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2005/04/14

化学文献調査と父の風音

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連載 (6) <2005/4/14>

化学文献所在目録と父の風音

  理大第2期生の長田武氏(後、東レ)、太田泰弘氏(後、味の素)ら10名に近い方々が、恐らく大学2年の頃からであろう、「自分達が将来研究者になった時に、内外の学術文献を調べる必要がある、そのためには国内、海外の学術文献がどこに在って、どのように利用出来るかを知らなければならない」ということに思いつかれた。そして時を移さず、部活としてリスト作りを始められた。
 当時の日本は、大都市を始め中小の都市までが空爆によって廃墟と化し混乱を極めていた。ソ連を除く連合国との講和条約も未だ結ばれていない情勢だった。無論学術文献の所在など見つけるのは容易でなかった。各図書館とも、学術誌は整理されて居ないところが多く、酷い場合は山積みになっているのを勤労奉仕して、Vol.x、No.yと仕分けするのが、我々化学部員の仕事だった。無論報酬は0、弁当持参、交通費自弁。

  私達は4期生で、理大化学科の1年で化学研究部に入部して間もないことだったので、第一次の調査には参加していないが、ガリ版刷りの南関東地区の「内外化学文献所在目録」が夏休み前には出来ていて、ホチキス止めをするお手伝いをしたのを覚えている。 以後第4次に至るまで、延数百人の部員がポケットマネーを出して出版し続けたという、壮大にして悲しき物語である。第1次から第4次まで全てを記せば、

  第1次 ガリ版手刷り、第2期生の方が心血を注がれた労作(昭和25年)
  第2次 東工大内、学術文献普及会の植村琢也教授の御厚意により、写植版(昭和26年)
  第3次 丸善出版の植木厚氏の御厚意により1000部限定版にて出版(昭和28年)
  第4次 丸善出版より、前回第3次版の完売により、改訂増補して2000部を印刷し、約1700部の
       販売を成しとげた(昭和29年)

  この種のリストは、戦争以前に文部省で編纂されたことがあったが、激しい戦争を経ることによって内容の意味が全く失われていた。第2期生の先輩の方々が文部省と接点を持つようになったのは、第1次のガリ版刷りが出来た頃だったか?事務官の馬場重徳氏と懇意になり、大切な良い仕事だというので、確か文部省からワラ半紙3しめを頂いた筈である。但し次回出版の為の費用は頂くことはなかった。馬場先生は時々理大にお見えになり、このリストの重要性を説かれた。

  第2次のリストが出来て学術文献普及会から、写真植字のオレンジ色の表紙の、立派な冊子が出来た。出来てしまうと、もっと図書館数や学術雑誌数の多い完成度の高いものを望む声があがり、一方には学生の分際で資金も全くないのに更に踏み込むのは行き過ぎだの声もあり、議論にかなりの時間を費やしたが、より完成度の高い第3次まで作ろうと云うことに決まり、各自、方々の図書館に第1次以来同じ手法で分担して調査に出向いた。
 第3次の原稿が出来た時点で、学術文献普及会に新たな出版の打診を先輩がしてくださった所、2度目はもう駄目ですとのお断りを頂いた。
 
  私がそれ以前から存じ上げていた丸善出版の植木厚氏をお訪ねすることを思いつき、化学研究部の先輩に相談した所、了承を得られたので、度胸を決めて、ためしに行ってみることにした。植木氏は物理学校出身の秀才、当時企画課をリード゙する若き主任であられた。私が会社を訪ねてお願いすると、兎に角お預かりしますと受け取ってくださった。私がそのまま帰宅した。帰宅に要した時間はものの一時間程であったのに、帰ると植木氏からとっくに電報が届いて、「スグコラレタシ」と電文が印字されていた。夕方迄まだ時間があったので、すぐに丸善へ取って返した。そこには感動の場面が用意されていた。
「貴方が帰られてから、すぐに編集会議を開いたところ、この本は重要な意味を持つ本だから、たとえ一冊も売れなくても丸善から出版することに決まりました。但し、1000部限定です」と植木さんは丁寧な言葉で私に告げられた。あたってみてよかった!と思った。
  植木厚氏は私達の第4次出版や化学実験講座の全巻を完成された後、科学誌「現代科学」でも知られる㈱化学同人を自ら設立され社長になられた方である。

  第3次の編集がほぼ終わって、序文を馬場先生にお願いし、学長のお言葉の文案は、東大・理大教授の永井芳男先生にお願いすることに決まり、何故か私が馬場先生を大泉学園の私宅にお訪ねすることになった。
 来意を告げ、原稿の出来具合をお話しし、序文を書いて下さいとお願いした。先生は快く引き受けてくださった。話をするうち、先生は父の事を実に良く知っているのに驚いた、「 NHKの技師長でしたね」といわれた。NHKではその時でも技師長とは云わないので「おや!」と思ったが、父の時代はNHKのいわば創生期で、父はほぼそのような立場で居たので、そうかと思った。
  先生のご専門はと水を向けると、電気工学でコヒラー(鉱石と同じく検波器の一種)を研究していましたとの事、ご自分の出身大学をご自分からは決して仰しゃらなかった、先生は後年図書館短期大学の校長を長く勤められた。
 
  時は移って、平成の初め頃だったか、私と同期だった岡崎英博兄(三井石油化KK)から、馬場先生が亡くなられた、自分は都合が悪くて行けないので、君に行ってほしいとの連絡を受け、御葬儀に参列した。親戚の御挨拶の中に「早稲田大学理工学部出身で」という下りがあり、やはり父が38~9才の逓信省時代に早稲田の講師であったときに、先生は学生時代を過ごされていたのだと思った、しかし今となっては直接お伺いすることはできない。
 
 化学文献所在目録は5年余に亙って、延べ数百人に及ぶ大勢の人々が参加して、苦しんで世に送りだしたもので、思い返すと学生の分を越えた仕事であった。しかしこれぞ物理学校以来の、勤勉で地味で黙々とよい仕事をしようとする伝統精神を受け継ぎ、又、後世に引き継ぐべき崇高な闘魂だったように思う。私達化学研究部員が汗とポケットマネーで作ったた3,000余冊の本が、日本全国の大学、研究所、図書館、企業群に広く伝播したことは事実で、少なからず混迷期の日本経済の発展に役立ったと思うと、今記念碑のように、なつかしい思いがする。そう思うのは私一人だけであろうか。

放浪の果てに

  私は青春であるべき10年間を放浪に身を任せ、修士終了の折、偶々アルバイトを求めていたのがご縁で日大第三高校のお手伝いをすることになった。
  理大にまだ籍はあったし、講師の積もりであったが、2人居た化学の専任教員が一人転出、一人病気で1年間休職となり、是非専任でということになった。

 修士1年生の時講師をしていた日大系の学校からも、化学の主任の先生が急死されたので是非来てほしいとの話もその10日後にあった。以前お世話になった主任の先生は、京大出の東芝部長という前歴の立派な方だった。私の新卒としての34才の春のことだった。副校長の先生とお会いして事情をお話したら、「貴方は経歴がいいから是非来て欲しかった」といって下さった。面と向かって誉められたのは、私にとってこれが初めての終わりである。 
 日大三高は当時赤坂のTBSの近くにあって、飯田橋から路面電車で30分の距離にあり、「掛け持ちの専任教諭」としては願ってもない条件でもあったので、選択肢は他になく誉められても丁重にお断りせざるを得なかった。

  当時の日大三高は教師陣に精鋭を揃へ、凄みのある進学体制にあり、躾も厳しく進学率に対する世評も私立のNo.4に位置していたし、折しもベビー・ブームの時代に入っていて、極めて活気に満ちていた。就任に際して担任は首尾よく回避し、土曜全休をかち取ったが、週22時間は重く、中学も人数は多かったが、高校で受持つ各教室には64人宛居り、ど肝を抜かれた。しかし、翌年3月の理系進学は開校以来最高という驚くべき結果となった。この時の理事長・校長(初代)は、内務省でアルバイト時代の1年間席を並べ、父の生涯の友となった鎌田彦一先生であった。
 
  研究の傍ら先生を勤めることが、なまやさしい事ではないということが、就任直後判る。しかし、放浪の10年間、調べたり、見聞きしたり、書いたり、実験したり、発表したりしたことが良い土壌になっていて、32年に及んだ理工系・医・歯・薬系へ進む生徒たちとの日々の生活で、楽しく結構実り多いものだったと今思う。

  日大三高の教員になった時、たまたま私の教える高2の理系クラスに在籍していた化学部員のY君は私の後を追うように化学の道に入り、私がかつて在職した会社にも関連する相模原の大きな研究所に勤め、中年にして尚研究職に止まっていたが、40代なかばで転職することになった。そうして私の処へしばしば相談に来た。
 Y君は元々東大の理学修士で在職中に博士号を得ていたので、自分で道をつけるだろうとも思い、「博士の世話は…・」とにべもない返事に終始していた。

  生前、開成の同期会でお世話を良くしてくださった高3.1組の秀才園田敏夫兄(ピアニスト園田高廣氏実弟)のお導きか、そのお通夜の帰り道で偶然お目にかかった母校校長の伊豆山健夫兄(東大名誉教授、物理)と立ち寄った喫茶店で、何気なくお話ししたのがきっかけとなって、中学の理科の講師として2年間親身も及ばぬお世話して頂いた。実は開成に丁度ポストがあり「採用したい」と校長先生からお言葉を頂いていたが、2週間ほどして「実は年令構成上問題があって駄目になった」といういきさつがある。
  2年後に開成の先生方の御支援も得て私立の一流進学校の採用試験に応募し、1人の採用に対して20倍近い競争を経て専任教員に採用された。それからもはや9年になる。

  めぐり会わせというか、実はY君は今は町田にある母校日大三高の化学の教員になることを、家が近いこともあって熱望していたし、私も2~3年後に65歳の定年を迎えるので丁度いいと思っていたが、若返りをという必要性もあり、「博士の先生は前例がない」と不採用になった。今の勤務校は私の家から徒歩10分位なので、毎月1回は訪ねて下さり良き話相手となって呉れている。
 あてずっぽう、成り行き任せに過ごしてきた私であったが、全て天の命ずる儘に・・・うまく生きて来られたと、有難く思っている。 
                                                 ---終--- 

     (開成高校昭和25年卒業50周年記念誌<平成12年>に掲載した文に大幅に手を入れたものです)

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