神楽坂界隈 連載(4)<2004/3/1>
神楽坂は寺社と徳川譜代家臣中小の旗本の住む武家屋敷の町だった 明暦の大火、俗に言う「振袖火事」である。明暦の大火は徳川3代、50年の歳月をかけ築き上げた江戸城と江戸の町をわずか2日で灰燼に帰した。死者は5万とも10万とも言われている。
神楽坂に武家屋敷が建ち、寺町が出来たのは明暦の大火1657年(明暦3年)の前後にかけてのことである。いよいよ神楽坂が庶民と交じって社寺、武家屋敷の町として誕生する。
神田濠の工事が牛込御門まで堀り進み、工事ででた土砂で江戸川周辺の湿地帯が次々に埋め立てられ広大な武家屋敷地が次第に広げられていった。埋め立て前は赤城明神より目白不動まで1軒の家もなく畑が続いていた。
牛込御門が出来上がり、寛永13年(1636年)江戸城の外濠工事が終わり、牛込御門まで船が上るようになると、外濠の外側神楽坂界隈は徳川譜代家臣旗本の屋敷地になり分与された。
それまでの神楽坂は「江戸名所図会」によれば山門が牛込御門あたりにあったという行元寺の広い境内だったのか、牛込城の城内の一部か話としては面白いが確証はない。家康入府の際、すでに肴町あたりに町屋が存在したが、徳川以前の資料は乏しく分からぬことが多い。ともあれ森林と田畑が広がり夜は辻切りが出そうな草深い中に人家が点在するどこにでも見られる武蔵野台地に武家屋敷と寺院で町が作られたことは分かる。
「御府内沿革図書」延宝年中之形(1673~1681)新宿区教育委員会《「地図で見る新宿区の移り変り」牛込編(1982)》にみると神楽坂界隈は寺院と旗本屋敷が多く、それも中級ないし下級の者が多かったようである。石高も最高は5000石位の旗本から、俸禄米100俵程度の小規模の旗本までさまざまだった。拝領地も500坪を越えるものから最小でも100坪は越えていた。時代ととも拝領者が変わることがあっても、幕末までこの辺りが一貫して武家屋敷であったことが分かる。
明治になると武家屋敷は全く姿を消し、寺院も廃寺されたり規模が縮小され、かっては両者が神楽坂の土地の大半を占めていたとは想像もできない。武家屋敷の敷地は拝領者によって分割され狭くされたところも多いが、全体として建物は変わっても土地の形態や道筋は当時と変わらず現代にいたっていると見てよい。やたらと曲がりくねった迷路のような狭い袋小路や横丁に「かくれんぼ横丁」「見返り横丁」など可愛らしい名が付いている。前を歩く人が急に見えなくなるからだ。
神楽坂に武家屋敷や寺町ができて以来、関東大震災にも被害を受けず、太平洋戦争の空襲で焼かれたが、再開発は行なわれず道路はそのまま手が付かず昔のまま受け継がれた。幕末、関東大震災、東京大空襲後もほとんど区画整理が行なわれなかった結果だ。
カスパのように江戸城を外敵から守るため、わざわざ道を細く迷路状にし城門の周囲に兵隊(旗本)を配置したと解く人がいるが見方によればそう見える。
寛永年間は(1624~42)は寺院の建築ラッシュ 昭和5年刊牛込区史によると江戸時代区内に101 の寺院が存在した。その中で徳川の江戸入府以前に起立した寺院はわずか3にすぎない。
区内起立の寺院31のうち過半数の18は寛永のものである。さらに他地区より区内に移転してきたもの48のうち18は寛永期に移ったものである。その大多数がもと麹町(番町中心)周辺にあったことから江戸時代以前の江戸の城下町はこの辺り迄だったことが推測される。
徳川に代わり江戸の町の整備と発展にともなって寛永年間(1624~1642)に、牛込に移された。実に寛永年間に36の寺院が区内に起立又は移転してきたことになる。
俗に振り袖火事と言われる明暦の大火(1644)後は、区内で起立した寺院はないが江戸市街地から移転してくる寺院が目立つ。当時旧牛込区の寺院の消長を見ることで、江戸の発展にともなう市街地の膨張の模様が理解できる。この状況からも江戸時代の神楽坂の発展は武家屋敷と寺院神社に関わるものが大きいことが分かる。
幕末期の嘉永2年(1849)「小日向小石川牛込北辺絵図」や万延元年(1860)「礫川牛込小日向絵図」には、周辺に『イシ』の文字が見られることから拝領地の一部を民間に貸地にしていたことも考えられる。しかし、町に影響を与える程ものではなかったと思う。 江戸の善男善女の巡礼で賑わった社寺群 寺院や神社の土地は原則として寺社が使用するものだが、経済的な側面を助成するため敷地の一部を町屋に貸し付け門前町を営ませることを許可する制度があった。
善国寺の毘沙門天の縁日の始まる以前からそれぞれの社寺や神社の御開帳、霊場参り(巡礼)が盛んだった。
江戸時代に見ると、赤城明神・津久土明神の開帳、行元寺の江戸三十三所観音参、光照寺・津久土明神無量寺・赤城下宝蔵院・行元寺・赤城明神等覚院の江戸山の手二十八所地蔵尊、 宗参寺・穴八幡社内・築土八幡社内の弁財天百社参と上げたら限りがない。
庶民の寺社巡りが遊興的な要素を持ち、行元寺、赤城神社ほか、いくつかの門前町には岡場所的な存在が認められ水茶屋程度の店があったと容易に想像できる。 幕府も寺社も黙認した門前町の水茶屋 江戸の住人はすべて町奉行に統治されるのが建前だが門前町は寺社の境内にあるという理由から、町人といえど訴訟の審理から罪人の逮捕まですべて寺社奉行の管理下にあった。延亨2年(1745)この制度が改められ門前町の統治権だけが町奉行に移されることになり、住人は一般の町家同様に取締を受けることになった。
この結果、門前町の地面は寺社奉行の支配下に、住人は町奉行の支配を受けるという複雑な関係を生むに至った。しかし、門前町の住人には、地主であり特権階級の僧侶が介在したので寺社奉行もうかつには手を出さず、したがって町奉行も遠慮したようだ。
寺社が土地を貸す大きな目的は地代であり、門前町の繁栄のためには手段を選ばず水茶屋の存在さえも辞さなかったのである。当時江戸の盛場を跳梁していた猫という体を売る女性がいたことが知られている。寺社がこれを黙認すれば、だれからも阻害されることが無かった。
牛込区史の編集者である西村真次早稲田大学教授はこの状況を 『深川情緒の研究』で「実は江戸政府が黙許の態度を採ったのみならず、寧ろ密かに之を助長した傾向さへあった。幕府が護国寺を建立した時にも音羽付近に茶屋を出させ、茶屋女に淫を売ることを黙許して、陰にその繁栄に赴くのを希望した」
(牛込区史より)と卓見している。それが当時の社会状況だったと言ってしまえばそれまでだが。 安政4年
(1857)幕末、毘沙門天の横丁を入ったあたりに神楽坂花街(牛込花街)が出現する。神楽坂花柳街と町屋については改めて項をおこしたい。家財を売り払って江戸から逃げ出すサムライ 明治改元で神楽坂は大きく変わった。
江戸の人口の最盛期は130万だったと言われてい るがその半分以上は武士であった。明治4年になると58万人に激減している。幕末の混乱を避けて国元に逃げ帰る諸藩の武士、江戸から避難する町人で一時東京の人口は急激に減ってしまった。
「御維新」とは対照的に幕府方の武士たちの多くは官軍が江戸に迫って来るというので浮き足たち、家財道具を売り払い住みなれた江戸を逃げ出す者、職を失い身の回りの物を売りつくし裏長屋に落ち延びて行く者が日毎に増えていく様が続いた。
明治13年頃の東京の店数の順位はその時代の世相を反映している。
(1)古道具屋 4740 (2)古着屋 4546 (3)古銅鉄商 2703
(4)質屋1946 (5)損料貸1915 (6)屑屋1396
神楽坂周辺でも古道具や古着を売る店が並んだと聞く。 武家屋敷は空家と桑田と菜茶畑に 牛込の土地の7割を占めていた幕府から分与された武家屋敷の土地と屋敷だけが残されて、空家同然の家が目立っようになった。
明治の新政府は幕府方の武家屋敷を没収して家のない薩長の下級藩士や維新功労者に与えたが持て余し荒廃するにまかせた。山の手は昼間でも女子のひとり歩きは危険だといわれ、夜間は辻切が出るという話もでた。
元南市政裁判所に勤務した土方久元の懐古録によると「なにぶんその頃駿河台などは明(空)家ばかりで盗賊が住んでいるという有様で……明治3年の夏までは3尺位もある草が茫々として……いかにも不要(用)心であった」と書いている。
政府・東京府もこれに対応せざるをえなくなり明治2年(1869)困窮民の授産政策として「上げ地された土地は桑田・茶園として開墾すべき事」という輸出振興をねらった内容の布令を出している。
明治4年改正の東京大絵図を見ると神楽坂界隈の武家屋敷には住人がなく、桑地、菜茶畑、クハチャの書込がある。 田山花袋が『東京の三十年』で書き残す牛込の明治初めの武家屋敷
明治14年(1881)11歳で上京、京橋の有隣堂とい う本屋に小僧にきた田山花袋は、19年に再度上京牛込の奥納戸町の大蔵省に勤務する役人の離れを借りている。もと大名の下屋敷だったところである。
喜久井町に住んだ様子を「そこは、元、ある大名の下邸のあった跡で、立派な泉水があり、すぐれた庭であったろうと思われる。……築山は丘に、池は田になっていた。」
「柳町の裏には……早稲田の方へ入って行くと、梅の林があったり、畠がつゞいたり、昔の御家人の零落して昔のまま残って住んでゐるかくれたさびしい一区画があったりした。」
花袋は明治初期の牛込の様子を『東京の三十年』でこのように書いている。