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西村和夫の神楽坂

西村和夫の神楽坂 >> 記事詳細

2004/09/15

神楽坂雑感

Tweet ThisSend to Facebook | by:埼玉支部
神楽坂界隈 連載(17)最終回 <2004/9/15>

  1月から16回にわたり理窓会埼玉支部のご好意で「神楽坂界隈」の連載をしておりましたがこのあたりで一区切りをつけ終了させていただきます。長期間のご愛顧ありがとうございました。
  江戸時代から太平洋戦争まで、特に明治、大正のもっとも華やいだ神楽坂を中心にまとめましたので、戦後の復興、現代、再開発の課題など、現在神楽坂が抱える苦悩、問題点には触れませんでした。
  これらについては、改めて項を興して再度お目にかかりたいと存じます。
 
神楽坂雑感 
     文学作品にも数多く登場した神楽坂   いまだに残る花街の雰囲気

 
  江戸時代、無骨一遍だった武家屋敷の町が明治改元から粋な芸者衆が行きかう町に変わった。そして毘沙門天の夜店の賑わいは神楽坂を東京で三指にまで数えられる有名な繁華街に育てた。明治には金色夜叉の尾崎紅葉、婦系図の泉鏡花を初めおおくの文豪を生み、大正の初め島村抱月と松井須磨子が日本に新劇の分野を切り開いた芸術座が創設されたのも横寺町だった。
 
  関東大震災でも無傷だった神楽坂には銀座で焼失した三越をはじめ多くの有名店が仮店舗を出店、あたかも山の手に銀座が出現したかのように思われた。通寺町のコロンバンは久米正雄、広津和郎、宇野浩二、など作家のたまり場になっていた。震災後はじめて牛込会館で公演された水谷八重子の「ドモ又の死」[大尉の娘]には東京中から多く観客を集め、その列は電車通りまであふれた。神楽坂にとって最も華やいだ時代だった。やがて東京の街が復興すると、津波が引くように全て銀座に戻ってしまった。

  昭和の初めには中央線、山手線が全線開通、東横を始め小田急、京王、帝都(井の頭線)など郊外電車が市外に延びるのに従い、東京の人口は市外に移り、そのターミナルステーションとなった渋谷、新宿が神楽坂を抜き急激に繁華街として頭を持ち上げてきた。それまでの渋谷、新宿は神楽坂から見れば宿場町ぐらいにしか見えぬ田舎町だったのである。
  昭和になると花柳街も異変がおきた。銀座を始め東京の各所にカフエーと女給、ダンスホールとダンサーが出現して、その存在を脅かすまでに至った。芸者の数600を誇った神楽坂も多数が仕事が失う有様で、表面は華やかでも内は火の車、驚くべき安値を強いられるに至った。蓄音機1台と板張のバラックがあれば開業できるカフエーとダンスホールは花柳街にとっては強敵であった。客が芸者をともなってカフエーやダンスホールに現れることもめずらしくなかった。この時代から芸者の素養にダンスが加わり、駒下駄が草履に変わるなど花柳街に大きな影響力を及ぼした。
 
 昭和4年、東京にダンスホールが認可されるとすぐに揚場町に新橋、銀座、京橋に並んで開業している。しかし2年ほどで神田に移転するが,同じ年、逆に新宿では日本橋から移転している。山の手銀座を誇った神楽坂はその地位を次第に新宿に明け渡すことになった。 
  西條八十は昭和4年にビクターから発売した「東京行進曲」で銀座に、
         昔恋しい 銀座の柳
         仇な年増を 誰が知ろ
         ジャズでをどって リキュルで更けて
         あけりゃ ダンサアの なみだあめ
カフエーとダンスホールを読み込んでいる。
 だが、昭和5年同氏の「新東京行進曲」では神楽坂が登場するが
         名さへ賑はし あの神楽坂
         こよひ寅毘沙 人の波
         可愛い雛妓(おしやく)と 袖すり交しや  
         買った植木の 花が散る
と昔と変わらぬ夜店と芸者の世界であった。神楽坂には当時、時代の先端を行くカフエー、ダンスホールは似合わなかったのである。
 
  新橋,葭町、柳橋、と並んだ神楽坂の花柳街も、女給、ダンサーという新たに生まれた職業婦人と浜口内閣の高圧的緊縮政策で社会から次第に見放されてゆく運命をたどる事になる。
 大宅壮一は昭和3年の文芸倶楽部で「神楽坂は全く震災で生き残った老人のような感じである。銀座のジャズ的近代性も無ければ新宿の粗野な新興性もない」と批評し「あの相当長い道りにカフエーらしいカフエーが一軒も無い」と書いている。昭和の初めといえば、新橋や銀座の東京の繁華街ではカフェー、女給、ビヤホールの大流行の時代であった。  
  神楽坂を東京で知られた繁華街にした花柳街と芸者はもはや時代遅れになり、町全体を非近代的な雰囲気に包んでしまったのである。当時の世相を代表する西條八十の流行歌「東京行進曲」で銀座、浅草、丸の内そして新宿の中からも外されてしまった。皮肉なことに八十は牛込生まれ、そして神楽坂を大の贔屓にしていた。
 やがて神楽坂の風物詩だった芸者の姿が早稲田,法政の学生の姿に変わりどの喫茶店、麻雀店、飲み屋、撞球場、寄席のすべてが学生に占領されるようになった。6大学で早稲田が優勝すると神楽坂は早稲田の学生が渦巻いた。やがて日本は暗い戦争に突入していくわけだが、神楽坂が学生の町だった時代については改めて触れたい。
 
 昭和18年3月5日(1943) 警視庁が高級料理店(精養軒,錦水等850店)待合・芸妓屋
                (4300店・ 芸妓8900人)バー・酒店(2000店)を閉鎖。(朝日新聞)
 昭和23年7月10日(1948) 風俗営業取締法交付、待合が対象営業に指定される。
 昭和33年4月1日(1958)売春防止法施行(全国約3万9000軒・従業婦12万人消える。(官報)

  戦後、目覚しい日本の復興と共に金偏、糸偏ブームで花柳界は息を吹き返し、政界、財界の社交場として再開、毎夜黒塗りのハイヤーが神楽坂を夜遅くまで行き交った。
  昭和27年、神楽坂贔屓の八十は神楽坂はん子を歌手としてデビューさせて[こんな私じや なかったに]を唄わし、さらに〈 私のリードで 島田もゆれる 〉芸者ワルツの大ヒットで神楽坂を全国的なものにまでした。

町とは一体何だろう。中華街を歩く    
                高層ビル街に無い魅力に人が集まる

    
  9月初め、みなとみらい線が開通して私は中華街を訪れた。街は何時もどおりに込み合っていた。久しぶりに20年来懇意にしている喫茶店に寄ってみた。
 「何時も繁盛で」と声をかけると「人通りばかりですよ」と意外な返事が戻ってきた。店のオーナーの話だと昔は中華街の客と言えば街のどこかで食事をして帰ったものだが、今は見物するだけで素道りするだけの客が多くなったという。そういえば特大の中華饅頭を齧りながら歩く若者の姿が確かに増えている。

 「みんなお金が無いんですね。うちも税務署が調査に来てよく商売が続けられると気の毒がられます。土地、建物が自分のもので、細々と身内でやっているのでもっているようなものです。家賃を払って従業員を雇ったら1日ももちませんよ。」中華街にも廃業、転業する店が目立つようになったという。景気は上向きと言われるが世間では厳しい不況の風はまだ収まってはいない。
 卍と竜で飾られた中国風の豪奢なレストランの隣に中華饅頭を蒸し通行人呼びかける店、中国服を飾る洋品店、中国料理の素材を扱う食料品店が並ぶ街中に人が多いというより群集である。レストランで豪華な円卓を囲む人も、豚饅を食べながら歩く若者もそれなりに中華街を楽しんでいるのである。
 「うちも不景気で客の数が減り、収入も減っているが、客の入りに合わせて生活に工夫をすればまだまだ営業を続けられる。お客といっしょに考えたい。」と語る喫茶店のオーナーの顔には中華街で商売をする誇りと根強さが感じられた。
  この現象は中華街だけに限ったことではないらしい。都内に再開発される高層ビル街でも同じ現象が起きているらしい。展望台に弁当持ちの見学者が増えていると言う話しを聞いた。

昔の馴染みに惹かれて神楽坂の路地を行く

  これらの話はかなりの点で神楽坂に当てはまる。
  20年ほど昔の話である。今から考えれば嘘みたいな時代で、都心の地価は地上げによるうなぎ登り、株は何を買おうが儲かった。何箇所もゴルフの会員権を持ち、本業そっちのけで狸の皮算用で日を明け暮らす人間もでてきた。確かに日本中何処もかしこも景気が好かった。仕事が終わると「一寸やりますか」と言った調子で行きつけのスナックによったものだった。誰でも3~4軒の馴染みの店があり行き先には事欠かなかった。
 
  私にも毘沙門天の裏に心安い行きつけの店が1軒あった。誰かに1度つれて来られたのが縁となって、神楽坂に来れば帰りには必ずといってよいほど寄ったものだった。ママはもと、神楽坂の料亭で仲居をしていたとかで、その時代からのお馴染みさんも多いらしく、店は何時行ってもこんでいた。手伝いも置かずに一人で切り盛りしていた。
  店と言ってもしもた屋を改造したらしく玄関の格子戸を開けるとすぐ5~6人腰掛けられるカウンターがある程度で、何の飾り気も無いだけに値段も気にしないで飲むことができた。当時は神楽坂を1歩横町に入ると暗がりの中にこういう飲み屋が流行り、店には夜遅くまでスーツ姿の男性の姿が目立った。
 
  景気の好かったのは2年程で、バブルがはじけるとすぐ店を閉めることになった。店に特に親しかった者の話しでは「売り上げが激減して家賃が払えなくなってしまった」からだそうだ。収入が減っても家が自分のものなら、お馴染みさんも多いことだし女1人生活するくらいどうにでもなると嘆いていたと言う。消えたのは行きつけの飲み屋だけでなかった。あまり縁はなかったが紅灯の明かりも次々に消えていった。
  神楽坂を裏通りに入るとこんな店はどこにでもあった。店は廃業しても不思議なことに家並みだけは昔をとどめている。今でもたまに神楽坂に来ると「この辺だったかな」と昔の記憶をたよりに横町を曲がってみることがある。いつまでたっても神楽坂を知っているものは誰でも郷愁を感じる不思議な町である。
 
散歩するだけでぬくもりを感じる不思議な町
 
  最近、東京の街を紹介する刊行物を広げて神楽坂の文字を見ることは少なくなった。以前なら浅草、銀座、渋谷、新宿、に並んで神楽坂が紹介されていたものだ。
  今の神楽坂は繁華街としては渋谷、新宿などと比べて比較にならぬほど町は小さい。大きな劇場も無ければ、若者のファッションを生み出すような店も場所も無いに等しい。デパートも無い。昔、華やいだ花柳街も全くといっていいほど活気が無い。見るべきものが無いということらしい。山の手の七福神毘沙門天が祀られる善国寺にも浅草寺の雷おこし、水天宮の人形焼といった土産物も見当たらない。つまり日本の何処にでもある平凡な町ということだ。
  新しく作られた六本木ヒルズ,汐留ビルなどモダンな町作りに比べれば、いわば都心に残された田舎町なのである。だが、人どおりだけは何処にも負けない。                 
  買い物をするなら新宿や銀座に出た方が店も商品が揃っている。しかし、それにもかかわらず神楽坂を散歩する人が以前と変わらず多いのだ。つまり歩いているだけで人間のぬくもりが伝わるのを肌で感じられる町だからである。私が今は無い古い飲み屋に惹かれるように、ここを訪れる人は長い時間をかけ気の遠くなるような時間の中で育んできた石畳の露地や横町、そして家並みに郷愁を感じるのである。
                                                   (最終回)

神楽坂界隈 連載(17)最終回に当たり 

  1月から17回にわたり理窓会埼玉支部のご好意で「神楽坂界隈」の連載をしておりましたがこのあたりで一区切りをつけ終了させていただきます。長期間のご愛顧ありがとうございました。
  江戸時代から太平洋戦争まで、特に明治、大正のもっとも華やいだ神楽坂を中心にまとめましたので、戦後の復興、現代、再開発の課題など、現在神楽坂が抱える苦悩、問題点には触れませんでした。
  これらについては、改めて項を興して再度お目にかかりたいと存じます。
 
神楽坂雑感 
     文学作品にも数多く登場した神楽坂   いまだに残る花街の雰囲気

 
  江戸時代、無骨一遍だった武家屋敷の町が明治改元から粋な芸者衆が行きかう町に変わった。そして毘沙門天の夜店の賑わいは神楽坂を東京で三指にまで数えられる有名な繁華街に育てた。明治には金色夜叉の尾崎紅葉、婦系図の泉鏡花を初めおおくの文豪を生み、大正の初め島村抱月と松井須磨子が日本に新劇の分野を切り開いた芸術座が創設されたのも横寺町だった。
 
  関東大震災でも無傷だった神楽坂には銀座で焼失した三越をはじめ多くの有名店が仮店舗を出店、あたかも山の手に銀座が出現したかのように思われた。通寺町のコロンバンは久米正雄、広津和郎、宇野浩二、など作家のたまり場になっていた。震災後はじめて牛込会館で公演された水谷八重子の「ドモ又の死」[大尉の娘]には東京中から多く観客を集め、その列は電車通りまであふれた。神楽坂にとって最も華やいだ時代だった。やがて東京の街が復興すると、津波が引くように全て銀座に戻ってしまった。

  昭和の初めには中央線、山手線が全線開通、東横を始め小田急、京王、帝都(井の頭線)など郊外電車が市外に延びるのに従い、東京の人口は市外に移り、そのターミナルステーションとなった渋谷、新宿が神楽坂を抜き急激に繁華街として頭を持ち上げてきた。それまでの渋谷、新宿は神楽坂から見れば宿場町ぐらいにしか見えぬ田舎町だったのである。
  昭和になると花柳街も異変がおきた。銀座を始め東京の各所にカフエーと女給、ダンスホールとダンサーが出現して、その存在を脅かすまでに至った。芸者の数600を誇った神楽坂も多数が仕事が失う有様で、表面は華やかでも内は火の車、驚くべき安値を強いられるに至った。蓄音機1台と板張のバラックがあれば開業できるカフエーとダンスホールは花柳街にとっては強敵であった。客が芸者をともなってカフエーやダンスホールに現れることもめずらしくなかった。この時代から芸者の素養にダンスが加わり、駒下駄が草履に変わるなど花柳街に大きな影響力を及ぼした。
 
 昭和4年、東京にダンスホールが認可されるとすぐに揚場町に新橋、銀座、京橋に並んで開業している。しかし2年ほどで神田に移転するが,同じ年、逆に新宿では日本橋から移転している。山の手銀座を誇った神楽坂はその地位を次第に新宿に明け渡すことになった。 
  西條八十は昭和4年にビクターから発売した「東京行進曲」で銀座に、
         昔恋しい 銀座の柳
         仇な年増を 誰が知ろ
         ジャズでをどって リキュルで更けて
         あけりゃ ダンサアの なみだあめ
カフエーとダンスホールを読み込んでいる。
 だが、昭和5年同氏の「新東京行進曲」では神楽坂が登場するが
         名さへ賑はし あの神楽坂
         こよひ寅毘沙 人の波
         可愛い雛妓(おしやく)と 袖すり交しや  
         買った植木の 花が散る
と昔と変わらぬ夜店と芸者の世界であった。神楽坂には当時、時代の先端を行くカフエー、ダンスホールは似合わなかったのである。
 
  新橋,葭町、柳橋、と並んだ神楽坂の花柳街も、女給、ダンサーという新たに生まれた職業婦人と浜口内閣の高圧的緊縮政策で社会から次第に見放されてゆく運命をたどる事になる。
 大宅壮一は昭和3年の文芸倶楽部で「神楽坂は全く震災で生き残った老人のような感じである。銀座のジャズ的近代性も無ければ新宿の粗野な新興性もない」と批評し「あの相当長い道りにカフエーらしいカフエーが一軒も無い」と書いている。昭和の初めといえば、新橋や銀座の東京の繁華街ではカフェー、女給、ビヤホールの大流行の時代であった。  
  神楽坂を東京で知られた繁華街にした花柳街と芸者はもはや時代遅れになり、町全体を非近代的な雰囲気に包んでしまったのである。当時の世相を代表する西條八十の流行歌「東京行進曲」で銀座、浅草、丸の内そして新宿の中からも外されてしまった。皮肉なことに八十は牛込生まれ、そして神楽坂を大の贔屓にしていた。
 やがて神楽坂の風物詩だった芸者の姿が早稲田,法政の学生の姿に変わりどの喫茶店、麻雀店、飲み屋、撞球場、寄席のすべてが学生に占領されるようになった。6大学で早稲田が優勝すると神楽坂は早稲田の学生が渦巻いた。やがて日本は暗い戦争に突入していくわけだが、神楽坂が学生の町だった時代については改めて触れたい。
 
 昭和18年3月5日(1943) 警視庁が高級料理店(精養軒,錦水等850店)待合・芸妓屋
                (4300店・ 芸妓8900人)バー・酒店(2000店)を閉鎖。(朝日新聞)
 昭和23年7月10日(1948) 風俗営業取締法交付、待合が対象営業に指定される。
 昭和33年4月1日(1958)売春防止法施行(全国約3万9000軒・従業婦12万人消える。(官報)

  戦後、目覚しい日本の復興と共に金偏、糸偏ブームで花柳界は息を吹き返し、政界、財界の社交場として再開、毎夜黒塗りのハイヤーが神楽坂を夜遅くまで行き交った。
  昭和27年、神楽坂贔屓の八十は神楽坂はん子を歌手としてデビューさせて[こんな私じや なかったに]を唄わし、さらに〈 私のリードで 島田もゆれる 〉芸者ワルツの大ヒットで神楽坂を全国的なものにまでした。

町とは一体何だろう。中華街を歩く    
                高層ビル街に無い魅力に人が集まる

    
  9月初め、みなとみらい線が開通して私は中華街を訪れた。街は何時もどおりに込み合っていた。久しぶりに20年来懇意にしている喫茶店に寄ってみた。
 「何時も繁盛で」と声をかけると「人通りばかりですよ」と意外な返事が戻ってきた。店のオーナーの話だと昔は中華街の客と言えば街のどこかで食事をして帰ったものだが、今は見物するだけで素道りするだけの客が多くなったという。そういえば特大の中華饅頭を齧りながら歩く若者の姿が確かに増えている。

 「みんなお金が無いんですね。うちも税務署が調査に来てよく商売が続けられると気の毒がられます。土地、建物が自分のもので、細々と身内でやっているのでもっているようなものです。家賃を払って従業員を雇ったら1日ももちませんよ。」中華街にも廃業、転業する店が目立つようになったという。景気は上向きと言われるが世間では厳しい不況の風はまだ収まってはいない。
 卍と竜で飾られた中国風の豪奢なレストランの隣に中華饅頭を蒸し通行人呼びかける店、中国服を飾る洋品店、中国料理の素材を扱う食料品店が並ぶ街中に人が多いというより群集である。レストランで豪華な円卓を囲む人も、豚饅を食べながら歩く若者もそれなりに中華街を楽しんでいるのである。
 「うちも不景気で客の数が減り、収入も減っているが、客の入りに合わせて生活に工夫をすればまだまだ営業を続けられる。お客といっしょに考えたい。」と語る喫茶店のオーナーの顔には中華街で商売をする誇りと根強さが感じられた。
  この現象は中華街だけに限ったことではないらしい。都内に再開発される高層ビル街でも同じ現象が起きているらしい。展望台に弁当持ちの見学者が増えていると言う話しを聞いた。

昔の馴染みに惹かれて神楽坂の路地を行く

  これらの話はかなりの点で神楽坂に当てはまる。
  20年ほど昔の話である。今から考えれば嘘みたいな時代で、都心の地価は地上げによるうなぎ登り、株は何を買おうが儲かった。何箇所もゴルフの会員権を持ち、本業そっちのけで狸の皮算用で日を明け暮らす人間もでてきた。確かに日本中何処もかしこも景気が好かった。仕事が終わると「一寸やりますか」と言った調子で行きつけのスナックによったものだった。誰でも3~4軒の馴染みの店があり行き先には事欠かなかった。
 
  私にも毘沙門天の裏に心安い行きつけの店が1軒あった。誰かに1度つれて来られたのが縁となって、神楽坂に来れば帰りには必ずといってよいほど寄ったものだった。ママはもと、神楽坂の料亭で仲居をしていたとかで、その時代からのお馴染みさんも多いらしく、店は何時行ってもこんでいた。手伝いも置かずに一人で切り盛りしていた。
  店と言ってもしもた屋を改造したらしく玄関の格子戸を開けるとすぐ5~6人腰掛けられるカウンターがある程度で、何の飾り気も無いだけに値段も気にしないで飲むことができた。当時は神楽坂を1歩横町に入ると暗がりの中にこういう飲み屋が流行り、店には夜遅くまでスーツ姿の男性の姿が目立った。
 
  景気の好かったのは2年程で、バブルがはじけるとすぐ店を閉めることになった。店に特に親しかった者の話しでは「売り上げが激減して家賃が払えなくなってしまった」からだそうだ。収入が減っても家が自分のものなら、お馴染みさんも多いことだし女1人生活するくらいどうにでもなると嘆いていたと言う。消えたのは行きつけの飲み屋だけでなかった。あまり縁はなかったが紅灯の明かりも次々に消えていった。
  神楽坂を裏通りに入るとこんな店はどこにでもあった。店は廃業しても不思議なことに家並みだけは昔をとどめている。今でもたまに神楽坂に来ると「この辺だったかな」と昔の記憶をたよりに横町を曲がってみることがある。いつまでたっても神楽坂を知っているものは誰でも郷愁を感じる不思議な町である。
 
散歩するだけでぬくもりを感じる不思議な町
 
  最近、東京の街を紹介する刊行物を広げて神楽坂の文字を見ることは少なくなった。以前なら浅草、銀座、渋谷、新宿、に並んで神楽坂が紹介されていたものだ。
  今の神楽坂は繁華街としては渋谷、新宿などと比べて比較にならぬほど町は小さい。大きな劇場も無ければ、若者のファッションを生み出すような店も場所も無いに等しい。デパートも無い。昔、華やいだ花柳街も全くといっていいほど活気が無い。見るべきものが無いということらしい。山の手の七福神毘沙門天が祀られる善国寺にも浅草寺の雷おこし、水天宮の人形焼といった土産物も見当たらない。つまり日本の何処にでもある平凡な町ということだ。
  新しく作られた六本木ヒルズ,汐留ビルなどモダンな町作りに比べれば、いわば都心に残された田舎町なのである。だが、人どおりだけは何処にも負けない。                 
  買い物をするなら新宿や銀座に出た方が店も商品が揃っている。しかし、それにもかかわらず神楽坂を散歩する人が以前と変わらず多いのだ。つまり歩いているだけで人間のぬくもりが伝わるのを肌で感じられる町だからである。私が今は無い古い飲み屋に惹かれるように、ここを訪れる人は長い時間をかけ気の遠くなるような時間の中で育んできた石畳の露地や横町、そして家並みに郷愁を感じるのである。
                                                   (最終回)


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