神楽坂界隈 連載(12) <2004/7/1>
江戸氏に代わって道灌がどうして江戸を手に入れたのか
室町幕府のもとでは関東8か國に甲斐・伊豆を加えた10か國が関東公方の支配区域であった。都から離れた東国のような辺境の地では余程のことが無いかぎり全て公方にまかせっきりの体制が関東公方を独走させる原因になった。
上杉家は足利尊氏と姻戚関係にあり、尊氏の次男基氏が鎌倉公方の職につくと、関東管領の地位は代々上杉家に世襲されることになった。上杉一族には扇谷・詫間・犬懸・山内の4家があり、なかでも上総の守護職犬懸家と、伊豆・上野の守護職山内家の両家が勢力があり、互いにいがみ合っていた。
たまたま、鎌倉公方足利持氏が犬懸家の上杉禅秀の官領職を山内家の上杉憲基に与えたことが契機になり持氏・山内対犬懸をめぐる争いが(上杉禅秀の乱)(1416)、各所に飛び火して東国を揺るがすことになった。
一方で、憲基の子憲実が止めるのも聞かず幕府の後継者をねらったとされる持氏が幕府に反旗を翻すが結局、憲実によって滅ぼされてしまう。(永享の乱) (1438)持氏の死後1年、下総の結城氏朝が持氏の2人の遺児を擁立して挙兵をするが、憲実はこの合戦の陣頭にたち遺児を捕らえ死に追いやってしまった。(結城の合戦)(1440)
ところが、山内家の一族,越後の守護・上杉房定が都にいた持氏の子成氏を鎌倉公方に迎えた(1449)ことで再び一族間の争いが生まれることになった。永享、結城、ふたつの戦いを通じて、憲実は幕府の命に従い主君を殺したかのように見えたが、裏では上杉家の保全と発展に周到な手を打っていたと思われている。
憲実は主家への反逆罪をわびて伊豆の國清寺に引きこもるが、その実、嗣子憲忠を関東管領職につけようとしていた。そのような中で(1454)成氏が憲忠を謀殺して常陸の古河に逃れる事件がおきた。成氏が古河に本拠を定めると幕府は両上杉氏に成氏討伐の準備に当たらせた。
康正元年(1455)主君の扇谷上杉定正は太田持資(またの名を資長、入道して道灌を名乗る)に、利根川の西側を成氏に対する防衛ラインとして固めさせた。道灌はその1年後、定正の命で川越城の修復と江戸築城にかかり、永禄元年(1457)わずか1年で江戸城を完成させた。以後文明18年(1486)まで約30年間、55歳で暗殺されるまで江戸城を中心に活躍した。
(1457)幕府も成氏を討ち関東を平定させようと、足利政知が下ってきた。しかし、成氏のあなどりがたい力を知り、廃墟になった鎌倉には入らず伊豆の堀越(韮山)に止まってしまった。この時から政知を堀越公方、持氏を古河公方呼んでいる。
この戦いは表面的に見ると堀越と古河の対立のように見えたが、実は上杉氏を含めて関東の守護さらにその輩下まで含めて敵、味方の分からぬまでの勢力争いであったと言えよう。打ち続く混乱を静めたのは太田道灌の力によるところが多い。かくして関東の実権は確実に山内・扇谷の両上杉家に移ることになった。
わが庵は松原続き海近く
富士の高嶺を軒端にぞ見る
江戸の名の起こりには多くの説があるが、「江」は大きな川を意味し 「戸」は出口というのが定説になっている。つまり『江戸』とは隅田川が江戸湾に流れだす河口にできた村もしくは湊という意味があるという。
道潅時代、新橋から日比谷、丸ノ内周辺は入江で有楽町、東京駅付近には江戸前島と呼ばれる半島状の洲が海に突き出していた。そして平川は半島のつけ根のあたりで江戸湾に注いでいた。その河口周辺の低地に江戸の城下町が開けていたと考えられている。(連載3参照)
鎌倉時代から江戸氏によって繁栄してきた江戸湊は、道潅によってさらなる発展を遂げるのである。
日比谷の海を見下ろす武蔵野台地に築かれた江戸城の威容は、2つの史料によって伝えられている。1つは応仁の乱をさけ諸国を回っていた京都五山と鎌倉五山を歴任した僧侶、蕭庵龍統(しようあんりゅうとう)ほかの手になるもので(1476) 、あとはそ れから9年後(1485)道潅が江戸に 招いた高僧・万 里集九(ばんりしゅうく)ほかによって書かれたれた詩文である。2つの詩文は、江戸城の道灌の書斎・静勝軒に掲げるものであった。いずれも漢詩であることからかなり誇張が多いと思うが、ふたつの詩文が当時の江戸の様子を語る。
二人の僧侶が書いた詩文が伝える道灌の江戸城
城の一方は海に面し、一方は平川で守られている。 子城(二丸)、中城(本丸)、外城(3丸)の三郭からなり、長さ延べ十数里の垣と、谷を利用した濠でめぐらされ2つの櫓と5つの石門は鉄で固められ跳橋まで架かっている。
城内には旱魃にも涸れぬ5~6の井戸があり、馬場では毎日数百人の武士が騎射の訓練をしている。子城・外城には多くの倉と厩がならび、本丸の道潅の館、静勝軒は10余丈(1丈=約3.6㍍)の懸崖のうえにある。
江戸湊の品川と江戸の間には人家が続き「東武の一都会」をなしており、浅草の浜には観音堂の「巨殿宝塔」が「十数里の海に映え」そびえている。江戸前島周辺には大小の商船や漁船が群がり、江戸湊は「日々市をなす」とある。市に集積する物資には「房の米、常の茶、信の銅、越の竹箭(ちくぜん)、相の旗旌騎卒(きせいきそつ)、泉の珠犀異香(しゅさいいこう)、塩魚、漆■(しっし)、梔茜(しせい)、筋膠(きんこう)、薬餌(やくじ)」多岐に及んでいる。
「倭寇」の補充要員を送り出した?江戸湊
房州の米、常陸の茶は敵方・古河公方の勢力範囲の産物である。越の竹箭をそのままにしても、面白いのは相模の旗旌騎卒で、文字からは「旗・指物を持った騎馬武者と歩兵」としか読み取れない。恐らく、傭兵の市場が江戸湊にあって、当時東シナ海で恐れられた「倭寇」の補充要員をここから送り出していたと推測される。
泉(福建省)からも宝石、香木、漆器、染料、膠、など工芸品の材料が運ばれていたことが分かる。江戸湊からは、これに見合う日本からの輸出品として、日本刀、硫黄、信濃の銅はもちろん、越後や相模からの傭兵を海外に送っていたのである。
特に後の詩文には、傭兵隊のことについて細かく触れている。江戸築城以前の道灌は品川湊に面した御殿山にいたと伝わる。道灌はもともと事務屋で武家集団としては小さい存在だった。だから、道灌の軍隊は主従で結ばれたものでなく、金銭契約で成り立った傭兵隊であり、それだけに訓練も行き届き圧倒的な強さを誇っていた。
戦火で追われ京、鎌倉から有能な人材が江戸の城下町に集まる
応仁元年(1467)、諸家の相続争いが、天下を2分する応仁の乱にまで発展した。戦乱は地方まで拡大して天明9年(1477)まで11年の長きにわたって続いた。
一方、鎌倉の町は永享10年(1438)永享の乱の戦火で大半焼かれた。たまたま2つの戦乱と道灌の江戸城構築の時期とが重なり、多くの市民を含み学者や僧侶までも京都や鎌倉を後に、30年間も兵火を見ない江戸道灌のもとに集まってきたと想像される。それだけに江戸城下町の繁栄ぶりがしのばれる。
江戸城は北条氏に落とされ小田原城の支城になる
治承4年(1189)頼朝が伊豆で挙兵後、石橋山の 合戦で破れ安房に逃れるが、再度下総から利根川を渡り武蔵の国に進出した。その際、渡河に協力した江戸太郎重長は代々江戸家の本家として、康正3年(1457)太田道灌が江戸築城までの約300年の間、一族と共に江戸周辺に勢力を保っていた。
室町時代に入っても、成氏・政氏から江戸氏宛ての歳暮の礼状が届いていることから(牛込文書)、鎌倉公方(古河公方)に仕えていたようだ。
ところが享徳3年(1454)成氏が上杉憲実の嗣子憲忠を謀殺して古河に逃れたことで、江戸氏は幕府から疎んじられる存在になったのだろう。これにに追い打ちをかけるように道灌が「江戸館」の跡に江戸城を築城するとなれば、江戸氏としても江戸を明け渡す以外に術はなく追われるように牛込に落ち延びたのだろう。康正3年(1457)道灌の江戸築城以前に、江戸を出たと思われる。江戸氏の一族豊島氏が道灌に皆殺しというまでに滅ぼされていることからも、あくまでも推測であるが、本家江戸氏も相当に迫害を受けと想像できる。
道灌も江戸氏と同じように江戸湊を本拠に活動したことは、二人に共通したものが感じられる。もともと、道灌の江戸湊の経営には江戸氏が邪魔な存在であった。江戸氏が道灌の敵だった古河公方政氏方であったことを理由に、江戸から追われる大きな原因になったと思う。
文明18年(1486)道灌が、謀反を企んだという疑いをかけられ上杉定正に相模糟屋の定正邸で謀殺されると、江戸城は定正の手に帰すことになる。
一方、相模の国では新勢力の北条早雲が勢力を伸ばしはじめ堀越公方の乱れに乗じて伊豆に攻め入り、続いて小田原をおとしいれて根拠地としていた。北条氏綱は早雲の嗣子である。父の後を継ぎ小田原城主となって、北条氏を名乗った。俗に後北条である。
大永4年(1524)江戸城は早雲の嗣子北条氏綱に攻められ、城主太田資高の裏切りで上杉朝興は江戸城を放棄する(大永の乱)。そして江戸城は小田原城の支城にされてしまった。朝興は何回か江戸城の奪回をはかるが、思いは果たせなかった。北条氏の関東進出と本拠を小田原においたことで江戸は一宿場に落ちぶれ、かっての賑わいを失うことになった。
牛込文書に大永6年10月13日(1526)北条氏綱より牛込助五郎にあてたものがある。このことは牛込に移り牛込姓を名乗っていた江戸氏が、江戸城を手にした氏綱の輩下に入ったと考えて間違いはないだろう。 氏綱はあえて勢力圏を広げず、領地の経営に専念し、それから12年後の天文5年(1536)北条は江戸 周辺の検地を始めた。氏綱は55歳で病死するが嫡子氏康がその意志を継ぎ永禄2年(1559)「小田 原衆所領役帳」を残している。
「小田原衆所領役帳」によると江戸城には富永四郎左衛門と遠山四郎五郎をおき太田資高を住まわせた。富永と遠山の子孫は天正18年(1590)徳川が江戸に入るまで城主をつとめている。「落穂集」には、家康入国当時、江戸は遠山の居城で、石垣などなく、芝土舎を築いた形ばかりの城で、町屋などは日比谷あたりにちらほらあったと記している。富永は今で言えば北条の海軍司令官であった。
大胡勝行が江戸氏のあとを継ぎ牛込氏を名乗る
神楽坂を上り毘沙門天の先を左に折れ、袋町と肴町の境の道(地蔵坂)を通称藁町といった。むかし藁を商う商人がいたことに起因する。坂を上りつめたところに光照寺がある。慶長3年(1598)神田にあったものが移転してきたものだと いう。この辺りに牛込城があり神楽坂に向 けて大手門が作られていた。
地蔵坂は光照寺の「子安地蔵」に由来する。鎌倉時代の名工安阿弥(快慶)の作といわれる木造の地蔵菩薩像は、もと延命安泰地蔵といって、もと三井寺にあったものが芝の増上寺に移されたのち、光照寺に伝来したとつたわる。
「後宇多天皇の皇后が難産で苦しんでおられたとき、一人の老人が夢枕に現われ地蔵をおいて消えた途端、皇后の苦しみから救われ、無事男の子を出産された。」これにあやかろうと江戸時代から参詣客が絶えない。
ここは出羽国松山藩主酒井家の菩提寺で一族の墓が50ほどある。江戸時代大名が葬式で、国元に帰るのが大変なことから江戸に菩提寺をおいた。境内には昭和16年(1941)都内の海ほうづき業者が立てた 供養塔がある。地蔵坂は藁坂ともいわれ明治、大正、昭和にかけて映画館、寄席、夜店で賑わった所である。これについては後で触れる。
大胡氏も江戸氏も共に牛込を名乗る
群馬県勢多郡大胡町、現在の地名である。上野の国大胡(おおご)の土豪大胡氏が重行の時代に牛込城に移ったあと北条氏に属していたらしい。天文24年(1555)重行の子勝行の願いで北条氏康から牛込姓を許可するむねの写しながらも北条氏綱の印判状がある。大胡氏が牛込に移る際分祠したといわれる赤城神社については後に譲る。
勝行の子勝重も北条氏直に属し、天正12年(1584)家督安堵の書状をもらっているが、北条滅亡後の翌年天正19年(1591)徳川家康に帰順している。牛込城は恐らく廃されたのだろう。徳川の一旗本として石田三成の関ケ原の戦いにも活躍している。
牛込から消えた江戸氏
牛込を名乗っていた旧江戸氏の後継者が絶え、上野の国大胡氏が牛込に移り氏康に仕え牛込姓を名乗る許可を得たというのがごく一般的である。旧江戸氏が名を変えた牛込氏が後継者を失ったというが、だが、北条氏の麾下に入った牛込氏のその後の活動を各所で見ることができる。
「小田原衆所領役帳」(1559)よると牛込氏が与えられた知行は、牛込、日比谷、葛西の堀切をあわせて177貫、太田氏は1919貫と記載されている。太田 氏に比べ、牛込氏の知行は少ない。しかしその後、牛込氏の盛時 の所領は、牛込村、今井村(赤坂辺りか)、桜田村、日尾屋村(日比谷辺りか)に及んでいる。かっての江戸周辺で江戸氏が領していた地域だと思われる。
しかしここでの北条麾下に加わった江戸氏と大胡氏の関係、お互いに牛込氏を名乗る経緯については不明な点が多い。
かくして時代は徳川に移っていった。