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西村和夫の神楽坂

西村和夫の神楽坂 >> 記事詳細

2004/01/18

プロローグ

Tweet ThisSend to Facebook | by:埼玉支部
神楽坂界隈 連載(1)<2004/1/18>

プロローグ

  右の写真は明治40年度版の「東京案内」による神楽坂風景である。物理学校が神楽坂2丁目24に移転、新校舎が落成したのが39年だから、この写真が写された時は近代資料館の原型になった旧校舎が6号館の敷地に既に建てられていた。
 
 江戸時代神楽坂の上り口から右側は武家屋敷、左側には町屋がつづいていた。毘沙門天の縁日には人出が多く、表参道は歩けぬ状態だったという。
 明治35年になると、神楽坂に商店街、花町、娯楽施設などが整った。雑踏する神楽坂を軸にすると、左右の横丁は三味の音の響くいわゆる神楽坂だった。

 大正7年、島村抱月が坪内逍遥の率いる文芸協会を離れ松井須磨子と芸術座を興し、牛込見付から神楽坂を登りきった横寺町に研究所兼劇場、芸術倶楽部を誕生させた。そしてここから数々の名演劇や流行歌が生まれた。トルストイの「復活」の劇中で須磨子が歌った「カチューシャの唄」 は今に歌い継がれてい
る。
  当時日本中で自由を求め苦しんでいた若者が自己主張を貫いたふたりの恋愛とともに芸術座の描く世界に魅力を感じ共感をおぼえたのである。
  一方、花柳界で織りなされた泉鏡花と芸者すずの恋物語、明治、大正を通しふたつの話が同じ神楽坂で同時進行していた。

  田原屋には夏目漱石、長田秀雄・幹彦、吉井勇、菊池寛、佐藤春夫、サトーハチロー、永井荷風、水谷八重子、15代目羽左衛門、6代目歌右衛門ほか多くの有名人が集まっていた。また、銀座のプランタン、三越などが出店した時代でもあった。
 早慶戦で早稲田が優勝すると明け方まで神楽坂は学生がねりあるいた。毘沙門天では、まともに歩けぬ縁日の人出に揉まれるお座敷に通う芸者の艶姿は神楽坂の風物詩になっていた。

 『延喜式』によると武蔵国に桧前馬牧及び神崎牛牧とふたつの牧場の存在が記述されている。この牧場が現在のどこにあたるのか明らかではないが、従来の考証では桧前馬牧は浅草から駒込辺りではないかと言われ、武蔵国には牛にちなんだ地名が牛込を除いて見当らないことから、取り敢えず神崎牛牧を牛込に当てたものらしい。 「込」とは多く集まるという意味で、牛込とは牛が多い場所つまり牛の放牧場だったのである。ちなみに駒場は馬の放牧場を意味する。

  平成13年から14年にかけ神楽坂4丁目にある東京理科大学森戸記念館新築工事にともない埋蔵文化財発掘調査が行なわれた。もともとこの敷地は神楽坂の花柳街の中心地で戦前は多くの待合が軒を並べていたところだ。さらにその先を辿ると 江戸時代、徳川譜代家臣の中級ないし下級家臣の屋敷があった所である。それを裏付けるように、おびただしい江戸期の焼き物が掘り出された。さらに縄文、弥生土器、須恵器が見られたことからこの土地にはかなり昔から人が住み着いていたことが改めて検証された。

 昭和26年の町名変更でなじみの深かった肴町、通寺町、横寺町、宮比町がすべて神楽坂に統一されたがその名のとおり昔から横丁を曲がると読経の声が聞こえるほど寺が多かった。
 徳川から明治へ、武家屋敷と寺の町神楽坂の明治改元からの変貌はそれまでの数百年の変わり方に比べたら問題にならない。武家屋敷や肴町の行元寺の門前町が突如として東京屈指の花柳街に変わり、大正時代には神楽坂も「山の手銀座」と言われる程賑わいを見せた。

 明治の始めから今日を比べてみて、武家屋敷や寺に代わって花柳街や繁華街が出来たという変遷があったことがわかる。しかし、その間の変わり方はもはや理解しがたい過去になってしまい、意識的に知ろうと努めない限り、なかなかつかめなくなってしまった。

 わたしが初めて神楽坂を上ったのは東京物理学校へ入学した年の昭和22年、太平洋戦争終了後間もない頃だった。そこで目にしたのは空襲で焼き尽くされた神楽坂の姿だった。坂下の蕎麦の翁庵に蕎麦ならず焼き芋に行列のできる時代で、皆飢えていた。そして広い瓦礫の焼け跡は藷の葉と夏草が覆い尽くしていた。だが、急拵えのバラック建ての芸者屋から時折三味線の音が聞こえてきたのを覚えている。
 しかし、 夏草や瓦礫が語りかける過去の華やいだ神楽坂の物語は みょうにわたしにとっていとしく 思われた。
  それから半世紀たった今、東京理科大学同窓会誌 『理窓』 の編集委員として学生時代からさらに50年の過ぎた神楽坂を再び上ることになった。こんなことが契機で『理窓』 に神楽坂の話を書くことになった。
 今回、理窓会埼玉支部の山田義幸さんの好意でこれから何回かにわたりインターネットで送る「神楽坂界隈」 は 『理窓』 に連載したものを中心に再編成したものである。


下町と山の手

 タクシーの運転手の話として「東京の地理に通じるコツは下町では橋を、山の手では坂を覚えることだ」と書かれている本を読んだことがある。現在では運転手も客も地方から出て間もないものが多いからこの論理は通用しないかも知れない。

  東京は旧市街地だけを見ると下町低地と山の手台地から成り立っている。下町の大部分は江戸時代から現在に至るまでに埋め立てられたもので、昔から商業地帯として多く町人が住んでいた。交通手段としての運河がはりめぐらされ、当然橋も多かった。 
  太平洋戦争後、運河の大部分は戦災の瓦礫の処理で埋められたり道路になって消えた。「君の名は」で有名な数寄屋橋、三原橋、入船橋などは運河も橋もなくなり地名として残っているいるだけである。

  武蔵台地と呼ばれる山の手はだれが見ても下町にくらべ2~30 メートル高く、かっては江戸城を中心にして武家屋敷が軒を連ねていた。下町から山の手に行くのにはきつい坂を登らねばならない。一心太助が魚河岸から天秤を肩に、駿河台まで登るのは大変だったとおもう。
 もともとの地形は武蔵野台地が東京湾近くまで張り出し急崖を作っていた。江戸時代を通し台地を削り海を埋め下町にしたというわけである。当然下町と山の手の境には坂ができる。

 山手線の内がわに限って、武蔵野台地を見渡すと目黒川と神田川で囲まれた三角形の中に入る千代田、港、新宿、渋谷の各区にまたがる淀橋台は周辺の台地より一段と高い。地質学者は淀橋台より低いまわりの豊島台、本郷台、目黒台などを一まとめしてに武蔵野段丘とよび区別している。わけは成因に違いがあるからで、この違いは地表だけを見てたのではわからないない。どちらの台地も表面が同じ関東ロームで覆われているからである。

  関東ロームは1万年から数万年前の間に起きた富士山の爆発による火山灰が降り積もったもので、もとあった地表をおおいかくしてしまった。関東ロームを取りのぞくと下から東京層と呼ばれる地層があらわれる。これが火山灰の積もる前の武蔵野台地の姿である。東京層からはナウマン象の臼歯や牙が発見されることから10万年~20万年昔、浅い海に土砂が堆積してできたものと考えられている。
 
  いつか東京層が隆起、陸化して武蔵野台地の原型ができあがった。その後長い時間をかけ台地は河川により侵食され次第に低くなっていつた。その中で河川の影響を受けなかったのが淀橋台として辺りより一段と高い台地として残った。河川の氾らん原や河床が武蔵野段丘になったというわけだ。
 徳川時代から明治にいたるまで砂利の採掘場として知られた小石川はかって武蔵野台地が侵食されていた時代の河床である。採取された砂利は入間川のものと言われている。
 東京湾にせり出した淀橋台の急崖の上にはかっては江戸館や江戸城の本丸があり、現在では皇居がある。神楽坂もひとつづきの淀橋台の一部である。

地球温暖化が神楽坂を作る

 6000年ほどむかし、 縄文前期東京湾の海水面は今より数メートル高く海水は関東平野の奥まで入り込み、東京理科大学経営学部のある埼玉県久喜市のあたりまで達していた。そして上昇した海は、武蔵野台地のすそまで波が打ち寄せ、台地の縁を削り急崖を連ねていった。よく知られている縄文海進である。地球温暖化はこの現象を再現するかも知れない。
  その結果、山の手と下町との間に段差ができ、市民は急坂に苦しめられることとなった。神楽坂も江戸時代から明治にかけ何回か坂の勾配を緩くする工事を行なっている。
 
 やがて海水は引き、この頃より人類が海岸線にそって住み着くようになる。山の手、つまり武蔵野台地は、一面シイや カシなどの森林に覆われていたと考えられている。 その頃東京の地に、獲物と魚介類を求めた縄文人の数は、芦沢長介氏の推定によると5万分の1の地形図1枚の面積あたり100人くらいだったという。
 武蔵野台地の開発は大陸から移住した帰化人の手になるといわれる。まず、武蔵野台地の大森林は焼畑か放牧のために焼き払われたと思われる。さだかではないが「むさしの」とは焼き払われた野原という意味があるそうだ。
 武蔵野には布の材料になる芋麻(カラムシ)が多く生えていた。カラムシは名のとおり朝鮮から伝わったもので朝鮮語で「モシ」moshiという。モシの国が訛って「武蔵国」になったとも言われるが、いずれにしろ帰化人がからんでいたことに間違いはなさそうだ。

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