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西村和夫の神楽坂

西村和夫の神楽坂 >> 記事詳細

2004/08/01

時代は流れ今の神楽坂へ

Tweet ThisSend to Facebook | by:埼玉支部
神楽坂界隈 連載(14) <2004/8/1>

大きなビルが無いのが歩行者にとって魅力 
               夜は光のトンネルの散歩道

 神楽坂は大きなビルの少ないところだ。高くても5~6階どまりで高層のものは無いといってよい。だから歩いていて都心のビルの谷間のような圧迫感は受けない。
  外見では商売が変わった位にしか見えないが、バブル期に建てられ倒産したビルの中には、「あの〇〇銀行さんが、建築資金を融資してビルの建築を勧めなければ、不良債権にならなかっものを。明治からの老舗が夜逃げした。」真偽のほどは分からぬがビルのオーナーが変わるとよくこんなうわさを聞く。

  神楽坂は大きなビルの少ないところだ。高くても5~6階どまりで高層のものは無いといってよい。だから歩いていて都心のビルの谷間のような圧迫感は受けない。
  外見では商売が変わった位にしか見えないが、バブル期に建てられ倒産したビルの中には、「あの〇〇銀行さんが、建築資金を融資してビルの建築を勧めなければ、不良債権にならなかっものを。明治からの老舗が夜逃げした。」真偽のほどは分からぬがビルのオーナーが変わるとよくこんなうわさを聞く。

  ビルの多くは間口が狭く、奥行が広いものが多い。だから正面から見る細身で背の高いビルが並んで建っているという感じだ。昔、どこも間口5~6間の店がそのまま上に伸びたからであろう。恐らく戦前の木造2階建て、表通りは店、裏は住まいといった商家が軒を並べていたことが想像される。ビルの幅からかっての店の規模が分かるといった具合だ。
  2階以上がテナントになっているところが多いようだ。各階毎に目立つ看板を出し、ビルの壁全体を覆ってしまっているところがある。夜になると、全てのビルの壁が一体化して看板が種々の光を放ち、神楽坂が万華鏡を覗くように一つの光のトンネルになる。夜、散策する人の目に映る神楽坂の姿だ。

昭和29年の住居表記変更で消えた肴町の地名

  むかし、善国寺毘沙門天から坂上交差点までを肴町と呼んだ。しかし、肴町と上宮比町はお互いに絡みあって境界が分かりずらく、昭和29年の住居表示変更の機会に、神楽坂4~5丁目にまとめたことで肴町の地名は消えてしまった。肴町は徳川の入府以前からあった町でもちろん地名としては神楽坂より古いようだ。ということは、ここには古く北条統治の時代から民家が存在していたのだろう。
 
  神楽坂は明治以降、東京を代表する歓楽街として全国に知られ、第1次世界大戦後の発展は目を見張るものがあった。町がもっとも華やいだのは関東大震災の後である。
 第2次世界大戦の戦災からの復興、1世紀以上にわたる神楽坂の繁華を振り返り、創業100年の歴史を誇る老舗、消えていった店、新しい店舗が幾多の歴史の波を掻潜り、今にいたるまで神楽坂で華やかに生き抜いてきた。

神楽坂の右側は旗本屋敷、左側は町屋あとは寺院と門前町

  徳川時代が終わる頃まで神楽坂の右側は本田横丁、毘沙門せんべい、理科大森戸記念館あたりまで旗本屋敷が軒を連ねていた。それを境に大久保通りの先は通寺町の地名の通り多くの寺と門前町が広がっていた。左側は坂下から東京三菱銀行周辺まで町屋が並び毘沙門天から上は右側と同じように門前町が大久保通りを越えて続いていた。             
  神楽坂は毘沙門天辺りで平坦になる。肴町に割り込むように古くから藁筵を扱う商人が住んでいたという藁町があった。江戸時代に寄席があったと言われているぐらいに繁盛していたらしい。ここから坂上の交差点までが藁町を含めて昔の肴町である。嘉永図には「肴町を藁町と言う」と書いてあることから見てもふたつの町の区別は難しい。
  江戸時代の神楽坂の大半は武家屋敷と寺で占められ町屋の存在は限られていたといってよいだろう。      
幕末から明治初年にかけ
         住み手が無く捨値で売られた武家屋敷


  慶応4年4月、三田の薩摩藩邸では幕府側の代表勝海舟と新政府の西郷隆盛の二人が江戸の命運に関わる会談を行っていた。交渉が決裂して新政府軍が江戸に総攻撃をしかけた場合、勝は江戸に火を放ち新政府軍と決戦を挑むつもりであった。最悪の場合、江戸庶民を船で房総へ避難させるなど、かなり綿密な手筈が練られていたといわれる。100万都市江戸は消滅の危機に曝されていたのである。結果、西郷が勝の要求をのむことで江戸が火災から救われ、江戸の町は表面的には江戸時代と何の変わりはなく明治の新しい時代へと移ることができた。                

  だが、混乱を恐れ武士でさえ江戸から避難するものも多く江戸の人口は半減することになった。明治に入ると武士は碌を失い生活のみちを断たれ家を離れる者がさらに増加していった。神楽坂も例にもれずの武家屋敷に空家が目立つようになった。
  さらに追い打ちをかけるたのは、明治の新政府がこれまで非課税地であった武家屋敷地域も市街地同様の課税対象地にしたことだった。明治5年の地租改正により神楽坂の武家屋敷地域にも神楽町1~3丁目の地名が付けられることになった。
  もともと武士たちにとっては土地も家も幕府から貰ったものである。武家屋敷に税金を取られるぐらいなら二足三文で処分したところで損はないと、捨値で売却され、ほとんどの武家屋敷が市民の手に移ることになるのである。  

神楽坂は毘沙門天の夜店と三業地で目を覚ます

  さびれていた神楽坂がようやく目覚めるのは西南戦争からである。戦争景気で、この辺りから神楽坂の武家屋敷は急速に商店と三業地に姿を変え始める。
  東京で一番古いとされ市内で3位と言われる神楽坂毘沙門天の夜店が始められたのは明治20年である。この頃になってようやく、神楽坂の商店街は今の形に整えられたと思って間違いがない。武家屋敷と門前町が三業地を抱える繁華街として変貌をとげるまで明治の始めより20年の歳月を要したと見るべきであろう。                       
  神楽坂に銀行らしい銀行が出来たのは明治30年である。川崎貯蓄銀行神楽坂支店(現東京三菱銀行)と東京貯蓄銀行牛込支店(現第一勧業信用組合)が今の場所で開業している。銀行ができたことは地域経済の発達を示すものである。神楽坂の発展は地域の急速な宅地化とそれに伴う毘沙門天の縁日の影響も欠くことが出来ない。                 
  縁日も植木市から始まり香具師的な店が日用雑貨を買う店に変わり、老舗や新興商店が軒を並べて繁栄を示すようになった。さらに明治27~28年の日清、つづいて37~38年の日露戦争の好景気で三業地で酒と芸者に遊興する人が増えたことも町の繁栄につながったと見てよい。
  第一次世界大戦の前には市内の繁華街の一つに挙げられるにまでになり、毘沙門天の縁日だけでなく常に人通りの絶えぬ町に育った。夜、一歩横丁に入ると、三味線の音色のなか、艶かしい座敷着姿の芸者が歩く姿は、別の意味での神楽坂があった。                     
  このことについて牛込に住んでいた花袋は「電車がないから、山の手に住んだ人達は、大抵は神楽坂の通へ出かけて行ったから……」そして都市交通の発達とともに銀座や日比谷が繁栄するようになったと書いているが、電車が敷けてからも花袋の予言はあたらずにそれにもまして第一次世界大戦、関東大震災後も賑あうことになる。

一見田舎臭い庶民の町のたたずまいが愛されてきた神楽坂

  江戸時代と何の変哲のない、豆腐屋、八百屋、乾物屋といった生活に欠かせない店が肴町を中心に並んでいたものが、神楽坂全体に広がっていったという感じの町だ。商店全体を見渡して高級品を扱うとか流行を追うとか、有名な商店といったものは少なく市民が毎日の生活をするのに必要な品を扱う店舗が殆どだったが、むしろそれらの家並みが落着きをみせ、散策を楽しむ人に「神楽坂気分」と愛されてきたと思われる。   
  関東大震災の後と戦災で神楽坂は大きく変貌を遂げるが、その変わり方は遠い過去のものとなり余程意識的でも無いかぎり理解するのは難しい。神楽坂を便宜上、毘沙門天、本田横丁辺りを境に坂下と肴町と言う具合に二つに分けてみる。
  坂下つまり神楽町1~3丁目は明治以後武家屋敷が商店に変わったところで、肴町は江戸時代から町屋と門前町が栄え、もつとも神楽坂の中心をなしたところだ。

坂下から本田横丁まで神楽坂を上る

  明治39年(1906)は夏目漱石が『坊っちゃん』を「ほととぎす」に発表 した年であり東京物理学校(現東京理科大学)が神田から坂下へ移転してきた年でもある。その前の年、38年には外濠線が神楽坂下まで通じた。
 それまで遠く早稲田、四谷、麹町、本郷辺りから神楽坂を訪れる人は、大久保通りを肴町から来るのが通常だったが電車の開通は人の流れをかなり変えることになった。早稲田の学生もこのルートを利用するものが増え、坂下の人通りも一段と増すこととなった。
 
  銀座の木村屋の支店第1号店が出店したのは明治40年である。それでも出店当時はまだ夜になると暗く淋しい所だったそうだ。神楽坂にはすきまなく木造2階建の商店が並び、電灯がつき始めた時代である。10燭光1ケ月、1円20銭と電力代はまだ高く、まだガス灯の時代で「物理学校」の教室の写真には天井から下がったガス灯のホヤが写っている。


  明治の中頃を過ぎると、神楽坂下のかっての武家屋敷の様相は全く失われ山田紙店、寿司の紀の善、蕎麦の翁庵、鰻の島金(志満金)、靴の尾崎屋、赤井足袋店が店を構えるようになった。
  コヒー店アカイは足袋店だった。日本人の履物が下駄と草履の時代神楽坂には5~6軒の足袋屋があった。どの店にも店先に3~4人の職人が並んで足袋を縫っていた。足袋はすべてオーダーでお客の足の型紙がたくさん置かれている店ほど老舗であった。
  山田紙店の半分を東京メトロ飯田橋駅の神楽坂口に削り取られてしまっているが、漱石が愛用した本郷の松屋と並んで原稿用紙が有名である。いまは文房具屋だがむかしは文房具屋というのが無かったので今だに紙店を名乗っている。
  明治の中頃を過ぎると、神楽坂下のかっての武家屋敷の様相は全く失われ山田紙店、寿司の紀の善、蕎麦の翁庵、鰻の島金(志満金)、靴の尾崎屋、赤井足袋店が店を構えるようになった。

  コヒー店アカイは足袋店だった。日本人の履物が下駄と草履の時代神楽坂には5~6軒の足袋屋があった。どの店にも店先に3~4人の職人が並んで足袋を縫っていた。足袋はすべてオーダーでお客の足の型紙がたくさん置かれている店ほど老舗であった。
  山田紙店の半分を東京メトロ飯田橋駅の神楽坂口に削り取られてしまっているが、漱石が愛用した本郷の松屋と並んで原稿用紙が有名である。いまは文房具屋だがむかしは文房具屋というのが無かったので今だに紙店を名乗っている。

  神楽小路は以前は紀の善横丁といった。角の甘味の紀の善はかっては寿司屋だった。戦後、甘味に変わり女性雑誌に人気のある店になった。寿司屋だった時代高浜虚子、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、長田秀雄、幹彦等に愛された。今の寿司屋とは違い料亭に近い店で客を座敷にあげて寿司を食わした。花柳街が華やかな時代奥座敷にはたえず座敷姿の芸者衆が見られた。また2・26事件の時は鎮圧部隊の駐屯地となり、美濃部達吉が来店したあとに憲兵が来るなどまさに昭和史の舞台になったところといえよう。

  戦後は消えてしまったが、坂下の「ブラジル・コーヒー」と「松竹梅酒蔵」の2軒はこれから神楽坂を漫遊しようという人がまず寄るところだった。席が空いていることは少なく、物理学校の生徒がノート整理に使っていた。「松竹梅酒蔵」は坂上の「官許どぶろく飯塚」と共に戦争中国民酒場として最後まで酒が飲めたところだ。戦後間もなくメトロ映画劇場ができたが、客の入りが芳しくなく廃めた。

鏡花も白秋も住んでいた理科大裏

  紀の善前のそばの翁庵、理科大に通じる鏡花横丁をへだてて鰻の志満金、靴のオザキヤと明治からの老舗が続いている。戦前は志満金は神楽坂から一歩鏡花横丁に入った所にあって、通りの角に「蒲焼」の行灯があった。江戸時代から神田川の鰻卸業者で、現在の場所は「ブラジル・コーヒ」があったところだ。三業地の華やかな頃芸者の足が絶えなかった店である。 オザキヤも昔は靴職人が何人かいて店先で靴を縫っていたのが道路から見えた。石橋甚山はじめ多くの政治家・文化人が贔屓にした店だ。    

  鏡花横丁を右に理科大の石垣に沿って上ると神楽町2~22に鏡花と桃太郎の新居があった。同じ家かどうか分からないが同番地に明治42年頃、北原白秋が居を構えていた。東京理科大学の前身東京物理学校が神楽坂に移転して間もない頃である。
  野田宇太郎の「文学散歩」でご存じの方も多いと思うが、北原白秋は北山伏町から明治41年10月末、神楽町2~22に移ってきた。石川啄木の10月29日の日記によれば、29日に白秋から転居のハガキをを受け取り、午後神楽坂の白秋宅を訪問している。  
 ……北原君の新居を訪ふ。吉井君が先に行ってゐた。二階の書斎に物理学校の白い建物。瓦斯がついて窓といふ窓が蒼白い。それはそれは気持のよい色だ。そして物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える。……
  白秋は「東京景物詩」の物理学校裏で               

   ・・・・・・・蒼白い白熱瓦斯の情調(ムウド)が曇硝子を透して流れる。
        角窓のそのひとつの内部に
        光のない青いメタンの焔が燃えてるらしい。 
        肺病院のやうな東京物理学校の淡い(うすい)青灰色の壁に
        いつしかあるかなきかの月光がしたたる。 
                                                      
        Tin…Tin…Tin.n.n.n.…Tin.n.…
        tire…tire…tin.n.n.n.…shan…  
        ti…ti…ti…ti…tote…tsn.n…shan.n.n.n.n….   
         静かな悩ましい晩。 
        何処かにお稽古の琴がきこえて、……

と詠んでいるが啄木の印象とは程遠い。
  白秋と啄木の出会いは「明星」新詩社だったと思われる。当時、啄木の家は小石川にあってなにかにつけて神楽坂を歩いた。

坂下から本田横丁まで

  志満金を過ぎると坂は急勾配になる。恋人同士語らいながら上れば苦にならぬ坂だが、年寄には少しきつい。東京三菱銀行まで坂が続く。両側に歩道があるが日中から夜更けまで人道りが絶えないのは昔も今も同じである。ファッションでも普段着でも気軽に歩けるのがこの坂のよいところだと言えよう。                            
  昔は昼頃になると首だけ白く濃い白粉の下塗りをして銭湯から帰ってくる芸者や、三味線を抱えお稽古にゆく半玉を見かけたものだが今は片鱗さえない。昼は周辺のオフィスで働く男女が一斉にといっていいほど神楽坂に繰り出し昼食探しのプロムナードと化す。ラーメン前に長い列を作り、若いOLが賑やかにカウンターの前を陣取り、男女共にファーストフードのレジ袋を下げ、パン屋が込みあうのもこの時間だ。
 スーツ姿の男のサラリーマンが気後れすることなく、OLと一緒に弁当屋のメニユーを覗き込む様子は丸ノ内や銀座のビニネス街には見られぬ風景である。

  気取らない町、時代がたっても何でも雰囲気にぴったり合わしてしまう神楽坂だけが持つ不思議な魅力と言えよう。戦災を経て池袋、新宿、渋谷を中心に山の手は大きく様変わりしたが、依然として神楽坂は昔ながらの山の手である。

創業1世紀に近い店が並ぶ神楽坂

  明治から一世紀以上の歴史の中で神楽坂は震災、戦災と大きな変化のあるごとにそれなりの変貌を遂げてきた。
  しかしバブル期以降ここ20年の変わりい方はそれまでの変わり方に比べて問題にならない。数十年も続いた店が消えていく一方、テナントビルに建て替えられるものが目立ち、ビルの中には新しく開店する店が増え、いつこんなところに、こんな店がと思うま間もなく、また消えていくのが今の神楽坂なのである。

 
 ふた昔も前なら目を閉じても歩けた町だったが今はそうはいかない。新しくお目にかかる看板がやたらと目に付くようになった。勘定をしたことはないが恐らく昔からある店の何倍かになったと思う。雑誌かなにかで神楽坂の有名店ですと紹介されても古い人間にとっても知らないところが増えている。ということは神楽坂が新しい町へと脱皮をはかっていると見るべきであろう。
 創業以来の店舗の経営者は5代目が普通で、現在はビルのオーナーだったりして実際に店の経営にあたっている人はすくないらしい。新しい店には神楽坂

以外から通う経営者も従業員も増えているのが現状のようだ。
   そんな町並みのなかに5代におよぶ昔から店舗を構える店を追ってみたい。
 
  坂の左側東京三菱銀行までせんべい神楽屋、夏目写真館、岡田印房、帽子・傘の山田屋、履物の助六、正面はお香の店椿家になっているが宮坂金物店など。
  右側本田横丁までの敷物の菱屋、化粧品の佐和屋、パンの木村屋、坂本ガラス店など創業1世紀に近い歴史をもつ商店が軒を並べている。

  宮坂金物店の路地入ったところで神楽坂演芸場が戦災で焼けるまで木戸を開けていた。客には人形町の末広、上野・鈴本と並ぶ寄席で早稲田の学生が多かった。今は駐車場になっている。
  そのなかに不二家のペコちゃん、きんとき、中華・神楽坂五十番などは創業100年の店に比べれば新しいが町並みにとけこんでいる。ペコちゃん焼きは不二家チェーンで此処だけの商品らしいが、昼下がり女学生が集まる。
  しかし新しい店が誕生するのと裏腹に消えてゆく店がある。筆屋、半襟屋、人気俳優の写真を扱った絵はがき屋、かもじ屋、お汁粉屋など時代に合わなくなった店である。さらに古くは神楽坂を訪れる人に娘義太夫など定席もあった。
                                                    以下次号


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