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2004/02/15

江戸川で船を仕立てて神田川を下り浅草へ

Tweet ThisSend to Facebook | by:埼玉支部
神楽坂界隈 連載(3)<2004/2/15>

江戸川で舟を仕立て神田川を下り浅草へ芝居見物
                    
  平川は年代と場所で江戸川とも神田川とも、呼び方はまちまちである。神田山(現在の駿河台)を切崩し神田濠(運河)が完成すると、平川の流れは後楽園辺りで神田濠に付け替えられ流路を変えた。
  江戸湊から神田濠を通り、船が神楽河岸まで通うようになると、江戸川が外濠と合流する神楽河岸辺りから川下を神田川、川上を江戸川と呼んだ。昭和40年神田川に統一されたが、昔からこの辺りに住む人は江戸川の呼び方が馴染みが深いく、今だに言葉の端はしに江戸川の名が出てくる。

 江戸時代、江戸川から船を仕立てて神田川を下り浅草へ芝居見物に出掛けることが、裕福な家庭の一つの楽しみだった。幕末から明治にかけて、船河原橋から江戸川の上流、関口の先、駒塚橋まで治水のため堤防ができ桜が植えられ、花見時になると川面に舟を浮かべるなど花見客で賑わった。
  芝居や歌舞伎で演じられる浅草花川戸の侠客幡随院長兵衛が市ケ谷の旗本奴水野十郎左衛門の屋敷に乗り込んだ時も、神田川を舟で上った。神田川の浸水注意報は神田濠だけでなく、かっての江戸川全体を指すのだから間違えないようにしたい。

『神田上水』 江戸川の流れを江戸の飲み水に、松尾芭蕉が工事に携わった関口

  江戸開府以前新宿区と文京区の境を流れる平川は後楽園あたりで小石川と合流、小石川大沼と呼ばれた大きな池を作り地下鉄東西線に沿うように日本橋付近で日本橋川となって江戸湾に注いでいた。
  武蔵野台地の谷底を流れる二つの川は住民が困らないほどの豊かな湧き水があった。台地の降水は水捌けのよいロームを浸透、ロームつまり富士山の火山灰の降り積もった1~5万年以前の地表(東京層)に達し、この層をつたって谷底から浸みだしてくるのである。神楽坂でも場所によってはロームの下まで掘った井戸から良い水がを得られる理由であろう。                      
 
  しかし、平川の川下あたる神田、丸ノ内に城下町が開けると、ここの井戸からは良質な水を得られず家康は井の頭池、善福寺池の湧き水を水源とする江戸川(神田川)の水を、文京区関口の堰から取り入れ小川町辺りまで神田一帯に引いた。神田川ができると水道橋で渡し、江戸市中に木管を埋めて下町まで給水ができるようにした。『神田上水』である。関口町、小日向水道町、水道端町、水道の地名は神田上水に由来する。関口は松尾芭蕉が伊賀の上野をすて、芭蕉庵に入るまでの間4年ばかり、生活が苦しかったらしく神田上水の工事に関係し差配のような仕事をしていたところだ。

  幕府は、江戸の上水を神田川と溜池に頼ったが、江戸人口の爆発的な増加により上水に不足をきたすのは時間の問題だった。そこで1653年(承応3年)赤坂溜池上水を廃め、新たに玉川上水の工事が始められることになる。多摩川の羽村から四谷大木戸まで約52kmの水路を、わずか7ケ月で完成させたと伝えられる。

内濠は平川の流れの跡、川底をたどる地下鉄東西線

  道灌時代は平川の河口、日本橋川周辺の低地に城下町がひらけていたと考えられている。東京駅付近の地下鉄工事現場から15世紀ごろの人骨や板碑が発見されている。これはこの辺に墓地があり城下町があったことを裏付けるものである。        

  家康の江戸入府の時代から幕府は平川がおこす城下町の洪水に悩まされていた。氾濫すると江戸城まで水浸しになることすらあった。そこで幕府は江戸の防衛と水運をかね平川の浸水から江戸を守るため1620年(元和6年)に神田山を切り開き、JR御茶ノ水駅ホームから俯瞰できる神田川(神田濠)完成させた。これにより平川は平川大曲で新しく出来た神田川へ流れを変え、浅草川と結ばれ江戸城の外濠にされた。

 それまで大曲から九段下、神田橋、日本橋へと流れていた旧平川は大曲で流れを打切られ江戸城の内濠になり、平川による江戸の浸水の心配は一応無くなった。江戸城田安門(九段)から大手門まで一連の牛ケ淵、清水濠、竹橋をへて大手濠つまり内濠は昔の平川の流れの跡である。工事は地形を損傷する事無く巧く利用して行なわれたので、当時の風景をそのまま残している。   
 平川の下を営団地下鉄東西線が走っている。

最近の神田川の増水は流域の都市開発のあおり

  かって広大な小石川大沼など湿地帯は神田山の掘削で排出した土砂で埋められ水戸の下屋敷、後楽園になり、江戸川流域は田畑が開発されたが日清、日露戦争の頃から住宅や工場が建てられている。   

 昔も浸水は無かったわけではないが、最近は大雨が続くと神田川周辺の住民は出水を心配する。其の時分は大雨の時でも降水の一部は田畑に浸透するなどして直接、川への影響はすくなかった。しかし、都市化とともに地表はセメント、アスファルトなどで被覆され、以前はしみ込だはずの水も地面を流れる。したがって昔と同じ川であっても出水は早くなり被害は大きくなるのである。
  江戸時代は治まっていた神田川の増水も都市開発のあおりを受けたものといわれ50ミリの雨が降るか降らぬで住民は不安にかられるのが現状である。 

舟で賑あう神楽河岸、「下りもの」を積んだ高瀬舟

  神田濠の掘削は、小石川、御茶ノ水、筋違橋、浅草橋を結び下町の商業地と直接山の手と水運で結び山の手の開発が大きく進んで行くことになった。神楽河岸にも江戸湊の鉄砲洲沖に停泊した全国の回船から荷を積み替えた高瀬舟が忙しく上がり下がりしていたたものと思う。

  江戸が急激に消費地として発達したため、江戸周辺に人口を賄うだけの産業が十分に育たず、したがって生活物資は上方(京都・大阪)から運ぶことを余儀なくされた。
 これらを「下りもの」といい「下り酒」「下り醤油」「下り油」「下り蝋燭」と江戸市民は高級品扱いした。江戸周辺で作られる粗悪な製品を「下らないもの」と区別したそうだ。

運河の役目を終え静かなたたずまいを見せる神田川

  1620年(元和6年)完成した神田濠は掘削工事を伊達政宗が中心になって進めことから仙台堀と呼ぶ事もある。JR総武線に乗ると飯田橋駅から隅田川を渡まで高架の車窓から神田川を俯瞰することができる。最近まで東京湾から飯田橋の都の清掃局まで汚穢船が上り、都民の終末を処理する有様が見られたが、下水道が完備した今はない。

  私が学生時分、半世紀前頃までは筏や、達磨船が上って来ることもあったが運河としての働きも終わったようだ。聖橋を川面に映し過去を忘れてしまったかのように、神田川は昔のよそおいを取り戻し流れている。
 ちなみに、神田川できりはなされた神田山の南側台地は駿府の家臣たちが移り住んだことから駿河台とよばれるようになった。明治大学、ニコライ堂のある辺りである。神田川をへだて反対側には、湯島の聖堂、東京医科歯科大学が建てられている。                    

外濠の風景も牛込橋に落ちる水音も江戸時代そのまま

 1590年(天正18年)から始まり徳川3代、半世紀にわたる江戸城と江戸の町の造成は1640年(寛永17年)で終わった。
  1635年(寛永12年)江戸城最後の工事、残された城を外周する外濠の掘削がはじまった。赤坂、四谷、市ケ谷を通り牛込で神田川に落とす外濠の延長工事と反対に四谷、赤坂から溜池、虎ノ門から三十間堀、八丁堀を結ぶものだった。
  もともと麹町から四谷、市ケ谷へ谷底の湧き水を集めて流れていた平川の支流を牛込見付で堰き止めたものだ。神田川を神楽河岸で堀留にする牛込見付の石垣はダムのように反対側で水位を高く上げ理科大前の外堀へと続いている。石垣は九段と神楽坂を結ぶ道路と、ダムとの二つの役目を果たして牛込橋の下で今でも外堀の水を滝のように神田川に落としている。

  営団地下鉄南北線が溜池から外濠に沿って飯田橋までのびている。地下鉄神楽坂駅周辺の地下鉄が川底か江戸城の濠の下を利用している。地上に建築物が無いからか、起伏の多い武蔵野台地を勾配を少なく走れるからであろう。           
 いずれにしろ、江戸城の遺構の地下に建設されたと考えると面白い。
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