上教育界も新会員の増加も望めず、唯一末端で理窓会を支えていた教員組織も年とともに力を失っているのが現状である。
 21世紀の理窓会はどんな姿が望ましいか分からないが、15万と言われる同窓の結集力を失った理窓会は、早急に同窓会の再構築を模索して実行に移すべきであると考えるのは私一人ではないと思う。

         明治22年、卒業生21名で同窓会を結成

  明治22年4月15日4月15日、同窓会が誕生した。22年2月までの卒業生は僅か21名だった。それでも会員は毎月1回学校に集まり理学に関する演説会や懇談会を開くなど精力的な活動を展開し組織を強化していった。6月には東京物理学校同窓会雑誌第1号を刊行、月刊に近い形で学校・同窓会の動向、論説、講義その他を掲載して、全国の同窓に発信している。同誌は明治24年12月から、『東京物理学校雑誌』と改題して月刊となり市販もされて、昭和19年まで53年間継続された。異色の科学雑誌として評判を呼んだが第623号で戦争のために休刊となった。
 注目すべきは同窓会員が卒業生だけでなく、在校生まで網羅し名誉会員として維持同盟員、教員を客員に学校全員で構成されていたことである。東京物理学校同窓会は学校と精神共同体であると同時に学校と同窓の利益共有集団でもあった。この関係は現在も続いている。 
 
         
維持同盟に代わって学校の援護者になった同窓会
 

 維持同盟が結成された明治18年当時が経済的にも一番厳しい時代だった。小川町に移転すると、下記の表のように20年には生徒数が2倍以上に増え、小川町に移転してからの生徒数の増加は目覚しい。記録によると授業料収入で学校の経常費が賄えるようになったという。学校でも18年9月、通信質問規則を設け、21年7月、東京職工学校の依頼で同校の受験予備校を開設、24年9月には農商務省権度課長の内議に応じて度量衡科を設置するなど、授業料収入の拡大を図っている。
 21年2月神田区長に届け出た授業料収入は年間、592.60円とある。(東京理科大学100年史)そして21年12月11日、建坪約145坪の小川町校舎を22,000円で東京法学校(法政大学の前身)より買収することが出来るまでになっていた。25年に書記居宅として隣家を買収、28年には物理実験室を増築している。

  明治18年始めて卒業生を出してから10年あまり卒業生の数は260名に達していた。22年に発足した同窓会有志は物理実験室の建設に併せ報徳会の組織、理化学実験器具購入資金の醵金を呼びかけて十数の物理器械を寄付をしている。これは同窓会が組織的に行った始めての寄付行為でもあった。同窓生が母校を愛し、創立者の理学普及の理想を引き継ぐものであった。

 東京物理学校同窓会規則第1条に「東京物理学校ノ目的ヲ體シ理学ノ普及ヲ助ケ併セテ同窓ノ親睦ヲ厚ウセントスルニアリ」とあり、同窓の利益集団たるべしとは書いてない。
 そして50年史には精神共同体としての同窓会を「維持会員の献身的努力と時運を揮?する識見の結実たる主義の徹底並びに理想の実現とは、茲に全然物質を超越せる純精神的徳化的校風を?成し、同窓会は漸く師弟関係を形體としてこの校風の維持及び発揮の枢要機関たるべく運命を賦せられたり」としながらも、実際は先に述べたように同窓の実利的な目的のため組織された利益集団としての働きが強かった。全国に県単位で支部を置き、所によっては支部を細分して組織を密にし同窓を組み込み教育界では他の派閥が1歩も2歩も譲る力を擁していた。事実、何処の中学校にも理数科の教員に物理学校出身の教員が力を発揮していた。

  同窓会の設立と活動については次回に譲るがその前に特に強調しておきたいのは、明治33~4年の同窓会の総会で「校舎があまりに狭くて汚い」と会員から寄付金をつのり新校舎の建設を呼びかけたところ279名が賛同し16,350円の募金が集まったことである。33年までの卒業生の数約380名実に73パーセントの同窓が醵金したことになる。これからも学校と同窓の絆の強かったことが理解できる。これを資金に小川町校舎を神楽坂に移転することができ今の大学の基礎となった。その建物は二村記念館として復元されている。
 
  明治14年に開学した母校が、小川町校舎に移転し経済的にも自立できるまでの過程を生徒数を中心に簡単にまとめると 
生徒数
明治14年?20名9月稚松学校 12月大蔵省簿記講習所
15
1640
17709月共立統計学校
18維持同盟結成
191069月成立学舎 11月小川町校舎
20237
212月21712月小川町校舎を購入
3037月職工学校受験科設置
225844月同窓会結成   
3986月同窓会雑誌刊行  
23352
375
243527月職工学校受験科廃止
4139月度量衡科設置
25350書記居宅購入
373
263147月度量衡科廃止
322
27
28
物理実験室増築

  これまで数回にわたり小川町校舎について触れてきたが、ここで神楽坂に移るまでの20年間を簡単にまとめておこう。
         
         狭く劣悪な環境で過ごした小川町校舎
 
  靖国通りから小川町1番地(現在の小川町2丁目)に折れるとすぐレンガ建て平屋の物理学校があった。この建物は東京法学校(法政大学の前身)が、もとここで営業していた勧工場を買収したもので2階建ての望楼を中央に左右対称にレンガ建ての同型の建物を配していた。右側の建物は東京法学校が使い、左側の建物は昼間、仏文会(後に仏学会に吸収される。日仏会館の前身)がフランス語の学校を開いていたものを明治19年11月、夜間だけ物理学校が借り、成立学舎から移転した。望楼の下は通路になって左右を分断していた。

  明治21年東京法学校の移転に伴い校舎は望楼から2分され、母校は左側の半分を2200円で購入、右側は印刷工場に売却されたらしい。(当時ニコライ堂の塔屋から撮影された母校の写真では、撮影位置の関係から母校が右側になっている。建物は瓦葺レンガ建て別棟の便所を合わせて約145坪、借地と記録に残っている。支弁方法については分からないが学校の経済状態から見ても自力で購入したものと思われる。建物はレンガ建てで外見はモダンな趣があったが、内部は「北極学校」といわれるほど荒れていた。北極、つまり北の極み「キタナイキワミ」と洒落たものらしい。

  レンガ建ての建物の真ん中に廊下を通し、左右を区切って教室にしており、25年の届出の記録によると教室の面積は合わせて105.5坪であった。25年前後の生徒数は350名以上在籍していたから、計算の上では1坪の面積に3名の生徒が学んでいたことになる。これでは机や椅子などを置くスペースなど及びも着かない満員の状態だったことが想像される。夜間、石油ランプを吊るし、照明も十分でない満員の教室の授業風景は想像するに余りある。教室にガス灯の設備が出来たのは30年9月のことだった。ちなみに早稲田では34年に各教室に電気照明の設備ができている。夜間の物理学校に電気照明が施されたのは神楽坂に移ってからのことである。
  満員状態を打開するため明治30年2月の入学生から昼夜2クラスに分けられることになった。本校として始めての昼間部の設置だった。ちなみに22年9月に昼間部が設置されたことがあったが間もなく中止されている。
 ニコライ堂からの写真からも分かるように当時の母校の周辺には空地が無く増築の余地が無かったがそれでも25年には書記宅として隣家を買収、28年には物理実験室1棟を建築した。これが小川町校舎の全てで明治39年神楽坂校舎に移転するまで約20年間を過ごすことになる。
  明治、中央、専修、法政など周辺の大学が立派に成長するなかで20年そのままという劣悪ともいえる小川町校舎に見かねた同窓が「母校がこの有様では」と神楽坂に新校舎を建築する運動に立ち上がる。と同時に専門学校になる夢が学校、同窓の共通の目的であった。

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2005/06/01

僅か1週間で書かれた「坊っちゃん」

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連載(10)<2005/6/1>


僅か1週間の超スピードで書かれた『坊っちゃん』



  明治39年(1906)4月、漱石が「ホトトギス」に『坊っちゃん』を発表した同じ年の2月、母校の神楽坂校舎の建築が始まり8月に完成、小川町校舎から移転した。同窓の二村富久氏の寄贈になる近代資料館は、当時の面影を正確に再現している。武家屋敷の佇まいを残した神楽坂の町並みに当時一際目立った西洋風の建物は周辺の人々から「ミュンヘンチック?」と評判を取った。

 漱石は『坊っちゃん』250枚(24X20)を3月17日頃から24日までの僅か1週間という超スピードで書き上げた。其の時期はちょうど神楽坂校舎建設の真っ最中で土台が出来たか棟上の頃だったと思う。小説の背景は母校の小川町校舎である。2月初めから始まった神楽坂校舎の新築工事を知っていたかどうかは疑問である。当時、漱石は東大と一高の講師をする傍ら小川町校舎と目と鼻の先の明治大学で1週2時間,30円の講師も兼任していた。こんなことから、「物理学校の前を通り掛ったら生徒募集の広告が出ていた」と『坊っちゃん』を書き始めたのではないだろうか。当時の明治大学は小川町校舎と至近距離にあった。

  気分晴らしにと虚子の勧めで書いた『我輩は猫である』が本人がびつくりするほどの評判になり、漱石が本格的に小説に取り組むようになった明治38年、続いて『坊っちゃん』を出した明治39年は漱石にとってもっとも創作意欲の盛んな時期だった。『我輩は猫である』の合間を縫って『坊っちゃん』に続き矢継ぎ早やに「新小説」の9月号に『草枕』、「中央公論」の10月号には『二百十日』が掲載された。ちなみに『我輩は猫である』10章と『坊っちゃん』が同時に掲載された「ホトトギス」の4月号は大変な人気で、発行された5500部は直ちに売り切れたという。
 
  このときの様子を「・・・・・『猫』の続きのほかに、『坊っちゃん』や『草枕』などを書きまして、ほとんど毎月どこかの雑誌に何か発表しないことはなかったくらいでしたが、書いているのを見ているといかにも楽しそうで、夜なんぞもいちばんおそくて十二時、一時ごろで、たいがい学校から帰ってきて、夕食前後十時ごろまでに苦もなく書いてしまうありさまでした。何が幾日かかったか、今そんなことをはっきりは覚えておりませんが、「坊っちゃん」『草枕』などという比較的長いものでも、書き始めてから五日か一週間とはでなかったように思います。多くは一晩か二晩ぐらいで書いたかと覚えております。もっとも自分ではどんな苦心やら用意やらを前々からしていたものか知りませんが、傍で見ているとペンをとって原稿紙に向かえば、直ちに小説ができるといったぐあいに張り切っておりました。だから油が乗っていたどころの段じゃありません。それですもの書き損じなどというものは、まつたくといっていいほどなかったものです。・・・・・」(夏目鏡子述 松岡譲筆録 『漱石の思い出』 文春文庫)と鏡子夫人は語っている。
 鏡子夫人が言うように「ペンを取って原稿紙に向かえば、直ちに小説が出来る」にしても1週間で250枚の原稿を一気に書きあげた創作意欲は何処から生まれてきたものか、天才で無い限り「苦心やら用意やらを前々からしていた」ものがあったからこそ突然、構想が生まれたのである。本人が「国民新聞」の記者のインタビューで答えたように「・・・・・3日許り前に不意と浮んでずるずる書て了ったんです」という訳でもあるまい。
 
何が漱石に『坊っちゃん』を書かせたか 
 
  漱石の頭の中にもともと『坊っちゃん』を書かせる何かが存在し、それを長い間考え続けていたからこそ、『坊っちゃん』の構想が生まれたと見るべきである。それが何かは明治39年春に行われた入学試験の「英語学試験囑托辞任」の問題にあったと見るのが大方の人の意見である。
  当時、東大英文科の入学試験は慣例として教授会は問題をきめるだけで後は一切手を出さず、試験監督、採点、集計など煩わしい仕事は全て講師がすることになっていた。将来、教授の席や博士号が欲しい者は当然のように教授会の言う通りに誰も従わざるをえなかった。  
  この年もしきたりに従って教授会は一方的に夏目講師に試験委員を命じてきたが、彼はこの命令をあっさり断ったことが事件の発端となった。大学はじまって以来の出来事に教授会から一斉に非難の声があがり、姉崎正治教授らが心配してなだめるという一幕があったようだが、漱石の意思は固かった。

漱石の書簡に見る「英語学試験囑托辞任」問題

  この時の経過を漱石の書簡から探ると、2月15日、漱石の姉崎教授宛の手紙は「学校で立談御互意志の通ぜぬ所もあるから改めて手紙で愚存を申し上げる」から書き出し、囑托辞任の理由を二つあげている。

 一つ目に「辞任の理由は多忙という事に帰着する。僕は一週間に三十時間近く課業をもって居る。是丈持たなければ米塩の資に窮するのである而してそれ以外にも用事がある。読書もしなければならぬ。だから多忙といふのは佯りのない所で尤な理由である」
  二つ目に「次に僕は講師である。講師といふのはどんなものか知らないが僕はまあ御客分と認定する。大学から普通の教授以上丁重に取扱はれてもよいと考へて居る。大学の方ではさうは思はんかも知れんが僕の方ではさう解釈してゐる。従って擔任させた仕事以外には可成面倒をかけぬのが禮である。・・・・・自分たちが面倒な事を勝手に製造して置いて其労力丈は関係の無い御客分の講師にやれといふ理屈はない」
  さらに付け加え「○○○○は僕を以って報酬がないからやらんのだと教授会で報告したそうだ。其解釈は至当である。僕自身もさう考えている。僕の様なものに手数(擔任以外の)をかけるには金銭か、敬禮か、依頼か、何等かの報酬が必要である。それがなくて単に・・・・囑托相成候間右申し進候也という様な命令なら僕だって此多忙の際だから御免蒙るのはあたり前である」

  2月17日再度姉崎教授に送った「君の返事は拝見した。個人としての御忠告は難有感謝する」と始まる手紙には 「・・・形式的に拘泥した澆季の風習だ。二十世紀は澆季だから仕様がないが、俗吏社会、無学社会ならとにかく、学者の御そろひの大学でそんな事をむづかしく云ふのは大学が御屋敷風御大名風御役人風になってるからだよ」
 「語学試験なんか多忙で困ってる僕なんか引きずり出さなくったつて手のあいて居る教授で充分間に合ふのだ。僕なんかは多忙のうちに少しでもひまがあれば書物を一頁でも読む方が自分の為にも英文学科の将来の為にもなると思って居る。語学試験を引き受けないでけしからんと思ふなら随意に思ふがよい。○○さんなんか何と思ったつて困りやしない。少々こんな謝絶に逢ふ方が人間といふものが理解されていゝのだ。学長たるものは只歴史の大家になったつて駄目だよ。少し世の中の人間はこんな妙な奴が居つて講師でもそんなに意の如くにはならないといふ事を承知させるがいゝのだよ」と大学の権威にのり威張り腐って漱石を非難する無能な大学教授たちを見事に一刀両断に切ってのけたのである。現在の大学でも通用するような見事な抗議文である。
 
猫にビールを飲ませて東大教授の道をみずから断つ   
 
 23日、坪井九馬三文科大学長宛の手紙で辞任問題に決着をつけている。
 「教授会では小生の辞退の理由を至当と認められたさうでありますが是は小生の深く教授会に対して謝する所であります。然しそれにも関らず強いて小生に委員たれとご依頼になるのは小生に取って非常の光栄とは思ひますが此光栄たる少々自ら雙肩に擔ふを恐れたく思ふのであります。・・・・・かう申すと何か無闇に頑固を主張する様で甚だ済みませんが、私の方から教授会の御意見を伺ふと教授会の方が無理を云って入らっしゃる様に聞えます。実際出ないでも済むものを無理に出して二百人の答案をしらべさせる杯は人が悪いじゃありませんか。どうか御助け下さい」
 教授会は辞退の理由を認めたから、試験委員にはなってくれという坪井学長の依頼を手紙できっぱりと断ったのである。
  つまり講師だからといって教授会が担任以外の仕事を権威を傘に命令的に押しつけられる理屈は無いというのだった。あまりに愚劣な教授会の常識からかけ離れた天下り的な権威構造に我慢がならなかったのである。事実、東大、一高、明大の講師を兼任、夜は夜で創作意欲に燃えていた漱石は多忙だったが、教授会に逆らい試験委員を辞任することは、「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」敢えて教授と博士の肩書きを放棄することでもあった。明治39年8月号の「ホトトギス」で猫にビールを飲ませ水瓶に南無阿弥陀仏と成仏させ、よく明治40年4月一切の教職員の仕事を辞めて東京帝国大学講師夏目金之助はプロ作家の道を歩み始めたのである。

ユーモア小説『坊っちゃん』を通して東大教授会を風刺
 
 
明治39年3月上旬『猫』の10章を書き上げ一息ついた漱石に、丁度1ヵ月ばかり前の2月におきた「入学試験委員辞任の出来事」が突如として怒りとなってこみ上げてきた。この権威を傘に着た教授会の理不尽さを一つ小説に仕上げてやろうと『坊っちゃん』の原稿が『猫』の途中であったのにもかかわらずスタートしたと見られる。これが鏡子夫人のいう「苦心やら用意やらを前々からしていた」ものになって1週間で一気に書き上げることになった。
  たしかに『坊っちゃん』の背景はバッタ事件にしろ、温泉湯壷の水泳事件も松山中学校時代の経験に基づくものが多いが、「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」ことを承知で御座敷風、御大名風、御役人風になっている東大文学部の教授会に小説を通してものを申したのである。特に松山中学の職員会の場面は権威主義に陥った東大文学部教授会そのものが見え隠れする。

  文学士赤シャツのホホホホと笑う様子や、金鎖りを着け、琥珀のパイプを絹のハンカチで磨く有様、気取った歩き方まで東大文学部の教授の姿を彷彿させる。バッタ事件を働いた寄宿生の処分を決める会議では校長の狸はつぎの様に冒頭の挨拶をする。
 「学校の職員や生徒に過失のあるのは、みんな自分の寡徳の致すところで、何か事件がある度に、自分はよくこれで校長が勤まるとひそかに慚愧の念に堪えんが、不幸にして今回もまたかかる騒動を引き起したのは、深く諸君に向って謝罪しなければならん。然し一たび起った以上は仕方が無い。どうにか処分をせんければならん。事実は既に諸君の御承知の通であるからして、善後策について腹蔵のない事を参考の為めに御述べ下さい」と校長が述べるやいなや、赤シャッは間髪を入れず
 「・・・・・事件その物を見ると何だか生徒だけがわるい様であるが、その真相を極めると責任は却って学校にあるかも知れない。だから表面上にあらわれたところだけで厳重な制裁を加えるのは、却って未来の為によくないかとも思われます。かつ少年血気のものであるから活気があふれて、善悪の考はなく、半ば無意識にこんな悪戯をやる事はないとも限らん。で固より処分法は校長の御考にある事だから、私の容喙する限ではないが、その辺を御斟酌になって、なるべく寛大な御取計を願いたいと思います」とつづける。

  突如現われた反乱者に校長の狸と教頭の赤シャツは狼狽しながらも教育者としての地位と誇りを失うまいと必死に慇懃な態度を装い過去の慣習に結論を求めようとする。漱石の予期せぬ試験委員辞任に際して開かれた教授会そのものである。『坊っちゃん』は何度読んでも楽しめるユーモア小説だが、その中で誰も気が付かぬように漱石は坊っちゃんに日本で東大教授会の内情を小気味のいい江戸弁でやっつけさせたのである。
 

「坊っちゃん」のモデルは漱石自身? 

  赤シャツ、野だいこ、狸、山嵐、うらなりなど松山中学だけで無く日本中どこの中学にでもある教師のアダ名である。松山中学の誰をモデルにしたと論じられることもあるが、東大文学部にいた教授に置き換えたものだとあったと見るべきであろう。
  そして「坊っちゃん」と山嵐の二人はは松山を去るにあたって、赤シャツと野だを街外れの杉並木まで追跡して徹底的に叩きのめし積もりに積もった鬱憤に溜飲を下げる。ここまで来ると誰も1人称で書かれている小説の主人公江戸っ子の「坊っちゃん」自身、夏目漱石だとはっきりしてくる。そう考えると『坊っちゃん』の読み方も大きく変ってくる。
  松山に行くと『坊っちゃん列車』『坊っちゃんスタジアム』など「坊っちゃん」が市民に広く親まれ、町起しにも使われ『坊っちゃん饅頭』『坊っちゃん団子』と土産物は全てといってよいほど冠に『坊っちゃん』が付いている。中には登録商標まで付けて『坊っちゃん』を独り占めしている商品まであるようだ。最近理科大の学食を経営している神栄サービスが『坊っちゃんのふるさと』なる饅頭を売り出した。そのものズバリ「坊っちゃん饅頭」と命名したらと問いかけたら商標の問題でという答えが戻ってきた。
 『坊っちゃん』がユーモア小説として愛されている限り漱石は「してやったり」とほくそ笑んでることだろう。しかし、理科大の関係者は「坊っちゃん」が卒業した時代、物理学校がどんな学校だったか、また『坊っちゃん』書かれた意図にどんな意味が込められていたかはっきりすることで「坊っちゃん」をより身近に理解することが出来ると思う。
 
本時代、漱石に能を教えた維持同盟者櫻井房記
 
  さて、漱石と物理学校との出会いだが、前回にも紹介した維持同盟者の一人櫻井房記が熊本第五高等学校の教員時代、明治29年から33年まで漱石と一緒に在職していた。職場の同僚であったとしても一番長い付き合いであったといえよう。プライベイトでは金沢宝生流の先生でもあった。熊本時代の櫻井房記については漱石の日記、鏡子夫人の『漱石の思い出』に書かれているが、東京に戻ってからの二人の交渉は私の知る限りでは分からない。
  桜井は母校の創立者の一人であると共に創立当時から明治23年熊本に赴任するまで8年あまり学校の運営から教員まで勤めていたから、漱石に物理学校の話をしたと考えてもよいだろう。33年、桜井が工学部長から五高の校長に就任した時、漱石は教頭代理の職にあったらしい。

 漱石は33年5月に英国に留学36年1月に帰国する。桜井は漱石に熊本に戻ることを望むが3月五高を辞任、3月から本郷区(文京区)駒込千駄木町54に移る。4月東大と一高の講師を兼任し38年『猫』39年に『坊っちゃん』を執筆して文名を高めた。39年9月に小石川区(文京区)西片町10に移転し40年9月には神楽坂に近い牛込区(新宿区)早稲田南町に住居を移し終焉の地となった。漱石は慶応3年、牛込区(新宿区)喜久井町1番地に生まれ、幼い時から神楽坂に慣れ親しんで育ったが『坊っちゃん』を発表した時代には、駒込千駄木町に居があり神楽坂から遠ざかっていた。
 (作品の引用 『坊っちゃん』新潮文庫、『漱石全集』岩波書店)


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2005/05/01

開校当初講義内容が難しく

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連載(9)<2005/5/1>

 
 開校以来、小川町校舎に落ち着くまで7回も所在地を変更した時代を詳しく知りたいという望がありましたので、連載とは別に当時の母校の様子を色々な方面から探ってみたと思います。
  簿記講習所と統計学校は明治初年政府が官吏を養成した政府機関で学制が出来上がると商業学校などに吸収されていきました。

  進文学舎、成立学舎は共に当時有名な東京大学予備門の進学予備校で主に英語を教えていたようです。教師は東京大学の学生が学費稼ぎであたるものが多く、逍遥や漱石などもその一人でした。ですから講義は朝早く、午後は遅く始まったようです。交通機関の殆ど無い時代学生は、塾に近い神田周辺の安下宿に仲間と生活したり、塾舎に寮があるのも進学塾の呼び物だったようです。


 
東京物理学校は政府機関や進学塾を夜間借用して授業を行っていました。照明といえば石油ランプ、成立学舎などは環境が悪く窓に戸がないという状態で風どうしもよく夜学の母校の冬の授業は想像に余りあります。世間の目には母校は塾以下の存在にしか映らなかったと思います。
 明治時代の神田界隈の地図で物理学校の存在を確認するのは容易の業ではありません。現在の東京理科大学の存在感に比べたら問題にならぬほど小さく、間借りの学校の存在など目に入らず、地図にも載らなかったのでしょう。
  小川町時代に入り母校の卒業生が中等学校教員として全国に散らばり、中学の卒業生なら誰でも数学と理科で世話になったと言われるまでになりました。しかし、明治37年施行された教員免許状無試験検定の資格をとれる専門学校令に母校は認可されず大正6年まで各種学校として取り残されました。漱石の「坊ちゃん」が本校で学んでいたとされる時代です。「坊ちゃん」はチエが無く、無鉄砲な人間でしたが物理学校を卒業したというだけで教員免許状が無くても世間では先生として立派に通用しました。「坊ちゃん」は先輩の業績で先生になれた
言っても間違いはありません。  
 専門学校になれなかったのは卒業生が実力があると世間で評価されても学校の規模があまりに小さかったからだと思います。母校を専門学校に育てたのは同窓の力でした。同窓も増え、同窓会も維持会に勝る組織と経済力を持ち、神楽坂に新校舎を建設するまでに成長しました。そして、維持会に代わり開学の理想を引き継ぐことになりました。

開学当初の東京物理学講習所
         講義内容が難しく、教師も生徒もお互いに苦しんだ
  

 
明治14年麹町飯田橋4丁目の稚松学校に東京物理学講習所を開学してから現在の神楽坂2丁目に移るまで7回、所在地を変更している。なかでも開学から明治20年、神田小川町校舎に落ち着くまで約6年間の移転は5回と目まぐるしい。
  若き21名の青年学士が「理学普及を以て国運発展の基礎とする」の理想に燃えて始めた学校であったが、開学当時20名ほどの生徒も次第に減り1名になったことが2度もあったと東京物理学校50年小史は伝えている。この原因を講義内容の難解さもさることながら、教師の指導力にあったとしているが、フランス語で物理学を学んだものが科学的知識の皆無といっていい日本人に講義を行ったことは頭が下がるより、むしろ滑稽にさえ思える。
「・・・・此頃ハ衰微ノ極ニ沈ミタル時ニシテ生徒ハ浅村三郎唯一人ノミナリキ、此人ハ後大阪ニテ特許代願ヲ業トセラルルガ毎晩熱心ニ通学セラレタリ、又文部省ニ勤メラレシ教育家千葉實氏モ亦熱心ニ来学セラレタレド浅村氏トハ時期ヲ異ニシタル為メ是モ唯一人ニテ当時先生ハ實ニ拾有八名トイフ有様ナリキ、蓋此ノ二氏ハ本校ノ恩人ト謂フモ過言ニ非ラズ何トナレバ若シ生徒一人モ無カリセバ学校事業ヲ継続シタリシヤ不明ナレバナリ・・・・」(50年小史より)               [注]浅村氏、千葉氏ともに卒業はしていない。


 
当時の「規則要領」(明治15年11月印刷)によると、「本校ニ於テハ中学以下ノ学校教師タル者又ハ中学以上ノ学術ヲ脩メント欲スル者ニ適スル物理学科及数理学科ヲ授ク」とある。「理学普及」の理想を教師の養成に託しているように見られるがが、目標達成までまだしばらく時間を要した。上記の浅村氏、千葉氏の二人は規則の後半の部分に当てはまるもので職業上物理学の知識を必要としたものだろう。
  当時の世相からして、卒業しても何の資格も無い、直接職業に結びつかないような学校には人気が無かったようだ。技術は徒弟で住み込み、親方から学ぶ時代であったのである。「理学普及」の理想実現には程遠い茨の道だったのである。教師が夜間学校へ授業に来ると生徒が一人もおらず、空しく引き上げたことすらあったという。

  その様な状態のなかで、学校設立者を窮地に追い込んだのは学校維持の経費、つまり経済問題だった。教師の手当ては必要ないにしても、毎月、家賃、光熱費、実験器具を東京大学から運ぶ運搬費など合わせて4,50円がどうしても必要だった。授業料は決められていたものの収入は皆無に等しかった。理想と現実の狭間で若き創立者たちは理想を取り現実はポケットマネーの拠出で補った。学校経費月額50円を20人で分担するとして1人2.5円、小学校教員、警官の給料が15円だった時代である。

学校の危機を救った   
        東京職工学校の開設と教員検定試験の施行
               受験準備に予備校として受験生が集まる


 
この状態から母校が脱出できたのは明治14年5月26日、文部省が東京職工学校を蔵前に設立したことによることが大きい。授業を開始したのは翌15年11月だが、職工学校の受験生が予備校として入学するものが年とともに増加した。ちなみに母校は明治14年9月11日に開校している。加えて明治18年から中等教員免許状の文部省教員検定試験が始まりその受験準備のために入学生の増加を見ることになった。つまり、物理学校の理想「理学の普及」はどうであれ周囲の要望で職工学校と中等教員検定の予備校的な役割もはたすことになり、それが学校経営の財源にもなった。

  明治36年「専門学校令」(勅令61号)が公布されているが、母校が専門学校になり中等教員無試験検定の資格を得たのは、それからずつと後の大正9年のことであった。それまでの間、多くの理数科の教員を全国に輩出した母校はつまり中等教員検定試験の予備校、各種学校にすぎなかったのである。寺尾寿、三輪桓一郎、千本福隆らはその学力試験委員を勤めていた。特に寺尾は第1回からに二十回以上にわたって毎年学力検定試験に尽力している。
 当時、中等教員になるためには高等師範学校を卒業しなければならなかった。明治33年の「教員免許令」
令134号)によると「特定ノ規定アル場合ヲ除クノ外本令ニ依リ免許状ヲ有スル者ニ非サレバ教員タルコトヲ得ス但シ文部大臣ノ定ムル所ニ依リ免許状ヲ有セサル者ヲ以テ教員ニ充テルコトヲ得」とある。事実、明治末期の全国の公私立中学校では3分の1以上が高等師範を卒業しない、いわゆる無免許の教師が中等教育を支えていたのである。
 物理学校を卒業して無免許で教職に就き、何年か経験を積む傍ら勉強に励み、中等教員の検定試験に合格して正規の教員になるといったケースが多かった。実力があると定評のあった物理学校の卒業生は正規の免許状無くても漱石の「坊っちゃん」のように物理学校を卒業して8日目に四国の中学校からお呼びがかかったのである。
  明治末期には「坊っちゃん」が無免許で教員になれたのは、世間で母校が信用を博していたからで、数学と物理・化学の教員は物理学校出身ということが常識と言われるまでになっていたからである。常識は日本中の中学だけに止まらず、遠く朝鮮、台湾、中国までに及んでいたのである。


 
明治20年から37年までの間、卒業生369名(死者23名、行方不明者17名を除くと329名)の内中学校長、教諭及び教員168名、教員助手等53名、師範学校教諭、教員17名、計238名(72.34%)が中等教員として教鞭を振るっていた。教員検定試験に合格した者の中には、母校卒、在籍者、中途退学者が多かったことを見ても、いかに母校が中等教育界に多数の教員を送り出していたことか分かる。
 日本の有識者の大多数が中学時代、物理学校出身の教師の世話になったと言える。また、母校の存在感があった。しかし一方、技術官27名、実業家20名と少なかった。この方面での母校の卒業生の活躍は理科大になってから目覚しい。

簿記講習所から進文学舎時代
 
 明治14年9月飯田町4丁目の稚松学校を借用して開校した母校は、小学校施設を使用するという不便さから3月あまりで同年の12月神田錦町1丁目1番地大蔵省官吏簿記講習所を借りて移転した。講習所は、明治4年簿記学伝習所として大蔵省銀行局が開設、明治12年錦町に移るが、後一橋大学に吸収されたという。  
 15年9月、本郷元町2丁目進文学舎に移るが、何せ明治初年に始められた大学進学予備校というより個人の塾といった畳敷きの教室で、教師が立って授業を行い、生徒は車座に坐って聞くという不便な状態が続いた。机があったかどうかも定かでない。

 当時、大学といえば東京大学があるだけで、それも全生徒合わせて3000人、あとは私学で、慶応義塾、東京法学校(法政大学)、明治法律学校(明治大学)、英吉利法律学校(中央大学)、専修学校(専修大学)、東京専門学校(早稲田大学)の外は、おびただしい私塾であり、それが神田界隈に集まり大学進学塾つまり予備校をかねていた。
  その頃、東京の新しい人種といえば「書生」と「人力車夫」だった。明治15年の東京の人力車の数は2万5千台というから2,3万の車夫がいたことになる。車夫と書生が同数いたというから少なくても2,3万の書生が神田界隈に集まっていた。「書生々々と軽蔑するな 明日は太政官のお役人」(明治14年流行)と書生節に歌われたように全国から集まった書生は皆といってよいほど官吏になり出世することを夢見ていた。
 
ようやく建てた今川小路の校舎が暴風で倒壊、再び仮住まい
 
 
東京職工学校の受験者が増えるにしたがい、生徒数の増加があり、神田今川小路3丁目9番地の奥に土地100坪を借りて創立者が醵金を行い、木造建物22坪、うち教室12・5坪の校舎を建築し、定員80名、教員18名、校費は授業料で賄うが、不足が出た場合教員が醵金すると言う約束で明治15年暮れに東京府から移転が認可された。稚松学校と丁度日本橋川を挟み反対側にあたる。  
 だが、学校経費負担は創立者に重くのしかかり、次第に物理学講習所の存続の可否にまでの論議に及び、明治16年7月に開催された「物理学講習所改革総会」で「講習所ハシバラク此侭ニ(多ク更ニ費用ヲ募ル等ヲ事ヲナサズシテ)存続シ置クベキ事」として決定され何とか学校の存続がきまった。
 そして翌、明治16年9月には、東京物理学講習所を東京物理学校と改称、フランス留学から帰朝して東京大学理学部講師となったばかりの寺尾寿を初代校長に決めた。新校舎も完成、新しい学校の出発であった。               
                 
 
だが、年明治17年9月15日、東海道を襲った暴風雨は特に静岡県、東京府に大被害をもたらした。被害をまともに受けた母校の校舎は不幸にも倒壊してしまった。全てを水泡に帰した母校は振り出しに戻ったのである。創立者の心境はいかばかりか想像に余りある。幾度も相談を重ねたが建築資金の出る当ても無く、再び借家住まいから出発することになった。
 創立者は校舎探しにも懸命だった。この様子については前回少し述べたが、東京大学から実験用具を借用している都合で当時一ツ橋にあった東京大学に近いという条件をクリアする必要があった。
 10月、靖国神社付属地(現在の九段阪下公園内)の共立統計学校を5時から9時まで夜間借用する事ができ、授業を再開することが出来た。共立統計学校は長崎出身の開成校を出た杉享二が明治15年設立したもので簿記講習所と同じく官吏の技能養成校であった。   

 
不幸中の幸いとはこのことを言うのか、倒壊した校舎の古財が建築費の5パーセント売れ、諸費用に当てることが出来た。とは言え、新校舎の建築と暴風雨による倒壊は、学校の致命的な経済的危機に及ぼし、それは取りも直さず直接、教員の懐に響くものであった。
 それまでも東京物理学講習所の開設以来、講義は無料で奉仕し、赤字は創設者全員で負担してきたが、ここに来て物理学校を存続するために、設立者は自らに更なる負担を強いることになった。その結果が東京物理学校維持同盟である。母校の経営の最も苦しい時代であった。

  明治18年、開校以来校舎を建て、学校経費の赤字部分を負担してきた創立者はさらに、学校の維持存続のため東京物理学校維持同盟を結成することで決意をあらたにした。
 創立者21名の内すでに2名は死去、3名は加わらず16名が維持同盟に参加した。維持同盟規則から、当時の状況をしのぼう。

                    東京物理学校維持同盟規則
第1条 東京物理学校ヲ維持スル為メ左ノ諸条款ニ掲クル義務ヲ負担シ及ヒ其権理ヲ亨有スル者ヲ東京物理学校維持同盟者トス
第2条 東京物理学校維持同盟者ハ本校維持費トシテ明治19年4月以降金30円ヲ寄附スヘシ
此寄付金ハ必シモ一時納入ヲ要セスト雖モ毎月1円ヨリ少カラサル金額ヲ納ムルコトヲ要ス
第3条 東京物理学校維持同盟者ハ本校ニ於毎週テ2回ツヽ講義ヲ行フノ義務ヲ負フ者トス
本校ノ都合ニヨリ此定数ノ外別ニ講義ヲ課スルトキハ講義1回コトニ金25銭ヲ本校ヨリ講義者ニ交附スヘシ

在京セサル者及ヒ本校ノ都合ニヨリ若シクハ事故アリテ定数ノ講義ヲ行ハサル者ハ講義ヲ闕クコト1回コトニ金25銭ヲ以テ本校ニ出金スヘシ
第4条 東京物理学校維持同盟者ニシテ在京セサル者ハ第2条ノ寄付金ト第3条ノ出金併セテ毎月2円ヨリ少カラサル金ヲ本校ニ送ルヘシ
第5条 東京物理学校維持同盟者ニ限リ本校ノ財産ヲ共有シ及ヒ本校ノ負債ヲ負担スヘキモノトス
 
  さいわいにして明治20年頃になって母校も授業料で学校の経費が賄えるようになり、維持同盟者はようやく寄付金から逃れることが出来た。
 
化学実験で火事の危険を危惧                         
          家主に追われ成立学舎に移る


  明治18年9月の学則の改定で修業年限が2年になり、新たに指導科目に化学が加えられた。ところがこの化学が災いして「物理学校は化学を教えるから、実験で火事を起こす心配がある」という理由で立ち退きを迫られることになった。何回かの交渉に及んだが、話し合いはつかず、明治19年9月駿河台の成立学舎に一時移ることになった。
  しかし、成立学舎にいたのも束の間、11月には小川町校舎に移転している。

母校が借りた進文学舎・成立学舎は
               東京大学予備門の予備校だった 
    

  明治10年、東京開成学校と東京医学校が合併、東京大学と改称すると共に大学に付属させる予科予備門を創設した。このことによって、小学校から大学までの学制がひかれ当時唯一の最高学府東京大学を目指す若者が続々と上京してきた。それに応えるかのように東京大学の周囲には予備門を受験する学生の塾と称する予備校が乱立することになった。漱石、子規、鴎外などみな予備門に入る前に世話になっている。この慣習は現在まで続いている。
  当時、中学校で英語を学んで卒業したものは殆ど無試験で予備門に入れたようだ。しかし漱石や子規のように英語の学力の無い者は入学が難しく、そのため大抵の者は入学試験準備のために英語の塾舎に通った。
  母校が開学当時わずかな期間だが間借りした進文学舎、成立学舎ともに予備門進学のための予備校で明治の著名な文学者が在籍したのでその名は文学辞典にまで記載されているが、間借りしていた物理学校の名前は出てこない。進文学舎、成立学舎、共立学舎などが有名で、東京大学の学生の学費稼ぎの教師が多かったようだ。
 おそらく母校は、夜間、使われることの無い寺子屋のような進学塾の一室を借りて、ランプを灯し、理想を高く、毎夜学習を続けていたのであろう。塾の様子については、成立学舎のところで取り上げたい。

進文学舎は鴎外がドイツ語を学び
            坪内逍遥が英語を教えていた進文学舎


 進文学舎(社) 本郷元町2丁目、本郷壱岐坂上の交番から右に入り右側、現在の本郷1丁目、桜陰高・中の辺りにあった。東京物理学講習所が明治15年9月より同年今川小路3丁目に自前の校舎が完成する暫くの間、間借りしていた所だ。
  高松藩・上橘機郎が設立、明治18年頃まで大学進学予備校として存在していた。明治12年、坪内逍遥が東京大学文学部に入学した頃から16年7月卒業したあとまで進文学舎に関係して英語を教え、若い学生の面倒をみている。逍遥は16年9月高田半峰(早苗)の勧めで早稲田と因縁を持つことになるが、母校が進文学舎に間借りしていた当時昼間、坪内逍遥は同所で英語を教授していたことになる。
  また、森鴎外は明治5年10歳から2年間同所でドイツ語を学び、2年後東京医学校予科(東京大学医学部の前身)に入学、14年東京大学医学部を20歳で卒業している。    
 正岡子規は16年6月松山から上京、一時須田学舎に入るが後共立学舎(開成中学の前身)移る。そして翌17年東京大学予備門に入学するが、子規は進文学舎で坪内の英語の夏期講習を受けたというが、16年の夏ということになる。
  子規が進文学舎に在学した時は母校が転出した後ということになる。校舎は畳敷きで机などもなく、先生を真ん中に車座に坐って暗いランプの下で講義を聴いた様子が想像される。

漱石が学んだ成立学舎 

  進文学舎、共立学舎、後で出てくる成立学舎のように当時東京大学の周囲から神田界隈には東京大学予備門に進学希望者に勉強させる語学の予備校がたくさん存在していた。
 成立学舎 淡路町2丁目(現在駿河台4丁目)母校が明治19年9月から2ヶ月間小川町校舎に移転するまで夜間借用した。近くに関東大震災で倒壊した石づくりの万世橋が神田川にかかり眼鏡橋と呼ばれ市内の名所となっていた。周辺は神田川沿いに火除け地になっていた。
  明治15年、笹田総右衛門が設立した成立学舎には明治16年、夏目漱石が東京大学予備門に入る準備、英語の学習のため入学している。17年に予備門に入学しているから、母校との出会いは無い。
  漱石は「私の経過した学生時代」の中で成立学舎の様子を次のように書いている。
 
 「・・・・その頃、私の知っている塾舎には、共立学舎、成立学舎などというのがあった。これ等の塾舎は随分汚いものであったが、授くるところの数学、歴史、地理などいうものは、皆原書を用いていた位であるから、なかなか素養のない者には、非常に骨が折れたものである。私は正則の方を廃してから、暫く、約1年許りも麹町の二松学舎に通って、漢学許り専門に習っていたが、英語の必要――英語を修めなければ静止していられぬという必要が、日一日と迫って来た。そこで前記の成立学舎に入ることにした。
 この成立学舎と云うのは、駿河台の今の曽我祐準さんの隣に在ったもので、校舎と云うのは、それは随分不潔な、殺風景極まるものであった。窓には戸がないから、冬の日などは寒い風がヒュウヒュウと吹き曝し、教場へは下駄を履いたまま上がるという風で、教師などは大抵大学生が学費を得るために、内職として勤めているのが多かった。・・・・」
 漱石自身大学に通う傍ら江東義塾の教師、東京専門学校の講師を勤めている。
 
          
当時の物理学校を知るいい手がかり
            「坊っちゃん」から読み取れる物理学校の評価

 「黙れ」と山嵐は拳骨を食わした。赤シャツはよろよろしたが、「これは乱暴だ、狼藉である。理非を弁じないで腕力に訴えるのは無法だ」 「無法で沢山だ」とまたぽかりと撲ぐる。「貴様の様な奸物は撲らなくっちゃ、応えないんだ」とぽかぽかなぐる。おれも同時に野だを散々に擲き据えた。
   祝勝会の日、中学と師範の生徒同士の喧嘩に巻き込まれた坊っちゃんと山嵐は顔面に人前に出られぬような怪我を負ってしまう。その上に新聞にまで書かれ、町中でも評判になりさらに事件は尾を引いていく。山嵐は「ああやって喧嘩をさせて置いて、すぐあとから新聞屋へ手を回してあんな記事をかかせたんだ」と喧嘩に巻き込んだのは赤シャツの策略と坊っちゃんに言い聞かせる。

 山嵐は辞表を書く羽目なり、単純な坊っちゃんはこれに同調する。すっかり山嵐の言いなりになった坊っちゃんは、教師を辞めて四国を去る決心をする。去るにあたり山嵐の計画通りに門屋から出た赤シャツと野だを街外れの杉並木で捕まえようとあとをつけ、徹底的に叩きのめし積もり積もった鬱憤を晴らす。だが、小説「坊っちゃん」はこの格好のいい場面から主役を山嵐に譲って物語は終わる。江戸っ子で無鉄砲を自負する「坊っちゃん」の結末としたらいささか後味が悪い

 
「どうしても早く帰って清と一緒になるに限る。こんな田舎に居るのは堕落しに来ている様なものだ。新聞配達をしたって、ここまで堕落するよりはましだ」と考えながらも「どうも山嵐の方がおれよりも利巧らしいから万事山嵐の忠告に従う事にした」と山嵐に加担することになってしまう。そして「おれと山嵐は不浄の地を離れた。船が岸を去れば去る程いい気持ちがした」とさりげなく四国を後にする。
 ここでの「坊っちゃん」の行動は文学者がもっとも興味のあるところらしいが、全く別の観点で物理学校の卒業生としての「坊っちゃん」が約3カ月の間に教師から街鉄の技手に変わった状況について考察してみたい。


 
東京に戻った坊っちゃんは街鉄(東京市街鉄道)の「技手」となり清と一緒に四国の時代とはうって変わって静かに暮らすことになる。給料は松山時代の教師の月給40円がから25円に下がる。数字は当時の収入から見たら妥当な額だがその時代の中学教師の給与水準が高かった。
 「坊っちゃん」が書かれた明治38年は、卒業しても何の資格も無い物理学校だが卒業生の能力は実力共に高く評価され全国に知れ渡っていた。無鉄砲に入学した物理学校だったが、彼の行き先には高い知識を要求される教師の社会と、街鉄という当時花形の技術畑が待っていた。だからこそ当時としたらかなりの高給で処遇されたのである。
 
教員免許状無くても日本中何処でも立派に教員として通用した

 
20世紀始め、わが国の中学校と生徒数の伸びは著しく、文部省の統計によると明治33年(1900)には194校(生徒数78,315名)であったものが、坊っちゃんが教員になったと考えられる38年になると259校(生徒数104,968名)に増えている。わずか6年間で学校数で1.24倍、生徒数で1.34倍の勘定になる。この間教員数は、公立中学校だけを見ても3,726名から5,084名と1,358名に増加している。
  明治34年から38年までの5年間に高等師範を卒業した者の数は829名であり、単純な計算でも相当数の教員を高等師範の卒業生以外から補充していたことがわかる。さらに高等師範の卒業生から高等女学校や師範学校の教師に流れた者を除くと、実際に中学校の教師になった者はもっと少ない。この欠員を物理学校などを卒業した無資格の教員が埋めていたのだ。

  だが、高等師範の卒業者以外が中等教員の免許状を取得するのには文部省が実施する検定試験をパスしなければならなかった。
 現在では無免許の教員など考えられないが、明治後期から大正の初めにかけての中学校は多くの無免許の教員で支えられていた。明治33年の教員免許令によると「特別ノ規定アル場合ヲ除ク外本令ニ依リ免許状ヲ有スル者ニ非サレハ教員タルコトヲ得ス但シ文部大臣ノ定ムル所ニ依リ免許状ヲ有セサル者ヲ以テ教員ニ充ツルコトヲ得」とあるが、実際には但し書きが横行していたのである。


  坊っちゃんが教員になったとされる明治38年には、全国の公私立中学校の統計でも無資格教員は36.5%に及んでいる。明治の中等教育の伸張の陰にはこういった無免許教員にかかることが多かったといっても過言ではない。そういう意味でも物理学校の存在は重要だったのである。物理学校卒業生の多くは無免許で教職につき何年かのうちに中等教員の検定試験を受け正式な教員となるコースをたどった者が多く、教員検定試験の予備校的役割を果たしていたといってよいだろう。
  しかし、文部省の教員検定試験は難しく毎年全教科合わせて合格者は受験者の10パーセント前後にしか過ぎず、特に数学については34年と36年にそれぞれ1名の合格者が出たに過ぎず、坊っちゃんが卒業したとされる38年には合格者0という有様だった。この数字で見る以上母校を出たばかり卒業生の大部分が無免許のまま教員として全国へ散らばっていったと推測される。
 
そして、同窓会からの要望もあり東京物理学校を各種学校から中等教員無試験検定の資格が与えられる専門学校に改組する必要に迫られることになった。このためには母校は幾つかの問題を解決していかなければならなかった。これについては後で詳しく触れたい。

 さて、坊っちゃんは、物理学校に入学したのも教師になったのも本人の無鉄砲な性格に起因するものだとしている。さらに「教師になる気も、田舎に行く考えもなかった」と教師になり地方下りを否定するのは漱石の経験から出た言葉かも知れないが、結局、教師になって田舎へ行ってしまう。

  坊っちゃんが校長からの四国行きの教師の口を即座に快諾した時「教師以外に何をしようと云うあてもなかったから」と痩せ我慢を張るが、当時の物理学校生らしい姿を垣間見る事ができる。

  漱石は街鉄の技手の給料をかなり高額に奮発しているようだがが、当時としたら物理学校卒が教師以外の職業につくことしたら適当なものであったようだ。恐らく東京帝国大学卒なら直ちに「技師」と肩書きがついたであろうが、物理学校卒の坊っちゃんは技手として技師の下で一生、中級の技術者を立派に勤めたと思う。
 わが国の技術畑では徒弟制度が根強かったこともあって、技術系の専門学校がまだ十分に整備されて無い時代において、物理学校は理科系の各種学校として教師の外に、「技師」と現場を埋めるかなり質の高い数少ない中間技術者を社会に供給していた。
  この様なことからも、日本が近代国家を目指した明治後期から大正にかけて、実力が評価されながらも、表道りを歩かず教育界に産業界の下支えをしてきた先輩の活躍を改めて評価したい。


教員ばかりではなく
      技術者の中にも優秀な人材を輩出した  

 
  明治36年「専門学校令」公布され、専門学校が帝国大学に次ぐ高等教育機関に位置付けられると、早稲田、慶応をはじめ多くの学校がこぞって専門学校になり、専門学校卒が帝国大学卒に次ぐ新たな階層として誕生した。このようにしてわが国の学歴社会は着実に形成されていった。
  しかし、これは法文経に限ったことで、理工科系に関しては整備が遅れ、技術系の帝国大学の卒業生は極めて少なく、母校のような理科系の各種学校卒が技術者として活躍の場を広げていった。東京のシンボル街鉄も技手によって動かされていたと思う。このことは明治30年代に入り入学希望者が急激に増加したことからもうかがえる。物理学校が専門学校になったのはそれからずっと遅れて大正5年のことだった。

  帝国大学、専門学校とピラミット型に学歴社会が作られて行く中で、坊っちゃんのように学歴社会からはみ出した人間が、中学校で学歴社会の人材を養成するといった皮肉な社会現象の底辺に物理学校が存在したのである。帝国大学を除き高度な理工科教育の整備の遅れが目立つ中、各種学校でありながら唯一高度な理数系の知識を身につけた卒業生の活躍がわが国の技術面で貢献したのも、物理学校の存在価値を高めるものであった。
  昭和の初期なっても、東京で理工科系の専門学校以上の学校は私学では殆ど見られず、わずかに大学では早稲田大学理工学部、日本大学工学部、専門学校では東京物理学校が1校あるのみであった。
坊ちゃんは、書かれた時代の特異な物理学校の一面を描き出しているといってよい。

坊っちゃんは頭がいい江戸っ子だった
                            
 小説では坊っちゃんが物理学校に入学して3年間を無事に過ごし卒業して数学の教師になっている。物理学校がどんな学校で、そこで何をどのようにして学んだかについては一切触れてない。物理学校の記述はわずか1行「物理学校の前を通り掛ったら生徒募集の広告が出ていたから、何も縁だと思って規則書をもらってすぐ入学の手続をしてしまった」とあるのみである。
  漱石が坊っちゃんを執筆するにあたって、どの位、物理学校に関する情報を持っていたか疑問だが、「人並みに勉強はしたが」「席順はいつも下から勘定する」「3年立ったら・・・卒業してしまった」と卒業するのが難しいと誰もが認知している学校を意図的に逆に捕らえていることからも、かなりの知識があったと思われる。

 漱石は明治37年から明治大学の講師を兼任していたから、毎週、駿河台に来ていた。当然物理学校の前を通ったこともあっただろう。当時の明治大学は現在の位置よりもっと母校の小川町校舎に近かった。
  当時の物理学校がどんな学校で、そこで何を学んだかをはっきりすることで「坊っちゃん」の読み方も変わってくる。だが、これについて触れたものは皆無といってよい。この点をはっきりしなくては、坊っちゃんを物理学校卒として読み取ることが出来ないだろう。文芸作品としての「坊っちゃん」でなく、読み方次第で、その時代の物理学校を知ることができる貴重な1冊であると思う。


誰もが考える坊っちゃんのモデルは漱石自身か
          数学の教師だから物理学校卒にすることで誰もが納得

 
  小説は明治28年、漱石が松山中学の教師時代を背景にして書かれていることから登場人物のモデルがいろいろ取り沙汰されるが、主人公の「坊っちゃん」が漱石そのものというわけかほとんど論議されたことは無い。
 漱石自身――「坊っちゃん」の中に赤シャツという渾名を有(も)っている人があるが、あれは一体誰の事だと私はその時分よく訊かれたものです。誰の事だって、当時その中学に文学士といったら私一人なのですから、もし「坊っちゃん賞坊ちゃん」の中の人物を一々実在のものと認めるならば、赤シャツ即ちこういう私の事にならなければならんので――登場人物のモデルをはぐらかしている。                                        
 小説にでは「坊っちゃん」はご存知のように「東京物理学校」卒業生である。物理学校が東京理科大学の前身であることも「坊っちゃん」の本の注釈には必ず書いてある。しかし、漱石が何故坊っちゃんを物理学校卒にしたのか論じたものは見たことはない。恐らく、数学の先生を主人公にする小説では物理学校卒業としたほうが読者には納得が得られたのだろう。もっとも単純に考えたら、中学の数学の教師は物理学校卒と世間では相場が決まっていたからかもしれない。

 
だが、漱石が坊っちゃんを物理学校を卒業させたのにはもっと深い意味がありそうだ。

小説から探る坊っちゃんの履歴
 
  小説から推測すると坊っちゃんは明治38年7月に物理学校を卒業している。喧嘩の発端となった日露講和条約の祝勝会が開かれたのが明治38年の初秋であるからことからも分かる。当時、母校は2月と7月の2回卒業生を出していた。
 「ぷうと云って汽船がとまると、艀が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。船頭は真っ裸に赤いふんどしをしめている。野蛮な所だ。尤もこの暑さでは着物はきられまい。」と四国へ赴任したのは夏であるから卒業は7月である。坊っちゃんは一度も落第していないから、入学したのは明治38年7月から逆算して35年9月と言うことになる。しかし中学校を卒業しているから無試験で36年2月に入学したかも知れない。
 (当時の母校の就学年限は明治25年から従来の2ヵ年を3ヵ年に延長し、1学年を2学期制として、3年を6学期編成にしていた。そして1年に2回、2月と9月に入学させ、2月と7月を卒業月としていた。32年2月の学校規則改正で中学校、師範学校を卒業したものは無試験で第2学期から入学することが出来た)

 母校は開校以来、夜間に授業が行われていたが、明治30年から、生徒増のため初めて昼間部、夜間部の2クラスを開設した。(明治22年7月生徒増のため昼間部1クラスを開設したことがある)坊ちゃんは昼間部か夜間部かどちらに入学したのか明らかでない。3年間600円という学費が用意され働く必要もなかったので昼間部としておこう。小説ではそのことに触れてない。

 
生まれてから鎌倉以外は東京から踏み出したことも無い坊っちゃんは、物理学校に入学しても4.5畳の下宿に蟄居し勉強するだけで無趣味な男だったと想像される。この辺にも物理学校生の生真面目さが必要以上に強調されている。

  母校は入学することは容易だが、進級と卒業は難しいことで知られていた。これを一度も落第もしないで「席順はいつでも下から勘定する方が便利であった。しかし不思議なもので、三年立ったらとうとう卒業してしまった」にせよ3年で卒業出来た坊っちゃんはよほどの秀才だったと考えられる。当時の進級、卒業の合格発表は成績順に発表されたので誰が一番で、またビリであるかは一目瞭然であった。漱石はそういう事情を踏まえて、落第させずに卒業させることで坊っちゃんを秀才として暗に読者に読み取らしている。そうでなければ卒業して8日目に校長から呼び出しも来ないし、40円と言う高給の話も出てこない。

  だが、そんな坊っちゃんが「碌なものにならない」とか「懲役に行かないで生きているばかり」と江戸っ子特有な気負った自虐的な悪態をつき、教員免許状を取得しなければ何の資格も得られない物理学校に紛れ込んでしまったことを「親譲りの無鉄砲」だったと自認する。その一方で「卑怯な人間ではない。臆病な男ではないが、惜しい事に胆力に欠けている」とインテリにありがちな一面をみせている。そのくせ本人は「社会性の欠如」と「智恵の無さ」の自分に絶えず自問自答する。
 坊っちゃんは優秀な成績で学校は出たが、学生時代、学校と下宿で蟄居した3年間、勉強をしたかどうか分からぬが世間勉強を全くしなかったのだ。結局は、世間にたけた山嵐についていってしまう。
 そんな一面を理解しないと、本人も言うように坊っちゃんは文字通りの「親譲りの無鉄砲」「知恵のない人間」として単なるユーモア小説に終わってしまう。
  
物理学校で漱石に一番近かった男、櫻井房記
 
 
漱石の住居に近かったと言うことから、物理学校3代校長の中村恭平が「我輩は猫である」の苦沙弥先生のモデルとされることがあるが、苦沙弥先生は多分に戯画化された漱石の自画像だろうというのが一般的な説である。
  交際が長かったと言う点から言えば、桜井房記であろう。桜井が明治24年から16年間熊本の第5高等学校に在職した時代、同じ職場で29年から33年まで漱石が英国に留学するまで英語の主任教師をしていた。そんな関係から桜井は漱石の謡曲の先生であり「紅葉狩」を教わり褒められたと鏡子夫人が回想している。桜井自身宝生流の奥伝を極めていた。また、留学中も桜井と文通があつた事を漱石の日記にも記載されている。職場の付き合いだったかも知れないが、物理学校の話しがされたかどうか分からぬが、一番漱石との付き合いが長かった人間だと言えよう。
  33年櫻井が五高の校長になった年に漱石は英国に留学し34年に帰国する。第5高等学校から留学したのだから元の五高へ戻るのが建前だが、櫻井が熊本に慰留するのも聞かず漱石は東京に留まりたく第1高等学校の講師と小泉八雲の後任として東京帝国大学英文科講師を兼任することになる。
           
坊っちゃんを物理学校だけのマスコットにしてよいのか
                    「坊っちゃん」が世に出た背景

 
 漱石は明治39年3月3月中旬から24日までの1週間ほどで「坊っちゃん」を物理学校に託して書き上げている。「別に腹案など無かった。3日ばかり前、不意に頭に浮かんものを書いてしまった」というが前々から「坊っちゃん」を書きたくなるような何事があったからこそ、『ホトトギス』に「猫」を執筆途中に突如3日で構想がまとまり、一気に仕上げる事ができたと言うのが大方の見方である。このことについては次回に譲る。

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2005/04/01

貫の国とヤードポンドの国

Tweet ThisSend to Facebook | by:埼玉支部
連載 (8)<2005/4/1>
      
貫の国と、ヤード・ポンドの国のお国柄
                  
 「出産した長男の体重○○ポンドでした」「毎週ごと、一括してマーケットで○○ポンドの肉を買います」「ニュー・ヨークまで○○マイルあります」アメリカで生活する姪から送られてくる通信はすべてマイル・とポンドだ。日本にいた時はメートル法で育った子だったと思うと不思議な気がする。その度ごとにメートルとグラムに換算してはじめて納得する次第だ。アメリカの事情は分からないが、日常生活ではヤード・ポンド法が広く使われているらしい。
  日本でも私が子供の時代、体重は貫、身長は尺、距離は里で表していた。さすが、学校や役所ではメートル法を採用していたが、世間では酒は升、砂糖は斤で買い、目方は匁、距離は間、町、里だった。
  明治政府は明治8年(1875)の太政官達で度量衡取締条例を公布、貫原器と尺原器を地方に配布して、検査に合格しないものは使用を禁止した。これにより中世以来乱れていてわが国の度量衡がはじめて統一されたのである。
 これによると、伊能忠敬の折衷尺を1尺と定めその1.25尺を鯨尺とし、秀吉の京枡を原型に64.827立方寸を1升、3.756574グラムを1匁としている。複雑な数字は当時万国共通単位として認められつつあったメートル法を将来導入する意図があったことが伺える。
 明治18年(1885)メートル条約に加入、明治23年(1890)メートル及びキログラム原器の交付を受け、翌24年(1891)に度量衡法を制定して、尺貫法の基礎をメートル法に置き換え、1メートルの10/33 を1尺に、1キログラムの15/33を1貫としてメートル法の使用を認めることになった。わが国のメートル法の導入である。
 
メートル法は第一帝国議会の議題だった    

  これら一連の動きについて物理学校の維持会員の活動が大きく関わっていたことを見逃すことが出来ない。仏語、維持会員の学んだフランス物理学、メートル法を生んだフランス、その系譜をたどれば物理学校とメートル法の因縁を納得出来るようなきがする。
 
  50年小史の維持会員「高野瀬宗則」の略伝の中で
「明治19年農商務省権度課長ニ挙ゲラル。爾後専心本邦度量衡改正ニ盡瘁セラレ当時大臣次官局長ノ更迭頻数ニシテ容易ニ目的ヲ達する事能ハサリシモ、先生ノ意益々顰シ。明治22年陸奥宗光氏大臣ニ、斉藤修一郎氏次官トナルニ當リ先生又度量衡改正問題ヲ提ゲテ其己ムヲ得サルヲ痛論スルコト数回、遂ニ其賛成ヲ得テ第一帝国議会(明治23年)ニ提出セラレ、直ニ協賛ヲ得ニ至レリ・・・・・爾来其実施ニ付テ引続キ心血ヲ注ガレ計図畫策皆宜キヲ得、明治32年ニ至リ予テ難事業ト思惟セラレタル第1回定期検査モ無事終了スルコトを得タリ」と書かれている。
 
  また前回にも述べたように同じく50年史「寺尾寿」在職満25年祝賀会に於ける藤沢教授の演説の中に寺尾寿がわが国のメートル原器をフランスから持ち帰った話しがある。
 
「明治22年ニハ測地学ノ本邦代表ノ委員トシテ巴里ノ万国会議ニ御列席ニナッテ居リマス、一寸ソノ巴里ニ御出張ニナリマシタコトニ就テ此席ニテ胸ニ浮ビマシタノハ私ノ記憶ノ誤リカモ知レマセヌガ御帰リノ時分ニ現ニ本邦デ用ヰテ居リマス現今商務省ニ保管サレテ居ル我国ノ基本尺及ビ基本分銅ハ寺尾君ガ巴里カラ責任ヲ以テ御携帯ニナッタ様ニ記憶致シマス」とある。(記録によるとわが国がメートル原器を受け取ったのは明治23年(1890年と記載されている)
 
  私が物理学校でお世話になった上原覚先生(大正13年理化学科卒)から次のような話をよく聞かされた。「メートル原器の材質、白金イリジュウムの値段が高く、はじめ製作したものは個数も限られていた。本来、世界のメートル原器はすべて同じ釜で同時に溶かされた金属で作られていなければならない。しかし、日本の原器は2度目に鋳造されたもので厳密に言うと、はじめに作られたものと材質が異なるものだ」「キログラム原器をフランネルでこすると、何回で何グラム減るか」など質問も受けた。
  上原先生は化学の教師であり別にメートル原器に興味を持っていたともおもわれず、恐らく学生時代原器について相当詳しく話しを聞かされたのだと思う。
 しかし、メートル法が日本の社会のなかで抵抗なく使われるまで長い年月を要した。大正10年第44回帝国議会で全ての計量をメートル法に統一する法律が可決されたが、何回も猶予期間が延期され、昭和34年(1959)1月1日から、ようやくメートル法
以外の単位が日本の国内から見られなくなった。
 
私の机の引き出しの センチ・インチ・尺の刻まれた1本の物差し     

  私の机の引き出しには何本かの物差に交じってセンチ、インチ、尺、3つの目盛りのついた折尺が一つ入っている。昭和34年メートル法の施行前に探し回って手に入れたものである。今では何処の文房具屋でも売っているが、当時はメートル尺以外は、店から姿を消していた。
  メートル法がわが国で強制施行(言葉が悪いかな)されることになり、日常生活でなじみの深かった1尺、1貫目、1インチ、1ポンド、つまり尺貫法、ヤード、ポンド法が法律で使えなくなるばかりか、メートル以外の物差しまで販売が禁止されると信じ込まされた。それまでの物差しは大体センチと尺の目盛りが上下に刻み込まれており、さらに丁寧のものは裏面にインチの目盛りがあった。世間ではメートル法強制施行を予測してか、かなり前から市販される物差しから尺とインチの目盛りが消え、メートルだけのものが多くなっていた。
  当時、町工場をやっていた我が家の工場の計側器の中にヨーロッパ製のものと、アメリカ・イギリス製のものがあり、それぞれメートルとインチに表示されていた。それらは製作する製品によって使い分けていた。           
  事態を重く見た父は物理学校の学生だった私に「うちの計測器に合わせてインチとメートルの換算表を作ってほしい」と頼まれた。しかし、さらに困ったことに、新しく購入する尺(物差しのこと)がメートルだけの尺のものが大勢を占め、昔のようにメートル、尺、インチが同時に刻まれた物差しが無くなってしまった。工具屋に頼んでも「仕入先にも品物は無いし、新たに作っても法律改正後、販売禁止にでもなれば大事だ」という返事が戻ってくる有様だった。
 父が心配して工具屋に古い物差しを集めさしたことを覚えている。私の机の折尺もその時の1本である。母も近所の女性と鯨尺を何本も買いあさっていた。

日本の度量衡の専門家は物理学校で育てた

  東京物理学校50年小史によると「明治24年9月、農商務省権度課長の内議に応じて本校に度量衡科を置く」あるが、26年7月廃止になるまでの2年間に68名の卒業生を出している。明治の初め政府は司法官僚を法務省法律学校で、大蔵官僚を大蔵省簿記講習所などで速成した。恐らく政府は国内で混乱していた度量衡をメートル法導入を機会にまとめる必要があり、技術者の養成を物理学校に依頼したものだろう。だが一方職工学校の入学希望者の入学試験準備の受け入れや、度量衡科の設置は直接学校の貴重な収入源につながったことも事実であった。
  この時代の農商務省権度課長は維持会員の高野瀬宗則であった。高野瀬は退官後の明治40年、大日本度量衡株式会社を設立している。
       
物理学校が20年を過ごした小川町1番地というところ    

  明治19年(1886)から39年(1906)までのおよそ20年間、物理学校が小川町校舎から神楽坂に移転するまでの期間、間借りの生活から世間に知られた学校に成長して行くドラマを語る前に小川町1番地について探ってみよう。
 
小川町界隈を歩く
       九段坂と九段校舎

 
  地下鉄九段下駅に半蔵門線が乗り入れてから、構内にエスカレーターの設備が増設され、ホームから階段を上がらなくても楽に地上へ出られるようになった。駅近くに学校が多いのでオフィス通いの通勤客に交じって学生の姿が多く見られるのもこの駅の特徴だ。
  平成16年7月、母校の東京理科大学は靖国神社大鳥居前の旧都市基盤整備公団の土地建物を取得した。母校は現在神楽坂キャンパスの再構築を進めており、この建物を一時仮校舎として使用、将来は専門職大学院の新キャンパスに整備する見通しだ。旧都市公団は敗戦まで旧陸軍将校の共済会の本部偕行社の置かれていたところで、長靴を履き軍刀を下げた軍人以外は近寄りがたい場所であった。
  田安門をくぐると日本武道館だが、戦前は近衛師団の兵舎があった。この周辺神田、麹町は母校が物理学校の時代、神楽坂に落ち着くまで揺籃の土地である。

  新校舎(仮称九段校舎)をたずねようと、地下鉄九段下で電車を下り、案内板を見ると、まだ東京理科大学の表示は無く、設備公団と書かれた文字の上に黄色のテープが貼られていた。これを頼りに武道館口から地上に出ると、正面に靖国神社の大鳥居、右にクリーム色の九段校舎が目に飛び込んできた。長い間、建てつまった、隣りとの境界線も分からない神楽坂の校舎に慣れっこになっていた者にとっては、東京の街を見下ろすように、お堀と江戸城の緑を借景にした九段校舎に母校の未来を感じた。
 九段坂は名の通り、昔は9段の段々がある坂だったとか、役人の長屋が9段にわたり作られていたなど、いろいろ説があるが定かではない。坂の傾斜は現在と比較にならぬほど急だったが、関東大震災後ならされて市電が走るようになり誰でも楽に上れるようになった。阪下には大八車の後押しを仕事にる男たちが屯していた。
  九段坂下、このずっと手前右側に稚松学校があった

俎橋と日本橋川沿いの
           九段校舎と稚松学校

  九段校舎から靖国通りを300メートルほど下がり、俎橋(まないたばし)で日本橋川を渡ると神保町である。首都高速・池袋線が川を跨ぐように、水面を覆い隠している。ここは日本橋川の堀留で関東大震災頃までは東京湾から舟が荷物を積んで上下していた。銅版で出来た飯田町の歴史散歩の道標にも堀留に繋留された数艘の船が描かれている。
  戦前は日本橋川を境に、靖国神社側が麹町区飯田町、神保町よりが神田区今川小路に分かれていた。(現在は両区共に千代田区)嘉永年間の江戸絵図では飯田町は町場、今川小路は武家屋敷地になっているが、明治になるといち早く市街地になり、堀留の周囲には商店や船宿、船頭、荷揚げ人足相手の安宿、飲み屋などが群がっていた。

  飯田町4丁目(現在の九段北2丁目)、今川小路3丁目(神田神保町3丁目)は母校が東京物理学講習所時代を過ごした場所である。今川小路の校舎は100坪の借地に始めて30坪ほどの自前の校舎を建築、校名も東京物理学校に改めたところだ。しかし、明治17年9月、15日東海道に暴風雨が襲い静岡県、東京府などに大被害をもたらし今川校舎も倒壊するという悲劇に見舞われた。
 
  俎橋を渡らずに川に沿って左に折れると稚松学校があった。母校は明治14年9月11日、ここの教室を借りて物理学講習所を開いた。今回母校が取得した九段校舎とは目と鼻の距離で300メートルとは離れていない。120年にして里帰りというところだ。なにぶん稚松学校は小学校である。児童用の机、椅子では大人には小さくて困るという事情からその年の暮れに神田錦町1丁目の大蔵省官吏簿記講習所兼倶楽部の建物の一部を借りて移転した。
 俎橋を渡り靖国通りを真っすぐに神保町の交差点を渡ると、道は右へ大きくカーブする。道の右側が錦町、左側が小川町である。日本橋川は俎橋から錦町の北を流れ、首都高速池袋線を伴って日本橋から東京湾に向う。
 
駿河台・錦町・小川町というところ
            もとは武家屋敷、明治になって市街地に

 
  家康が江戸入府(天正18年)する以前、神田川は平川といって江戸市中を貫くれっきとした川であった。石神井池を源に、牛込台地と本郷台地の峡間の谷間を切り開き、武蔵野台地の山裾の東京層と関東ロームの不整合面から湧き出す豊かな湧き水を集めて東京湾に注いでいた。その豊富な水は神田上水として利用されて、江戸の下町を潤おしていた。日本橋川はかっての平川の流れの跡である。
  幕府は伊達藩に命じ、江戸の町を平川の洪水から守る目的と江戸城の外堀の建設を兼ねて、本郷台地の鼻先を掘削して元和6年(1620)神田堀を通した。JR御茶ノ水駅のホームから俯瞰できる掘割である。そして平川の流れは小石川から神田掘に流され隅田川に落とされるようになった。この時を境に平川は神田川と呼ばれ、流れを失った平川は運河として残され日本橋川となった。
  神田川で切り離された本郷台地の南側半分の高台には駿府の家臣が移り住み「駿河台」と地名が付けられた。一方、錦町、小川町周辺の神田低地には舌状に張り出だした駿河台の縁から湧き出す豊富な崖水(ハケミズ)が何本かの小川になって流れていた。

 「武蔵野の小川の清水絶えずして岸の根芦をあらひこそすれ」道灌の歌にあるようにこの辺りは沢山の小川の流れる湿地帯で小川の地名は古くからあったようだ。家康の時代も「岩淵夜話別集」にあるように「東の方平地の分は、ここもかしこも潮入の茅原にて、町屋侍屋敷10町と割付くべき様もなく」と道灌が詩をよんだときと何ら変わらなかった。徳川開府当時は、湿地帯に広がる草原には鷹狩に使う鷹を飼育する「鷹匠」が住んでいたことから、元鷹匠町と呼ばれていたが、その後藩士の上屋敷が建つようになると安政年間に小川町と改正されている。

  靖国通りが神保町から淡路町にかけて大きくカーブするのは駿河台が小川町低地に舌状に張り出した縁に沿って走るからである。幕末になると、幕府はこの辺りを御用地として歩兵の駐屯所に使用していたが、維新後は廃止され、明治5年(1872)には周辺の武家地とともに整理され市街地にされた。しかし、徳川幕府の崩壊に伴い、武家屋敷の住人がみな国元に引き上げ、江戸市中の大半を占めていた武家地はみな空家同然になっていた。
  南市政裁判所に勤務した土方久元の回顧録によれば「なにぶんその頃駿河台などは明屋(空家)ばかりで盗賊が住んでいるという有様で・・・・明治3年の夏までは3尺もある草が茫々として・・・・いかにも不要(用)心であった」と書いている。
 だが、この辺りの開発は予想以上に急速に進み明治5年には武家屋敷が整理され、またたくまに市街地に変わった。神田に近く、旧市街地に比べて地価も安く学校などの大きな建物の進出を容易にしたという。

  明治の初め錦町の蕃書調所の隣、三番御火除地に開成学校(東京大学の前身)が開校すると、それに続くように、明治10年代に入ると東京の法科系大学のほとんどが小川町周辺で誕生した。10年代には東京法学校(法政大学)、専修学校(専修大学)、明治法律学校(明治大学)、英吉利法律学校(中央大学)、やや遅れて日本法律学校(日本大学)が明治22年に開校している。

 市街地になったが、武家地は正式に地名を持たなかったのでこれらの新しい町に町名が付けられることになった。 東京府の「昔から使われている耳に通りやすい名前を」の通達に従い町名を「小川町」に決めた。物理学校小川町校舎は小川町1番地にあった。何故か1番地の範囲が広く町の大半を占めていた。1番地が地番を表すのでなく小川町で一番繁華なところと言う意味があったのかもしれない。
  明治11年(1878)7月、地方三新法が制定されると、東京府は収入の多い地域を、麹町区・日本橋区・神田区など15に分け、区を設置し小川町は神田区に編入された。明治10年代には町並みが整い、寄席、貸席、大弓場、撞球場など各種の娯楽施設も整い、牛肉鶏肉料理店、割烹料理店から、小間物店、洋傘店に至るまで、また何軒もの勧工場(現在のスーパーマーケットか百貨店のような店)があるほど町は賑っていた。市電が開通すると、神保町、須田町は市電最大の乗り換え場所になり、さらに市内で指折りの繁華街として成長していった。

  明治33年、神田錦町3丁目、貸席・錦輝館では東京で始めて映画が上映され連日満員の盛況だった。庶民の町としての一方学生の町としても栄えた。東京大学の開設で周辺に予備門受験準備のための塾舎(予備校)が乱立し学生(書生)で溢れていた。交通の無い時代早朝から始まる塾舎にあわせるため学生は皆小川町周辺に下宿を余儀なくされたのであろう。さらに多くの私学の誕生はこの現象に拍車をかけることになったのである。官員を目指し立身出世を願う若者が殺到したのだった。古本屋の町としても栄え、一時は300軒を数えた。
  一方漱石の「坊っちゃん」ように1年200円で4畳半の下宿に蟄居すれば、学生生活を十分送れるような貧乏学生の町でもあった。その後何回か地名地番の変更があり昭和22年から千代田区神田小川町2丁目になっている。
  
開校後、所在地を移すこと5回
       ようやく落ち着いたところは神田小川町1番地
               4つの大法科学校に囲まれたど真ん中

 
 神保町の交差点を過ぎ、靖国通りをUFJ銀行の角を右に曲がると右側一帯が錦町2丁目、道路を隔てて左側が1丁目である。さらに奥に進むとUFJ銀行から、東京電機大学、神田警察署と続く。明治20年作成の参謀本部の地図(現在の国土地理院)には、UFJ銀行は東京法学校、東京電機大学は三菱商業学校、神田警察署は大蔵省用地と記載されている
  大蔵省用地(神田錦町2丁目)の、道路の反対側が1丁目である。明治14年末から15年まで東京物理学講習所(神田錦町1丁目1番地)が間借りしていた大蔵省簿記講習所兼倶楽部は大蔵省用地の中ではなく道路を隔てた反対側に存在していたと思われる。

  母校が錦町の簿記講習所に移転してきた明治14年暮れには、すでに東京法学社(明治14年開校)から分離独立した東京法学校が錦町2丁目の武家屋敷を借りて開校していた。東京法学校の隣では明治義塾が三菱商業学校の校舎の一部を借りて開校、三田の慶応義塾から若手の教師を呼んで毎夜講義が行われていた。三菱商業学校は明治11年、岩崎弥太郎の肝いりで三菱の社員の教育をしていたが、明治義塾開校とともに吸収され明治18年に廃校になっている。

  東京物理学講習所の塀の向こうの明治義塾では、大隈重信、福沢諭吉、三菱を巻き込んだ北海道の国有財産の払い下げ問題を舞台に、自由党の結成、自由民権、憲法、国会までの広い範囲の熱気をはらんだ論争がなされていた推測される。
 
法律学校はフランス・イギリス両学派に分かれ主導権争い
                      明治義塾は英吉利法律学校へ    

  廃校になった明治義塾の敷地(800坪)と建物(300坪)をそっくり引き継ぐ格好で中央大学の前身英吉利法律学校が開校した。当時東大教授だった中央大学の創設者増島六一郎が明治義塾法律学校の教壇に立っていたことが、英吉利法律学校の開校につながったと思われる。
  民法施行をめぐってフランス法学派とイギリス法学派が論争をまきおこしていた時代である。この論争は私学間で激しくどちらが選ばれるかは学校の将来の問題だとして死活をかけての対立だった。フランス派には、明治法律学校と東京法学校、イギリス派には英吉利法律学校があった。
  母校は時代的にも場所的にもそんな事件に囲まれながら理学の道1本に進んでいた。

  結局、対立は政府がドイツ・イギリス法にならったことでフランス学派は敗退することになったが、フランス物理学の系譜を担い、東京大学フランス物理学科最後の卒業生としてこの事実をどう見ていたのだろうか。
  前島は明治21年に前島の学んだミドルテンプルを模した錦町の名所となるような2層のレンガ造りの校舎を建築したが25年の大火で焼失してしまった。その後、大正15年(昭和元年)中央大学は駿河台の新校舎を建設と共に移転した。電機大学は中央大学発祥地の跡地に建っている。

激動する政治体制のなかで
           理学思想普及の演説会開催が講習所の開設に変わる


  明治14年、東京物理学講習所開設当時のわが国は西南戦争によって国家財政は破綻に近く、国民はインフレ、コレラなど疫病の蔓延に苦しみ、加えて立憲、議会開催を望む民衆の自由民権運動が日本の各所で蜂起、政権を揺るがしかねない状況にあった。政府は言論の弾圧、集会の禁止などで対処したが一向衰えを見せず、その沈静化に苦慮していた。この事態を何とか解消しようとして、明治13年12月の暮れも押し詰まる頃、政府の有力な参議、大隈重信、伊藤博文、井上馨の3人が大隈邸に福沢諭吉を招き政府の計画する新聞の発行に協力してほしい旨の依頼をした。民間に信頼の厚かった福沢に世論の結集を図らせかったのであろう。

 「政府が今のままでは新聞発行の意味は無い」と福沢は引き受けなかった。だが、翌年の1月、3人が福沢に議会の早期開催を約束し、多数の民意を得た党ができれば政権を移譲してもよいとの熱意に動かされ、新聞発行に協力するむねの約束、その準備に取り掛かった。
 しかし、3人の参議と福沢の新聞発行の約束は遅々として進まず、北海道国有財産の払下げが政治問題化されると、閣内で大隈、伊藤、井上の関係が険悪になり、ひとり大隈だけが浮き上がる格好になった。そればかりか大隈は三菱、福沢と密約を交わし、政権をのっ取るという陰謀が図かられているといううわさを呼ぶまでに至った。    
 岩崎弥太郎が三菱を作り上げていった裏に、大蔵省に絶大な権力を振るっていた大隈重信の存在を国民の誰もが疑わなかった。大隈は政商三菱に莫大な補助金と保障を与え、日本海運の独占をゆるしてきた。

 三菱と福沢の提携は明治12年頃から進み、明治生命の創立に始まり、続いて大隈、三菱、福沢のラインで横浜正金銀行が設立され、13年には三菱は福沢の仲介で高島炭鉱を傘下におさめるなど、大隈、三菱、福沢の関係は深まっていった。さらに三菱は北海道開拓使が運営する北海道海運を含む官有物の払下げを目論み、政府に願い出たが断られる結果に終わった。しかし、それから1年後、北海道の莫大な国有資産は、開拓使長黒田清隆が強引に、タダ同然の値段で黒田と同郷の五代友厚の関西貿易商会に払い下げられることになった。

  この問題が閣議で正式に決定を見る前に、明治14年7月27日から東京横浜毎日新聞そして大隈・三田系の郵便報知新聞が「北海道の国有財産の払下げについて」の大スクープを行い政府攻撃を開始した。各紙も一斉にこれに続いた。さらに福沢の門下生が北海道函館をはじめ全国各地で三菱をバックに政府攻撃の遊説活動を始めた。三田派、三菱が持てる全ての機関を使い、払下げの反対の政府攻撃は政府にとってクーデターに劣らぬ脅威だった。明治14年の政変である。
 大熊が払下げに反対し、さらに福沢と三菱が政府攻撃を始めたのは大隈が政府を乗っ取るといううわさになり、結果孤立に追いやられた大隈と福沢はその弟子までも政治の舞台から追いやられることになった。
 以上が明治14年の政変の表面に見えた事件の大方の顛末だが、これほど政府が大隈と福沢の関係に神経を尖らせていたのは、政府さえ倒しかねない民権運動の高まりに危機感を感じていたからである。伊藤博文が大隈陰謀説を政敵の粛清に利用したなど解釈はいろいろあるが後は歴史家にまかせよう。

  ここで母校の開学とまったく関係がないと思われる明治14年の政変をあえて取り上げたのは、開学当時わが国の政治情勢を知っておく必要があると思ったからだ。明治政府は時間がたつとともに有司専制に陥り、それに気づいた国民は新聞、民権家をはじめあらゆるところで民権拡大に向かっての運動を展開していた。政府は政権維持のために、警察力まで動員して政治活動に弾圧を加えた。なかでも政治に関する演説会や集会禁止の集会条例は、演説会の趣旨の広告、演説会の出席、屋外集会等の禁止など過酷なものだった。

 この条例の施行にあたる下級警察官が演説会や集会の目的、内容も分からずに闇雲に取り締まることを懸念して、東京物理学講習所の開学者は理学普及運動の計画を講演会開催から講習所開設に変更した。この変更が東京理科大学が出来る要因になったのかもしれない。
  郵便報知に東京物理学講習所の設立広告が掲載されたのは明治14年6月13日、同紙が政府攻撃を開始したのが7月27日、開校したのが9月11日だった。まさに政変の真っ只中だった。
 ちなみに政界を追われた大隈は翌15年東京専門学校(早稲田大学の前身)を創立、福沢は時事新報を発刊している。 
             
東京法学校の校舎を購入して母校の小川町時代が始まる    

  明治14年、東京法学社から分離独立、錦町の旗本屋敷に移転してきた東京法学校は生徒の増加により、17年靖国通りを隔てて学校の真向かい小川町1番地のレンガ建ての勧工場を買収、改修して自前の校舎を構えていた。
  明治19年11月、フランス語を通して維持会員の大半が属していた仏文会が東京法学校の校舎を借りてフランス語の学校を開いていた関係で、その教室を夜間だけ借用するという極めて複雑な約束で小川町に移ることになった。後に仏文会は仏学会(現在の日仏協会)に吸収されて東京仏学校となり東京法学校と合併して法政大学に発展する。
  しかし当時、東京法律学校には思うように生徒が集まらず、勧工場買収の時の借金が負担になり東京仏学校と合併して和仏法律学校となり、勧工場の校舎を東京物理学校に売却して現在の富士見町へ移った。母校が手に入れた勧工場の校舎は東京法学校の建物の半分にあたる1棟で平屋レンガ造り444.15平方メートル(約135坪)借地だったらしい。買収価格は2200円だった。

同じフランス学派東京法学校(法政大学)の存在で
          駿河台へ進出をためらった明治法律学校(明治大学)
 

 
明治11年開かれた第1回内国勧業博覧会に展示された物品を即売する場所として麹町辰の口旧評定所跡に東京府勧工場が作られたのが勧工場の始めである。その後、勧工場はよい品が安いということで評判をとり、民間のものまで市内に乱立したが出品物以外の偽物を売る店が出て評判を落とし、閉店する店もでた。しかし市民の間ではスーパーマーケットとして利用され大正の末期まで愛された。
  母校が神田錦町を離れ再び神田小川町1番地に戻る5年間に小川町界隈は法律学校の町として大きく様変わりしていた。明治14年、自由民権思潮の高まる中、有楽町の島原藩邸跡に開校した明治法律学校は授業料を取らないこともあって生徒が急増したため、19年東京法学校と目と鼻の先神田南甲賀町(現在の明治大学より小川町より)の600坪の土地を手に入れ、近くの東京法学校の躍進を気にしながら1万3000円を費やし市内でも有数の校舎を建設した。

  明治37年から夏目漱石は東京大学で講師をやりながら明治大学で講師を兼任している。東京物理学校から距離で200メートル程のところだから、物理学校の募集広告も見たし、坊ちゃんが200円で1年間生活可能の小川町を十分理解していたと思う。
  明治法律学校が小川町進出をためらったのにはわけがあった。もともと両校の創設者は法務省法律学校で『お雇い外国人』のフランス人教師ボワソナードからフランス法を学んだ仲だ。ボワソナードは明治政府が民法典を作るため、日本に呼んだ外国人だった。その人気の高いボワソナードを教頭にして、通訳つきのボワソナードの講義を目玉にした東京法学校の存在は同じフランス学派の明治法律学校にとって脅威だった。
  ちなみに明治15年、大隈は東京専門学校(早稲田大学の前身)の入学式を挙行している。東京専門学校の敷地は1500坪、450坪の建物の建築費はざっと1万円で大隈が出したという。
  明治17年母校の今川小路校舎が倒壊した翌18年、専修学校(専修大学の前身)が同じ今川小路の560坪の土地に81坪の校舎を建築している。
  明治10年代小川町周辺に開校した学校の規模を、敷地と建築費で比較するのも面白い。
                                
                                                  

  
先月、今月号で「坊っちゃん」にご登場願い小川町時代の母校の様子について語ると予告しておきましたが、取材の都合で来月号にさせていただきます。


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2005/03/01

1年生は生徒ではない?

Tweet ThisSend to Facebook | by:埼玉支部
連載 (7) <2005/3/1>               

1年生は学科の区別なく一まとめにして教育され
    2年にならなければ、世間でも物理学校の生徒と認められなかった   
          元をたどれば明治20年の規則改定


  明治19年11月、小川町1番地の仏文会に間借りした東京物理学校は学校体制を整え、翌20年7月から、終業年限2ヶ年を4学期に分け半年毎に進級させることにし、教科課程を次のように改正した。
       
   第1学期 算術、代数学、幾何学                      
   第2学期 算術、代数学、幾何学、物理学、(化学)
   第3学期 幾何学、三角法、代数学、物理学、化学
   第4学期 代数幾何学、重学、測量、物理学、化学

  同年12月、さらに規則を改正、2学期に化学を加え、2~4学期において物理学・化学2科を総称して理化学科とし、その他の諸科を総称して数学科とした。 つまり、1学期は(21年の規則改定で入学期日を年に2回、学期はじめとした)全員同じ教科課程で学習し2~3学期において物理学・化学の2科を選択すると理化学撰科、その他の学科を選択することを数学撰科とした。全ての教科を学ぶことを全科と呼んだ。理化は物理学、化学を意味するものであり、この学科区分と学習形態は物理学校が理科大学になるまで残されていた。
  数学科、理化学科、昭和10年応用理化学科として開設された、応用物理学科、応用科学科、戦後昭和22年開設された農業理科学科であれ学科の区別なく1年生はすべて数学を中心にした同一の教科課程で教育され、2年生に進級するとき相当数の生徒が振るわれて、ようやく専門の学科に進級できたのである。つまり2年生に進級することが、実質的な入学試験に変わるものだった。
  入学期日を2月と9月の2回と定め、卒業も年2回、2月と7月としている。ただし、卒業式は2月にまとめて挙行した。この慣習は大正6年東京物理学校が専門学校として認可されるまで続けられた。
 
無試験入学の伝統が    
        太平洋戦争末期は徴兵逃れのシェルター化にも 


 「2年生になれないと本当の物理学校の生徒ではない」と世間からいわれた由縁はここにあった。大正の終わりから昭和の初めにかけ年によって差はあるが、よい年で50パーセント、悪い年で30パーセントの生徒が1年から2年に進級できた。無試験で入学できても、だいたい半数以上が2年に進級するとき落第したのである。
  昭和18年10月21日、徴兵延期停止により、出陣する学徒壮行大会が神宮競技場で挙行され、東京近在77校の学徒数万人が雨の中で劇的な分列行進を行った。このニュースは現在でも時折テレビで目にするが、この時を限りに理工科系統及び教員養成諸学校学生を除くその他は徴兵猶予を停止された。(10月12日の閣議で決定)
 この差し迫った状況の中で、物理学校の徴兵猶予の特典と無試験入学の制度に目をつけた徴兵を逃れようとする学生の腰掛入学が増えはじめた。物理学校の学生になれば25歳まで徴兵が猶予されたのである。浪人すればただちに徴兵そんな時代、文科志望の学生までシェルターとして無試験入学の物理学校に願書を提出したのである。入学願書提出日、旧1号館の中庭はおろか、校舎を取り囲むように濠端に行列が出来たと聞いている。
  しかし、戦時色は次第に学内まで及び、昭和16年10月16日、大学、専門学校等の修業年限が16年度は3ヵ月、17年度から6ヵ月臨時短縮することが決まり、卒業式が16年には12月、17年から9月に繰り上げて行われた。
  開学以来無試験入学と落第、実力を標榜、もちろん各学科定員などあろうはずが無い雰囲気の中に育ってきた物理学校の伝統が外圧で変更を余儀なくされ、無試験入学は昭和18年から、今までのように入学願書さえ出せば誰でも直ちに入学と言うのではなく、出身学校の調査票、健康診断票の提出を義務付け、書類審査だけで何とか無試験入学の制度は守ることができた。
  しかし、昭和19年度からは文部省の要望で学則が大幅に改正され、一般の学校のように入学定員が決められ、初めて入学試験が行われることになった。
  それでも、入学生の中には、第一高等学校をしくじったいわゆる「一高くずれ」に始まり、文科志望の生徒はもちろん、もともとは美術学校、音楽学校に進学する希望の生徒までそれまでの物理学校としては異色の生徒が入学した。彼等は別に卒業という意思もなく満員の教室で熱心に学ぶ物理学校の生徒を尻目に神楽坂に神田に自由を謳歌していたという。
 
       何の因果か知らないが    高等学校に見捨てられ
       泣く泣く物理に入り来て    可愛いスーちゃんと泣き別れ        
       
       物理、立体、解析と      人の嫌がる代数に
       Sin Cosin に明け暮れて   月日のたつのも夢のうち ・・・・・
 
  腰掛入学の誰かが作ったものだと思うが、こんな歌で自嘲していた彼等も戦争が終わると、各自それぞれの目指す進路に向かい、唄だけを残し潮が引くように学校を去っていった。
 
校内に張り出される運命の懸かる進級発表に全生徒が一喜一憂
 
  年に一度、物理学校の全生徒が目を輝かして学校に集まる日がある。3月末、進級の発表の日である。旧1号館が出来てからは、学年によって進級者の名前が成績順に、校内の各所に張り出される。誰が1番で進級したか、あるいはビリだったかは一目瞭然である。この結果、進級するもの、落第したものはそれぞれ事務で新学期の手続きをとることになっていた。
  大正6年、専門学校になってからの東京物理学校規則、第9・生徒処分、第26条に「続キ3回落第シタル者ハ除名ス」と決められた。開学以来、物理学校と落第は付き物で、明治20年の規則にも「引続キ2回落第スル者ハ退学セシム」と明記されているが、それから見れば大正6年の規則は、いささか緩和されたようにみえるが、この規則に該当して処分された話しはきかない。
 「1学年で3回落第しても卒業まで9年在学できる」とよく冗談が飛び出したものだが、何回か落第を繰り返しているうちに、自分から卒業は無理だと悟り、自主退学の道を選ぶものがほとんどだったらしい。早稲田文学部中退は小説家の勲章のように輝いているが、これだけ多くの落第生を出しながら、物理学校中退の話しは聞かない。何回か落第しても無事卒業を果たしたものは、むしろ落第の回数が勲章になり、落第を楽しい思い出として笑い飛ばすことが出来るが、落第で学校を去った者にとっては忌まわしい言葉だったのだろう。
  徴兵逃れで、当時物理学校に席を置いた人は、私の知っている範囲でも、理科系より文科系に多かったようだ。特に戦時中、徴兵逃れで籍を置いた者は語りたがらない。
 この状況を軍部が見逃すはずはなかった。しかし、徴兵延期の制度は最後まで崩れなかった。「政府高官の師弟が沢山入学していたから」と陰のうわさでささやかれたが定かではない。
 
落第者集団の中から突如"万歳”の歓声と胴上げ
 
  しかし、太平洋戦争も末期、毎年恒例の進級者の発表会場に異変がおきていた。以前なら進級者の発表のみに止まり、それ以外、名簿からもれたものは落第と決まっていたが、新たに落第者の氏名が発表されることになった。
 18年の入学者は内申書と身体検査票が考慮されたようだが3150名(前年度からの落第生を含む)の生徒が一応無試験で入学した。1年生はA~G まで7クラスで編成され1クラスの定員450名、教室の定員が240名だから当然教室には収容し切れるものではなかった。授業も午前と午後の2部授業で当座をしのいだと言う。混雑の程は想像に任せる。
 1年生は同じカリキュラムで一斉に授業がなされ、2年に進級すると明治からの伝統で、初めて各学科に分かれることになっていた。18年の入学者が19年の2年に進級する際、550名が進級、350名が落第、残りの2250名が退学(放校)と発表された。    
 19年度から開校以来始めて入学試験が行われ450名が合格、落第生と併せて800名で新1年生が編成された。
 進級者と落第者からもれたものは退学、つまり放校されることを意味していた。学校規則、第9生徒処分、第21条、5に「学力劣等ニシテ成業ノ見込ナシト認メタル者」適用したのか落第生以下のものは放校、つまり学籍を失い、当時の状況としては退学即徴兵を意味していた。
  たしか、進級者の発表は旧1号館の講堂脇に張り出され、落第者の氏名は1階化学実験室前の廊下だったと思うが、どちらにも自分の名前ガ無かった放校組みは、「元気でお国のために働いてくれ!」と友達から励ましともならぬ言葉に送られて静かに校門から消えていった。
 中庭で落第者の中から"万歳“の歓声が起こり胴上げが起きる。戦時中不見識な話しだが、落第者は進級組よりも余計に長くシャバにいられるということだったのだろう。
 
戦争で消えた八王子に予定した                
             旧制東京物理大学設立の計画

 
 東京理科大学100年史第1篇東京物理学校通史・第5節 戦中回顧に「昭和16年10月14日、文部省より本校卒業者の大学学部を志望しうる者54名以内に限定される」とある。16年12月(戦争で卒業3ヵ月短縮)物理学校の卒業生は525名、そのうち卆業生の約10パーセントに国立大学の進学の枠が与えられている。
  これでも分かるように、昔から、相当数の卒業生が東京帝国大学を除く、東京工業大学、東北帝国大学などに他の専門学校に比べ多くの卒業生が進学している。明治44年7月(専門学校になる以前)物理学校の卒業生は外国語のみの試験で東北大学理学部の正科に、無試験でその選科に入学を許可されている。
  もともと、国立大学の募集定員はだいたい(旧制)高等学校卒業者に見合った数で、不足分を専門学校の卒業生などで埋めていた。しかし、物理学校などからの進学者が増えると、高校卒業生の大学への進学に差し支えてくる。その上、物理学校卒が優秀とあれば、入学試験の段階で高校卒を押しのけるという問題が出てくる。つまり文部省の決めた原則的に、高校―大学という学校制度に物理学校の卒業生に割り込みは邪魔いうわけで、進学に制限が加えられることになったのである。
 「高校卒に比べ、物理学校の卒業生は確かに頭の好く成績もいいが、世間知らずで、人となじまない偏屈が多かった」の下馬評で大学から嫌われたとも言われるが、うわさだけであったとしても物理学校の性格の核心をついていたと言えよう。
  この様な状況を踏まえ、物理学校を大学に昇格させようとの機運がみなぎり、昭和15年、紀元2600年の記念事業として学校側から東京物理大学設置の提案がされ、同窓会も賛成しこれを理事会に一任した。17年、大学設置を踏まえ、東京都北多摩郡府中町字国分寺前・東芝府中工場並びに大学予科敷地を購入、翌18年には都下八王子西中野町に予科校舎に当てるため織物工場と土地を買収、着々大学設立の準備が進められ関係者に「大学設立に関する趣意書」を配布する所にまでにいたった。しかし、19年には大学設置認可を申請したが、戦時体制の悪化を理由に不審議にされ中止のやむなきに至った。
  戦後、八王子の7万坪に及ぶ学校用地は農地法で学校敷地として使用が出来ず、農業理科学科の廃止と共に放棄、大学の運動部が練習に使用していた国分寺の土地は売却して全面的に野田に移ることになるのである。
  八王子の用地を訪れたことがある。元織物工場の職員寮を転用した農業理科学科の学生寮に寄宿していた同級生を尋ねたときのことだ。7万坪の原野の先の地平線の彼方に、丹沢、多摩、秩父の連山が遠く望見できるど武蔵野台地の真ん中に広大な敷地が広がっていたことをおぼえている。
  和17年興亜工業大学(千葉工業大学)、昭和21年東海大学が旧制大学として開校している。これから後で触れる物理学校が各種学校から専門学校昇格する時期が他校より遅れ、また、旧制大学設置の計画も何故かタイミングを逸してしまった感がある。

創立7年目で初めて第1回卒業式
             全科3名、理化学撰科1名に卒業證書


  すこし脱線してしまったが、話しを明治22年4月15日東京物理学校同窓会発足第1回集会の日に戻そう。
  学校創立後7年間、授業から学校運営までほとんどすべてを維持同盟員が担当してきた。しかし、19年小川町校舎に移った頃から、世間でようやく理学の必要性が認識されるようになり、物理学校の評価も高まり、さらに明治4年に設立された東京職工学校(東京工業大学の前身)の依頼で21年7月から24年7月までの3ヶ年間、職工学校受験者に国漢を除く受験科目の授業を行う事もあって生徒数が増加の一途をたどった。だが一方では、地方に職を得て東京を離れる維持同盟員が増え、教員に不足をきたすようになった。
  明治20年、これを機会に一部の授業を外部の講師に委嘱すると共に、学科課程を大幅に改定、より学校としての形態を整えていった。
  翌21年7月には、帝国大学理科大学長、理学博士菊池大麓氏(後に東京帝国大学総長を経て文部大臣に就任)外20名の来賓を招き、今までにない盛大な第1回の卒業式を挙行し全科3名、理化学撰科1名に卒業證書が授与された。それまで、18年に1名、19年に1名、20年に6名それぞれ卒業生を出したが、いずれも1学科を卒業したもので、学科課程改定後始めて行った卒業式であった。第1回卒業式を銘打つ以上、それまで卒業式を行ったかどうか疑問である。
  明治21年12月19日、家主の東京法学校(法政大学の前身)から小川町校舎を買収、自前の校舎を獲得して、22年2月には9名の卒業生を出すなど物理学校は間借り時代の不安定な経営状態から脱却して順調な一歩を踏み出していた。
 (前回掲載したニコライ堂の棟屋から撮影した小川町校舎は、左右2棟写されているが左の1棟は東京法学校が使い、右の1棟は明治19年仏文会が東京法学校から借り受け、東京仏学校を設立したところを夜間だけ物理学校がまた借りていたようだ。明治22年、物理学校は左の建物だけを購入、右の東京法学校の移転した跡は、活版工場になったようだ。土地は借地だった。)
 
同窓会の発足と東京物理学校同窓会誌の誕生

 東京物理学校同窓会規則を見ると、第1条に「理学ノ普及ヲ図リ併セテ同窓ノ親睦ヲ厚クスルヲ以テ目的トス此ノ目的ヲ達成センカ為ニ左ノ事業ヲ行フ」とある。
 そして左の事業として 
     1、東京物理学校ノ維持発展
     2、雑誌及図書刊行
     3、講演会及講習会
     4、教育、学術ニ関スル調査及研究
     5、前記各号ノ外本会ノ目的ヲ」達スルニ必要ナル事項 と記載されている。

  物理学校創立者を名誉会員、物理学校講師を客員として、卒業生と会員3名以上の推薦のある会員と同等の資格のある在校生計、約90余名を集め、明治22年4月15日に同窓会が結成された。
  そして毎月1回、会員(維持同盟員、物理学校講師、卒業生、在校生)が学校に集まり各自が研究したものの討論などを行い、或いは学術上の知識を交換、時には物理学校の講師を招請して学術演説を聴いた。さらに、演説や研究成果をその場限りで終わらせずに、毎月1回、会員の討論、教師の演説、論説、講義、などを掲載した「東京物理学校同窓会雑誌」を刊行することにした。
 この様に、物理学校には卒業後も母校と連絡を保ち、在校生を交えて研究や討論を継続するという繋がりが同窓会という組織を通じてあったのである。現在の同窓会にはこの影は薄れているが、研究室によっては物理学校時代から先輩・後輩の繋がりが強く、教師を中心に経験や研究成果の情報を交換しているグループも多い。
    
戦争で消された東京物理学校雑誌
 
  第1号は明治22年6月にカンテン版で発行されている。会費は月5銭、雑誌は非売品として扱われた。
(カンテン版「寒天版」とはエジソンが発明した謄写版が一般に普及するまで手軽に使用された印刷で、原理はオフセット印刷と同じで製版にゼラチンを使ったのでカンテン版の名前がついている。平らなカンテン版に筆で直接文字を書き製版した。活版印刷が一般化されると謄写版印刷と同じく、下級な印刷物の異名ともなった。)
  会員・教員の演説をカンテン版にした20~25ページの同雑誌は7号まで発行を続けられ、これを第1輯(集)とした。さらに、24年1月よりカンテン版を改めて、46判(B6)活版刷りとして、第2輯(集)1号を刊行したが、11月になり同窓会は同雑誌を単なる非売品の同窓会誌で終わらせず規模を拡張して、定期刊行物として市販することを学校に図った。このことについて維持同盟員も積極的に賛成、雑誌の原稿にも協力を惜しまないことなどを確約、同窓会は学校と協議の上新しい雑誌の刊行を決めた。こうして「東京物理学校同窓会雑誌」は廃刊され、明治24年12月新たに同窓会の手で表題を「東京物理学校雑誌」と改め誕生を見るに至った。同種の雑誌にくらべ内容が優れ、広く理学を学ぶものにとつて廃刊になるまで魅力的な或存在だった。
 雑誌の創刊にあたり校長の寺尾寿は創刊号の巻頭に抱負と期待を寄せ、刊行目的、記載内容を下記のように述べている。

  「今日此雑誌ヲ刊行スル目的ハ当初吾ガ輩ガ此学校ヲ設立シタルトキノ目的ニ異ナルコトナシ此目的トハ何ゾ理学ノ普及ヲ助クルコト是ナリ故ニ東京物理学校雑誌ハ東京物理学校ノ事業ノ拡張ニ過ギズト謂フモ可ナリ」
 「東京物理学校雑誌ハ唯単ニ数学ノミヲ主トスル者ニ非ルナリ故ニ此雑誌ハ彼ノ百余種ノ数学雑誌トハ固ヨリ其種類ヲ異ニスルノミナラズ彼ノ有名ナル東洋学芸雑誌ナドヽモ重複スル所ナキナリ。東京物理学校雑誌ニ記載スル所ハ純正並ニ応用数学、物理学及ビ化学ニ関スル事項ト此等ノ学科ニ関スル教育事項トニシテ、其程度ハ物理学校ノ課程ノ程度ト同ジ即チ尋常中学校、尋常師範学校ノ課程寄り始マリ高等中学校ノ課程ヨリ較々高尚ナル位ニ止マル而シテ其記載ノ事項ノ種類ハ専ラ世ヲ益スルヲ目的トシ必シモ一々新奇ノ事ノミナラザルモ本邦ニ於テ国文又ハ英語ニテ刊行セラレタル最モ得易キ書籍中ニ於テハ見ルヲ得ガタキ事項ヲ選択セント欲ス故ニ世人ガ之ヲ認メテ所謂「天下不可無之書」トスルカ否ハ姑ラク惜キ吾ガ輩ノ見聞スル所ニテハ本邦ニ於テ今ダ嘗テアラザル書タルコトハ吾ガ輩ノ自ラ信ズル所ナリ。」(一部抜粋)

  かくして東京物理学校雑誌は一般書籍として毎月全国の書店に並べられ高い評価を博してした。しかし、太平洋戦争の末期、昭和19年3月、628号を最後に自主的休刊を命じられ廃刊の憂き目にさらされた。同じ時期「文芸春秋」も同じ運命をたどっている。
 18年1月号から連載で人気を集めていた「中央公論」の谷崎潤一郎著「細雪」が陸軍報道部の逆鱗にふれ「緊迫する戦況の中で軟弱な女性を描き、国民の戦意を失わしむ」と言いがかりを付けられ5月号から連載を中止のやむなきに至った。ちなみに、18年5月29日、アッツ島で日本軍守備隊2500名が玉砕、これは日本軍が初めて公表した負け戦のニュースだった。
  横浜事件をきっかけに言論機関の弾圧がさらに厳しくなり19年7月から「中央公論」「改造」が「戦時下国民の思想指導上許しがたい事実がある」と情報局からの通達で、自主廃業して姿を消した。雑誌であれば見境なく廃刊に追い込まれていった暗い時代だったのである。
 
維持会員の思想を受け継いだ同窓会員
        神楽坂への移転、専門学校の改組も同窓会の力で出来た


  昭和2年7月同窓会は新たに[会報]を刊行した。現在の「理窓」のはじまりである。会報は年4回、6,9,12,3月の4回発行され、論説、母校記事、会員動静、詩歌俳句、所感等を掲載して会員に無料で配布した。
  [会報]は東京物理学校雑誌が廃刊後も続けられ、昭和24年同窓会が理窓会と改称されるにあたり"理窓"と改められた。昭和59年7月、東京物理学校雑誌が「東京理科大学 科学教養誌」“SUT”(平成13年1月より理大・科学フォーラムと改題)として復刊すると、(SUT創刊号の通巻は1号から始まり東京物理学校雑誌の通巻を追ってない)"理窓“は別刷りとして SUTのなかに綴じ込まれ会員全員に配布されることになった。
  しかし、同窓会費にSUTの購読料が加算されるため、従来の年会費1500円が実質上6000円に値上げされることになった。会員の “SUT”不要の声は会費の納入者の数に表れ、1万5千の会員を5千に近くにまで減らすことになった。このことを重く見た理窓会は平成11年の幹事会で、“SUT”を自由購読として会費を年額3000円とするとともに、独自の同窓会誌“理窓”を年4回発行して、会員全員に配布することに決めた。現在の“理窓”の通巻は昭和2年初刊以来の通し番号である。

  東京物理学校雑誌の刊行は校長寺尾寿の「雑誌刊行に就きて」のことばにあるように「此学校ヲ設立シタルトキノ目的ニ異ナルコトナシ此目的トハ何ゾ理学ノ普及ヲ助クルコト是ナリ」つまり、雑誌の刊行は同窓会が科学の普及を目指して物理学校を立ち上げた創設者の思想を受け継いだものであった。
 同窓会の活躍は、明治39年小川町校舎から神楽坂校舎への移転、大正6年専門学校令による専門学校改組など 維持会員に代わり物理学校の発展に大きく寄与する。次回は“坊ちゃん”にご登場願いもう少し小川町時代を探り、同時に同窓会の隠れた力に光を当ててみたい。 

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