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物理学校意外史

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2005/06/01

僅か1週間で書かれた「坊っちゃん」

Tweet ThisSend to Facebook | by:埼玉支部
連載(10)<2005/6/1>


僅か1週間の超スピードで書かれた『坊っちゃん』



  明治39年(1906)4月、漱石が「ホトトギス」に『坊っちゃん』を発表した同じ年の2月、母校の神楽坂校舎の建築が始まり8月に完成、小川町校舎から移転した。同窓の二村富久氏の寄贈になる近代資料館は、当時の面影を正確に再現している。武家屋敷の佇まいを残した神楽坂の町並みに当時一際目立った西洋風の建物は周辺の人々から「ミュンヘンチック?」と評判を取った。

 漱石は『坊っちゃん』250枚(24X20)を3月17日頃から24日までの僅か1週間という超スピードで書き上げた。其の時期はちょうど神楽坂校舎建設の真っ最中で土台が出来たか棟上の頃だったと思う。小説の背景は母校の小川町校舎である。2月初めから始まった神楽坂校舎の新築工事を知っていたかどうかは疑問である。当時、漱石は東大と一高の講師をする傍ら小川町校舎と目と鼻の先の明治大学で1週2時間,30円の講師も兼任していた。こんなことから、「物理学校の前を通り掛ったら生徒募集の広告が出ていた」と『坊っちゃん』を書き始めたのではないだろうか。当時の明治大学は小川町校舎と至近距離にあった。

  気分晴らしにと虚子の勧めで書いた『我輩は猫である』が本人がびつくりするほどの評判になり、漱石が本格的に小説に取り組むようになった明治38年、続いて『坊っちゃん』を出した明治39年は漱石にとってもっとも創作意欲の盛んな時期だった。『我輩は猫である』の合間を縫って『坊っちゃん』に続き矢継ぎ早やに「新小説」の9月号に『草枕』、「中央公論」の10月号には『二百十日』が掲載された。ちなみに『我輩は猫である』10章と『坊っちゃん』が同時に掲載された「ホトトギス」の4月号は大変な人気で、発行された5500部は直ちに売り切れたという。
 
  このときの様子を「・・・・・『猫』の続きのほかに、『坊っちゃん』や『草枕』などを書きまして、ほとんど毎月どこかの雑誌に何か発表しないことはなかったくらいでしたが、書いているのを見ているといかにも楽しそうで、夜なんぞもいちばんおそくて十二時、一時ごろで、たいがい学校から帰ってきて、夕食前後十時ごろまでに苦もなく書いてしまうありさまでした。何が幾日かかったか、今そんなことをはっきりは覚えておりませんが、「坊っちゃん」『草枕』などという比較的長いものでも、書き始めてから五日か一週間とはでなかったように思います。多くは一晩か二晩ぐらいで書いたかと覚えております。もっとも自分ではどんな苦心やら用意やらを前々からしていたものか知りませんが、傍で見ているとペンをとって原稿紙に向かえば、直ちに小説ができるといったぐあいに張り切っておりました。だから油が乗っていたどころの段じゃありません。それですもの書き損じなどというものは、まつたくといっていいほどなかったものです。・・・・・」(夏目鏡子述 松岡譲筆録 『漱石の思い出』 文春文庫)と鏡子夫人は語っている。
 鏡子夫人が言うように「ペンを取って原稿紙に向かえば、直ちに小説が出来る」にしても1週間で250枚の原稿を一気に書きあげた創作意欲は何処から生まれてきたものか、天才で無い限り「苦心やら用意やらを前々からしていた」ものがあったからこそ突然、構想が生まれたのである。本人が「国民新聞」の記者のインタビューで答えたように「・・・・・3日許り前に不意と浮んでずるずる書て了ったんです」という訳でもあるまい。
 
何が漱石に『坊っちゃん』を書かせたか 
 
  漱石の頭の中にもともと『坊っちゃん』を書かせる何かが存在し、それを長い間考え続けていたからこそ、『坊っちゃん』の構想が生まれたと見るべきである。それが何かは明治39年春に行われた入学試験の「英語学試験囑托辞任」の問題にあったと見るのが大方の人の意見である。
  当時、東大英文科の入学試験は慣例として教授会は問題をきめるだけで後は一切手を出さず、試験監督、採点、集計など煩わしい仕事は全て講師がすることになっていた。将来、教授の席や博士号が欲しい者は当然のように教授会の言う通りに誰も従わざるをえなかった。  
  この年もしきたりに従って教授会は一方的に夏目講師に試験委員を命じてきたが、彼はこの命令をあっさり断ったことが事件の発端となった。大学はじまって以来の出来事に教授会から一斉に非難の声があがり、姉崎正治教授らが心配してなだめるという一幕があったようだが、漱石の意思は固かった。

漱石の書簡に見る「英語学試験囑托辞任」問題

  この時の経過を漱石の書簡から探ると、2月15日、漱石の姉崎教授宛の手紙は「学校で立談御互意志の通ぜぬ所もあるから改めて手紙で愚存を申し上げる」から書き出し、囑托辞任の理由を二つあげている。

 一つ目に「辞任の理由は多忙という事に帰着する。僕は一週間に三十時間近く課業をもって居る。是丈持たなければ米塩の資に窮するのである而してそれ以外にも用事がある。読書もしなければならぬ。だから多忙といふのは佯りのない所で尤な理由である」
  二つ目に「次に僕は講師である。講師といふのはどんなものか知らないが僕はまあ御客分と認定する。大学から普通の教授以上丁重に取扱はれてもよいと考へて居る。大学の方ではさうは思はんかも知れんが僕の方ではさう解釈してゐる。従って擔任させた仕事以外には可成面倒をかけぬのが禮である。・・・・・自分たちが面倒な事を勝手に製造して置いて其労力丈は関係の無い御客分の講師にやれといふ理屈はない」
  さらに付け加え「○○○○は僕を以って報酬がないからやらんのだと教授会で報告したそうだ。其解釈は至当である。僕自身もさう考えている。僕の様なものに手数(擔任以外の)をかけるには金銭か、敬禮か、依頼か、何等かの報酬が必要である。それがなくて単に・・・・囑托相成候間右申し進候也という様な命令なら僕だって此多忙の際だから御免蒙るのはあたり前である」

  2月17日再度姉崎教授に送った「君の返事は拝見した。個人としての御忠告は難有感謝する」と始まる手紙には 「・・・形式的に拘泥した澆季の風習だ。二十世紀は澆季だから仕様がないが、俗吏社会、無学社会ならとにかく、学者の御そろひの大学でそんな事をむづかしく云ふのは大学が御屋敷風御大名風御役人風になってるからだよ」
 「語学試験なんか多忙で困ってる僕なんか引きずり出さなくったつて手のあいて居る教授で充分間に合ふのだ。僕なんかは多忙のうちに少しでもひまがあれば書物を一頁でも読む方が自分の為にも英文学科の将来の為にもなると思って居る。語学試験を引き受けないでけしからんと思ふなら随意に思ふがよい。○○さんなんか何と思ったつて困りやしない。少々こんな謝絶に逢ふ方が人間といふものが理解されていゝのだ。学長たるものは只歴史の大家になったつて駄目だよ。少し世の中の人間はこんな妙な奴が居つて講師でもそんなに意の如くにはならないといふ事を承知させるがいゝのだよ」と大学の権威にのり威張り腐って漱石を非難する無能な大学教授たちを見事に一刀両断に切ってのけたのである。現在の大学でも通用するような見事な抗議文である。
 
猫にビールを飲ませて東大教授の道をみずから断つ   
 
 23日、坪井九馬三文科大学長宛の手紙で辞任問題に決着をつけている。
 「教授会では小生の辞退の理由を至当と認められたさうでありますが是は小生の深く教授会に対して謝する所であります。然しそれにも関らず強いて小生に委員たれとご依頼になるのは小生に取って非常の光栄とは思ひますが此光栄たる少々自ら雙肩に擔ふを恐れたく思ふのであります。・・・・・かう申すと何か無闇に頑固を主張する様で甚だ済みませんが、私の方から教授会の御意見を伺ふと教授会の方が無理を云って入らっしゃる様に聞えます。実際出ないでも済むものを無理に出して二百人の答案をしらべさせる杯は人が悪いじゃありませんか。どうか御助け下さい」
 教授会は辞退の理由を認めたから、試験委員にはなってくれという坪井学長の依頼を手紙できっぱりと断ったのである。
  つまり講師だからといって教授会が担任以外の仕事を権威を傘に命令的に押しつけられる理屈は無いというのだった。あまりに愚劣な教授会の常識からかけ離れた天下り的な権威構造に我慢がならなかったのである。事実、東大、一高、明大の講師を兼任、夜は夜で創作意欲に燃えていた漱石は多忙だったが、教授会に逆らい試験委員を辞任することは、「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」敢えて教授と博士の肩書きを放棄することでもあった。明治39年8月号の「ホトトギス」で猫にビールを飲ませ水瓶に南無阿弥陀仏と成仏させ、よく明治40年4月一切の教職員の仕事を辞めて東京帝国大学講師夏目金之助はプロ作家の道を歩み始めたのである。

ユーモア小説『坊っちゃん』を通して東大教授会を風刺
 
 
明治39年3月上旬『猫』の10章を書き上げ一息ついた漱石に、丁度1ヵ月ばかり前の2月におきた「入学試験委員辞任の出来事」が突如として怒りとなってこみ上げてきた。この権威を傘に着た教授会の理不尽さを一つ小説に仕上げてやろうと『坊っちゃん』の原稿が『猫』の途中であったのにもかかわらずスタートしたと見られる。これが鏡子夫人のいう「苦心やら用意やらを前々からしていた」ものになって1週間で一気に書き上げることになった。
  たしかに『坊っちゃん』の背景はバッタ事件にしろ、温泉湯壷の水泳事件も松山中学校時代の経験に基づくものが多いが、「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」ことを承知で御座敷風、御大名風、御役人風になっている東大文学部の教授会に小説を通してものを申したのである。特に松山中学の職員会の場面は権威主義に陥った東大文学部教授会そのものが見え隠れする。

  文学士赤シャツのホホホホと笑う様子や、金鎖りを着け、琥珀のパイプを絹のハンカチで磨く有様、気取った歩き方まで東大文学部の教授の姿を彷彿させる。バッタ事件を働いた寄宿生の処分を決める会議では校長の狸はつぎの様に冒頭の挨拶をする。
 「学校の職員や生徒に過失のあるのは、みんな自分の寡徳の致すところで、何か事件がある度に、自分はよくこれで校長が勤まるとひそかに慚愧の念に堪えんが、不幸にして今回もまたかかる騒動を引き起したのは、深く諸君に向って謝罪しなければならん。然し一たび起った以上は仕方が無い。どうにか処分をせんければならん。事実は既に諸君の御承知の通であるからして、善後策について腹蔵のない事を参考の為めに御述べ下さい」と校長が述べるやいなや、赤シャッは間髪を入れず
 「・・・・・事件その物を見ると何だか生徒だけがわるい様であるが、その真相を極めると責任は却って学校にあるかも知れない。だから表面上にあらわれたところだけで厳重な制裁を加えるのは、却って未来の為によくないかとも思われます。かつ少年血気のものであるから活気があふれて、善悪の考はなく、半ば無意識にこんな悪戯をやる事はないとも限らん。で固より処分法は校長の御考にある事だから、私の容喙する限ではないが、その辺を御斟酌になって、なるべく寛大な御取計を願いたいと思います」とつづける。

  突如現われた反乱者に校長の狸と教頭の赤シャツは狼狽しながらも教育者としての地位と誇りを失うまいと必死に慇懃な態度を装い過去の慣習に結論を求めようとする。漱石の予期せぬ試験委員辞任に際して開かれた教授会そのものである。『坊っちゃん』は何度読んでも楽しめるユーモア小説だが、その中で誰も気が付かぬように漱石は坊っちゃんに日本で東大教授会の内情を小気味のいい江戸弁でやっつけさせたのである。
 

「坊っちゃん」のモデルは漱石自身? 

  赤シャツ、野だいこ、狸、山嵐、うらなりなど松山中学だけで無く日本中どこの中学にでもある教師のアダ名である。松山中学の誰をモデルにしたと論じられることもあるが、東大文学部にいた教授に置き換えたものだとあったと見るべきであろう。
  そして「坊っちゃん」と山嵐の二人はは松山を去るにあたって、赤シャツと野だを街外れの杉並木まで追跡して徹底的に叩きのめし積もりに積もった鬱憤に溜飲を下げる。ここまで来ると誰も1人称で書かれている小説の主人公江戸っ子の「坊っちゃん」自身、夏目漱石だとはっきりしてくる。そう考えると『坊っちゃん』の読み方も大きく変ってくる。
  松山に行くと『坊っちゃん列車』『坊っちゃんスタジアム』など「坊っちゃん」が市民に広く親まれ、町起しにも使われ『坊っちゃん饅頭』『坊っちゃん団子』と土産物は全てといってよいほど冠に『坊っちゃん』が付いている。中には登録商標まで付けて『坊っちゃん』を独り占めしている商品まであるようだ。最近理科大の学食を経営している神栄サービスが『坊っちゃんのふるさと』なる饅頭を売り出した。そのものズバリ「坊っちゃん饅頭」と命名したらと問いかけたら商標の問題でという答えが戻ってきた。
 『坊っちゃん』がユーモア小説として愛されている限り漱石は「してやったり」とほくそ笑んでることだろう。しかし、理科大の関係者は「坊っちゃん」が卒業した時代、物理学校がどんな学校だったか、また『坊っちゃん』書かれた意図にどんな意味が込められていたかはっきりすることで「坊っちゃん」をより身近に理解することが出来ると思う。
 
本時代、漱石に能を教えた維持同盟者櫻井房記
 
  さて、漱石と物理学校との出会いだが、前回にも紹介した維持同盟者の一人櫻井房記が熊本第五高等学校の教員時代、明治29年から33年まで漱石と一緒に在職していた。職場の同僚であったとしても一番長い付き合いであったといえよう。プライベイトでは金沢宝生流の先生でもあった。熊本時代の櫻井房記については漱石の日記、鏡子夫人の『漱石の思い出』に書かれているが、東京に戻ってからの二人の交渉は私の知る限りでは分からない。
  桜井は母校の創立者の一人であると共に創立当時から明治23年熊本に赴任するまで8年あまり学校の運営から教員まで勤めていたから、漱石に物理学校の話をしたと考えてもよいだろう。33年、桜井が工学部長から五高の校長に就任した時、漱石は教頭代理の職にあったらしい。

 漱石は33年5月に英国に留学36年1月に帰国する。桜井は漱石に熊本に戻ることを望むが3月五高を辞任、3月から本郷区(文京区)駒込千駄木町54に移る。4月東大と一高の講師を兼任し38年『猫』39年に『坊っちゃん』を執筆して文名を高めた。39年9月に小石川区(文京区)西片町10に移転し40年9月には神楽坂に近い牛込区(新宿区)早稲田南町に住居を移し終焉の地となった。漱石は慶応3年、牛込区(新宿区)喜久井町1番地に生まれ、幼い時から神楽坂に慣れ親しんで育ったが『坊っちゃん』を発表した時代には、駒込千駄木町に居があり神楽坂から遠ざかっていた。
 (作品の引用 『坊っちゃん』新潮文庫、『漱石全集』岩波書店)


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