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西村和夫の神楽坂

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2004/04/01

肴町は家光ゆかりの地

Tweet ThisSend to Facebook | by:埼玉支部
神楽坂界隈 連載(6)<2004/4/1>
 
 前号に引き続いてもうすこし神楽坂に関わる地理的なものを語らせてもらう。


肴町は家光ゆかりの地

  この辺りが古くから街道筋に当っていたらしく、かなり以前からたくさんの民家が存在していたことが分かっている。むかし、毘沙門天の辺りを肴町と呼んでいた。

『牛込肴町由緒書』に
 一、牛込肴町の義は関東御入国以前より町屋に而御座候事
 一、関東御入国の節為御案内牛込七ケ村の者ども、武州川村迄御迎に罷出候事
 一、天正十八庚寅年御朱印御座候御制禁書七ケ村の肴屋どもへ被下置頂戴置候、今に所持候事
   (秀吉の禁制札を指すものであろう)
 一、當町の名は古来より兵庫町と申候處、大猷院様(三代家光)御鷹野に被為成節、御肴数度指
    上、御金頂戴仕候、依之向後指上肴町と相改候様酒井讃岐守様被仰付候事
 一、酒井讃岐守様御屋舗へ嚴有院様(家綱)初而被為成候節、當町へ御金被下置奉頂戴町内破
    損修復仕候事
とあり肴町には肴屋があるほどの町だったと考えられている。

  もともとこの辺りは3代将軍家光と縁が深い。鷹狩りをしたり、寛永16年(1639)江戸城本丸が火災に遭った際、家光が矢来の若狭小浜藩主・酒井の下屋敷に避難している。御家人がたちが抜き身の槍を手に竹矢来に立って家光の警護に当たったという。
 それ以来竹矢来は江戸の名所ともなりその付近を「矢来下」と呼ばれるようになった。新潮社のある辺りである。
 神楽坂を肴町から毘沙門天側に折れ地蔵坂を上り光照寺に至る横丁が袋道だったので通称袋町と呼ばれ、藁商人がいたのでワラマチとも言った。牛込城跡といわれる光照寺の寺宝、木造地蔵菩薩は鎌倉時代の快慶の作といわれ江戸時代から子育地蔵と呼ばれ安産の地蔵として信仰され多くの善男善女を集めた。詳しいことは牛込城で扱うことにする。


徳川無声が出演した牛込館
 
  ワラマチには江戸から明治の初めにかけて和良店亭という寄席があり、初代都々逸坊扇歌が天保9年(1838)にここで歌ったと言われている。弘化ごろ謎解きの名人都々逸坊扇歌は両国広小路や湯島天神境内など数ヶ所を定雇いの篭でまわり1日に7~8両稼いだといわれるほどの人気スターだったことからも、袋町周辺がかなり賑やかなところだった思われる。

  戦前生まれの方ならご存じかも知れぬが、ここに牛込館という洋画専門の映画館があった。まだ無声映画の時代、レビユーと一緒に上映することで山の手では名が知られ、常に新しい客筋を集めていた。
  映画は2番館だったが徳川無声、松井翠生、山野一郎ら一流の活動弁士が出演していた。太平洋戦争が始まるまでアメリカ映画を上映していたはずだ。

  和良店亭が牛込館に変わったと言われるが、明治41年(1908)「オッペケペー節」の演歌で知られた壮士芝居の川上音二郎の劇作家であり役者だった藤沢浅二郎が和良店亭を改造、俳優養成所(牛込高等演芸館)を設立している。後の牛込館だというがはっきりしない。明治39年の『風俗画報』の写真では両者が別に映っている。
  このようなことからもワラマチ界隈が江戸時代から光照寺を中心に開けていたことが想像される。

大正の初めまで念仏が聞かれた寺町

  昔、神楽坂と言えば坂上(肴町)から坂下(牛込見付)までを指した。
  大久保道を横切り矢来に抜ける道は、左右に門前町が開け、神楽坂に比べ道幅も狭く雨が降ると傘をさす通行人が行き違い出来ない程、家の軒が迫っていた。通寺町、横寺町と呼ばれるように寺が多かった。   明治のはじめ排仏毀釈により多数の寺が廃寺にされたがそれでもまだ狭い道の両側には向かい合うように寺が並び、朝夕どこともなく念仏や読経の声が左右から流れてきた。いまでも横寺町に入るとその雰囲気を残している。

  牛込見付から通学する早稲田の学生はその細い道を通った。ごちゃごちゃした横丁に飲み屋、飯屋、駄菓子屋が並び、さらにこの狭い横丁に寄席牛込亭があり早稲田の学生で満席になっていた。
  まだ映画が普及しない当時は庶民の娯楽の中心になっており、 落語のほか義太夫、新内など一流の芸人が出演していた。明治の終わり頃、通寺町に火事がありそれを機会に、早稲田、矢来から神楽坂に抜ける幹線道路として道路の拡張が行なわれ、関東大震災の後になって、今のような町並みに開けたのである。

山の手銀座と言われ最も華やいだ時代、通寺町が神楽坂の仲間入り

  だが、それでも大正の初めまで神楽坂と寺町の2つの町の間には大きな違いがあった。神楽坂を山の手銀座とたとえるなら、この辺りは名のとり寺の多い地域だった。
  その境を取り外したのは関東大震災であった。火災をまのがれたこともあって下町で焼け出された老舗がわれ先にと競争で仮店舗を出店した。肴町には三越まで現れた。

  それまでも神楽坂は山の手随一の盛場として知られていた。焼け残ったということで、東京中のすべての人がここに押し寄せるという感があり、盛場としても、商業地としても東京の一大中心地としてのしあがることになった。神楽坂が一番華やか時代であったのである。
  通寺町に銀座で焼けたプランタンが店を出したのもこの時である。新潮社が近いせいか久米正雄、広津和郎、宇野浩二、佐々木茂策、間宮茂輔らも溜りになっていたという。本格的なカフェが牛込にきたと喜んだのは束の間で2年程で消えた。

  その後、三越も姿を消すと同時に山の手銀座の呼称も町の賑わいも徐々に新宿に移ることになる。関東大震災後、私鉄のタミナル駅、新宿、渋谷が丸ノ内、銀座に並んで目覚ましい発展をとげ、副都心へおどりでからである。
  市内で焼け出された多くの市民が山手線の外周、そしてそこから延びる東横、小田急などの私鉄沿線に移り住んだことによるものだ。東京で三指に数えられた神楽坂も気付かぬ間に新宿、渋谷に抜かれることになるのである。
 地価を見ても震災後、三越が新宿に進出したときは坪当たり1,500円だったものが年々上昇するのに対し神楽坂では逆に500円, 300円と値下がりしたことを見てもうなずける。

神楽坂の縁日は毘沙門天の植木市が起源

  さて、震災後の神楽坂の夜店は大久保道りを越えて矢来へとのびる勢いは止まらず、夜店だけでなく昼も夜も露店が牛込見付から坂上、そして寺町まで埋めつくし、さらに大久保道りへと広がりをみせ、その境は次第に分からなくなっていった。昼夜、人々は牛込だけに限らず小石川、麹町、雑司が谷辺りからも集まってきた。
  戦後、通寺町は住民から何の異論が出ずに神楽坂6丁目になったが、抹香臭い町名より神楽坂の方が格好良かったからであろう。

  神楽坂の縁日は毘沙門天の植木市に始まる。江戸名所図会「牛込神楽坂」によると寅の日に植木市があると書かれている。
 いつか寅の日に午の日が加わり2度開かれるようになった。神楽坂の縁日には坂上から坂下まで、時によるとお濠ばたまで草花から盆栽まで、さらに梅、柿、松など庭木まで並べられた。その雑踏の中を歩く芸者の姿は神楽坂の風物詩として新聞や雑誌に紹介され、また人を呼んだ。
 しかし、震災を境にして植木市は急速に姿を消し、バナナ屋、古本屋、今川焼を代表する夜店に変わった。神楽坂の夜店については新たに項を起こしたい。                  

明治20年、東京で一番歴史のある夜店

 神楽坂の夜店は明治20年に始まり、東京では一番古い。午の日と寅の日に出た縁日も別に午寅にこだわらず常時出店するようになり「神楽坂の夜店はいつ出かけても出ている」と人々は暦を気にしないで気軽に出かけるようになった。
  しかし、昭和12年日中戦争が始まると夜店も次第に姿を消し、19年3月警視庁が待合芸妓屋を閉鎖させることで戦前の神楽坂は幕を下ろすことになった。そして、20年5月25~26日、夜半から明け方の空襲で全て灰燼に化してしまった。 


神楽坂を一方通行にした田中角栄?

  8月15日悪夢のような戦争は終わった。
  焼け野原の神楽坂は米軍のジープのエンジンの音で目覚めた。早稲田にあった陸軍儀仗兵宿舎が米軍のモータープールになり、神楽坂が日比谷の第一生命ビルにおかれたGHQに通う米軍の自動車の通り道になり露店は禁止された。GHQに許可申請したところ寅の日が5日になって許可になった。神楽坂の縁日が5日になったのは戦後からである。だが夜店は再生しなかった。
  神楽坂を一方通行にしたのは田中角栄の意向によると言われている。角栄が目白の自宅から永田町へ往復するのに朝は下り、夕は上りと都合よく決めたという。真偽のほどは確かではないがもっともらしい話である。

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