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西村和夫の神楽坂

西村和夫の神楽坂 >> 記事詳細

2004/08/15

田原屋そして紅屋の娘

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神楽坂界隈 連載(15) <2004/8/15>

神楽坂が東京三指の繁華街として華やいだ時分


 神楽坂がもつとも華やいだ時代は大正
3年(1914)から始まった第1次世界大戦から関東大震災をはさんで昭和のはじめの大不況までといって間違いはないだろう。第1次世界大戦がもたらした戦争景気は国内に成金を続々登場させた。
 一部の成金は自分達の成功を自慢するため辺りに札を撒くような常識はずれの贅沢をするものが現れた。この現象は花柳街で特に顕著であった。真偽のほどは分からないが、芸者に履物を探させるのに
100円札を燃やし明かりにすることが流行ったと聞いている。一般社会の不況をよそに花柳界は戦争景気に沸いたのである。神楽坂もその例にもれなかった。そして震災後のひと時は上野、浅草とともに東京で三指に上る繁華街に数えられるまでに至った。               


 世間では物価の暴騰に賃金が追いつけず、全国で労働運動がおこるなど社会的不安を抱きながらも、神楽坂は華やいでいたのである。
 昼間は町自身その辺の町となんら変わらないのだが、花柳街の石畳に打ち水がされ、灯がともるとあたりの様子は一変する。そして夜店に人が集まり、その雑踏に揉まれ座敷着の芸者が座敷を行き来する光景が神楽坂だとされていた。
 今でも表通りから一歩奥に入いれば花町の雰囲気は残っているが、所詮過去のものとなってしまった。神楽坂を繁華街として支えきた夜店は姿を消し、芸者の影もなかなか見られなくなってしまった。「そんなことは百も承知だ」と言いながらも、神楽坂を訪れるものは、横丁から芸者さんが出てこないかという妙な妄想に駆られるような、どうしても街そのものに華やぎ艶めいたものを期待してしまう。
 
 今の神楽坂は若者の町に変わろうとけんめいに努力している。昔の名声があるだけに、なかなか変わりきれない。しかし、それが一つ魅力で人が集まるのだとしたらそれでもいいのだと思う。

日蓮宗善国寺の毘沙門天は麹町の火事で焼失、
寛政
5年(1793)神楽坂に移転してきた。山
の手の七福神の一つで正月と寅の日には参詣
人が絶えない。寅の日の縁日は徳川時代に始
まる

昭和のはじめ15軒の料亭と128軒の待合に
            芸妓置屋166軒に619人の芸者

 昭和のはじめには神楽坂の検番(芸妓置屋、料亭、待合の組合)2派に分かれていて旧検は芸妓置屋121軒、芸妓446名、料亭11軒、待合96軒、新検は芸妓置屋45軒、芸妓173名、料亭4軒、待合32軒という繁栄ぶりだった。狭い神楽坂にこれだけの店がひしめいていたのだから、一歩でも横丁に入れば芸者置屋、料亭、待合が軒を並べていた。       
 だが、新たに台頭してきたカフェーとバーにおされ、さらに追打ちをかけるように浜口内閣の高圧的な緊縮政策で目に見えて衰え始めた。市内の花柳街では一晩に働く芸妓の数が全体の1割にも満たない状態になり、山の手髄一を誇った神楽坂でも玉代の値下げを迫られた。          
 震災で焼け出された多くの市民が山手線の外周,そしてそこから伸びる東横線、小田急などの私鉄沿線に住むようになり、市内の歓楽街として3指に入った神楽坂は気づかぬ間に渋谷、新宿、池袋に抜かれることになった。地価だけをみても震災後、三越が新宿に進出したときは坪1500円だったものが年とともに上昇するのに対し、神楽坂では高いところで500円から300円に値下がりしている。
 やがて長い戦争が続き敗戦となり花柳街にとっては受難続きであったが、戦後の経済成長とともに神楽坂は花柳街として再び息を吹き返した。しかし、バブルの波には勝てずその存続すら危ぶまれている。しかし、神楽坂を訪れるものの多くは現在の神楽坂の中から失われた過去の華やかな色町の姿を求めようとして散策する。色町としての影を失なった今でも、よき時代の神楽坂のイメージを持ち続けているのである。                         
 繁華街として東京で一、二を争ったよき時代の神楽坂を毘沙門天を中心に思い起こしてみたい。

本田横丁から坂上(肴町交差点)まで


この辺りはいつの時代でも神楽坂で一番繁華なところとして知られているところだ。
創業300年の歴史のある店は、漱石を始め多くの有名文士が原稿用紙を買った紙屋の相馬屋ぐらいになってしまったが、ほんの少し前までは150年の歴史のある酒屋の万長、薬屋の尾沢、果物屋というよりレストランで知られた田原屋など古くから名の知られた老舗が集まっていたところである。

ジョン・レノン・ヨーコ夫妻がおしのびで鰻を愛でた
「たつみや」は本多横町を入るとすぐ左だ。江戸時代
本多修理の屋敷があったことでこの名が付いている。
昔、車屋や神楽坂検番のあったところだ

 大正12年(1923)関東大震災で被害を受けなかったことで神楽坂は銀座で焼けた三越、松屋、明治製菓などが臨時売場をこぞって開店した。
 一時は山の手銀座とまで言われたが銀座の復興とともに
2年ほどでみな引き上げてしまった。毘沙門天の並びにしばらく営業していた村松時計店と資生堂も、間もなく引き上げてしまった。         
 
 しかし大正の終わりから昭和のはじめにかけ、この期間の神楽坂は東京中の人がみなここに集まったと思うほどの人出で賑わった。    

  神楽坂が大きく変わる中で、本田横丁角の履物の近江屋、お茶の楽山、婦人服のアワヤ、坂上の河合陶器店は震災前からの老舗で、現在も営業を続けている。操業150年の万長や小沢はいつの間にかマンションやテナントビルに建て替えられた。

辻説法や易者が人を集める雰囲気があった

古い神楽坂ファンなら忘れてはならぬ店が毘沙門前のモスリン屋「警世文」である。店の主人は日蓮宗の凝り屋らしく、店先に「一切の大事のなかで国が亡ぶるが大事のなかの大事なり」といったのぼりを掲げ、道行く人に「思想困難」とか「市会の醜事実]を商売をよそに論じ、その周りに人だかりができ、暗がりには易者が店を出すといった、神楽坂が銀座や新宿の繁華街と違った雰囲気を持っていた。

神楽坂毘沙門天側には田原屋につづいて本屋の芳進堂、佃煮の近江屋、八百屋、乾物の伊勢屋、菓子の紅谷と続く中にカフェー、すき焼屋が並んでいた。このうち今でも営業を続けている店は数軒もない。特に著名な店を除いては日用雑貨を売る店と飲食店が多い。

 神楽坂と言うと話題になる田原屋は、開店以後第1次世界大戦の好況に恵まれ、坂下にも果物屋の店を出していたが、市内でアイスクリームを食べさせるのは資生堂か田原屋と言われたほど有名で遠くからわざわざ来る客もあったほどだ。ここの2階がレストランになっていて、この2階でハヤシライスを食べることが神楽坂を歩く若者たちの憧れだったという時代もあった。                               
  牛込の文化人のサロン的な存在にもなっており、当時の客筋は夏目漱石、長田秀雄、幹彦、吉井勇、菊池寛、震災後は15代目羽左衛門はじめ歌舞伎役者、水谷八重子、佐藤春夫、サトー・ハチロー、永井荷風、今東光・日出海、などの文化人の集まるところとして知られていた。映画のロケにも使われ、入江たか子などの有名な俳優の出入りがあって新聞でも報道され全国でも名前だけは知られていた。

 芸者全盛時代は、 芸者と連れ立って来る客も多く、家族づれ、文化人、奥様づれと多様な客が集まることでも知られていた。いろいろ話題を振りまいた田原屋だったが最近玄品下関ふぐ料理店に変わった。
夜になると毘沙門天の周囲に露店の都寿司、今川焼の草薙堂、おでん屋などの店がでて通行人の足を止めた。

廃業する前の田原屋の写真である。戦前は
東京で名の知れたレストランだった。大正
から昭和のはじめにかけて山の手の文化人
と言われる人は大体ここを訪れている。

 戦前はアイスクリームや生ビールにお目に
かかれるのも神楽坂ではこの店だけだったと
いう。

昭和初期、神楽坂で流行歌で唄われた菓子屋の紅谷

田原屋の並び、坂上近くに紅谷という菓子屋があった。初めは和菓子屋だったらしいがシュークリームやエクレヤなど洋菓子で山の手一帯に有名になり、2階が喫茶店で早稲田の学生や抒情派詩人がたむろしていた。道路から詩人に女子学生の声が飛んだという話だ。
 詩人に憧れたのかお菓子に吸い寄せられたのかどちらか分からないが、いつでも女学生が集まる場所になっていた。当時流行していた「紅屋の娘」野口雨情作詞、中山晋平作曲は、この紅谷を歌ったものだといわれている。

            紅屋の娘

         紅屋で娘の いうことにゃ
         サノ いうことにゃ
         春のお月様 薄曇り
         と サイサイ 薄曇り


 大正3年、松井須磨子の「カチューシャの唄」以来ひさびさの流行歌であった。どちらの唄も作曲は中山晋平である。レコードでは紅屋の娘の表面が「東京行進曲」(西條八十作詞、中山晋平作曲)になっているが、これも神楽坂に因縁が深い。 西條八十は早稲田の先生で神楽坂の贔屓で、生まれも牛込の払方町であり、中山晋平も島村抱月の家で書生をしながら東京音楽学校を卒業している。
 昭和2年日本ビクターが創立,翌3年日本コロムビアが出来ると日本でもレコードの量産体制ができるようになった。ラヂオもテレビも無い時代各レコード会社独自で「流行歌」を作り流行らせる方針をとった。当時流行したカフェーで、レコード店の店頭で、また映画館の休憩時間に積極的にレコードを鳴らした。

  当時流行歌などあまり書かなかった西条八十をこの世界に引きずり出したのは中山晋平と言ってよいだろう。前にも紹介したように、昭和3年大衆雑誌「苦楽]に掲載された八十の詩「当世銀座節」に曲をつけさしてほしと晋平が八十に頼み込んだことに始まる。ここで八十・晋平コンビが生まれてなければ後の「東京行進曲」[唐人お吉]「銀座の柳」「東京音頭」の流行はなかったと言ってもよいだろう。

東京行進曲に神楽坂が唄われなかったわけ
               銀座と新宿に盛場を明け渡す


  昭和4年の日活映画「東京行進曲」は月刊雑誌キングに連載された菊池寛の小説「東京行進曲」を映画化したものである、その主題歌を西條八十と中山晋平のコンビに依頼してビクターから発売した。「昔恋しい 銀座の柳」で始まる「東京行進曲」は25万枚という当時したら空前の売れ行を示した。

ところが「いっそ小田急で 逃げましょか」の歌詞が問題なり、小田急がビクターを相手に訴訟を起こすまでにいたった。しかし、歌の流行が電車の乗客を増やすことになり訴訟は取り下げられることになった。真偽のほどは別にして有名な話である。

しかし[浅草で会い・小田急で駆け落ちする]ような歌詞はけしからんと当時の日本放送協会・愛宕山のラジオ放送は禁止された。
 一方、神楽坂の商店街では早稲田の先生で一方ならぬ神楽坂の贔屓筋の西條先生が「なぜ歌詞に神楽坂を入れてくれなかったのか」と責められるはめになった。東京行進曲の中に[銀座の柳] [恋の丸ビル]「いきな浅草」[変わる新宿 あの武蔵野の]と唄われるが、いくらビルが建ったといってもあの[馬糞に虻が舞う]と軽蔑した新宿が唄にあるのになぜ神楽坂が無いのか]という不満だった。
 
 はじめ神楽坂の歌詞はあったがレコードにするのに長すぎたので割愛したという話が伝わるが、ウソではじめから無かったのだろう。そこで八十は「レコードは出来てしまったが、東京行進曲の節で唄える神楽坂の唄を作りましょう」ということにした。
 
 発表会は牛込館で行われたらしいが誰がどんな歌詞で唄ったのか手元に資料が無いから分からない。罪滅ぼしでもないだろうが昭和5年ビクターから八十、晋平コンビで[新東京行進曲]が発売されている。
        名さえ賑わし あの神楽坂
        こよひ寅毘沙 人の波
        可愛い雛妓(おしゃく)と
        袖すり交しや
        買った植木の 花が散る


 東京行進曲から丸の内と新宿をはずして出来た唄だが神楽坂だけが持つ独特の風景である。不思議なことに上野、銀座、浅草、渋谷、新宿は聞くが、東京の3大歓楽地のひとつだった神楽坂が新東京行進曲以外で唄われたことは無いようだ。

 昔から[神楽坂は色町というイメージが強烈で、芸者という古い道具立て以外に唄うものが無い]つまり時代の先端をいく流行歌には古くなりすぎていたと言うのは間違いだろうか。
                                  
         
再び過去をふりかえって
                                   

  神楽坂は夜の街だった。昼間は際立って特色の無い街だが、夜になり横町の石畳に芸者の履く駒下駄の音と賑やかなおしゃべりが響くようになると辺りの様子は一変した。

2次世界大戦後、神楽坂は占領軍の車の通路になり露天を出すことが禁止された。したがって、名物の夜店が出ることは無かった。
 しかし、昭和の始め毘沙門天の寅と午の日の神楽坂の夜店は寅毘沙、午毘沙といって最盛期は坂下から肴町の交差点まではもちろんのこと、その先矢来町に至る勢いで、大久保通りにも夜店が並んだ。特に神楽坂の夜店は交通を遮断して道いっぱいに2列に並んだ。そして坂下と坂上には「車馬通行止」の提灯がかげられた。

 坂は人で埋め尽くされ、その人の波にもまれ、お座敷に通う座敷着の芸者の姿が見られる神楽坂の光景だった。 

 毘沙門せんべいの福屋とうどん会席の鳥茶屋にはさまれた横町を入ると突き当たりに東京理科大学森戸記念館がある。
 神楽坂には、見返り横町、かくれんぼ横町と地元の人が名づけた可愛らしい名の横町がたくさんある。先を歩く人が突然見えなくなる曲折の多い路地をいうらしい。ここもその一つで両手を広げれば左右の家の壁に当たりそうな細い石畳の路地の両側には、昔ながらの黒塀が続く。
 神楽坂で花柳街の姿を今に残す一角である。黒川鐘信氏の「神楽坂ホン書き旅館」で紹介された往年の大女優小暮実千代さんの経営する旅館[若可菜]がある。


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