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西村和夫の神楽坂

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2004/05/15

芸者の原型は吉原芸者

Tweet ThisSend to Facebook | by:埼玉支部
神楽坂界隈 連載(9)<2004/5/15>                        
   
  周辺の岡場所についての記述はかなり知られているが、神楽坂の色町の変遷の詳しい歴史を記した書物は少ない。
  それらの少ない資料をもとに時代とともに変わっていった色町を神楽坂を中心にて探って見よう。

吉原の遊びが江戸庶民のものに
      町人のニーズで岡場所の出現


  一晩に十両(約六十万円)、これが吉原ではごく普通の遊びだった。江戸時代初期、吉原の客は大名・旗本それに一部の金持ちの町人に限られていた。しかし、元禄に近づくと一般庶民が経済的に豊かになり、吉原のほか、江戸各所に庶民階級のニーズに応じた岡場所が現われるようになった。
  江戸の始めの、吉原の遊女は管弦から舞、和歌、俳句、書道、茶の湯、生け花、碁、双六までこなし、容姿抜群、どんな男の客にでも対応できる教養人であることが望まれた。ところが、時代がたつにつれ次第に歌舞音曲よりさきに美貌と性技が望まれるようになった。                  

  元禄時代(1688~1704)に近ずくと、吉原(遊廓)の遊女に三味線さえ満足に弾けぬ者が次第に増え、それに代わって三味線弾き専門の芸者を抱える店が出てきた。これを内芸者といって遊女と区別した。
  宝暦年間(1751~64)になると、歌舞音曲で酒席 を取り持つ芸専門の芸者が出てきた。始めは男芸者(幇間)と女芸者の二つがあったが男芸者は疎まれいつ間にか姿を消し女芸者が残った。      

現代に見る芸者の原型は吉原芸者
     町芸者の質素のみなりが「粋」だと江戸の通人から愛された


  日が落ちて夕闇が迫る頃、吉原の遊女屋の夜見世開きは、内芸者の弾く「すがかき」の三味線の音によって始まった。これを合図にお職(最高位の遊女)から、末の遊女まですべてが店の格子内に居並ぶ。お職は中央奥の上座に、以下格式応じて順に座ると奥の障子が開き主人の席に簾がおろされる。主人が鈴を振ると、これを合図に店の行灯に灯が入り客が大門をくぐり始めるのが仕来りだった。
 
 吉原の芸者には遊女屋に同居する内芸者と、ほかに検番を通す仲の町芸者の2種類があった。ところが芸者の中に密かに売春をする者があらわれ遊女の職を脅かすものがでてきた。そこで幕府は寛政年間(1789~1801)芸のみを売る芸者と遊女をはっきりと区別するようにした。そして、違反した者には廓内から追放するなど制裁を行なったため、芸者は歌舞音曲に専念するようになり吉原芸者の名を高めることになった。そして、吉原芸者だけが芸者と名乗ることを許された。 
 
 吉原芸者は特に権力を持ち、他の芸者と同席するときににはいつも上座に座り、他の芸者が客に酌をすることがあっても、三味線を弾くだけにとどまっていたという。
 深川、柳橋などで芸者の呼称は禁じられていたのでしょせん酌婦に過ぎず、そのうえ吉原芸者の形をすることかたく禁じられていた。町芸者は、白衿に裾模様、着物の変わり裏、平打の笄にいたるまですべて身につけることは出来なかった。       
  そこで、多くは唐桟仕立て(紺地に浅葱・赤などの色合を細い縦縞に配した綿織物、現在の桟留縞)を着ていた。これが逆に粋だと当時、江戸の通人から愛されていた。深川の芸者などは毎月1日「江戸行」といって吉原の会所に挨拶に行かなければならなかったという。これを破ると察当(サット)といって吉原から抗議を申し入れられた。

町芸者の起こり  
   橘町の踊り子は転び芸者の代名詞  しかし、庶民の三味線文化を育てる


 町芸者の起こりは定かではないが、元禄時代のすこし前から、江戸市中に踊りを看板にした踊り子が姿を現し始めた。宝暦(1751~1761)から明和(1764~72)にかけて柳橋に近い横山町、橘町辺り、江 戸の下町に踊り子と称する町芸者が評判になり、またたくまに江戸市中に広がっていった。      
 三味線に合わせて唄い踊る、いわゆる三味線文化は町人文化を広く育てていった。その中心的役割を果たしたのが踊り子たちであった。      
 幕府の日常化する権威、権力に反発出来ず、物見高い町人達のエネルギーが新しい遊び作り、三味線に合わして唄い踊るいささか下品な大衆を作り上げたのだろう。ある意味で現代日本の世相に似たところがある。
  その人気は「江戸評判記」を賑わせるにまでにいたった。市中では、廓内の芸者に対し踊り子を町芸者と呼ぶようになった。若い芸達者な娘たちが振り袖に帯を長く垂らし料理茶屋(料亭)、船宿のほか武家、町方の屋敷の宴席や遊山船行にまで随行して酒席を取り回し、唄と踊りで彩りを添えた。  

おどり子を五 六人前あつらえる

  しかし、ひそかに遊女と紛らわしい行為をするものが増え吉原や品川の遊廓から「生業の妨げ」と幕府に訴願が出るまでにいたった。橘町の踊り子は転び芸者の異名でもあった。                                      
  踊り子に踊れと留守居むりを言い  ころぶは上手~おどるはお下手   転びすぎましたと女医者に言い     
  幕府は捨ててもおかれず町芸者に禁令を出し吉原へ移住させられる者も出たが、町芸者は年々増える一方で衣裳も華美になっていった。そして、深川、橘町、両国、湯島、日本橋が岡場所として知られるようになった。                
  天明(1781~89)頃まで町芸者が座敷の往復に振袖を着たのは若い娘が多かった踊り子の名残であろうといわれている。振り袖に左褄を取る姿は町芸者の原型とも言われ、一般に踊り子の発祥地は橘町とされている。

踊り子に張り合った美人の茶屋娘

 これとはり合ったのが水茶屋の美人茶屋娘である。
もともと水茶屋とは散策とか寺社参りの折り、文字どうり休憩に立ち寄り茶を飲んだ場所だった。  
 もともと、江戸の茶屋の起源は関西から伝たわったものらしいが飲食と遊興をする場所か貸し座敷の総称ぐらいに考えておこう。茶屋にはいろいろあるが普通茶屋というと待合茶屋を指すようだ。単なる休憩所、水茶屋と区別している。
 水茶屋は行楽地や寺社の境内に多く、ふつう葦簀張りで囲い、縁台を置き茶汲女(茶屋娘)に茶を出させたが、いつか美人の茶屋娘を置いて客を呼んだ。茶屋娘を目当てに通う客もあり、しばしば近くの待合茶屋で売春も行なわれていた。
  待合茶屋は瀟洒な一軒家で単なる休憩所ではなく貸し座敷業をかね、簡単な飲食もでき芸者を呼んで遊ぶことも出来た。茶汲女の名目で女性を抱える店もあったようだ。

  水茶屋で娘の顔でくだす腹       さわらば落ちん風情にて茶屋はやり
  茶を五、六十杯飲んで手を握り    水茶屋でせい一ぱいが手をにぎり  

  江戸時代、寺社の境内や盛場に茶を飲ませる水茶屋(茶店)が繁盛した。水茶屋には赤前垂れで茶釜の脇に立つ美人の茶汲み娘がおかれた。「明和の三美人」「寛政の三美人」はいずれも茶屋娘から選ばれている。            
 「明和の三美人」の筆頭、谷中笠森稲荷の水茶屋鎰屋おせん(笠森おせん)が、明和5年鈴木春信の浮世絵に描かれると江戸中で大評判になり町芸者と茶屋娘をめぐって一大ブームを巻きおこすことになる。茶屋娘を目当てに茶屋の前を行き来するイキな黒ずくめの衣裳のファッショナブルな若者の姿が目立つようになったのもその一つだ。        
  翌明和6年(1769)はこれらの流行を受けて浮世 絵や7~8種の板本が飛ぶように売れるほど茶屋娘や町芸者が評判になった年であった。
      
  明和の茶屋娘おせんはもちろん、浅草楊子屋柳屋おふじ、芝高輪の甲州屋お松、鷺森(芝白金)の玉屋おまん、深川二間茶屋の伊勢屋お春の評判は平成の現代まで知られている。 
 日本橋文字久、橘町弁天おみつ、油町おとら、麻布おかねなど踊り子連中も茶屋娘と現代の週刊誌よろしく板本に紹介されたので、その評判はまたたく間に江戸市中に広がっていった。         
  
神楽坂の岡場所をシュミレイトする

  さて、岡場所をめぐる町芸者と茶屋娘の話を念頭におき「神楽坂の岡場所」を想像してみよう。
  神楽坂周辺の岡場所について詳しくしるした記録を見たことはないが、前にも述べたように深川八幡、根津権現、音羽護国寺など当時名の知れた寺社では門前に幕府は政策上岡場所つまり私娼窟を黙認して門前市をなす繁盛を見ていた。赤城神社、行元寺を始め神楽坂周辺の寺社門前のあるものには岡場所があったと考えるんが妥当である。
 
 それを裏付けるように、江戸名所図会の挿し絵からも市谷八幡宮境内の茶屋、芝居小屋、門前町、さらに濠端に並んだ葦簀ばりの水茶屋、赤城明神社境内の茶屋などから当時の寺社門前の賑わいを見ることができる。
 風来山人の「風流志道軒伝」宝暦十三年(1763)に市ケ谷の八幡前、赤城の私娼窟が上げられている。(牛込区史)
  昭和5年刊「牛込区史」区内の私娼窟(岡場所)として次のような記載がある。 
  江戸時代の私娼窟で、あまり顕著なものは区内にはないが、豊芥子の『岡場遊廓考』で見ると、赤城、行願寺、ぢく谷等の名があがっている。その内赤城には『晝夜四つ切、(一ト切チョンノマ一分)又好色ぢんこう記に十匁と記す……
          
  紫鹿子に此浄土風儀回向院前におなじ、髪の結よう、衣裳、武家をまなぶあまりさわきわならず』とあり、行願寺には『晝夜四ツニキル、一ト切七匁五分…… 
  瀬田問答に云、江戸神田の地に山猫とて隠売女を置候事、根津などはじめに候哉、何頃初り候哉。答、始まりはおとり子にて、橘町其外所々、牛込行願寺邊の方より事起り候哉に付、寺社境内にて猫の號を顕はし候者、元文の始より寛保年中へかけ、専おぼへ候と記せり……
  豊芥按、赤城行願寺共、山猫と云者此時両国回向院前土手側に妓あり、是を金猫と云、銀猫と称す。金一分と七匁五分の價なれば、斯云なるべし。当所者山の手にて、赤城者一歩、行願寺は七匁五分なり、故に山の手の猫と云事を略して山ネコト者いゝしならん……
 
 選怪興に云、山寐子、山の手には赤城、水邊にては両国回向院前にのみありしか、近頃は市ケ谷八幡の山へも出て會をなすよし』とある。市谷ぢく谷は市谷谷町の異名であるが、此処に関しては『世俗奇語云、此地松杉鬱蒼として晝くらし、雨天後路あしく、俗呼んでぢく谷と云。局長屋あり……
  選怪興に云、(安永四未年印本)五十象じくじく谷、(昔一ト切五十文、いま百文ト云々)畠(大こん畑ノ事)などに住、そゝり唄のツサという所に感じ姿をあらわし、己が穴に引きずり込む。彼元興寺の暮化(ほんくわ)の類なり』とある。
 
  岡場所でやや高級なもので金1分(1両の4分の1)を払うものを金猫といい銀2朱(7匁5分・1両の8分の1)のものは銀猫といった。市ケ谷の谷町は下等なものであり、中でも、畑の中、ぢく谷は最下等に属するものであったらしい。(約4,000文=1両)

  明治の始め地方藩の下級武士が急に政府の高官なり、芸者に威張り散らすので江戸芸者は

  「猫ぢや、猫ぢゃと、おっしゃいますが、  猫が下駄履いて、傘さして、
   絞りの浴衣で来るものか。   オッチョコチョイノ チョイ」

と唄って成り上がりの高官を揶揄した。

  猫とは芸者の異名で座る格好が猫に似ているとか、猫の皮をはった三味線を持っているからともいわれるが、もともとは京都の祇園社の裏山に住む芸子を山猫と呼んだ。僧侶がよく買ったからとも云われる。
(寺は〇〇山△△寺という)
  芸者でありながら客の求めに応じて売春するものを山猫と言い売春芸者の異名である。芸者買いと言うと売春と誤解されるもとになった。関西では茶屋遊びという。

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