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物理学校意外史

物理学校意外史 >> 記事詳細

2005/03/01

1年生は生徒ではない?

Tweet ThisSend to Facebook | by:埼玉支部
連載 (7) <2005/3/1>               

1年生は学科の区別なく一まとめにして教育され
    2年にならなければ、世間でも物理学校の生徒と認められなかった   
          元をたどれば明治20年の規則改定


  明治19年11月、小川町1番地の仏文会に間借りした東京物理学校は学校体制を整え、翌20年7月から、終業年限2ヶ年を4学期に分け半年毎に進級させることにし、教科課程を次のように改正した。
       
   第1学期 算術、代数学、幾何学                      
   第2学期 算術、代数学、幾何学、物理学、(化学)
   第3学期 幾何学、三角法、代数学、物理学、化学
   第4学期 代数幾何学、重学、測量、物理学、化学

  同年12月、さらに規則を改正、2学期に化学を加え、2~4学期において物理学・化学2科を総称して理化学科とし、その他の諸科を総称して数学科とした。 つまり、1学期は(21年の規則改定で入学期日を年に2回、学期はじめとした)全員同じ教科課程で学習し2~3学期において物理学・化学の2科を選択すると理化学撰科、その他の学科を選択することを数学撰科とした。全ての教科を学ぶことを全科と呼んだ。理化は物理学、化学を意味するものであり、この学科区分と学習形態は物理学校が理科大学になるまで残されていた。
  数学科、理化学科、昭和10年応用理化学科として開設された、応用物理学科、応用科学科、戦後昭和22年開設された農業理科学科であれ学科の区別なく1年生はすべて数学を中心にした同一の教科課程で教育され、2年生に進級するとき相当数の生徒が振るわれて、ようやく専門の学科に進級できたのである。つまり2年生に進級することが、実質的な入学試験に変わるものだった。
  入学期日を2月と9月の2回と定め、卒業も年2回、2月と7月としている。ただし、卒業式は2月にまとめて挙行した。この慣習は大正6年東京物理学校が専門学校として認可されるまで続けられた。
 
無試験入学の伝統が    
        太平洋戦争末期は徴兵逃れのシェルター化にも 


 「2年生になれないと本当の物理学校の生徒ではない」と世間からいわれた由縁はここにあった。大正の終わりから昭和の初めにかけ年によって差はあるが、よい年で50パーセント、悪い年で30パーセントの生徒が1年から2年に進級できた。無試験で入学できても、だいたい半数以上が2年に進級するとき落第したのである。
  昭和18年10月21日、徴兵延期停止により、出陣する学徒壮行大会が神宮競技場で挙行され、東京近在77校の学徒数万人が雨の中で劇的な分列行進を行った。このニュースは現在でも時折テレビで目にするが、この時を限りに理工科系統及び教員養成諸学校学生を除くその他は徴兵猶予を停止された。(10月12日の閣議で決定)
 この差し迫った状況の中で、物理学校の徴兵猶予の特典と無試験入学の制度に目をつけた徴兵を逃れようとする学生の腰掛入学が増えはじめた。物理学校の学生になれば25歳まで徴兵が猶予されたのである。浪人すればただちに徴兵そんな時代、文科志望の学生までシェルターとして無試験入学の物理学校に願書を提出したのである。入学願書提出日、旧1号館の中庭はおろか、校舎を取り囲むように濠端に行列が出来たと聞いている。
  しかし、戦時色は次第に学内まで及び、昭和16年10月16日、大学、専門学校等の修業年限が16年度は3ヵ月、17年度から6ヵ月臨時短縮することが決まり、卒業式が16年には12月、17年から9月に繰り上げて行われた。
  開学以来無試験入学と落第、実力を標榜、もちろん各学科定員などあろうはずが無い雰囲気の中に育ってきた物理学校の伝統が外圧で変更を余儀なくされ、無試験入学は昭和18年から、今までのように入学願書さえ出せば誰でも直ちに入学と言うのではなく、出身学校の調査票、健康診断票の提出を義務付け、書類審査だけで何とか無試験入学の制度は守ることができた。
  しかし、昭和19年度からは文部省の要望で学則が大幅に改正され、一般の学校のように入学定員が決められ、初めて入学試験が行われることになった。
  それでも、入学生の中には、第一高等学校をしくじったいわゆる「一高くずれ」に始まり、文科志望の生徒はもちろん、もともとは美術学校、音楽学校に進学する希望の生徒までそれまでの物理学校としては異色の生徒が入学した。彼等は別に卒業という意思もなく満員の教室で熱心に学ぶ物理学校の生徒を尻目に神楽坂に神田に自由を謳歌していたという。
 
       何の因果か知らないが    高等学校に見捨てられ
       泣く泣く物理に入り来て    可愛いスーちゃんと泣き別れ        
       
       物理、立体、解析と      人の嫌がる代数に
       Sin Cosin に明け暮れて   月日のたつのも夢のうち ・・・・・
 
  腰掛入学の誰かが作ったものだと思うが、こんな歌で自嘲していた彼等も戦争が終わると、各自それぞれの目指す進路に向かい、唄だけを残し潮が引くように学校を去っていった。
 
校内に張り出される運命の懸かる進級発表に全生徒が一喜一憂
 
  年に一度、物理学校の全生徒が目を輝かして学校に集まる日がある。3月末、進級の発表の日である。旧1号館が出来てからは、学年によって進級者の名前が成績順に、校内の各所に張り出される。誰が1番で進級したか、あるいはビリだったかは一目瞭然である。この結果、進級するもの、落第したものはそれぞれ事務で新学期の手続きをとることになっていた。
  大正6年、専門学校になってからの東京物理学校規則、第9・生徒処分、第26条に「続キ3回落第シタル者ハ除名ス」と決められた。開学以来、物理学校と落第は付き物で、明治20年の規則にも「引続キ2回落第スル者ハ退学セシム」と明記されているが、それから見れば大正6年の規則は、いささか緩和されたようにみえるが、この規則に該当して処分された話しはきかない。
 「1学年で3回落第しても卒業まで9年在学できる」とよく冗談が飛び出したものだが、何回か落第を繰り返しているうちに、自分から卒業は無理だと悟り、自主退学の道を選ぶものがほとんどだったらしい。早稲田文学部中退は小説家の勲章のように輝いているが、これだけ多くの落第生を出しながら、物理学校中退の話しは聞かない。何回か落第しても無事卒業を果たしたものは、むしろ落第の回数が勲章になり、落第を楽しい思い出として笑い飛ばすことが出来るが、落第で学校を去った者にとっては忌まわしい言葉だったのだろう。
  徴兵逃れで、当時物理学校に席を置いた人は、私の知っている範囲でも、理科系より文科系に多かったようだ。特に戦時中、徴兵逃れで籍を置いた者は語りたがらない。
 この状況を軍部が見逃すはずはなかった。しかし、徴兵延期の制度は最後まで崩れなかった。「政府高官の師弟が沢山入学していたから」と陰のうわさでささやかれたが定かではない。
 
落第者集団の中から突如"万歳”の歓声と胴上げ
 
  しかし、太平洋戦争も末期、毎年恒例の進級者の発表会場に異変がおきていた。以前なら進級者の発表のみに止まり、それ以外、名簿からもれたものは落第と決まっていたが、新たに落第者の氏名が発表されることになった。
 18年の入学者は内申書と身体検査票が考慮されたようだが3150名(前年度からの落第生を含む)の生徒が一応無試験で入学した。1年生はA~G まで7クラスで編成され1クラスの定員450名、教室の定員が240名だから当然教室には収容し切れるものではなかった。授業も午前と午後の2部授業で当座をしのいだと言う。混雑の程は想像に任せる。
 1年生は同じカリキュラムで一斉に授業がなされ、2年に進級すると明治からの伝統で、初めて各学科に分かれることになっていた。18年の入学者が19年の2年に進級する際、550名が進級、350名が落第、残りの2250名が退学(放校)と発表された。    
 19年度から開校以来始めて入学試験が行われ450名が合格、落第生と併せて800名で新1年生が編成された。
 進級者と落第者からもれたものは退学、つまり放校されることを意味していた。学校規則、第9生徒処分、第21条、5に「学力劣等ニシテ成業ノ見込ナシト認メタル者」適用したのか落第生以下のものは放校、つまり学籍を失い、当時の状況としては退学即徴兵を意味していた。
  たしか、進級者の発表は旧1号館の講堂脇に張り出され、落第者の氏名は1階化学実験室前の廊下だったと思うが、どちらにも自分の名前ガ無かった放校組みは、「元気でお国のために働いてくれ!」と友達から励ましともならぬ言葉に送られて静かに校門から消えていった。
 中庭で落第者の中から"万歳“の歓声が起こり胴上げが起きる。戦時中不見識な話しだが、落第者は進級組よりも余計に長くシャバにいられるということだったのだろう。
 
戦争で消えた八王子に予定した                
             旧制東京物理大学設立の計画

 
 東京理科大学100年史第1篇東京物理学校通史・第5節 戦中回顧に「昭和16年10月14日、文部省より本校卒業者の大学学部を志望しうる者54名以内に限定される」とある。16年12月(戦争で卒業3ヵ月短縮)物理学校の卒業生は525名、そのうち卆業生の約10パーセントに国立大学の進学の枠が与えられている。
  これでも分かるように、昔から、相当数の卒業生が東京帝国大学を除く、東京工業大学、東北帝国大学などに他の専門学校に比べ多くの卒業生が進学している。明治44年7月(専門学校になる以前)物理学校の卒業生は外国語のみの試験で東北大学理学部の正科に、無試験でその選科に入学を許可されている。
  もともと、国立大学の募集定員はだいたい(旧制)高等学校卒業者に見合った数で、不足分を専門学校の卒業生などで埋めていた。しかし、物理学校などからの進学者が増えると、高校卒業生の大学への進学に差し支えてくる。その上、物理学校卒が優秀とあれば、入学試験の段階で高校卒を押しのけるという問題が出てくる。つまり文部省の決めた原則的に、高校―大学という学校制度に物理学校の卒業生に割り込みは邪魔いうわけで、進学に制限が加えられることになったのである。
 「高校卒に比べ、物理学校の卒業生は確かに頭の好く成績もいいが、世間知らずで、人となじまない偏屈が多かった」の下馬評で大学から嫌われたとも言われるが、うわさだけであったとしても物理学校の性格の核心をついていたと言えよう。
  この様な状況を踏まえ、物理学校を大学に昇格させようとの機運がみなぎり、昭和15年、紀元2600年の記念事業として学校側から東京物理大学設置の提案がされ、同窓会も賛成しこれを理事会に一任した。17年、大学設置を踏まえ、東京都北多摩郡府中町字国分寺前・東芝府中工場並びに大学予科敷地を購入、翌18年には都下八王子西中野町に予科校舎に当てるため織物工場と土地を買収、着々大学設立の準備が進められ関係者に「大学設立に関する趣意書」を配布する所にまでにいたった。しかし、19年には大学設置認可を申請したが、戦時体制の悪化を理由に不審議にされ中止のやむなきに至った。
  戦後、八王子の7万坪に及ぶ学校用地は農地法で学校敷地として使用が出来ず、農業理科学科の廃止と共に放棄、大学の運動部が練習に使用していた国分寺の土地は売却して全面的に野田に移ることになるのである。
  八王子の用地を訪れたことがある。元織物工場の職員寮を転用した農業理科学科の学生寮に寄宿していた同級生を尋ねたときのことだ。7万坪の原野の先の地平線の彼方に、丹沢、多摩、秩父の連山が遠く望見できるど武蔵野台地の真ん中に広大な敷地が広がっていたことをおぼえている。
  和17年興亜工業大学(千葉工業大学)、昭和21年東海大学が旧制大学として開校している。これから後で触れる物理学校が各種学校から専門学校昇格する時期が他校より遅れ、また、旧制大学設置の計画も何故かタイミングを逸してしまった感がある。

創立7年目で初めて第1回卒業式
             全科3名、理化学撰科1名に卒業證書


  すこし脱線してしまったが、話しを明治22年4月15日東京物理学校同窓会発足第1回集会の日に戻そう。
  学校創立後7年間、授業から学校運営までほとんどすべてを維持同盟員が担当してきた。しかし、19年小川町校舎に移った頃から、世間でようやく理学の必要性が認識されるようになり、物理学校の評価も高まり、さらに明治4年に設立された東京職工学校(東京工業大学の前身)の依頼で21年7月から24年7月までの3ヶ年間、職工学校受験者に国漢を除く受験科目の授業を行う事もあって生徒数が増加の一途をたどった。だが一方では、地方に職を得て東京を離れる維持同盟員が増え、教員に不足をきたすようになった。
  明治20年、これを機会に一部の授業を外部の講師に委嘱すると共に、学科課程を大幅に改定、より学校としての形態を整えていった。
  翌21年7月には、帝国大学理科大学長、理学博士菊池大麓氏(後に東京帝国大学総長を経て文部大臣に就任)外20名の来賓を招き、今までにない盛大な第1回の卒業式を挙行し全科3名、理化学撰科1名に卒業證書が授与された。それまで、18年に1名、19年に1名、20年に6名それぞれ卒業生を出したが、いずれも1学科を卒業したもので、学科課程改定後始めて行った卒業式であった。第1回卒業式を銘打つ以上、それまで卒業式を行ったかどうか疑問である。
  明治21年12月19日、家主の東京法学校(法政大学の前身)から小川町校舎を買収、自前の校舎を獲得して、22年2月には9名の卒業生を出すなど物理学校は間借り時代の不安定な経営状態から脱却して順調な一歩を踏み出していた。
 (前回掲載したニコライ堂の棟屋から撮影した小川町校舎は、左右2棟写されているが左の1棟は東京法学校が使い、右の1棟は明治19年仏文会が東京法学校から借り受け、東京仏学校を設立したところを夜間だけ物理学校がまた借りていたようだ。明治22年、物理学校は左の建物だけを購入、右の東京法学校の移転した跡は、活版工場になったようだ。土地は借地だった。)
 
同窓会の発足と東京物理学校同窓会誌の誕生

 東京物理学校同窓会規則を見ると、第1条に「理学ノ普及ヲ図リ併セテ同窓ノ親睦ヲ厚クスルヲ以テ目的トス此ノ目的ヲ達成センカ為ニ左ノ事業ヲ行フ」とある。
 そして左の事業として 
     1、東京物理学校ノ維持発展
     2、雑誌及図書刊行
     3、講演会及講習会
     4、教育、学術ニ関スル調査及研究
     5、前記各号ノ外本会ノ目的ヲ」達スルニ必要ナル事項 と記載されている。

  物理学校創立者を名誉会員、物理学校講師を客員として、卒業生と会員3名以上の推薦のある会員と同等の資格のある在校生計、約90余名を集め、明治22年4月15日に同窓会が結成された。
  そして毎月1回、会員(維持同盟員、物理学校講師、卒業生、在校生)が学校に集まり各自が研究したものの討論などを行い、或いは学術上の知識を交換、時には物理学校の講師を招請して学術演説を聴いた。さらに、演説や研究成果をその場限りで終わらせずに、毎月1回、会員の討論、教師の演説、論説、講義、などを掲載した「東京物理学校同窓会雑誌」を刊行することにした。
 この様に、物理学校には卒業後も母校と連絡を保ち、在校生を交えて研究や討論を継続するという繋がりが同窓会という組織を通じてあったのである。現在の同窓会にはこの影は薄れているが、研究室によっては物理学校時代から先輩・後輩の繋がりが強く、教師を中心に経験や研究成果の情報を交換しているグループも多い。
    
戦争で消された東京物理学校雑誌
 
  第1号は明治22年6月にカンテン版で発行されている。会費は月5銭、雑誌は非売品として扱われた。
(カンテン版「寒天版」とはエジソンが発明した謄写版が一般に普及するまで手軽に使用された印刷で、原理はオフセット印刷と同じで製版にゼラチンを使ったのでカンテン版の名前がついている。平らなカンテン版に筆で直接文字を書き製版した。活版印刷が一般化されると謄写版印刷と同じく、下級な印刷物の異名ともなった。)
  会員・教員の演説をカンテン版にした20~25ページの同雑誌は7号まで発行を続けられ、これを第1輯(集)とした。さらに、24年1月よりカンテン版を改めて、46判(B6)活版刷りとして、第2輯(集)1号を刊行したが、11月になり同窓会は同雑誌を単なる非売品の同窓会誌で終わらせず規模を拡張して、定期刊行物として市販することを学校に図った。このことについて維持同盟員も積極的に賛成、雑誌の原稿にも協力を惜しまないことなどを確約、同窓会は学校と協議の上新しい雑誌の刊行を決めた。こうして「東京物理学校同窓会雑誌」は廃刊され、明治24年12月新たに同窓会の手で表題を「東京物理学校雑誌」と改め誕生を見るに至った。同種の雑誌にくらべ内容が優れ、広く理学を学ぶものにとつて廃刊になるまで魅力的な或存在だった。
 雑誌の創刊にあたり校長の寺尾寿は創刊号の巻頭に抱負と期待を寄せ、刊行目的、記載内容を下記のように述べている。

  「今日此雑誌ヲ刊行スル目的ハ当初吾ガ輩ガ此学校ヲ設立シタルトキノ目的ニ異ナルコトナシ此目的トハ何ゾ理学ノ普及ヲ助クルコト是ナリ故ニ東京物理学校雑誌ハ東京物理学校ノ事業ノ拡張ニ過ギズト謂フモ可ナリ」
 「東京物理学校雑誌ハ唯単ニ数学ノミヲ主トスル者ニ非ルナリ故ニ此雑誌ハ彼ノ百余種ノ数学雑誌トハ固ヨリ其種類ヲ異ニスルノミナラズ彼ノ有名ナル東洋学芸雑誌ナドヽモ重複スル所ナキナリ。東京物理学校雑誌ニ記載スル所ハ純正並ニ応用数学、物理学及ビ化学ニ関スル事項ト此等ノ学科ニ関スル教育事項トニシテ、其程度ハ物理学校ノ課程ノ程度ト同ジ即チ尋常中学校、尋常師範学校ノ課程寄り始マリ高等中学校ノ課程ヨリ較々高尚ナル位ニ止マル而シテ其記載ノ事項ノ種類ハ専ラ世ヲ益スルヲ目的トシ必シモ一々新奇ノ事ノミナラザルモ本邦ニ於テ国文又ハ英語ニテ刊行セラレタル最モ得易キ書籍中ニ於テハ見ルヲ得ガタキ事項ヲ選択セント欲ス故ニ世人ガ之ヲ認メテ所謂「天下不可無之書」トスルカ否ハ姑ラク惜キ吾ガ輩ノ見聞スル所ニテハ本邦ニ於テ今ダ嘗テアラザル書タルコトハ吾ガ輩ノ自ラ信ズル所ナリ。」(一部抜粋)

  かくして東京物理学校雑誌は一般書籍として毎月全国の書店に並べられ高い評価を博してした。しかし、太平洋戦争の末期、昭和19年3月、628号を最後に自主的休刊を命じられ廃刊の憂き目にさらされた。同じ時期「文芸春秋」も同じ運命をたどっている。
 18年1月号から連載で人気を集めていた「中央公論」の谷崎潤一郎著「細雪」が陸軍報道部の逆鱗にふれ「緊迫する戦況の中で軟弱な女性を描き、国民の戦意を失わしむ」と言いがかりを付けられ5月号から連載を中止のやむなきに至った。ちなみに、18年5月29日、アッツ島で日本軍守備隊2500名が玉砕、これは日本軍が初めて公表した負け戦のニュースだった。
  横浜事件をきっかけに言論機関の弾圧がさらに厳しくなり19年7月から「中央公論」「改造」が「戦時下国民の思想指導上許しがたい事実がある」と情報局からの通達で、自主廃業して姿を消した。雑誌であれば見境なく廃刊に追い込まれていった暗い時代だったのである。
 
維持会員の思想を受け継いだ同窓会員
        神楽坂への移転、専門学校の改組も同窓会の力で出来た


  昭和2年7月同窓会は新たに[会報]を刊行した。現在の「理窓」のはじまりである。会報は年4回、6,9,12,3月の4回発行され、論説、母校記事、会員動静、詩歌俳句、所感等を掲載して会員に無料で配布した。
  [会報]は東京物理学校雑誌が廃刊後も続けられ、昭和24年同窓会が理窓会と改称されるにあたり"理窓"と改められた。昭和59年7月、東京物理学校雑誌が「東京理科大学 科学教養誌」“SUT”(平成13年1月より理大・科学フォーラムと改題)として復刊すると、(SUT創刊号の通巻は1号から始まり東京物理学校雑誌の通巻を追ってない)"理窓“は別刷りとして SUTのなかに綴じ込まれ会員全員に配布されることになった。
  しかし、同窓会費にSUTの購読料が加算されるため、従来の年会費1500円が実質上6000円に値上げされることになった。会員の “SUT”不要の声は会費の納入者の数に表れ、1万5千の会員を5千に近くにまで減らすことになった。このことを重く見た理窓会は平成11年の幹事会で、“SUT”を自由購読として会費を年額3000円とするとともに、独自の同窓会誌“理窓”を年4回発行して、会員全員に配布することに決めた。現在の“理窓”の通巻は昭和2年初刊以来の通し番号である。

  東京物理学校雑誌の刊行は校長寺尾寿の「雑誌刊行に就きて」のことばにあるように「此学校ヲ設立シタルトキノ目的ニ異ナルコトナシ此目的トハ何ゾ理学ノ普及ヲ助クルコト是ナリ」つまり、雑誌の刊行は同窓会が科学の普及を目指して物理学校を立ち上げた創設者の思想を受け継いだものであった。
 同窓会の活躍は、明治39年小川町校舎から神楽坂校舎への移転、大正6年専門学校令による専門学校改組など 維持会員に代わり物理学校の発展に大きく寄与する。次回は“坊ちゃん”にご登場願いもう少し小川町時代を探り、同時に同窓会の隠れた力に光を当ててみたい。 

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