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平成26年1月より

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理科大学年表解説

東京理科大学年表
        大学に歴史あり、人に歴史あり大学を支えた人々
 

  年表の解説
  学校創立の100年前の1776年から2006年までの230年間の長いスパンの年表である。

  或る歴史的な出来事は、少なくともその100年前からの出来事に大きな影響を受けている。
  若き21名の理学士が、1881年(明治14年)東京の九段坂下に東京物理学講習所を興した。その105年前の1776年はアメリカ独立宣言の年で、同じ年、日本では平賀源内がエレキテルを完成させている。

  その後、世界の覇権は大きく変わり、1799年オランダの東インド会社解散、ナポレオンの皇帝即位、アヘン戦争、ペリー来航、1858年の英国によるインド統治と続き、次いで日本では1860年の桜田門外の変、6年後の薩長同盟、1868年の明治維新、会津落城にいたる。
  明治維新の3年後、1871年(明治4年)にはフランスが普仏戦争で敗れ、日本の軍事、法律、理学に対するフランスの影響は薄れ、日本の文明開化は英、米、独に強く傾斜していく。

  江戸幕府の最高学府、昌平校の開校は東京物理学講習所開設の84年前の1797年である。以後、1855年の洋学所、1861年の西洋医学所、1863年の開成校と続き、1869年(明治2年)には明治政府の大学本校(昌平校)、大学南校(開成校)、大学東校(医学校)となった。しかし最も古い大学本校(昌平校)は明治3年に閉鎖された。
  明治3年、広く人材を求める貢進生制度が創られ、各藩から選ばれた秀才300人ほどが大学南校に入学したが、明治4年、廃藩置県と同時に貢進制度は廃止され、南校に残ったのは130人ほどであった。
  開成校と医学校は1877年(明治10年)東京大学となったが、東京物理学講習所を設立した若き21名は開成校または東京大学卒の理学士であり、そのうち7名は貢進生であったし、16人は明治11年、12年、13年の東京大学の仏語物理学科の卒業生である。そして明治13年、仏語物理学科は廃止された。

  この頃、新制度の国家建設のため官学だけでは間に合わないと法律、政治、会計、商業、工業、語学、医学などを学ぶ私学が次々と設立されていったが、国家百年の計のため物理学・数学・化学などの基礎学科が必要であるとの鋭い洞察のもと、理学教育の遅れを憂い、私費を拠出して無報酬で教員と学校経営者を兼務し、幾多の存亡の危機を乗り越えていった22歳から29歳の若者達の思いを明治14年の学校設立広告に見ることが出来る。幼少期から、漢学の教育を受けた創立者による漢文調文語体の設立広告は、今や読める人は少なくなったので口語体に直したものをつけた。
 そうして、当時官学にあり時代の理学教育、理学研究の中枢にいた多くの有力者の共感、支援を得て苦難を乗り越え、今日の東京理科大学につながった。

  時代の要求により、興るべくして興った学校とも言えるが、奇跡的とも言える存続の歴史を見るとき、創立者の高い志と、多くのパトロンと、卒業生の貢献の3つの組み合わせの妙を感じるものである。パトロンの中でも会津藩士、帝大総長山川健次郎は理学普及への共鳴と共に、志を貫くがゆえに苦難の途を歩いた会津藩と新撰組に物理学校がダブったのではないか。創立者を援ける義侠心のようなものを感じる。

  然し、大正末期までに創立者もパトロンも高齢化して現役を去り、1929年(昭和4年)の世界大恐慌、1931年の満州事変、1932年の5・15事件、1936年の2・26事変、翌年の日中戦争、そして1941年(昭和16年)の太平洋戦争と混迷と戦乱のなかで、学校はどう生き抜き、その役割を果たしたのであろうか。

 1934年(昭和9年)から昭和20年まで物理学校第4代校長を務め、昭和11年から14年までは物理学校理事長であった理化学研究所所長・大河内正敏が困難な世相の中で難しい経営の舵取りをし、既に歿した創立者たちの高邁な理学への想いを継承しながら、新しい時代の応用分野への要求に応える教育環境の整備を行っていった。
  しかし、おそらくあったと思われる理研関係者の応援も含め、何故か大学の正史にも語られることが少ない。それ程、教育にとっては厳しい環境、世相であったのであろうし、当時の記録者にとっては大河内の思想に理解が及ばなかったのか、あるいは終戦の混乱のなかで記録が失われたのかも知れない。

  昭和22年米軍が写した神楽坂地区の航空写真をみると、物理学校の三角形の鉄筋コンクリート校舎と研究社の建物を残して神楽坂地区は広大な焼け野原である。
  昭和12年の校舎増設のとき、大河内は木造でよいという学内の反対を押し切って鉄筋コンクリートとし、奥まった場所から外堀通りに出るため、道路を付け替え由緒ある木造校舎を撤去している。もしも木造で校舎を増設していたら、昭和20年春の3回にわたる空襲、中でも5月25日空襲の20発もの焼夷弾被弾から当直体制の消火活動で校舎を守った教職員と学生の努力も恐らく報われず校舎は灰塵と帰し、学校は存続できなかったと思われる。

  大正から昭和にかけ、東北大学の人脈が多数現れてくるが、これが本多光太郎の初代東京理科大学学長就任につながるのであろうか。
 
  戦後間もない1949年(昭和24年)東京物理学校は東京理科大学となったが、大学の体制整備のための様々な施策がとられ、それが日本経済の高度成長期に結実していった様子が年表から読み取れる。1966年(昭和41年)就任の第3代学長菊池正士は、明治のパトロンの一人菊池大麓の4男である。

  日本経済のバブル崩壊後の超デフレ期も終わりを迎えようとする2006年の今日、16年も前に減少に転じた18歳人口はピーク時の67%であるというし、2年前に日本の人口は減少に転じたという。
  大学も125周年を迎え、理工系総合大学として、次の100年に向けて「世界を先導する科学技術の情熱拠点」として教育・研究・貢献の施策が打ち出されている。日本にとどまらず、世界の舞台で評価される理科大学を目指すのであろう。
 125年の歴史を振り返ることは、さらにその100年前の歴史を振り返ることにつながり、それがこれからの100年、すぐ先の5年、10年、20年を考える糧となるのであろう。

  経営者、教員、職員、学生で構成される大学の歴史は、卒業生の歴史でもある。何時の時代でも卒業生は卒業生同士の懇親と連携を深めながら学校の発展を応援し、学校は卒業生の発展を応援してきた。
  年表が語るように、明治の初めから連綿と、我々の先輩達が前例のない未知の課題に挑戦したから今がある。これからもそうでありたい。
                                                                                     以上
 以下は明治14年6月13日付の郵便報知新聞に掲載された設立広告。6段広告紙面の1段の1/3という
小さな広告である。同文の広告で平仮名を使ったものがあるが、別の新聞にも掲載したのか。


      設立広告を口語体に直したもの

   東京物理学講習所設立広告


 
    近年(輓今)我が国の文化文明の進化は速く(文運駸々乎として)四頭立ての馬車(駟馬)
     でも及ばないほどの勢いがある。
     そうして独り理学の諸学科だけは法文学に較べるとその進歩の遅速は天と地の違い
    (霄壌の差異)がある。
     理学科というものは、法文学科のように単に書籍だけで其の真理を見抜き理解(洞解)す
    ることはできず、実験・観察(試験・観察)など実地についての研究が必要である。

      しかしながら、現在は官立大学校のほかは、未だ適切な理学校の設置は甚だ多くはない
    為に世の人はおおかた(大率)学術の本旨と其の利益を覚ることができず、かえってこれを
    蔑視する弊風がある。
      かつ、理学を修める者でも往々にして間違った見解を懐くことをまねかれない。これらは
    まさしく、理学科が特に著しく進歩していないためである。 
     我々はひそかにこれを憂い、共同して力を合わせ(協同戮力)公益の為に一学校を設立し、
    専ら実験(試験)によって最も簡易に物理の諸学科の意義をときあかし(講明)たいと望んで
    いる。
      仮の場所ではあるが飯田町四丁目稚松小学において土曜日・日曜日を除き毎夕交替で重
    力学・音響学(聴学)・光学・熱学・電気学の各科を講義する。
     聴講の志ある諸君は六月参拾日迄に本郷元富士町二番地桜井房記、招魂社裏手四番町
    五番地小林有也、猿楽町二十一番地谷田部梅吉の三名のいずれかに宿所姓名を詳記して
    お申込みを頂きたい。

      最大限に聴講諸君の便利を計り、一週間中二夕即ち二科以下に出席するものは校費として
    一カ月二十銭、三科以上を聴くものは同四十銭とした。他に入学金(束脩)、月謝などは必要な
    い。但し、時まさに炎暑に向かうので九月初旬(初浣)より開校とし、講義時間および開校期日
    は追って広告する。

注記:

櫻井房記(ぼうき)のこと
  創立者の一人で最年長者であった嘉永5年(1852)生まれの加賀藩士・貢進生、櫻井房記は、明治14年(1881)物理学講習所の初代所長になった翌年フランスに留学し、明治23年(1890)熊本五高の教授となり、教頭と第5代校長の時代、漱石に英国留学の助言をしたり加賀宝生流の謡を教えたという。(教頭:明治28~33、校長:明治33~40、漱石の在熊本は明治29~33)
 五高退職直後の明治41年(1908)には、宮中で韓国李王朝最後の皇太子の教育御用係を鈴木大拙などと務めたとの記録があるが、自らを語ることの少なかった人柄であったらしく殆ど記録がない。

 弟の櫻井錠二は明治・大正・昭和の化学界の重鎮で、大正6年(1917)設立の理化学研究所の初代副所長でもあった。初代所長は菊池大麓、その時期に大河内正敏は理化学研究所の研究員であり、大河内が大正10年(1921)第3代所長になったとき櫻井錠二は副所長を辞している。
 櫻井房記は晩年まで物理学校の教壇に立ち、経営に携わったが、弟錠二の存在と大河内を理化学研究所長に推薦したのが山川建次郎であるなど、理化学研究所人脈と物理学校の縁は極めて強かったのであろう。大河内の物理学校校長就任は昭和9年である。
  房記は隠れたキーマンであったと思われるが、房記に限らず殆どの創立者は多くを語っていない、明治と云う時代がそうであったのか、はたまた理学の求道者がそうであったのか判らないが、一つの伝統を形成しているように思う。房記の没年は昭和3年(1928)で76歳であった。

稚松小学校のこと
:
  東京物理学講習所は明治14年、九段下の稚松小学校を夜間借用して開校された。当時の住所は麹町区飯田町4-1であるが、この番地は現在の千代田区飯田橋2-1から九段北1-6にかけての日本橋川の西に沿った地域で、高速5号池袋線の西神田ランプの北から南の地域である。
  明治28年の地図には、現在の堀留橋の西詰め、西神田ランプ辺りに「稚松小学校」の記載がある。その当時、運河は稚松小学校のすぐ南までで堀留になっており、当時の堀留橋の西詰めに当たる。明治33年の新東京絵図には堀留近くの運河沿いの建物群に「稚松学校」の記載があるが、変形された鳥瞰図であるから場所の見当に止まり敷地や建物は定かでない。
  以後地図に見当たらなくなり、明治36年の堀留から神田川への開削により学校の場所の東半分は日本橋川に入ってしまったことが、明治28年の地図と現代の地図を見比べるとわかる。

  稚松小学校の場所を記した地図の発見、稚松小学校の成立と廃校の経過が西村和夫氏の調査で明らかになり、東京理科大学発祥の地が確定し、平成20年(2008)2月にはその地に発祥の地記念碑が建つことになった。
  東京理科大学の同窓会、理窓会の会誌「理窓」2007年10月号に西村氏は稚松小学校について以下のように記している。
  「稚松学校は元治元年(1864)飯田町二合半坂で始められた円山堂という寺子屋だったが明治5年の学制公布で、翌年の明治6年、飯田町4丁目1番地に移り稚松学校を開いたといわれる。明治14年に稚松小学校となり、地面積286坪、区内随一の小学校として業績を誇っていたが、明治36年3月31日で廃校になった。」

明治20年地図、明治28年地図、明治33年の絵図から推定したを稚松小学校敷地を現代地図に重ねてみた。当時の堀留付近の運河西岸は、現在の西岸よりも20mぐらい東にあった。稚松小学校の記入がある明治28年の地図は、西村氏が千代田区役所で探し当てたものである。
左上: 
明治28年の地図、昔の堀留橋の西50mほどのところに稚松小学校と書いてある。昔の堀留橋は「もちの木坂」を下り現在の日本橋川に突き当たったところで、現在の堀留橋と南堀留橋の中間にあった。
左下:
明治20年の地図、稚松小学校と考えられる400坪ほどの敷地がある。
右上:
現在の地図に昔の運河と稚松小学校の敷地を書き込んだもの。明治36年の神田川につなげる開削で稚松小学校の敷地の東半分は日本橋川の中に入ったことが分る。
右下:

明治33年の新東京絵図、堀留の西側に稚松学校という書き込みがあるが、変形された鳥瞰図であるから場所の見当だけで、建物の形も参考にならない。運河をブルーに塗ってみた、画面下の運河に架かる橋は九段下の俎橋である。絵の上が北。

                                               (2006.4.1 山田義幸)