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物理学校意外史

物理学校意外史 >> 記事詳細

2005/08/01

舞い込んだ同窓からの手紙

Tweet ThisSend to Facebook | by:埼玉支部
連載(12)<2005/8/1>
                                                         
神楽坂校舎の建設
        舞い込んだ同窓からの一通の手紙

        
  明治33年9月同窓会の役員のもとに1通の手紙が届いた。差し出し人はその年の5月、同窓会の定期総会に出席した京都の幹事で、手紙の文面は「世間の評判で学校の生徒数が年々増加しているのは同窓として喜ばしい。しかし学校の建物は昔のまま、生徒は狭い教室にすし詰めの状態で勉強している。建物も10年以上もほとんど手入れもされず、卒業生として母校の見苦しい姿を見るに忍びなかった。この際思い切って校舎を改築したらどんなものだろう。校舎の新築費用は全国の卒業生から集めたらよい」というものだった。

 当時の小川町校舎は明治22年東京法学校(現法政大学)の建物を半分だけ買収したもので後に物理実験室、書記官舎を建てましたものの校舎は明治10年代初期に建てられた勧工場そのままで窓の少ないレンガ建ての暗いものだった。自前の校舎で自力で何とか経営が出来るようになった母校だったが、実験室も不完全であり、経済的にも設備の改善まで手が回らないのが実情だった。
 明治25年の記録によると教場面積は合計105.5坪とある。その後28年に物理実験室を増築したぐらいで、39年神楽坂に移るまで校舎は殆ど手入がされない有様だった。ここに常時300~400名、多いときには500名の生徒を収容していたのである。

  明治22年から母校の数学の教師を勤めた野口保興は大正14年の財団法人東京物理学校成立10周年祝賀会で当時の模様を「小川町ノ校舎如キ婉然勧工場ノ感アリテ教場ノ傍ニ便所ガアツテ講義スルトキナド随分臭イ思ヒヲナシマシタ」と見る影もない校舎の有様を回顧している。
 同時代、小川町1番地、物理学校の近隣にあった明治法律学校(現明治大学)は600坪、英吉利法律学校(現中央大学)は800坪の敷地を有しそれぞれ卒業生から寄付を募り、新校舎を建設して明治36年に公布を予定される専門学校令にあわせ着々と準備を備えていた。     

 当時の神田地区の地図を広げると明治、中央、専修の各大学は記載されているが物理学校が載せられているものは少ない。それだけ母校は小さく目立つ存在でなかったことがうかがえる。今この界隈を歩くと、多くの学校の発祥地を示す記念碑が建てられているが母校の痕跡を伝えるものは何もない。漱石の「坊ちゃん」を知らない日本人はいない。だから「坊ちゃんが物理学校の生徒募集広告を見たところ」と言うようなユーモア溢れる案内板ぐらい建てられてもよいと思う。
 多くの同窓の中から校舎の増築をしたらどうかと言う意見は何回となく学校の直接経営にあたる維持員に寄せられたが、母校の敷地は狭く、それに資金の目途も立たず、なかなか話しがまとまらぬうちに時間だけが経過していた。
 
学歴社会形成期の物理学校のジレンマ
 
  教員検定試験という国家試験に合格して卒業生の大半を中等学校教師として社会に送ってきた母校にとって「専門学校令」はこれから迎えようとする学歴社会に学校がどう対処するか大きな意味を持っていた。それまでの物理学校の卒業生は教員検定試験に合格するという大きな目標があり、ともすれば学校は国家試験の予備校的存在だった。だが、これからの社会は実力だけでは渡れないという危機感が学校にも卒業生にも醸し出されていた。
  明治の後期は「学歴社会」の形成期であった。「専門学校令」の公布で専門学校を帝国大学に次ぐ高等教育機関と位置づけて、政府の方針で専門学校の卒業生を帝国大学卒に続くエリートとして誕生させた。早稲田、慶応はいうに及ばず近隣の明治、中央など多くの私立学校は教育内容を整備して専門学校として新しい制度の高等教育機関へと組織替えをしていった。何はともあれ「専門学校」の魅力は徴兵猶予の特典と、教員試験の無試験検定の特典が与えられることであった。
  それまで理数科の世界では物理学校卒の実力は学校としては「予備校」「各種学校」的存在にもかかわらず東大に次ぐ理数科系のエリートを輩出する学校として世間から認められていた。教師も生徒も学校そのものの存在に関心を持たないのを母校の特質だとしてきた。
  だが、難関な教員検定という国家試験を突破して多くの中等教員になった物理学校の卒業生が、中学校で将来帝国大学、専門学校卒の学歴社会に羽ばたく幹部候補生を教えるという面白い現象が起きていることに気づいていた。卒業生にはかっての士官学校で士官候補生が叩き上げの下士官に教育されるのに似た矛盾を感じ始めていた。
 
物理学校卒「坊っちゃん」の学歴の社会的評価
 
  明治36年に専門学校として発足したのは主に法文経医の分野だけで、理工科のエリートは社会からの要望は少なく、設備に金がかかることもあって私学の設立は無かった。その頃の産業界はまだ建築は曲尺1本、工場の技術者は徒弟制度で十分間にあい、学歴は無くても実力と技術がものを言った時代であった。
 しかし教育界の前線にいる卒業生は教育情勢の変化を敏感に読み取っていた。物理学校が専門学校にならなければ、いくら実力を誇る母校でも世間から高等教育機関と認められなくなる。「予備校」か「各種学校」になってしまう時代が必ず到来すると予見していた。そのためには校舎の整備が急務だった。

  小説『坊っちゃん』は明治後期確立しつつあった「学歴社会」の実態を的確に捉えている。赤シャツの言う社会の上流だった四国の教員を辞め東京に戻り街鉄の技手に転職した坊ちゃんを実力はあっても学歴としては覚束ない物理学校卒としてよく捉えている。技手(ぎて)といえば技師の指示で仕事をする現場の職工の頭位に考えてよい。当時としたら別に落第を気にして物理学校を出なくても出来た職業であった。

  権威の上にあぐらをかく教授連に入試の採点委員を任命された漱石は採点委員を拒否、東大講師を辞任して小説家の道を選んだ。校長の狸と教頭の赤シャツに辞表をを叩きつけ街鉄の技手になった坊ちゃんは小説の最後は「清」と静かに暮らすが当時の社会現象をリアルに描いていると読めば一層興味が出てくる。漱石は小説の中で坊っちゃんを一度も物理学校を落第させずにストレートで卒業させ秀才にしているのも面白い。ちなみに漱石も東大を一番首席で卒業している。
 
先生も生徒も勉強以外のことは余り気にしなかった
         校歌や校章が決まったのは昭和になってから
 

 明治22年に発足した東京物理学校同窓会は母校の創立者を名誉会員に、卒業生を正会員とし名誉会員から会長を選んだ。同窓会は発足当時から東京物理学校雑誌の定期刊行、運動会の開催、攻学会など同窓の勉強会の開催、報徳会を作り実験室への実験機材の寄付等を行うなど母校と表裏一体の親密関係を保ち学校の発展を支えてきた。維持員を中心に教員、卒業生が家族のように一体になって学校運営に協力していたのも母校の特色であった。
 しかし、それまで余り気にせず10年以上も手をつけてこなかった校舎の改築問題が切実な問題として目の前に迫まってきたのだった。社会情勢に疎く優秀な卒業生を出しさえすれば建物など二の次だという物理学校独特の思想が教師と生徒に根強かったことは否めない。

  もともと母校は教師も生徒も勉強以外のことは無頓着であった。小川町校舎もそうだが母校は60年も長い間校歌も校章などはなかった。そんなものはいらないと言えばそれまでだが制服制帽もなかった。制服制帽が決められたのは昭和13年のことである。それまで洋服屋が困って物理の字を図案化して校章とボタンを作り学生帽と学生服につけたという話が残っている。学校のシンボル校章、制服が制定されたのは昭和13年(1938)、校歌が出来たのは昭和15年(1940)、学校が還暦を迎える時代になってからのことである。

 10年応用理化学科(応用物理学科、応用科学科)の設立が認可され、昭和12年鉄筋4階の新校舎(1号館)が落成すると学校の体質が大きく2部から1部、つまり昼間の理科系の専門学校主体に変わったので、新入生は新しく制服、制帽を着用することになった。戦争が苛烈になるにつれて2部の時代に無かった靖国神社の参拝、勤労奉仕、行軍、軍事教練などで昼間、学生が団体で校外おいて活動する機会が増え、対外的にも校旗、校歌の必要性に迫られたのであろう。

卒業生一人給料の2ヶ月分を醵金
          同窓会の寄付で学校の改築問題が一挙に解決

 
 専門学校になるためには今の校舎のままではどうしようもない。取り敢えず増築でもと言う意見があったが敷地と資金で行き詰まっていたところ、卒業生の寄付の話は校舎の改築に消極的だった維持会を動かし一挙に解決することになった。
 京都の幹事から寄せられて手紙は東京の同窓会員の中からも多くの賛同者が出て、明治34年に入ると同窓会有志で寄付金の募集が始められた。だが、募金の趣意書が全国の同窓に配布されると想像にも及ばぬ事態が起こった。
  卒業生5百余名の内279名から総額2万円を超える申し込みがあり1万6351円(預金利子を含む)の現金が学校に寄せられた。醵金したものは卒業生の50パーセントにあたり、1人当たり平均60円の寄付をしたことになる。当時の給与ベースから考えると2ヶ月の給料を醵金したことになる。
  このことは校舎の改築に消極的だった維持員13名からも3900円の拠出があり、寄付金の合計は2万251円に達した。創立20年、卒業生も500人足らずの学校としたら快挙の出来事であった。

  ただちに牛込区神楽町2丁目24番地に394坪(1304㎡)の土地を購入、明治39年2月から7月末までの工事で2階建て木造226坪(747㎡)の校舎の完成を見た。記録に敷地、建物、設備器具全て合わせて3万8192円16銭とある。実に校舎新築の半分以上の金額が同窓の寄付金で集められたのである。
 明治39年(1906)9月29日校舎落成の記念式典をかね創立満25年の式典を行った。母校は平成18年度(2006)125周年を迎えるが神楽坂に移って100年になることになる。
  北原白秋の『物理学校裏』はこの建物を詠んだものである。昭和11年の改築で校舎が4階鉄筋コンクリート建て(旧1号館)になるにあたって取り壊されるまで中央線の車窓から白亜の洋館が望見された。この建物で学んだ同窓の二村氏の好意で東京理科大学近代資料館として復元されている。復元にあたっては設計図など当時の詳しい資料は皆無で、唯一残された写真をたよりに手探りで建てられたという。
 
明治39年の神楽坂界隈
        
  明治38年つまり物理学校が神楽坂に移転する前の年、東京電気鉄道外濠線が開通、牛込見附停留所が開設された。すでに甲武鉄道(現JR中央線)牛込停車場が開業しており、神楽坂校舎は市内でも特に交通の便利なところに移ることが出来た。明治36年路面電車、東京電車鉄道株式会社(東鉄線)が品川―新橋間に始めて開通、数年足らずして東京市街鉄道(街鉄)、東京電機鉄道が開業して市内に路面電車網ができあがり、飯田橋は電車の乗換駅として賑った。ちなみに明治44年3社は東京市に買収され東京市電が誕生することになる。
 当時甲武鉄道の牛込停車場(現JR飯田橋駅)は警察病院のあたり外濠の石垣の下にあった。現在のボート小屋あたりから早稲田通りの下を平行に細い道が停車場に続いていた。春は花の名所として花見客で込み合っていた。白秋は停車場の情景を『物理学校裏』で次のように書いている。
 
―― 汽笛が鳴る。四谷を出た汽車のCadence(カダンス)が近づく ――
   ―― 汽笛が鳴る・・・・濠端の淡(うす)い銀と紫との空に
      停車(とま)つた汽車が蒼みがかった白い湯気を吐いている。
       静かな三分間。 ――

 明治37年に飯田町(現在の飯田橋駅ではなく、ホテル・エドモンドの辺りに甲武鉄道の起点飯田町駅があった)-中野間に日本で初めての電車が走るが、遠く甲州からの列車はまだ蒸気機関車が牽引していたのだろう。
 
町中を歩く艶やかな座敷着姿の芸者は神楽坂の風物詩
 
  明治39年、母校が移転をした当時の神楽坂を探ってみよう。江戸時代は無骨な武家屋敷と寺町だった神楽坂は日清、日露の戦争が終わる頃には銀座、浅草に次ぐ東京の繁華街として名を連ねていた。
 神楽坂と聞くと誰でも真っ先に華やいだ花柳界が頭に浮ぶ。日清、日露両戦争の好況で神楽坂は柳橋、芳町、烏森に次ぐ三業地として全国にその名を知られるようになっていた。東京理科大学森戸記念館のあたりは最も華やいだところだった。夜の帷が降りると路地の各所から新内流しの三味線の音色、声色やの呼び声が何重にも重なり合って遠く近く響いた。

  神楽坂の夜店歴史は明治20年と東京で一番古い。寅の日は寅毘沙といって露店が神楽坂から牛込見付を越えて濠端間まで並んだ。毘沙門天の植木市は「江戸名所図会」にも描かれているように徳川の末期から全国に知られていた。
  日が落ちると料亭や待合に通う艶かしい座敷着に着飾った艶やかな芸者衆が打ち水をされた石畳の上に駒下駄の音を響かせて黒塀の間を横町から露地へと繰り出した。寅毘沙の晩の神楽坂は人出で埋まり坂の上下には「車馬止」の提灯が下げられた。座敷儀の芸者が夜店の雑踏に揉みくちゃにされるのも神楽坂の風物詩として新聞や雑誌に取り上げられた。  
  この人出を相手に源氏節、講談、浪速節、女義太夫、色物を演じる寄席も賑ぎわっていた。毘沙門天の境内には大蛇の見世物、覗きからくりの香具師が大声を張り上げ、屋台の鮨屋、おでんや、牛鍋や、大福餅、しるこや、飲み屋が夜遅くまで客を待っていた。

  芸者に払う料金つまり玉代は大体2時間と決められているから、8時を過ぎると次のお座敷移る芸者衆の大移動がおこる。神楽坂に朝夕のラッシュのように何百の芸者が一斉に繰り出し神楽坂雑踏の中を縫って歩く。これが終わる頃神楽坂の表の夜は終了する。客と芸者のひめごとはここから始まった。
 江戸の川柳に「三度目は面白い地へ御鎮座」というのがある。安土桃山時代、文禄4年(1595)麹町に創建した毘沙門天は移転を繰り返し3度目に現在の地に移ったという。神楽坂を面白い地と言っているが、物理学校ならさしずめ「六度目は面白い地へ御鎮座」と言うところだろう。
 
明治39年は『坊ちゃん』が世に出た年
    
 神楽坂校舎建築のまっ最中、明治39年4月、『猫10回』と一緒に『坊ちゃん』が雑誌「ホトトギス」4月号に発表された。当時漱石は本郷区(現文京区)駒込千駄木町に住み37年秋から週一度明治大学で講義をしていたから小川町の東京物理学校の前を通ったと想像することができる。明治40年の地図によると明治大学は神田南甲賀町にあり母校とは目と鼻の距離にあった。
  明治41年10月末、白秋が牛込北山伏町から物理学校裏の崖の上の借家に移転していている。石川啄木の日記によると29日、白秋の転居通知を受け取った『明星』以来の親友啄木はその日の午後白秋宅を訪れている。
   「・・・北原君の新居を訪ふ。吉井君が先に行つてゐた。二階の書斎の前
   に物理学校の白い建物。瓦斯がついて窓といふ窓が蒼白い。それはそれ
   は気持のよい色だ。そして物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞
   える。・・・」
まだ照明が瓦斯灯だった物理学校の窓の奥までよく見ている。
 白秋も『物理学校裏』で啄木と同様に母校の情景を書いている。啄木が物理学校の校舎を「それはそれは気持のよい色だ」としているが、白秋は「肺病院のやうな東京物理学校の淡い(うすい)青白色の壁にいつしかあるかなきかの月光がしたたる」と書いているのが面白い。
 
―― 蒼白い白熱瓦斯の情調(ムード)が曇硝子を透して流れる。
     角窓のそのひとつの内部に
     光のない青いメタンの焔が燃えてるらしい。
     肺病院のやうな東京物理学校の淡い青灰色の壁に
     いつしかあるかなきかの月光がしたたる ――
    
―― 静かな悩ましい晩、
     何処かにお稽古の琴の音がきこえて、
     崖下の小さい平屋の亜鉛屋根(とたんやね)に
     コルタアが青く光り、
     柔らかい草いきれの底にLampの黄色い赤みが点る(ともる)。
     その上の、見よ、すこしばかりの空地には
     湿った胡瓜と茄子の鄙びた新しい臭が
   惶ただしい(あわただしい)市街生活の哀愁に縺れる・・・・ ――
    
  白秋の住んでいた家は明治36年3月に新築された2階屋で、泉鏡花が蔦永楽の芸者桃太郎(本名伊藤すず)と所帯を持ったところだ。蔦永楽は森戸記念館横を道なりに石段を軽子坂に下る途中の左側路地の奥にあった。
  鏡花と桃太郎の情事を今更語ることもないが、鏡花が師匠酒井俊蔵先生こと尾崎紅葉をモデルにしたと言われる『婦系図』に詳細に書かれている。明治40年「やまと新聞」に連載された『婦系図』は翌年の9月新富座で上演され喜多村録郎の当たり役になった。
  原作には無いが初演にあたって喜多村録郎が筋立てして紅葉の門下柳川春葉が台本を書き演出効果をあげるため清元の「忍逢春雪解(しのびあうはるのゆきどけ)」を使って、新派十八番『婦系図』の名場面「湯島境内別離の場」を作り上げた。
 
 ―― 切れるの、別れるのというのはね、芸者の時に言うものよ。今のあたしには、
 はっきり死ねと言って下さい。――
 
の名科白はいまの若い人には理解できぬことだが、鏡花自身の体験に基づいているものである。紅葉門下硯友会の連中が事あるごとに料亭吉熊でたびたび会合を開いた。お互いに宴会の末席に坐ったまだ無名の文士と売れない芸者との出会いはロマンスを生んだ。

 明治36年4月14日の紅葉の日記に
「・・・・夜風葉(小栗風葉)を招き・・・・相率で鏡花を訪う。?妓を家に入れしを知り、異見の為に趣く。彼秘して実を吐かず。怒り帰る。十時風葉又来る。右の件に付再人を遣って、鏡花兄弟を枕頭に招き折檻す。十二時頃放ち還す。疲労甚しく怒罵の元気薄し。」同じく16日には「夜鏡花くる。相率いて其家に到り、明日家を去るといえる桃太郎に会い、小使十円を遣す。」
とある。芝居では
「是も非も無い。さあ、たとえ俺が無理でも構わん、無常でも差支えん、婦(おんな)が怨んでも、泣いても可い。憧(こが)れ死んでも可い。先生の命令(いいつけ)だ、切れっ了(ちま)え。俺を棄てる歟、婦を棄てる歟。むゝ、此の他に文句はないのよ。」
 となるが『婦系図』の酒井の言葉に早瀬は「婦を捨てます。先生。」と言わざるをえなかった。まさに酒井の言葉は紅葉の言葉だった。

  もと隼(はやぶさ)の力といった早瀬主悦は、酒井俊蔵に諌められ改心して勉学に勤しみ、ひとかどのドイツ文学者になった。早瀬にとって酒井は大恩人である。鏡花にとっても紅葉は大恩人であった。まさに酒井の科白は紅葉の言葉と見てよい。神楽坂校舎のできる3年前、東京物理学校裏の崖上の借家で起きた物語である。
 「お蔦は湯から帰ってきた。艶やかな濡髪に、梅香の匂馥郁として、繻子の襟の烏羽玉にも、香や隠るヽ路地の宵。」昼下がり湯から路地づたいに帰る濡れ髪姿の桃太郎をいとしむように二階の窓から眺めている鏡花の姿が目に浮ぶ。場所から恐らく熱海湯と考えられる。地元の人はこの路地を鏡花横町と呼んでいる。
  紅葉は明治36年の秋『もるひねの量ませ月の今宵也』その秋も深まって『死なば秋露の干ぬ間ぞおもしろき』の辞世を残し死んだ。
  数学、物理という堅い物理学校には縁の無い話ようだが、そのど真ん中に突如として物理学校が降り立ったのである。東京理科大学125周年の神楽坂校舎の再構築計画で鏡花と白秋の住んだ借家も路地も大学の敷地内になるようだが文学碑でも建てたいところだ。
 
一里は神楽に明けて神楽坂、玉も甍も朝霞。
江戸川近き春の水、山吹の里遠からず、筑土の松に藤咲けば・・・・
船は首尾よく揚場から、霧の明かり道行きの・・・・
色に露添う御縁日、毘沙門様は守り神。
                   
  神楽坂周辺の地名を織り込んだ鏡花の詩は「神楽坂をどり」として長唄に作曲され今でも時たまお座敷で美技によって舞われる。
  大正6年3月26日東京物理学校は専門学校令による学校として設置が認可され、待望の中等教員無試験検定の資格と、徴兵猶予の特典を得ることになった。これには経済的問題などいくつものハードルを越えなくてはならなかった。神楽坂校舎の完成してから10年後のことであった。



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