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西村和夫の神楽坂

西村和夫の神楽坂 >> 記事詳細

2004/07/15

須磨子の情景

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神楽坂界隈 連載(13) <2004/7/15>

  神楽坂といえば昔は花柳街があり町中を着飾った芸者さんが歩いていた粋なところだったぐらいにしか思われていない。今でもカラオケで時たま歌われる「カチューシャの唄」「ゴンドラの唄」「さすらいの唄」は大正の初め牛込横寺町にあった芸術座で松井須磨子が劇中歌(主題歌)で歌ったものである。このように唄だけ残り神楽坂が新劇の発祥地だったことは誰からも忘れてしまった。新国劇の沢田正次郎も新派の水谷八重子のみな芸術座の出身である。
  昭和の初め「東京行進曲」「女給の唄」「銀座の柳」「東京音頭」を流行らせた作詞の西條八十も作曲の中山晋平も神楽坂で活躍していた。

最寄駅だけでは分かりにくい神楽坂

  東京メトロ東西線の「神楽坂」駅は矢来町にあり、都営地下鉄大江戸線「牛込神楽坂」駅は箪笥町にある。どちらの神楽坂の駅も神楽坂からかなり外れたところにある。だから、駅名だけで神楽坂に来ると、地上に出た途端「神楽坂はどこ」と面食らう。東京都が行なった昭和29年の住居表示変更で、神楽町1~3丁目周辺とその先の通寺町などを含めて、神楽坂1~6丁目に広げられたが、それでも2つの駅はこの町内に入っていない。
  神楽坂を訪れるには、東京メトロ有楽町線か南北線の飯田橋で下りるのが便利である。神楽坂口から出るとそこが神楽坂である。JR飯田橋駅でもよいが、市ケ谷寄りの改札をでなければいけない。いずれにしろ出口を間違えると厄介なことになる。                    
  まだ都電が走っていた時分は、外濠線の神楽坂下停留所だけが坂の存在を示していた。戦後、都電が廃止されると神楽坂の名のつく駅名が、全て消えた。しかし、新たに地下鉄が敷けることで、坂からいささか離れたところだが2ヵ所に再び神楽坂の駅名が付けられることになった。
  昔、神楽坂といえば坂下(電停・神楽坂下)から坂上(電停・肴町)まで400メートル程の道筋を指した。神楽坂とその先通寺町とはっきり区別していたが、今では早稲田通りまで神楽坂と呼んでいる。

朝夕読経が聞こえて通寺町、横寺町界隈
        雨が降れば傘をさした二人が歩くのがやっと


  大正の初めまで大久保通りを隔てて二つの町の間には大きな違いがあった。神楽坂を山の手銀座にたとえるなら、通寺町は町名が現わすように江戸時代から寺の多い地域だった。寛永時代江戸城整備のため、麹町周辺の寺を集めた地域で、現在でも一歩横丁に入ると寺が目立つ。明治初年の排仏毀釈で寺の数が大分少なくなったといっても、寺町の名のとおり震災前は朝、夕、何処ともなく念仏や経を読む声が聞こえたという。      
  大久保通りから先早稲田通りに至る道は、雨が降れば傘をさした二人が並んで歩くと両側の長屋のひさしにあたるというほど狭い道だった。寺の門前には、寺参りの客を相手の花屋、茶屋、駄菓子屋、長屋、アパート、髪結いといった店がぎっしり並んでいた。さらにその隙間をうめるように飲み屋が昼間から軒を並べ客を待っていた。そして夜ともなれば牛込亭は一流どこの落語がかかり早稲田の学生も交えて大入り満員の盛況だった。
  しかし、道路沿いの家並みをはずれるとまだ空き地が点々と広がりを見せていた。日清・日露戦争から始まった江戸川(神田川)沿いの工場の発展にともない、人口は急速に増えていった。第1次世界大戦中の景気はこの現象をさらに加速させ、都市計画もない町には人が溢れでんばかりになっていた。明治後期になって山の手と呼ばれても神田川流域、小石川、四谷周辺の新開地には山の手族とはいささか雰囲気の異なった低所得の住人が増えいくことになった。
  ほとんど身動き出来ないほどの神楽坂周辺の夏の夜の人出は、道路の狭いということにもあるが、当時の牛込周辺の人口密によることが大きかったと思う。

火事で広がった道筋
      肴町停留所付近は飲屋と飲食店が軒を並べた


  明治38年、東京電気鉄道(都電の前身)外濠線が開通すると牛込見付から神楽坂を上り狭い道を抜けて早稲田まで歩く学生が増えていった。そして、その狭い道路は前にも益して一段と込み合うことになった。
  明治の末期、文明館という名の勧工場(勧業博覧会で売れ残った商品を値引きして安く売る市場として市内の各所に作られた。初めは市民に人気があったが、信用を傘に粗悪な商品を扱ったため急激に市内から姿を消した)が火事で焼けたのを機会に、周辺の寺を移転させ道路が拡張されることになった。文明館は映画館に変わり、三流映画を映し、牛込亭は一流の落語家の定席としてかなりの人を集めていた。神楽坂下に神楽坂演芸場ができると浪速節の定席になり前どうりに繁盛していた。

  広げられた道路にはすき焼屋を初め飲食店が多くカフェの前身というか当時はやりのバーなる洋式の飲み屋が縄のれんに仲間入りしてきた時代だ。とりわけ肴町の電停付近は夜遅くまで人通りが絶えなかった。    ヤマニバーは現代のチエン店で、当時市内の何処にでもあり、国産の安ウイスキーが売り出されて間もないた頃で、新しもの好きの客でかなり繁盛していた。
  だが、道筋は広がっても、大久保通りから先は華やいだ神楽坂とは違った寺町独特の独特の雰囲気が残っていた。ところが関東大震災はこの大きな壁を取り払ってくれた。神楽坂を含めてこの地域一帯は、関東大震災で火災をまのがれたことで下町の繁華が怒涛の如く神楽坂に押し寄せることになった。その余波が寺町まで飲み込んでしまった。神楽坂の夜店も大久保通りを越えて通寺町の先までのび矢来まで達する勢いだった。     
  戦後、昭和29年(1954)住居表示変更で牛込、四谷、淀橋の3区が合併 して新宿区になり、通寺町が神楽坂6丁目になったように、今ではその境さえ分からなくなっている。               

震災後、わずかの期間銀座のプランタンも出店

  銀座で焼けたプランタンが通寺町に出店したのもこの時である。本格的なカフェがやってきたと牛込の文化人は喜んだが、高級サロンで一般の人には人気がなく、いつも銀座の常連客が集つまっているという状態だった。また新潮社が近かったせいか久米正雄、広津和郎、宇野浩二、佐々木茂策、間宮茂輔ら作家の溜り場になっていた。
 しかし、銀座が復興すると三越、松屋の臨時売場と同じように、閉店して銀座に帰ってしまった。一時は新潮社が買って存続させるといううわさが飛んだが、希望的観測に過ぎなかったようだ。

新劇の発祥地赤城神社の清風亭
                           
 神楽坂を坂上まで上り、さらに大久保通りを越えて少し歩くと早稲田通りに突き当たる。すると斜め正面に大きな森が見えてくる。東西線の神楽坂なら神楽坂口から出ると目の前である。赤城(明)神社の森である。民家が境内に侵食するように社を取り囲んでいる。今では面影もないが昔、この辺りは門前町が開け、岡場所として賑わったところと聞いている。

  赤城神社はその名のとおり祭神は上野の国赤城山赤城神社と同じ霊だと伝えられる。はじめ大胡氏が赤城から早稲田田島(現鶴巻町)に勧請したものを、勝行の時代に江戸川(神田川)の谷を隔てて小石川の高台を望む今の場所に移したものだと言われている。早稲田田島を元赤坂神社と呼んでいる。
  赤城神社の境内の突き当たりにかって清風亭という貸し座敷があった。ここは坪内逍遥を中心に早稲田の学生らが脚本の朗読や舞台稽古に使った所で、後の「文芸協会」の基礎を作ったところである。その後清風亭は江戸川べりに移り、その跡は「長生館」という下宿屋に変わり、広津和郎など同時代(大正6年頃)の多くの早稲田の文士が住んでいた。広津和郎などはわざわざ神楽坂の銭湯まで来たという話が残っている。

芸術座の横寺町は早稲田の学生と     
 
          プロレタリアートの街


  赤城神社から神楽坂を大久保通りの方向に少し戻り朝日坂を上った所が横寺町である。
  昔から寺に混じって安カフエー、飲食店、染物屋、アパート、製本屋、質屋、髪結といった店が渾然と建ち並ぶ地域だった。尾崎紅葉の住居があり[明治24年(1891)~39年(1906)]、逍遥から別れた島村抱月と松井須磨子の芸術座[大正4年(1915)~7年(1918)]があったところである。
  大正7年(1918)米騒動のあと貧民救済として東京市は神楽坂公衆食堂 を開設している。食堂では朝飯10銭、昼・夜15銭で、労働者、学生、勤人等、多くの独身者は食堂を中心に生活していた。ちなみに昭和3年の利用者は年間 1,232,907人収入金額 139,326・40円で市内9ヵ所のうち20パーセント以上の利用者を占めていた。1日延べ 3、000人の人が安値に集まっていた。言わばプロレタリアートと学生の町という所だった。
  何軒かの酒場は朝から夜遅くまで多くの人が集まり、何時でも、どの店もおびただしい数の空いた徳利がテーブルに転がされていた。なかでも、縄のれんが懸かった官許どぶろくの看板で知られた「飯塚酒場」は、神楽坂を知るものなら誰でも知っていた。ここで一杯引っ掛けて神楽坂を回るのを「通」のやり方とも言われた。太平洋戦争の最後まで国民酒場として酒飲みを楽しませたところである。

坪内逍遥の文芸協会と抱月の芸術座

  明治35年(1902)東京専門学校が早稲田大学と改称されると、それまで専門学校で倫理と英語を教えていた坪内逍遥は、早稲田中学校の校長になった。その頃から新舞踊劇の創作に熱意を燃やし、新劇運動の準備をしていた。                                
  逍遥は欧米演劇視察旅行から帰るとすぐに明治39年(1906)新宿区余丁 町の自宅の敷地内に抱月らと文芸協会演劇研究所を設立した。島村抱月は早稲田の文科、2期の卒業生で、松井須磨子は研究所の第1期生である。抱月とは師弟関係であった。
  抱月と逍遥はお互いの人生観や芸術感の違いから演劇に対して意見が合わなかった。そのうえ、抱月の起こした弟子であり人気の女優須磨子との恋愛事件は当時の社会状況からして興味と疑いの目を向けられても当然のことであった。特に協会内の恋愛問題についてとりわけ厳しかった逍遥は、須磨子に文芸協会を諭旨退会を命じた。須磨子が退会する同時に抱月も文芸協会を去ることになった。                

  抱月と須磨子の退会によって文芸協会が解散と決まったとき、夜更け一人で金槌で演劇研究所の舞台を狂人のように叩き壊しているを見たと言う話からも、逍遥の無念さが伝わってくる。抱月は妻子を捨て須磨子と同棲生活に入り、大正2年(1913)7月に新たに江戸川べりの清風亭で松井須磨子、沢田正次郎らと芸術座を結成する。そして同年9月に有楽座で第1回の公演を開催している。
 ふたりの同棲生活ぶりは周囲の劇団員を辟易させるほど相思相愛のなかだったという。須磨子の熱情的な演技は絶賛を博したが、私生活は奔放な女性で、料理が不得意で連日納豆が続き、牛込の芸術倶楽部で生活していたときは、納豆のわらづとが山積みされていたという話が伝わっている。 

新聞号外まで出た須磨子の自殺

  だが、抱月は大正7年(1918)11月、当時世界中で猛威をふるっていた スペイン風邪がもとで急死する。それから2ヵ月後、演劇活動と伴侶を失った須磨子は「カルメン」の公演を終えた大正8年1月5日絶望のあまり抱月の後を追うように命を断った。
  いまなお唄い継がれる「復活」の主題歌「カチューシャの唄」と共に日本で初めての近代劇の女優として一世を風靡した松井須磨子の後追い自殺のニュースは号外が出るほど世間を驚愕させた。
 「抱月と一緒に葬ってほしい」の須磨子の遺言は、抱月の家族の反対で果たされず、彼女の墓は生家長野県松代と弁天町の多聞院にある。翌年、須磨子を哀れみ多聞院の須磨子の墓のそばに「抱月・須磨子・芸術比翼塚」が建てられた。
 ちなみに、同じ時期女優として活躍した川上音二郎の妻・貞奴は明治32年(1899),35年(1902)の2回にわたる海外公演を終え、明治37年(1904)に日本で初めて女優として「オセロ」に出演している。

徳川夢声、山野一郎、松井翠声が出演した牛込館

  毘沙門天の先、地蔵坂を上り光照寺に向かう途中藁店に戦前まで洋画のファンなら誰でも知っていた牛込館があった。2番館だったが名画を上映することで山の手でかなり有名な小屋で、電車でわざわざやってくる客も多かった。芝居をした名残か舞台が広く映画のほかレビユーが上演されることでも人気があった。無声映画時代、徳川夢声、山野一郎、松井翠声ら当時一流の弁士が出演したことも、牛込館の名をあげた理由の一つかもしれない。
 「オッペケペ節」で知られた壮士劇の川上音二郎と一緒に活躍した役者であり劇作家であった藤沢浅次郎が明治41年(1909)、寄席・和良店亭を改装して俳優養成所(牛込高等演芸館)を設立したところである。藁店の寄席といえば初代都々逸坊扇歌が天保9年(1838)初めて都々逸をここでうたったと言われる。       
逍遥と別れた抱月と須磨子は芸術座を旗揚げするまで、清風亭で同好の士が集まり二人について脚本の朗読や舞台稽古に励んだ。そして、しばしば高等演芸館で試演を試みたと聞いている。
  大正4年(1915)飯塚酒場の先、横寺町11に抱月と須磨子は劇場兼練習 場・芸術座(芸術倶楽部)を建設する。この建物は大正3年上野で開かれた大正博覧会の演芸館を移築したもので、木造2階建・客席200・緑色のペンキを塗られ、この辺りとしたらなかなかモダンな建築物だったそうだ。 
  後に新国劇で活躍した沢田正次郎と須磨子のトルストイの「闇の力」や、有島武郎の「死とその前夜」はここの舞台で演じられ大きな話題となった。 大正5年(1916)神楽坂生まれの水谷八重子は「アンナカレーニア」でセルジーの役で出演している。須磨子が抱月のあとを追い自殺した後は、芸術座の建物は新宿周辺の歓楽街の女性が住むアパートにされたと聞く。

水谷八重子に観客が神楽坂下まで並んだ

  演劇でもう一つ忘れてはいけないのは牛込会館である。
  牛込見付から5~60メートル神楽坂を上ると右角に、コンビニ・サーク ルKがある。むかしここは「江戸名所図会・牛込神楽坂」で見られる土塁で囲まれた屋敷があり、神楽坂に面する角の部分だけ石垣が組まれていた。牛込会館ができる前は石垣の上に銭湯があったことで通称温泉山と呼んでいた。関東大震災の少し前、貸し座敷牛込会館が竣工した。
  震災で市内の芝居小屋はほとんど焼失したので、劇場が修復するまで多くの演劇がここで公演されることになった。震災後初めて水谷八重子が大正12年12月(1923)「ドモ又の死」「大尉の娘」を公演した時は、観客が市電の通りまだ並んだ。八重子は13年(1924)第2次芸術座を発足させてい る。そのあと、牛込会館は白木屋が営業したがほとんど客が入らず廃業している。今でもよく観察するとサークルKの裏に石垣跡が見られる。   
  赤城神社の清風亭にはじまり、余丁町の坪内逍遥の文芸協会つづいて島村抱月の横寺町の芸術座、藁店の藤沢浅二郎の俳優学校・牛込高等演芸館と明治末期から大正の初めにかけて神楽坂は日本の新劇運動に非常に縁の深いところであったと言えよう。
  
抱月との恋愛事件が須磨子の名声をあげる
          新しい時代を生きる女性として共感

  明治45年(1912)有楽座で幕を開けた文芸協会第3回公演、ズーデルマン作『故郷』は、初日から8日目に警視庁から上演中止を申し入れられた。
 『故郷』は頑迷な軍人の父の反対を押し切り、オペラ女優になった女性の物語である。久しぶりに故郷に帰ってきた女優マグダが父から私生活をなじられてふたたび口論になり父を憤死させてしまう。その結末が当局を刺激してしまったのだ。
 文芸協会では『故郷』の訳者であり演出家の抱月に時の内務次官床次竹二郎のもとに陳情に出掛けさせた。そして劇の最後にマグダに「みんなわたしの罪です」といわせ、神の前にひざまずく場面を入れることで、公演中止を撤回してもらった。

  この事件によって『故郷』は全国に知れ渡り、文芸協会の名を有名にさせてしまった。その1年前のイプセンの『人形の家』で主人公のノラを演じた須磨子の評判とこの事件が相乗して女優・須磨子の人気を決定的なものにした。世間では須磨子を個性的なノラやマグダに重ね合わせ新しい時代を生きる女性の姿として共感を持ったのである。そして抱月との恋愛事件は舞台を通してふたりの恋愛の自己主張の場のように思われ、一層の魅力を感じ須磨子の名は全国に知られるようになった。
  大正2年7月、抱月と芸術座を旗揚げした須磨子は9月に有楽座で第1回の公演にメーテルリンクの『内部』『モンナ・ヴァンナ』を上演したのを皮切りに、ワイルドの『サロメ』、イプセンの『海の夫人』、チエホフの『熊』、トルストイの『生ける屍』『復活』、ツルゲーネフの『その前夜』など自殺する前の5年間に、上演種目33、上演日数880、上演箇所195、上演場所は国内はもとより朝鮮、満州までに及んでいる。

  須磨子は長野県松代の旧士族の家に生まれた。17歳で姉の婚家先を頼って上京したが、結婚生活に破れて女優を目指した。女優になることを決意したとき一族の海軍中将から「一門の恥辱」と激しく罵倒されたという。須磨子の生き方があまりにノラやマグダに似ていたのが世間の興味をひいたのかも知れない。

今でも唄われる「カチューシャの唄」はラヂオもテレビもない時代
                       爆発的な人気で津々浦々で歌われた


  なかでも大正3年(1914)3月帝国劇場で初演された『復活』はふたりの名を不動のものとした。全国を巡回、芸術座解散までに上演回数440回にも及んだ。
  劇中、カチューシャに扮した須磨子の唄う『カチューシャの唄』は、爆発的な人気で、蓄音機がまだ一般にそんなに普及していない時代にレコードが2万枚売れるという大流行を巻きおこした。京都南座で公演中、「駱駝印・オリエント レコード」に吹き込んだものだが「カチューシャの唄」は現在の歌手とは比較にならないが素朴な歌い方が人気を呼んだ。
  明治43年(1910)日本蓄音器商会(現日本コロンビアの前身)で蓄音機とレコードが生産開始してから5年は過ぎていない時代の話である。
 ラジオもテレビもない時代、全国の公演で各地を回るとその場所、場所で『カチューシャの唄』が先回りして歌われていた程日本中を魅了したのであった。劇中に劇中歌(主題歌)を入れる初めての試みであり、そしてこの唄は「流行歌」の歴史に新時代を画するものとなった。

     カチューシャ かわいや わかれのつらさ
     せめて淡雪とけぬ間に
     神に願いをララかけましょか

 『カチューシャの唄』の第1節を島村抱月、2節、3節を相馬御風が作詞、作曲を島村家の書生をしていた上野の音楽学校を卒業した中山晋平が受け持った。
 それから芸術座は名作を演じるときは劇中歌を入れるようになった。大正4年(1915)ツルゲーネフ『その前夜』には吉井勇の、命短し、恋せよ乙女……「ゴンドラの唄」、5年(1916)トルストイの『生ける屍』には北原白秋の、行こか帰ろかオーロラの下を……「さすらいの唄」が歌われている。いずれも作曲は中山晋平の手になるものだ。

演歌から流行歌へ先鞭をつけた八十と晋平コンビの
                      『当世銀座節』『東京行進曲』


  相馬御風、吉井勇、北原白秋、中山晋平はみな神楽坂周辺に住んでいた。
  須磨子の自殺で、わずかな期間だったがこれらの新しい流行歌の流れに一時終止符が打たれた。そして昭和にいたるまで、明治から引き続き街頭で演歌師が唄う時代や事件を風刺した手作りの流行歌に逆戻りし、卑俗な唄が町に流れた。
  昭和3年7月、ビクターから発売された「当世銀座節」が、翌4年に爆発的大流行すると、西條八十と中山晋平のコンビが生まれ「東京行進曲」「新東京行進曲」「女給の唄」「銀座の柳」「東京音頭」と現代にまで歌い継がれるいわゆる東京のなつメロの時代へと移るのである。
  大衆雑誌「苦楽」昭和3年4月号に載ったすでに詩人として名声の高かった八十の「当世銀座節」を見た晋平が、「是非作曲させてほしい」と西條家を訪問したのがこのコンビの始まりである。八十も早稲田、神楽坂の花街で遊んだ一人だった。
  次回は神楽坂がもっとも華やいだ大正の終わりから、昭和の始めに話を進めよう。


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