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丸毛登の生涯<丸下三郎>

丸毛登の生涯<丸下三郎>
2005/04/14

化学文献調査と父の風音

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連載 (6) <2005/4/14>

化学文献所在目録と父の風音

  理大第2期生の長田武氏(後、東レ)、太田泰弘氏(後、味の素)ら10名に近い方々が、恐らく大学2年の頃からであろう、「自分達が将来研究者になった時に、内外の学術文献を調べる必要がある、そのためには国内、海外の学術文献がどこに在って、どのように利用出来るかを知らなければならない」ということに思いつかれた。そして時を移さず、部活としてリスト作りを始められた。
 当時の日本は、大都市を始め中小の都市までが空爆によって廃墟と化し混乱を極めていた。ソ連を除く連合国との講和条約も未だ結ばれていない情勢だった。無論学術文献の所在など見つけるのは容易でなかった。各図書館とも、学術誌は整理されて居ないところが多く、酷い場合は山積みになっているのを勤労奉仕して、Vol.x、No.yと仕分けするのが、我々化学部員の仕事だった。無論報酬は0、弁当持参、交通費自弁。

  私達は4期生で、理大化学科の1年で化学研究部に入部して間もないことだったので、第一次の調査には参加していないが、ガリ版刷りの南関東地区の「内外化学文献所在目録」が夏休み前には出来ていて、ホチキス止めをするお手伝いをしたのを覚えている。 以後第4次に至るまで、延数百人の部員がポケットマネーを出して出版し続けたという、壮大にして悲しき物語である。第1次から第4次まで全てを記せば、

  第1次 ガリ版手刷り、第2期生の方が心血を注がれた労作(昭和25年)
  第2次 東工大内、学術文献普及会の植村琢也教授の御厚意により、写植版(昭和26年)
  第3次 丸善出版の植木厚氏の御厚意により1000部限定版にて出版(昭和28年)
  第4次 丸善出版より、前回第3次版の完売により、改訂増補して2000部を印刷し、約1700部の
       販売を成しとげた(昭和29年)

  この種のリストは、戦争以前に文部省で編纂されたことがあったが、激しい戦争を経ることによって内容の意味が全く失われていた。第2期生の先輩の方々が文部省と接点を持つようになったのは、第1次のガリ版刷りが出来た頃だったか?事務官の馬場重徳氏と懇意になり、大切な良い仕事だというので、確か文部省からワラ半紙3しめを頂いた筈である。但し次回出版の為の費用は頂くことはなかった。馬場先生は時々理大にお見えになり、このリストの重要性を説かれた。

  第2次のリストが出来て学術文献普及会から、写真植字のオレンジ色の表紙の、立派な冊子が出来た。出来てしまうと、もっと図書館数や学術雑誌数の多い完成度の高いものを望む声があがり、一方には学生の分際で資金も全くないのに更に踏み込むのは行き過ぎだの声もあり、議論にかなりの時間を費やしたが、より完成度の高い第3次まで作ろうと云うことに決まり、各自、方々の図書館に第1次以来同じ手法で分担して調査に出向いた。
 第3次の原稿が出来た時点で、学術文献普及会に新たな出版の打診を先輩がしてくださった所、2度目はもう駄目ですとのお断りを頂いた。
 
  私がそれ以前から存じ上げていた丸善出版の植木厚氏をお訪ねすることを思いつき、化学研究部の先輩に相談した所、了承を得られたので、度胸を決めて、ためしに行ってみることにした。植木氏は物理学校出身の秀才、当時企画課をリード゙する若き主任であられた。私が会社を訪ねてお願いすると、兎に角お預かりしますと受け取ってくださった。私がそのまま帰宅した。帰宅に要した時間はものの一時間程であったのに、帰ると植木氏からとっくに電報が届いて、「スグコラレタシ」と電文が印字されていた。夕方迄まだ時間があったので、すぐに丸善へ取って返した。そこには感動の場面が用意されていた。
「貴方が帰られてから、すぐに編集会議を開いたところ、この本は重要な意味を持つ本だから、たとえ一冊も売れなくても丸善から出版することに決まりました。但し、1000部限定です」と植木さんは丁寧な言葉で私に告げられた。あたってみてよかった!と思った。
  植木厚氏は私達の第4次出版や化学実験講座の全巻を完成された後、科学誌「現代科学」でも知られる㈱化学同人を自ら設立され社長になられた方である。

  第3次の編集がほぼ終わって、序文を馬場先生にお願いし、学長のお言葉の文案は、東大・理大教授の永井芳男先生にお願いすることに決まり、何故か私が馬場先生を大泉学園の私宅にお訪ねすることになった。
 来意を告げ、原稿の出来具合をお話しし、序文を書いて下さいとお願いした。先生は快く引き受けてくださった。話をするうち、先生は父の事を実に良く知っているのに驚いた、「 NHKの技師長でしたね」といわれた。NHKではその時でも技師長とは云わないので「おや!」と思ったが、父の時代はNHKのいわば創生期で、父はほぼそのような立場で居たので、そうかと思った。
  先生のご専門はと水を向けると、電気工学でコヒラー(鉱石と同じく検波器の一種)を研究していましたとの事、ご自分の出身大学をご自分からは決して仰しゃらなかった、先生は後年図書館短期大学の校長を長く勤められた。
 
  時は移って、平成の初め頃だったか、私と同期だった岡崎英博兄(三井石油化KK)から、馬場先生が亡くなられた、自分は都合が悪くて行けないので、君に行ってほしいとの連絡を受け、御葬儀に参列した。親戚の御挨拶の中に「早稲田大学理工学部出身で」という下りがあり、やはり父が38~9才の逓信省時代に早稲田の講師であったときに、先生は学生時代を過ごされていたのだと思った、しかし今となっては直接お伺いすることはできない。
 
 化学文献所在目録は5年余に亙って、延べ数百人に及ぶ大勢の人々が参加して、苦しんで世に送りだしたもので、思い返すと学生の分を越えた仕事であった。しかしこれぞ物理学校以来の、勤勉で地味で黙々とよい仕事をしようとする伝統精神を受け継ぎ、又、後世に引き継ぐべき崇高な闘魂だったように思う。私達化学研究部員が汗とポケットマネーで作ったた3,000余冊の本が、日本全国の大学、研究所、図書館、企業群に広く伝播したことは事実で、少なからず混迷期の日本経済の発展に役立ったと思うと、今記念碑のように、なつかしい思いがする。そう思うのは私一人だけであろうか。

放浪の果てに

  私は青春であるべき10年間を放浪に身を任せ、修士終了の折、偶々アルバイトを求めていたのがご縁で日大第三高校のお手伝いをすることになった。
  理大にまだ籍はあったし、講師の積もりであったが、2人居た化学の専任教員が一人転出、一人病気で1年間休職となり、是非専任でということになった。

 修士1年生の時講師をしていた日大系の学校からも、化学の主任の先生が急死されたので是非来てほしいとの話もその10日後にあった。以前お世話になった主任の先生は、京大出の東芝部長という前歴の立派な方だった。私の新卒としての34才の春のことだった。副校長の先生とお会いして事情をお話したら、「貴方は経歴がいいから是非来て欲しかった」といって下さった。面と向かって誉められたのは、私にとってこれが初めての終わりである。 
 日大三高は当時赤坂のTBSの近くにあって、飯田橋から路面電車で30分の距離にあり、「掛け持ちの専任教諭」としては願ってもない条件でもあったので、選択肢は他になく誉められても丁重にお断りせざるを得なかった。

  当時の日大三高は教師陣に精鋭を揃へ、凄みのある進学体制にあり、躾も厳しく進学率に対する世評も私立のNo.4に位置していたし、折しもベビー・ブームの時代に入っていて、極めて活気に満ちていた。就任に際して担任は首尾よく回避し、土曜全休をかち取ったが、週22時間は重く、中学も人数は多かったが、高校で受持つ各教室には64人宛居り、ど肝を抜かれた。しかし、翌年3月の理系進学は開校以来最高という驚くべき結果となった。この時の理事長・校長(初代)は、内務省でアルバイト時代の1年間席を並べ、父の生涯の友となった鎌田彦一先生であった。
 
  研究の傍ら先生を勤めることが、なまやさしい事ではないということが、就任直後判る。しかし、放浪の10年間、調べたり、見聞きしたり、書いたり、実験したり、発表したりしたことが良い土壌になっていて、32年に及んだ理工系・医・歯・薬系へ進む生徒たちとの日々の生活で、楽しく結構実り多いものだったと今思う。

  日大三高の教員になった時、たまたま私の教える高2の理系クラスに在籍していた化学部員のY君は私の後を追うように化学の道に入り、私がかつて在職した会社にも関連する相模原の大きな研究所に勤め、中年にして尚研究職に止まっていたが、40代なかばで転職することになった。そうして私の処へしばしば相談に来た。
 Y君は元々東大の理学修士で在職中に博士号を得ていたので、自分で道をつけるだろうとも思い、「博士の世話は…・」とにべもない返事に終始していた。

  生前、開成の同期会でお世話を良くしてくださった高3.1組の秀才園田敏夫兄(ピアニスト園田高廣氏実弟)のお導きか、そのお通夜の帰り道で偶然お目にかかった母校校長の伊豆山健夫兄(東大名誉教授、物理)と立ち寄った喫茶店で、何気なくお話ししたのがきっかけとなって、中学の理科の講師として2年間親身も及ばぬお世話して頂いた。実は開成に丁度ポストがあり「採用したい」と校長先生からお言葉を頂いていたが、2週間ほどして「実は年令構成上問題があって駄目になった」といういきさつがある。
  2年後に開成の先生方の御支援も得て私立の一流進学校の採用試験に応募し、1人の採用に対して20倍近い競争を経て専任教員に採用された。それからもはや9年になる。

  めぐり会わせというか、実はY君は今は町田にある母校日大三高の化学の教員になることを、家が近いこともあって熱望していたし、私も2~3年後に65歳の定年を迎えるので丁度いいと思っていたが、若返りをという必要性もあり、「博士の先生は前例がない」と不採用になった。今の勤務校は私の家から徒歩10分位なので、毎月1回は訪ねて下さり良き話相手となって呉れている。
 あてずっぽう、成り行き任せに過ごしてきた私であったが、全て天の命ずる儘に・・・うまく生きて来られたと、有難く思っている。 
                                                 ---終--- 

     (開成高校昭和25年卒業50周年記念誌<平成12年>に掲載した文に大幅に手を入れたものです)

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2005/04/07

私の思春期

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連載 (5)<2005/4/7>

私の思春期 -(主に中・高時代)-


 今書いている文集の予告編に開成時代と書いたのを今悔いている。この頁に開成卒業50年誌に書いたような知らない個人名や交友のことを書き連ねる事は、ただ退屈を誘うばかりだから本当はカットしたかった。
 いざ書き直す時期が迫って、何をどう書けばよいか迷い、三日三晩呻吟した有様は御想像頂きたい、とまずホンネを申し上げておく。そこで、
 (1)後悔:だからこうすれば良かったか
 (2)失敗:その結果どうして反面教師の効果が現れて、良かったのか
 (3)成功:私がこうだったから良かった
以上のことを、良い事ずくめで筆を進めたい。

(1)後悔

  中学に入った頃は戦時色の濃い昭和18年だったから、戦闘帽に校章をつけ、足にゲートルを巻きつけ、体操や教練や柔・剣道がやたらに多いのが、まず気に入らなかった。
 入学当初の一週間は、今で云うガイダンス、最上級生の話もあって、こんなものかと判ったが、よくはわからなかった。
  最初の歴史の試験はひどかった。たった2題、新石器時代について述べよ、古代メソポタミヤについて述べよ。たいていの同級生は零点をもらった。大人になって判った事だが、小学校とは違うぞということを教える為の先生の作戦の一つなのだ。
  小学校時代に出来たという慢心は忽ち萎縮に変わる。しかも平均点が60点以下、2科目60点に達しないと、若しくは一科目でも50点以下の科目があると、学年末に進級止め置きになる。これはきつかった。多くの先輩後輩が涙した場面だ。それに比べて毎学期の成績順の席替えは当たりまえなので、何とも思わなかった。

 中一の頃は開成の先生は裁判官のようなガウンを着ていて、しかも年配のかたが多かったので、こわくて近寄り難かった。陸軍将校の教官は「努力にまさる天才はありません」と、むなしかった。
 ある日、授業の終わった教室でだと思うが、私の名を云ったあと「勉強しないとお父さんに云いつけますよ」と少し下がりぎみの眼鏡ごしにみてそう云われた。

  一寸驚いた。「はい」と答えて、家へ帰ってから父に尋ねたが、「知らないね」という返事だった。戦禍という段差はあったが、高校を卒業して暫くしてから、判ったよ、「高橋次郎さんは物理学校の数学科に居た人(明治41年)だよ」と父は云った。父の一年後輩に当たる。
 小さな貨物船の乗客が、いきなり潜水艦から魚雷を頂くような、命のちぢまるような思いをすることが人生でよくあったが、その時に如才なく先生と話をすれば、結んだ糸がほどける様にお話が進み、或いは数学のみならず、勉強のやり方を教えて頂けたのではと思うが、後の祭りである。時は萎縮したまま進んだ。

  もう少し書けば、中2の同級生の畏敬の友は、柏崎正一、寺島尚彦、前記の原島康廣等の諸兄で、柏崎兄は東大法科を経て、司法試験主席合格、弁護士の道を歩まれ今も賀状のお返しを頂いている。昨年亡くなられた寺島兄は芸大に進まれたが、此の頃から作曲家を目指していた。原島兄は検事になってのちに弁護士に転じ、個人的にお世話になったが、このころはザコの一員だった。戦災で3度も家を焼かれた上、父親を失ったりして志を曲げられた優れた友も多く居る。

 この年の11月から、中2の私達にも動員令が下り、陸軍第一造兵廠・弾丸工場の工員の仕事につき、翌年8月15日につながる。工場では時々機械に材料を補給して見ているだけだから楽だったが、楽をすると死に目に遭うとは爆弾が教えてくれた。勉強もそんなものだ。
  昨今、進度別授業を実行して失敗したという報道がなされているが、およそマト外れと云いたい。昔から父の背を見て子は育つというが、友の生き様を見て生徒達は育つのだ、玉と石とが混合するから磨かれるのである。もっと磨かれておけばよかったが・・・。

(2)失敗

  「失敗」はと聞かれたら、トランプのストップ51のように、良い場が出たら、カスの手5枚と全部取り替えたい、それ位、というと、逃げるのかと云われそうなので、一つにしぼって話したい。
 試験勉強は2週間前から、というのを聞き違えて、大体はそれしかしなかった。それと気づいたのは、高2の時、数学のノートを貸して欲しいとお願いし、見せて呉れた畏敬の友、友と云うには畏れ多い伊豆山健夫兄だ。
  試験の10日前には全て終わっていて、「前の日に見るだけだから」といわれた時は頭に血が昇るのを感じた。実はこの人はノートを持っていないのではと思っていた。聞いただけで全て頭に入るのだと
思っていたからだ。授業中に忙しくノートするのを見たことがなかった。

 後年、私達が中年になってから、小学生時代からの友に、伊豆山君のお母さんの悩み事は、「勉強して、うたた寝をしているので、そっと掛けぶとんを掛けてやること」という話を聞かせて貰った。小学時代からの友であればよかった。私は何も知らずグースカ夜は寝ていたのだから。かくして後に述べる愚息は、既に出来上がろうとしていたのだ!!
  因みに高3での彼の成績は平均点95点、開成歴代の中の秀才。数物化地生は全て満点で、私は化地生はほぼ満点でも、数物は80点を越えることはできなかった。英語も雲の上。上を向いて歩こうよだ。「努力する天才」にまさる鈍才はない。天才に追いつこうとすると眠る時間がなくなる。だから、中1の頃から睡眠時間をつくれるような勉強法を学ばせ実行させる。これが中学時代に教えておくべきことなのだ。

(3)成功

  留年したことが非常に良かったと云えば強がりのやせ我慢と思われるだろうが、そうではない。何かの因縁かも知れないが、私の父は父親に死なれて中3で退学したが、私は同じ中3で家族が法定伝染病と疑われて、大病院に押し込まれ、桐生から引揚げてきての唯一の試験を受けられず、従って戦時特例の恩恵に浴せなかったのだ。
 桐生中(旧制)の担任の阿形先生は、挨拶に行った母に、「良く出来るのに転出するのは惜しいことです」と世辞かも知れないが云って呉れたのであったが。では留年で得たものとは、と問われたら「伊豆山兄と会えただけでも犬のマークと同じ位の値打ちがある」と云いたい。どこかに書いて来た言葉だが・・・。
  あの1年間のブランクのままだったら、ただでさえ怠惰な私であったから、追いつくのは容易でなかったろうし、個人的にその後も、今日も、少年に数学を教える気にはならなかったろう。
 いつか書きたいが、一次関数、二次関数を教える時に、「ただし、等速直線運動はこの世に実在しないのだよ!!」だから微積が必要なのだとか、予習すると結果はこんなに楽しいのだよ、と云って付き合ったりして教えておけば、私のように萎縮せず、多くの少年が迷わず豊かに育つものと思い、及ばずながら今も実行している。多分、魚雷が来ても大丈夫である。

 その頃の学校生活はのんきで、先生も「受験勉強は自分でやるものだ」。やっている者も素知らぬふり、我が家の家訓は「浪人ご法度」「文系はX」、かくて開成の同級生松下茂、松本匡史の2兄と共々受かったので理大へ進むことになった。 

理大での父と愚息の話し

  昭和44年の夏の終わる頃、父は臨終を迎えた。当時の安立電気社長、磯英治氏の弔辞の中に「丸毛登氏は教育者でした・・・」というくだりがあり「おや?」と思ったが、しばらく経つうち、それでいいのだと思うようになった。「教えることは自分の勉強になるんだよ」ともよく云っていた。
  早大理工の講師は、逓信省時代の終わり頃の2年間だけ。 NHK時代は中継局の設立、研究、 1年2ケ月位に及ぶ外遊と多忙で教育の実績はなく、ビクターの時代は都落ちして桐生で半年間桐生高専の講師を兼務しただけだった。

 父が東京理科大(以下理大という)の講師になったのは、私の入学が決まった直後の昭和25年3月の事。その時の父の話によると、「愚息がお世話になります」といって学長室に本多光太郎学長をお尋ねしたら、「君を探していたんだよ!教えに来てほしいが」というのが事の始まりで、「何を教えればいいのですか?」の問いに学長先生は「プラクチースなものがいい」というお言葉で話が決まったそうである。
  ここで繰り返し記せば、その時の父は日本ビクターが立ち行かなくなり、その後始末をして松下幸之助氏に譲り渡した後、研究指導を以前からしていた現エルナ-KK(当時は三光社KK)の取締役、兼製造部長となって辻堂(神奈川県)へ通っていた。この25年3月から会社勤めと平行して母校理大で昼と夜を毎年交互に週一回「電気通信」を講じることになり、連続して八十才まで続けた。

  学長の本多光太郎先生は、元東北帝大の総長で磁石鋼の研究で世界的に知られた著名な方で、父の仙台放送局時代に知り合う仲で、色々と交流があった。仙台放送局時代に父の方からお訪ねし、教授の先生方の前で、無線電信の発信の方法を実物でご披露して、大層喜ばれたとの事だった。
  マイクの特許の時にはお世話になり、祝賀会を開いた席にはお招きした筈である。電磁気系の各教 授の先生方といわば友人のような関係にあった。また、製造されたM、H・式マイクロフォン1個を東北大に寄贈してあったことも後で判った。このマイクは今、私の家にある。ここで話は愚息のことに移る。

  私が理大で卒論の時、父の薦めで現NTTの三鷹の研究所(略称通研)ヘ行くことになった、独りの積もりで行ってみたら、都築洋次郎教授(当時化学8研)の計らいで交渉されたのであろう、同期生が数名一緒になり、心細くなかったが少し驚いた。卒業時には私立の有名校(旧制高校付属)の専任教員にという良い就職話もあったが、その話の前に私の知人の伝で、通産省東京工業試験所で当時課長の太田暢人先生を紹介して頂いていたので、給料ゼロの研究生としてお世話になることにした。

  行ってみて驚いたことに、その第3部第3課長の席は、前出の私の所属する化学科主任教授都築先生が教授になられる前のいわば古巣なのである。私一人でお世話になる積もりで居たのが、今度は太田先生の方から、あと5人位卒業研究生を受け入れてもよい、都築先生に伝えてくださいと云うことになり、私が都築先生に太田先生のご意向をお伝えすることになった。
  奇しくも、私が8研の外研である「電通研」と「東工試」の仕掛け人というめぐり合わせとなった。父や理大と離れた世界でという熱き願望は無残にも果たせなかった。

  太田暢人(のぶと)先生は今もご健在で、その後は部長、試験所長、工技院長へと栄進されるが、30代後半の若さで東大大学院教授も兼ねておられたし、石油酸化などの第一人者でかつ、塩素系有機化合物の合成も得意とされる。後に三菱油化K、Kの専務取締役も勤められた碩学であられる。
  pキシレンの空気酸化における各種金属塩の効果」が私の課題で、学会発表も経験させて頂いた。

  ㈱鉄興社は中堅の化学会社で、太田先生が顧問であられた事と、役員に父の知人が居られた事から、入社することになった。 Cr、 Mnと云った稀有金属、塩ビや多数の製品群を保有していたが、入社半年後からメタンの直接塩素化法を取り入れた通産省の後おしによるわが国初の試験プラント(静岡)に2年半従事したり、武蔵野に新設された鉄興社中研で新規の稀有金属の分離実験や、1800℃のプロパン焼成炉をつくって、耐火焼成物を造る実験をしたり、7年に及んだ。
  ただこの間、シリコンなど電子材料の研究を始めてはとしきりに思っては居たが、提言もせず終わったことは、唯一心残りなことである。
  会社は昭和50年頃、興銀の仲立ちで東ソー㈱に吸収合併されることになるのだが。

  鉄興社に6年間在籍した昭和36年頃、理大に大学院が出来たという話を聞いた。越後からは餅つきに来るものだが、丁度 「新潟に造る新しいプラントヘ行く」話も持ち上がっていたし、大学の方が面白そうなので、都築先生にお願いして思い切って会社を辞して修士コースの学生になった、昭和37年のことだった。
 目黒謙次郎教授の研究室でコロイド学でお世話になったが目黒先生も鉄興社の顧問の一人だった。後の近藤昇一教授と大江修造教授は学部では4年と8年も後輩に当たるが、この時、博士・修士両コースの先輩と同輩の友人という関係になった。
  父と都築先生とは、大学側の理大評議員で親しく話し合う間柄でもあった、私と同期の小林恭子さんの父君(都立大教授)も同窓で、かつて母校で教鞭をとられたこともあり、このとき評議員であられた。


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2005/03/31

松下幸之助氏とのこと

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連載 (4) <2005/3/31>
 
松下幸之助氏との事

  父丸毛登が日本ビクターに入社したのは昭和16年で、参与顧問を経て昭和19年から事実上4年間取締役技師長の職にあった。半年の桐生の疎開工場での暮らしの後、私の姉の友達のご好意で、昭和21年1月から雑司が谷に借家して住まうことになる。20年4月の京浜地帯の空襲で、主力の横浜、子安の本社工場は全壊してしまっていたので、この時から父は被災を免かれた戸塚工場勤務となった。因みに技師長の勤務場所は自分で決めるのだそうだ。
  昭和21年3月には預金封鎖、新円発行で、旧円の価値はものすごく下落したし、秋には公職追放が行われ、元軍の下級将校さえも、G項該当で公職追放となった。経済的には困難な時期だったが、米軍放出の食料で一息つき、巷はリンゴの唄などで明るかった。

  国富さんは気象台長という公職に就いておられたので、追放ということになったものか?21年10月に突然に東京へ帰るので、家をということになった。当時は家が少なかったので、階別の同居ということも極めて多かったし、一間に7人家族でということも珍しくなかった。
  父は家をあけてお返しすることに決めた時点であったと思う、或る日家族の皆に云った「国富さんがこの家(敷地だけで70坪位)を買って欲しいといわれたよ、そこでこういってあげた、”今は苦しいけれど家を売ってはいけません、辛抱する時です”」と。私はこうゆう父が好きだった。
  因みに国富家のその家には今もご子息のどちらかが住んでおられると伺っている。今の人には信じられない事だが、当時の土地1坪はお米1升(1.4kg)と殆ど等価で、焼け跡の土地は坪200~300円で、しかも買う人は殆ど居なかった。

  家が無くなったので4ケ月間家族は4つに分散して、親戚と兄姉達の居候になった。22年2月に都からの配給で買ってあった杉皮ぶきの2間の家を昔からの借地に昔からの植木屋さんの手で造ってもらった。ガラスの無い窓に紙を張って一家7人の暮らしの再出発であった。
  この年に次兄は第2回医師国家試験に一発で合格(合格率55%位)したので、少しすごいなと思った。昔からの大工さんが少し大きめの一間を造ってくれたのは翌年の事だ。

 日本ビクターは時の伊藤禿(かむろ)社長の方針で、リストラはせず、社員皆で力を合わせて再建することになったが、激変する経済情勢の中では抗し切れず、借金が重なることになり、借金の印を押すのが重役の重要な仕事となった。社内での父の評価としては、労働組合の人達から”中立重役”との異名が授けられ、借金に明け暮れる日が続き、昭和22年の終わりには、日本ビクターは身売りが決まり、父は役員の中で唯一人後始末の為残って整理に当たった。この頃給与は現金でも、賞与の代わりにワンスピーカーの電気蓄音機のこともあった。
  遥か後日、多分昭和50年頃だったろうか経済系の雑誌に、その時の日本ビクターの事を書いた記事を見た。5億円で松下電器が買い取り、「犬のマークだけでも3億円の値打ちがある」と松下幸之助氏が云ったとも書いてあった。

  私の兄達は中1になると親元を離れて東京の学校に入った。私は幸い学令の半年前に父が東京勤務となったので、全て自宅から通った。そのためか、母は兄達とは多少遠慮がちな所があって、打ち明け話をあまりしたがらなかったが、私はいつも母のそばに居たので、時々昔の話をしてくれた。
 「松下幸之助さんの娘さんの結婚式の時に、お父さんの所に2度もお使いの方が来られて、是非出席くださいと云われたのだけど、お父さんは2度ともお断りしたんだよ」と云った。大阪時代の事である。

  数学上の定義に、平行線は交わらないというのがある。仕事の上では著しく接近しても、重なることはなく私情で交わらない、これが公人として生きる人の鉄則であろう。「これ位の事は」という事から天下に恥じる事に発展する。苦労人の松下氏は百もご承知であられたであろうが、慶事に水を差すものと立腹されたかもしれない。察するに義理堅かった父の方も断腸の思いであっただろう。双曲線にも似たそんな事があったのだ。

  父の後任の技師長には放送技研第3部長だった高柳健次郎氏が就任され、独立色の強い松下の系列会社となった。この新生の日本ビクターが盟主となって、NHKをバックに日本のテレビの実用化が進められた事は広く世に知られる所である。

清水荘平氏と父丸毛登

  2人のめぐり合いはどのようであったか判らない、ただ父が清水さんより少し年上であったので、物理学校へ入るよう薦め下宿をお世話したりした。清水氏は東北帝大の長岡半太郎博士の下で研究され、その後は逓信省電気試験所に父の薦めで入所されたのであろう。こんな事で終生の付合いが始まっていた。
  試験所内で、廊下を歩きながら清水さんが「鳥潟さんより丸毛さんのほうが数学は出来る!」 と叫んで、 「止めろ!」と同僚に止められたという話もある。鳥潟さんは旧制一高、東大は主席なのだから、数学だって相当な筈である。しかしこのことは反面当時の物理学校の理数系の学力水準の高さを示すもので、卒業生がいかに誇りを持っていたかを物語るものだと思う。

  当時は落第させるのが物理学校の特色で、卒業生も少なかったが大勢入学しても、ストレートで卒業する者が少ない時代だった。父は開成中学を3年で中退して昼間働き、入学したのは1年後のことか、朝2つ持って家を出る弁当の豆のおかずが夕方は腐ってしまう、昼間の勤務の疲れで居眠りばかりして、こんなことで半年分落第となり、その後頑張って全科を卒業したのだそうだ。明治40年卒は数学科35名、理化学科1名、全科22名。

  事業家肌の清水荘平氏はしばらくして試験所を辞し、既に物理学校在学中の大正元年に設立してあった北辰電機の経営に当たられ、温度計測器や航海用の計器などから始めて横河や山武と並ぶ3大計器メーカーの一つに育て上げられた。
  清水荘平氏は鎌倉に住んで居られた、私の父は”足まめ”というか、人を訪ねることの好きだったので、鎌倉のお宅へよくお訪ねして昔話をして楽しんでいたようだった。

  ここで父が日本ビクターを退職した昭和23年春からの事を少し書いてみたい。この春から入社したのは今のエルナーという電解蓄電器を主業とする製造会社で、父の技術指導という形で、前の会社の時から関係があった。父の年令(60才超)ということを考慮して、今まであった定年制を全廃して父を迎え入れて下さった。しかも取締役で技師長格。必要に応じては工場長、製造部長という業務の職名もついた。
  父は生涯一技術者という姿勢の人であったから、神奈川県辻堂の会社へは、決まって朝8時に家を出て、夜遅くかえるという日課だった。家に居る時も、片側に対数を目盛ったグラフ用紙に書き込まれたケミコンの特性曲線示すグラフを見て思いを巡らしたらり、ターマンの専門書や、半導体の文庫本を繰り返し読んだりして楽しんでいた。

  時は移って父が70才の頃、取締役技師長として約10年間いたエルナーKKは社長の一身上の都合で急に経営不振に陥り、他企業の支配下に移ったので父は退職することになった、丁度藍綬褒章を受けた頃だった。父は清水氏をお訪ねし、退職することをお話しした、清水氏は父を常勤顧問にし、現職の課長と全く同じ待遇にしてくださった。高度成長期の電機産業は頗る好調でボーナスもかなり良かった。
  エルナーKKの親会社となったゼネラルから来られた新社長に「退職の挨拶に行ったら、就職か何か頼むのだろうと思っていたのだろうが、何も頼まなかったので、変な顔をしていたよ」と勝手にそう思ったのだろうが、父はそう云って実に楽しそうだった。

  北辰電機で父が任された仕事は、大学を卒業したての数人の技術者を指導して新技術の開発をすることだった。この分野の事はよく判らないが、薄膜の研究など将来を見通してのもので、父の死に至る11年余の間に10位の特許をチームで取得した。その時の若き仲間の一人が父の長女の娘、信子の夫である。会社時代米ジョージア大学に2年留学した窪寺謙之で測定器の小企業を個人で経営しその息子2人はソニー、富士通の技術者として、父登の遺志を継いでいる。

  清水氏は「財産も分けてあげるよ」と父を励ましてくださったりもした、清水荘平氏が亡くなられたのは父の死後2~3年の頃だったと思う。厳父荘平氏の片腕で2代目社長を勤められた御子息正博氏と私の次兄とはその後も交際があって「父上の亡くなられた時は北辰電機の状況も良くなかったので、十分な事をして差し上げられなかった」と申されたとか。息子の一人として振り返って思う事は、淋しかるべき父の晩年を盛り立てて下さり、父が死ぬまで長く最後の栄光を与えて下さった。大変なご恩を頂いたことに、心より今も感謝し続けている。

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2005/03/24

父と息子と海軍と、東京大空襲

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連載 (3) <2005/3/24>

父と息子と海軍と


  長兄が当時昭南島と名付けられていたシンガポールへ出張する時の事、「おやじさんが羽田に来て見送ってくれたんだ」と父の死後長兄は語った、その兄も今は居ない(平成9年没)。
  敗戦間近の昭和19年秋口、レイテ出撃の連合艦隊のレーダーや通信設備の整備の為の約1ヶ月の出張であって、兄は滞在期間中、宿代わりに旗艦武蔵に宿泊していた。間もなく始まったレイテ沖海戦で、援護機の無い裸の日本艦隊は航空機攻撃で散々にやられ、不沈艦と誇った武蔵はマニラ東方シブヤン海に沈んだ。

 「この艦は絶対沈まない、一戦交えたら呉へ帰るから貴様も乗って行かんか」と兄に薦められた艦長の猪口大佐は艦と運命を共にされ少将に進級された。「万一の事があると本分に反することになりますから」とお薦めを辞退した兄は生きて帰って、その直後弱冠27才になったばかりなのに少佐に進級した。短期現役の造兵中尉に任官して4年半の事だった。

  父は決して子ぼんのうではなかった。殆ど放任主義で干渉しない、とも云えるのだが子供が多かったから、せざるを得なかったのだろう。もしも他人の子と自分の子と同時に解決するべき問題が生じたら、他を優先させる人だった。ただ子供が節目や曲り角に差しかかると、そっと手を加えて道なりに軌道修正するやり方だった。
  学校の父母会にも滅多に参加しない父が羽田に息子を見送るなどは異例の事で、戦局は絶対不利、故障するか日本列島に接近する機動部隊の艦載機グラマンに喰われるか、今生の別れになるかも知れないと思ったからであろう。

  海軍の話はまだある。総動員令が出たのは昭和18年、学徒出陣の儀式が雨の神宮競技場で行われたのもこの年の秋であった。人も物も乏しくなった日本が総力を集めてという趣旨である。昭和19年4月から父は日本ビクターの取締役技師長に就任していたが、メーカーの技術のトップを海軍嘱託という職名にして、日本の工業技術を結集しようとしたのであろう。父も大佐待遇になった。
  或る日の夕食後のひと時であったか、「海軍将校の人が、いきなり何年度のご卒業ですかと訊いて来たので、大学は出ていませんと云ったらびっくりしたような顔をしていたよ、技師長というと東大出だとおもったんだろうね」と笑っていた。「大佐」は一年余りの短い期間だった。
 

悪夢-死神に追われて

 
  昭和19年の秋から、サイパン、グアムの基地から飛来するようになったB29による空襲は、3月10日の東京大空襲以後益々ひんぱんで激しさを増していった。昭和20年5月25日夜の空襲で、東京都目黒区の一角に建つ築後7年余の約70坪程の我が家は忽ち灰燼に帰した。ボタンを押す0.1秒が生死を分けた。前々夜の空襲で玉川通り(246)の向こう側がやられ、我が家の近くの旅館に一発落ちたのを、大勢で消しとめ、それで終わりかと思って居たが。

 
鋼鉄製の差渡し8cm、六角形、長さ凡そ50cm位の油脂焼夷弾が束になったまま、B29の進路の上手30m位の所に落ちたのは昭和20年5月26日0時半頃だったろうか、爆撃手の手のほんの瞬時ボタンを押すのが遅ければ、私達家族8人が入っていた防空壕を直撃した筈である、平屋の建物に落ちて轟音と共に10数mの火炎が深夜の空を照らした。1本が壕の東側3mのところに落ち、ローソクの様に隣家に突きささって燃え上がるのを見た。周辺一帯がぼんやりと明るくなり始めガソリンのような油の匂いと煙がたちこめ、もはやこれ迄と全員退避をきめた。

 夜具の一枚とか薬缶一つとか持って、淡島通りに出るまでに10数mは私道で竹垣に火がついて倒れて燃えているのを踏んでようやく通りに出た。
  今は神泉町交差点とよぶ246通りの角(今のNCRの建物)にあった憲兵隊の並びで渋谷よりは、強制疎開で空地となっていた。そこでうずくまって夜の明けるのを皆で待った。一時間程して我が家と覚しき辺りに高熱を示す白い炎が上がって長く続いた。三軒茶屋の方向から無数の火の玉が、火事風に乗って渋谷駅の方向に流れてゆくのをぼんやり眺めているだけだった。夜が白々明ける頃には、住居の一帯は燃えるものは尽きて、火は収まったので、皆で我が家へ戻ると、家は跡かたもなく、無論柱の一本も残らずで、焼けた瓦が一面に散乱している有様だった。
陽が登り8時頃だったろうか、区役所から派遣された被害に遭わなかった方々が炊き出しをして握り飯を持ってきてくださった。その人達の口から、近所の方々の悲しい消息が伝えられた。
  我が家の玄関脇にあった元井戸に、毎朝水を汲みに来ていた隣家の65才ぐらいの上品なお婆さんは、結核の病人をリヤカーに乗せて一家4人で避難する途中に、腰に直撃弾を受けて、明け方に亡なられた。
  淡島通りのパン屋さんの新婚の若いきれいなおばさんは、大腿部に直撃弾を受けて同じく朝までに、おばさんと立ち話していた少年は直撃弾で即死。そのななめ向かい、今のトヨペット渋谷営業所のある淡島通りに面した当時の郵便局長さんは、位牌を持って出ようとした所で上半身に直撃弾を受けて即死された。今、目黒区青葉台4丁目という周囲800m程度の範囲で、名を知っている方だけでも7人が一夜の空襲で死亡された。
 一瞬の違いで生き残った私たちであったが、生きていて良かったという気持ちには到底なれなかった。むしろ、私たちが犠牲になれば、あの方々は助かったに違いない、と思うと無しょうに済まない気持ちにかられた。私たちが死ねば又何人かの人が死ぬ。戦争とは残酷極まりない忌み事だとつくづく思った。
  その後は梅が丘の親戚に一週間程お世話になり、日本ビクターの疎開工場へ行くことになる。


 
父は家が無くなっても平然としていたし、終生惜しかったという素ぶりも一切見せなかった。何も感じていなかったかというと、そうではないらしく、亡くなる前の数年間のある日、私にしみじみといった。「人生で一番良い時代は40代だよ」、丁度NHKに入社したのが39才、退職したのがちょうど満54才だから、NHKの時代が一番恵まれた楽しい時代で、その昔も晩年も悲哀と苦しみの多い父の一生であったといえよう。

  話は少し前に戻るが、住むに家なく親子8人のうち海軍技研に勤める長兄と、9月には海軍々医中尉に任官する予定の次兄(慈恵医大)の2人を除く6人だけで、桐生市へ行った。桐生の郊外には、父が勤めていた織物工場を改造した日本ビクターの疎開工場があった。因みに父が勤めていた横浜子安の本社工場は4月の空襲で全滅していた。

敗戦を挟んで桐生での日々 

  降り立った桐生駅前の通りで「あれが戦災乞食だべ」と地元の人たちが囁くのを耳にした。駅前の旅館で休息したのちバスで目的地に向かった。住む所は足利尊氏の家臣が住んでいたという4km程離れた市郊外の武家屋敷(現在は文化財)の母屋の一隅で、慢性的食糧不足で芋と高梁と野菜が殆ど、夜は蚤に悩まされた。敗戦の日を境に工場動員から開放されたが、九月から始まった桐生中(現県立桐生一高)では週の半分が農作業で、山の斜面の木の切株を取除いて開墾する労働が課せられ、半分が授業だった。

  夏のまだ盛りの頃、両親と私の3人と、同じ屋根の下の別の区画に住む父の親しい同僚、伊藤三洲さん(米加洲大卒)御夫妻と桐生駅から有蓋貨車に乗って、一日がかりで南瓜を夫々リュック一杯買って来たことがあった。桐生はJR両毛線が通っていて今でも列車が一時間に一本位であるが、その頃は客車はあてにならず買い物は貨車を利用する人が多かった。

  敗戦の前夜、全国民が何も知らされていなかった時、「ポツダム宣言受諾」を二世仲間の短波放送で知って居た伊藤さんは、我が家にこられ、「日本はもう負けるのです、5年間辛抱すれば戦前と同じ生活になるし、10年経てばもっと良くなりますよ」と話して下さった。翌日が8月15日の玉音放送。7月に東京から来た長兄が、もう艦(ふね)は殆どないよ、もう負けだよと言っていたが、強がり屋の軍部があれほど簡単に崩壊するとは思ってもみなかった。
  毎日のように空襲に来たグラマンの影は消え、セミの音は高く考えようではこの時期が一家団らんの一番幸福なひと時だったかも知れない。

  秋もかなり深まって、帰京したい思いの募っていた頃、いつも豆や野菜を分けてくださる、近所の農家の中年のご夫人が二人連れ立って尋ねてこられた。来訪の理由は次のような事である。
「お宅の今年の収入をそのまま申告されると私共土地の者が大変迷惑します、多額の住民税が来ますから減額して申告をして下さい」。
  応対に出た母が静かに「どのようにすればよいんですか?」と問うと、「年収の数字の上2ケタを削ってください」という驚くような申し入れであった。何と年間の現金収入が数百円しかない。その瞬間私が思ったったことは、桐生駅に降り立った時、「戦災乞食」と、さげすむように云ったあの町行く人々も、衣や住に困らないにしても、決して豊かな生活ではないのではと思い至り、許せる気がした。
  しかし、全国の都市は焦土となり、皆乏しく、その時代の一家の給料の多寡は、もはやステータスの指標を示すものではなく、民生品について云えば下駄やタワシのような物以外は殆んどない、たかだか芋(1貫目=3.75kg・20円)や南瓜を多く買えるかどうかの差に過ぎず、物々交換で色いろな品物も手に入るし食料を生産出来る農家の方が、サラリ-マンより、ずっと上位にあり、羨望の的だった。

  赤城下ろしの風が冷たくなった頃に、姉の友人からお便りで、雑司ヶ谷墓地の近くに当時大阪気象台長の国富さんのお留守宅があり、お貸ししても良いというありがたいお話があった。大晦日の前日一家六人手荷物だけ持ち、窓に木の板を張り巡らしたうす暗い東武線の電車で帰京した。朝出て雑司ヶ谷に着いたのは夕方で、何とかガソリンを手に入れてトラックで荷物を運んでくる手筈であったが、いくら待っても来ず、一家分散して束の間の居候となった。やがて1台の牛車で荷物が運ばれて来たのは数日後の事だった。
  正月に開成中2の同級生原島康廣兄〈後弁護士。平成9年没〉からの年賀状が転送されて来た、食糧事情の為授業は1月21日から始まるとあった。食料不足は深刻で、200万人が餓死線上にあると、ラジオ、新聞は報じていた。
私達もその仲間だった。   

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2005/03/11

栄光と影と

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連載(2) <2005/3/17>
栄光と影と
 

 
当時輸入された放送機にはマルコーニ社製のライツ型のカーボン式マイクが1個だけ付いてきたが、日本の湿気で忽ち雑音機と化してしまう、父丸毛登は東北帝大から借用した実験道具を用いて氷砂糖を減圧下で焼き、篩で粒度を揃え炭素粒を得る方法を考案し、特許を申請した。理学の基礎と実験を叩き込む物理学校で学んだ物理学と化学と数学を駆使し、東北大学の伝統である物性論の研究環境の中で父の独創と努力が実ったのであろう。これが後に東京理科大学での本多光太郎学長との出会いに繋がっていく。
  吸着度の高いアモルファスカーボンを、焼成条件により結晶化の程度(グラファイト化の程度)を調整して吸湿度を下げ、かつ粉体としての電導度の調節に至ったのであろう。

 
父の特許申請に対して、数件の異議申し立てがなされた。その主なものは当時電気炉や食塩電解用のカーボン電極をつくっていた会社などで、炭素粒を熱処理する方法は「公知の事実である」との異議であった。特許庁での審査の結果異議は退けられ「熱処理した炭素粒の粒度を篩で揃えてマイクロフォンに用いる」という申請が認められ昭和5年、正式に特許が成立したという経緯があった。

 こうして出来たMH型マイクのHは実験助手を勤めて下さった星佶兵衛氏のイニシャルである。 「前畑がんばれ」の頃迄の数年間全国で使われ、今も愛宕山の放送博物館に一つ残る。


  星氏は特許成立の翌年1月に、前年に設立されたばかりの技術研究所に転任されMH型マイクロフォンの製造と研究に従事され、後年内幸町の演奏設備部長などの要職に就かれた。
  研究の段階での試作品は特別な設備が無いので試験はナマ放送で、とは父の得意とする処だったが、湿気に強く感度、明瞭度、出力の極めて優れたもので、しかも製造コストは11円50銭であった。輸入品は炭素粒交換のため欧州に送る3ケ月の月日と経費300円が必要であったから、国産でしかも製造コストは僅か修理費の4%ということになる。特許は父の意志でNHKに寄贈された。
 NHKから功績賞の盾と父には2500円、星氏には500円の報奨金が授与された。併せて時価1000万円位であろうか?

 
星佶兵衛氏は昭和37年頃,NHKを55才で定年退職する少し前に亡くなられた。父は70才代半ばだったろう。そのころ父の理大での授業で使うビラ作りを手伝っていた私に、父はポツリといった。
 今日、協会(NHK)へ行って、規定の許す範囲で、星さんの退職金を増してあげて欲しいと頼んできたよと言った。その頃は専務理事(技師長)というポストが出来ていたので、その方にお会いしてのことだろうか。
 
MH型マイクロフォン丸毛登 NHK時代
  この時代は白黒テレビを一台買うにもやりくりせねばならなぬ未だ貧しい時代だったが、この時ひとはどこまで思い遣りをすればよいのかの限界を教えられた思いがし、私の終生の規範になったような気がする。

博士号辞退、テレビの研究も


 
電気試験所の当時の技師仲間7人のうちで父は若い方に属する。38才で所長になられた鳥潟博士とは5才年下に当たる。鳥潟氏が42才で亡なられたのが大正12年、父丸毛登の年令は37才。その3年ぐらい前の事か、或る日所長が父に云われた、「私の友人に九州帝大の教授が居る、君はデーターを沢山持っているから、論文を出せば博士号が貰える」と。これに対し父は多分即答したのだろう、「先輩を差置いて私が先にと云うわけには行きません」と辞退したのだそうだ(母よりの伝聞)。
  末は博士か大臣かと云われたこの時代を振り返って、後年、晩年の長兄と話をしていた折に、「何故親父さんは博士請求論文を提出しなかったのだろう?」という事に話が及んだ。兄いわく、「多分、審査費用などお金が無かったんだろう」。私もほぼ同意してその話は終わった。

  話はもう一つある。テレビジョンの可能性は恐らく1897年(明治30年)にブラウン管の発明がなされた頃、つまり父が10才の明治30年を少し過ぎた頃から考えられていたに違いない。
 この大正の中頃に、鳥潟博士は父に「君はテレビジョンの研究をやらないか?」といわれた、父は恐らく何日か考えての事であろうが、「私の時代にはテレビジョンの時代は来ないでしょう、だからテレビの研究は致しません」とお答えをした(これも母よりの伝聞)。まさか米国と戦争をして、敗戦後父が60才を少し過ぎた時に日本ビクターの技師長の職をテレビジョンの高柳健次郎氏に引き継ぐことまで、この時読んでいたわけではなかったであろうが、まさにピタリと言い当てていたことになる。
  鳥潟博士は開成中学の後輩である父、2年間在学して退学せざるを得なかった父に、温情あふれるサジェストをお与え下さり、間もなく亡くなられた。

  予言めいた話を尚続けるなら、話は真空管の事に及ぶ。大正5年(1916)には電気試験所で試作品をつくり、既に受信機の試験が行われていた。大正8年には東芝が送信用真空管をわが国で初めて完成、大正13年同じく初のラジオを発売、14年に放送開始となる。初期の受信機は鉱石式で大きなスピーカーを付けたりしていたのだから、ラジオ用真空管の量産は昭和6年頃からであろう。

  当事は放送機器を含む通信機器を造る会社が続出する時代で、NEC、沖電気などは主に電話関係、早川徳次郎氏によるシャープ、松下電器等は特許・実用新案を基に産声を上げたばかりの時代だった。無論戦後生まれのソニーや富士通は無かった。

  日本の電気学会の昭和8年頃迄の規定で投稿や研究発表は、通信は送信(強電)に関するものに限られ、受信(弱電)に関する研究は除外されていた。そのようなもの、拾ってきた石コロを削って作った半導体などは学問の領域外だったのだ。
  この頃から真空管万能の時代が戦後まで続くが、父は大阪の技術部長時代だった昭和7~8年頃に、すでに将来を見通していた。「真空管の時代は一時的なもので、将来は改良された鉱石検波器の時代が来る」と予言していた。

  面白いことに、アメリカも日本も同様に戦争中、真空管が壊れやすい欠点を持つことに悩んでいたことが戦後判った。アメリカは戦時下から”壊れない真空管”の研究が盛んになり、半導体の発明に及ぶ。

 
昭和18年頃、長兄の海軍技術研の部下の一人が招集され、軍艦の乗組員となって艦隊勤務をし、休暇の折に時々兄の所に遊びに来ての話。大和、武蔵の46糎は大丈夫ですが、巡洋艦の20糎はダメですといっていた。振幅よりも振動数、つまり高い音を出す大砲に真空管は弱かったのであろう。

  半導体は顕著な例だが戦前にもアメリカでは有効な特許には、惜しみなく賞金が与えられたので、欧州や日本から技術がアメリカに集中して、アメリカの産業の発展は目覚しく日本の発明もアメリカで有名になると、日本の社会で認められると云われていた。戦後60年の今日でも、その傾向は変わっていない。
  残念ながら日本の風習は、誰かが役に立つ良い発明をすると、軽視するだけでなくそれをけなして更に足を引っ張る。
 技術立国と云われて久しいのに最近まで、発明者に対する報酬の方法があまり論議されずに来ていること自体、不思議である。

 父が昭和9年、 今から70年前にNHKから放送事業の調査の為派遣されて米、欧で一年余に亘って過ごした時、アメリカの放送技術者に自分の発明のことを話したら、「アメリカでは良い発明をすると何万ドルも貰える」と云っていたよ、と父は話していたが、当時の1ドル対2円で換算すれば、今日の価値で数億円ということになる。

 昭和の初期、NHKは放送債券を一口200円で売り出した。債券を買えば受信料は免除になり、我が家の門柱にも購入を示す金属プレートがはられていた。
  受信料は月額1円で加入者は多くなく、債券の売れ行きも良くないという財政の貧しさの中で、父に最大限の事をして下さったことを有難く思う愚息の立場から、今思うことを敢えて云えば、利益を追求するための私企業である会社は、利益に見合った報酬を一時金とロイヤリテーのような方法でもよいから発明者に配分するべきものと思う。

---閑話休題---
 
 それにしても、鳥潟博士が若しもっと長く生きておられたら、恐らく逓信大臣になられたことだろう。

 当時の関係者は、テレビジョンの実用化は少なくとも10年早かったであろうと、嘆いていたがそれ程、時代の先を見通す力と、政治的手腕は著しいものを持っておられた偉大な方だった。

           JOBK(NHK大阪放送局)丸毛登技術部長の一年余の欧米視察談を報じる業界紙(昭和10年)

    昭和7年大阪放送局関西支部技術部長となって大阪へ移り、昭和9年には改組で大阪中央放送局の技術部長となった。昭和11年には、父の特許成立と同じ昭和5年に既に設立されていた砧の放送技研の所長代理兼務の第2部長となって東京に戻った。所長のポストは以後5年、父の退職にいたる迄空席だった。
 
  当時技研には3部あり、3部とはとは送信、受信、テレビジョンで、父は受信が担当だったが、因みに第1部長は箕原騏一郎氏(海軍技術中将)、第3部長は高柳健次郎氏(浜松高専教授)でテレビは試験放送に入る処だった。

 因みに云えばテレビの受像機は1台3000円(時価1000万円)だった。女優さんの姿や景色はかなり鮮明であったし、受像機に対し多くの人々が興味を示したが、値段に驚き、購入したという話は一度も聞かなかった。 設立後僅か10年のNHKには生え抜きの幹部はなく、学歴不問、即戦力の寄せ集め集団というべきで、父も高柳氏も大学出ではなかった。昭和16年の秋に満54才で退職するまで続き、在勤13年半という短期であったが、以後も会友として終生遇して頂いた。

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2005/03/10

古いことを書いて・・・・

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連載 (1) <2005/3/10> 
                         
  古い事を書いて退屈だと思うが少々お許しを願いたい

  開成の先輩で偉人の一人、明治33年卒の鳥潟右一博士 は東大工学部卒業後若くして逓信省電気試験所長に就任され、明治から大正にかけて、我が国の国運に関わる電気通信技術の発展に貢献された。格式の高い才気溢れる人柄で世界を相手に後世にその名を留める多くの業蹟を残されたが、惜しくも数えて41才の若さで、在任中病のためこの世を去られた。
 
  鳥潟氏の配下で当時有線・無線と呼ばれた通信技術の改良の為に、手足となって働いた七人の技師の一人が私の父、丸毛登である。
  東京物理学校を出て逓信省に勤めるまでの学生アルバイトの五年を含めて官民六つの職場 [内務省、逓信省、NHK、日本ビクター㈱、現エルナー㈱、北辰電機㈱] で、死ぬ迄六十七年間働き、勤めの傍ら早大・理工で2年、桐生高専(現、群大・工)で半年、東京理科大学で18年間「電気通信」を講じた。研究を愛し常に童心を失わず藍綬褒章をも受けて81歳余の生涯を閉じた、と言えば平坦でむしろ幸せな人生であったと思われるであろうが、その一生は不運の連続だった。 
 8歳で母親を、15歳の時に山形県酒田の営林署長として単身赴任中の父親を病で失い、以後義母を中心に一家5人の生計を担うこととなった。元々が豊かでないので群馬県中之条から中二で転入学した開成中学を中三の終りで退学した。一本一銭の鉛筆を買うのにも不自由したと述懐していた。
 
  中三では明治38年卒、歴代中の秀才と云われた民法の末広厳太郎氏(東大教授、中労委々員長)とは同級で父の成績はクラスで六、七番だったようだ。退学の後は内務省で雑用係を勤め夜は東京物理学校に学び明治40年全科(数・理)を卒業した。
  在学中に講師として横須賀から来る海軍技術将校の講義を受け、日露戦争で有名な「敵艦見ゅ」に感動して通信の道を志し、20歳で逓信省電気試験所に入所し、以後20年間勤めた。
 五反田の電気試験所では、旧高専卒で任官すると技手(技師の下の位)になる。技手になった父は有線・無線の電信電話の実験現場を常に担当する立場にあった。
 「敵艦見
!」の直後の時代で、通信の実験は当時、唯一のマスコミである新聞を通じて世間の耳目を集めていたから、幹部の談話も記事になるが、現業の父や同僚の難波氏は写真と共に掲載されることが多かった。..
   
           逓信省管理局 丸毛登技手の洋上無線電話試験を伝える東京朝日新聞(大正2年6月6日)


 氏を中心に、横山、北村氏など技師の人々は、渋谷駅に近い目黒区の駒場町などに住んで居て、親戚のような親しい付き合いをしていた。因みに私の両親が結婚して近所付き合いの仲間入りをしたのは、母の実家とご近所で交際のあった北村政治郎氏のご媒酌によるものだった。北村氏は、のちにNHK開局時のJOAKの技術部長として以後約10年、病没される迄勤められた。

 父が試験所勤めをしていた20年を愚息である私の目から見て、その最も喜びの大きかったのは、

   1.鳥羽-神島間の無線電話の実験成功(鳥羽にT.Y.K記念碑がある)
   2.茨城県平磯出張所長の大正13年8月30日にアメリカ サンフランシスコGE所属KGO局の
     海外向け短波放送を初めて日本で受信したこと

 前者は父が出張を命ぜられ、心血を注いで成功に導いたものである。大学卒でない実務者の名は省かれるのが当時の通例で、致し方ないことであるが、Mが入れて貰えなかった事を父は残念に思っていたふしがある。
  後者は関東地区の3ケ所で競うようにアメリカの海外向け放送を受信しようと準備を整えていたとき、他に先がけて日本で初の受信に成功したのが平磯で高さ60mのアンテナを持つ父のチームだった。逓信省高官が代わる代わる平磯を訪れて、自分の耳で聞いて確かめて居た、とは母の話である。
  因みに無線電信はトン・ツー・トンであり、無線電話はラジオのことで、当時の受信機は鉱石検波器(今のトランジスタ)である。
 やがて大正14年には放送の開始となる。
既に発足していたNHKに昭和3年に移籍し、仙台放送局の開局に当たって建設に携わり初代の東北支部技術部長になった。私は局の社宅で昭和5年に生れた。
  仙台在住4年間の事は幼くして記憶に無いが、その頃父は多忙で東北6県の中継局の開設にも当たっていた。


 
   米国のラジオ放送を日本で初めて受信した電気試験所茨城県平磯局(丸毛登所長)の成功を伝える大正13年9月4日の「電気新報」

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