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物理学校意外史

物理学校意外史 >> 記事詳細

2005/04/01

貫の国とヤードポンドの国

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連載 (8)<2005/4/1>
      
貫の国と、ヤード・ポンドの国のお国柄
                  
 「出産した長男の体重○○ポンドでした」「毎週ごと、一括してマーケットで○○ポンドの肉を買います」「ニュー・ヨークまで○○マイルあります」アメリカで生活する姪から送られてくる通信はすべてマイル・とポンドだ。日本にいた時はメートル法で育った子だったと思うと不思議な気がする。その度ごとにメートルとグラムに換算してはじめて納得する次第だ。アメリカの事情は分からないが、日常生活ではヤード・ポンド法が広く使われているらしい。
  日本でも私が子供の時代、体重は貫、身長は尺、距離は里で表していた。さすが、学校や役所ではメートル法を採用していたが、世間では酒は升、砂糖は斤で買い、目方は匁、距離は間、町、里だった。
  明治政府は明治8年(1875)の太政官達で度量衡取締条例を公布、貫原器と尺原器を地方に配布して、検査に合格しないものは使用を禁止した。これにより中世以来乱れていてわが国の度量衡がはじめて統一されたのである。
 これによると、伊能忠敬の折衷尺を1尺と定めその1.25尺を鯨尺とし、秀吉の京枡を原型に64.827立方寸を1升、3.756574グラムを1匁としている。複雑な数字は当時万国共通単位として認められつつあったメートル法を将来導入する意図があったことが伺える。
 明治18年(1885)メートル条約に加入、明治23年(1890)メートル及びキログラム原器の交付を受け、翌24年(1891)に度量衡法を制定して、尺貫法の基礎をメートル法に置き換え、1メートルの10/33 を1尺に、1キログラムの15/33を1貫としてメートル法の使用を認めることになった。わが国のメートル法の導入である。
 
メートル法は第一帝国議会の議題だった    

  これら一連の動きについて物理学校の維持会員の活動が大きく関わっていたことを見逃すことが出来ない。仏語、維持会員の学んだフランス物理学、メートル法を生んだフランス、その系譜をたどれば物理学校とメートル法の因縁を納得出来るようなきがする。
 
  50年小史の維持会員「高野瀬宗則」の略伝の中で
「明治19年農商務省権度課長ニ挙ゲラル。爾後専心本邦度量衡改正ニ盡瘁セラレ当時大臣次官局長ノ更迭頻数ニシテ容易ニ目的ヲ達する事能ハサリシモ、先生ノ意益々顰シ。明治22年陸奥宗光氏大臣ニ、斉藤修一郎氏次官トナルニ當リ先生又度量衡改正問題ヲ提ゲテ其己ムヲ得サルヲ痛論スルコト数回、遂ニ其賛成ヲ得テ第一帝国議会(明治23年)ニ提出セラレ、直ニ協賛ヲ得ニ至レリ・・・・・爾来其実施ニ付テ引続キ心血ヲ注ガレ計図畫策皆宜キヲ得、明治32年ニ至リ予テ難事業ト思惟セラレタル第1回定期検査モ無事終了スルコトを得タリ」と書かれている。
 
  また前回にも述べたように同じく50年史「寺尾寿」在職満25年祝賀会に於ける藤沢教授の演説の中に寺尾寿がわが国のメートル原器をフランスから持ち帰った話しがある。
 
「明治22年ニハ測地学ノ本邦代表ノ委員トシテ巴里ノ万国会議ニ御列席ニナッテ居リマス、一寸ソノ巴里ニ御出張ニナリマシタコトニ就テ此席ニテ胸ニ浮ビマシタノハ私ノ記憶ノ誤リカモ知レマセヌガ御帰リノ時分ニ現ニ本邦デ用ヰテ居リマス現今商務省ニ保管サレテ居ル我国ノ基本尺及ビ基本分銅ハ寺尾君ガ巴里カラ責任ヲ以テ御携帯ニナッタ様ニ記憶致シマス」とある。(記録によるとわが国がメートル原器を受け取ったのは明治23年(1890年と記載されている)
 
  私が物理学校でお世話になった上原覚先生(大正13年理化学科卒)から次のような話をよく聞かされた。「メートル原器の材質、白金イリジュウムの値段が高く、はじめ製作したものは個数も限られていた。本来、世界のメートル原器はすべて同じ釜で同時に溶かされた金属で作られていなければならない。しかし、日本の原器は2度目に鋳造されたもので厳密に言うと、はじめに作られたものと材質が異なるものだ」「キログラム原器をフランネルでこすると、何回で何グラム減るか」など質問も受けた。
  上原先生は化学の教師であり別にメートル原器に興味を持っていたともおもわれず、恐らく学生時代原器について相当詳しく話しを聞かされたのだと思う。
 しかし、メートル法が日本の社会のなかで抵抗なく使われるまで長い年月を要した。大正10年第44回帝国議会で全ての計量をメートル法に統一する法律が可決されたが、何回も猶予期間が延期され、昭和34年(1959)1月1日から、ようやくメートル法
以外の単位が日本の国内から見られなくなった。
 
私の机の引き出しの センチ・インチ・尺の刻まれた1本の物差し     

  私の机の引き出しには何本かの物差に交じってセンチ、インチ、尺、3つの目盛りのついた折尺が一つ入っている。昭和34年メートル法の施行前に探し回って手に入れたものである。今では何処の文房具屋でも売っているが、当時はメートル尺以外は、店から姿を消していた。
  メートル法がわが国で強制施行(言葉が悪いかな)されることになり、日常生活でなじみの深かった1尺、1貫目、1インチ、1ポンド、つまり尺貫法、ヤード、ポンド法が法律で使えなくなるばかりか、メートル以外の物差しまで販売が禁止されると信じ込まされた。それまでの物差しは大体センチと尺の目盛りが上下に刻み込まれており、さらに丁寧のものは裏面にインチの目盛りがあった。世間ではメートル法強制施行を予測してか、かなり前から市販される物差しから尺とインチの目盛りが消え、メートルだけのものが多くなっていた。
  当時、町工場をやっていた我が家の工場の計側器の中にヨーロッパ製のものと、アメリカ・イギリス製のものがあり、それぞれメートルとインチに表示されていた。それらは製作する製品によって使い分けていた。           
  事態を重く見た父は物理学校の学生だった私に「うちの計測器に合わせてインチとメートルの換算表を作ってほしい」と頼まれた。しかし、さらに困ったことに、新しく購入する尺(物差しのこと)がメートルだけの尺のものが大勢を占め、昔のようにメートル、尺、インチが同時に刻まれた物差しが無くなってしまった。工具屋に頼んでも「仕入先にも品物は無いし、新たに作っても法律改正後、販売禁止にでもなれば大事だ」という返事が戻ってくる有様だった。
 父が心配して工具屋に古い物差しを集めさしたことを覚えている。私の机の折尺もその時の1本である。母も近所の女性と鯨尺を何本も買いあさっていた。

日本の度量衡の専門家は物理学校で育てた

  東京物理学校50年小史によると「明治24年9月、農商務省権度課長の内議に応じて本校に度量衡科を置く」あるが、26年7月廃止になるまでの2年間に68名の卒業生を出している。明治の初め政府は司法官僚を法務省法律学校で、大蔵官僚を大蔵省簿記講習所などで速成した。恐らく政府は国内で混乱していた度量衡をメートル法導入を機会にまとめる必要があり、技術者の養成を物理学校に依頼したものだろう。だが一方職工学校の入学希望者の入学試験準備の受け入れや、度量衡科の設置は直接学校の貴重な収入源につながったことも事実であった。
  この時代の農商務省権度課長は維持会員の高野瀬宗則であった。高野瀬は退官後の明治40年、大日本度量衡株式会社を設立している。
       
物理学校が20年を過ごした小川町1番地というところ    

  明治19年(1886)から39年(1906)までのおよそ20年間、物理学校が小川町校舎から神楽坂に移転するまでの期間、間借りの生活から世間に知られた学校に成長して行くドラマを語る前に小川町1番地について探ってみよう。
 
小川町界隈を歩く
       九段坂と九段校舎

 
  地下鉄九段下駅に半蔵門線が乗り入れてから、構内にエスカレーターの設備が増設され、ホームから階段を上がらなくても楽に地上へ出られるようになった。駅近くに学校が多いのでオフィス通いの通勤客に交じって学生の姿が多く見られるのもこの駅の特徴だ。
  平成16年7月、母校の東京理科大学は靖国神社大鳥居前の旧都市基盤整備公団の土地建物を取得した。母校は現在神楽坂キャンパスの再構築を進めており、この建物を一時仮校舎として使用、将来は専門職大学院の新キャンパスに整備する見通しだ。旧都市公団は敗戦まで旧陸軍将校の共済会の本部偕行社の置かれていたところで、長靴を履き軍刀を下げた軍人以外は近寄りがたい場所であった。
  田安門をくぐると日本武道館だが、戦前は近衛師団の兵舎があった。この周辺神田、麹町は母校が物理学校の時代、神楽坂に落ち着くまで揺籃の土地である。

  新校舎(仮称九段校舎)をたずねようと、地下鉄九段下で電車を下り、案内板を見ると、まだ東京理科大学の表示は無く、設備公団と書かれた文字の上に黄色のテープが貼られていた。これを頼りに武道館口から地上に出ると、正面に靖国神社の大鳥居、右にクリーム色の九段校舎が目に飛び込んできた。長い間、建てつまった、隣りとの境界線も分からない神楽坂の校舎に慣れっこになっていた者にとっては、東京の街を見下ろすように、お堀と江戸城の緑を借景にした九段校舎に母校の未来を感じた。
 九段坂は名の通り、昔は9段の段々がある坂だったとか、役人の長屋が9段にわたり作られていたなど、いろいろ説があるが定かではない。坂の傾斜は現在と比較にならぬほど急だったが、関東大震災後ならされて市電が走るようになり誰でも楽に上れるようになった。阪下には大八車の後押しを仕事にる男たちが屯していた。
  九段坂下、このずっと手前右側に稚松学校があった

俎橋と日本橋川沿いの
           九段校舎と稚松学校

  九段校舎から靖国通りを300メートルほど下がり、俎橋(まないたばし)で日本橋川を渡ると神保町である。首都高速・池袋線が川を跨ぐように、水面を覆い隠している。ここは日本橋川の堀留で関東大震災頃までは東京湾から舟が荷物を積んで上下していた。銅版で出来た飯田町の歴史散歩の道標にも堀留に繋留された数艘の船が描かれている。
  戦前は日本橋川を境に、靖国神社側が麹町区飯田町、神保町よりが神田区今川小路に分かれていた。(現在は両区共に千代田区)嘉永年間の江戸絵図では飯田町は町場、今川小路は武家屋敷地になっているが、明治になるといち早く市街地になり、堀留の周囲には商店や船宿、船頭、荷揚げ人足相手の安宿、飲み屋などが群がっていた。

  飯田町4丁目(現在の九段北2丁目)、今川小路3丁目(神田神保町3丁目)は母校が東京物理学講習所時代を過ごした場所である。今川小路の校舎は100坪の借地に始めて30坪ほどの自前の校舎を建築、校名も東京物理学校に改めたところだ。しかし、明治17年9月、15日東海道に暴風雨が襲い静岡県、東京府などに大被害をもたらし今川校舎も倒壊するという悲劇に見舞われた。
 
  俎橋を渡らずに川に沿って左に折れると稚松学校があった。母校は明治14年9月11日、ここの教室を借りて物理学講習所を開いた。今回母校が取得した九段校舎とは目と鼻の距離で300メートルとは離れていない。120年にして里帰りというところだ。なにぶん稚松学校は小学校である。児童用の机、椅子では大人には小さくて困るという事情からその年の暮れに神田錦町1丁目の大蔵省官吏簿記講習所兼倶楽部の建物の一部を借りて移転した。
 俎橋を渡り靖国通りを真っすぐに神保町の交差点を渡ると、道は右へ大きくカーブする。道の右側が錦町、左側が小川町である。日本橋川は俎橋から錦町の北を流れ、首都高速池袋線を伴って日本橋から東京湾に向う。
 
駿河台・錦町・小川町というところ
            もとは武家屋敷、明治になって市街地に

 
  家康が江戸入府(天正18年)する以前、神田川は平川といって江戸市中を貫くれっきとした川であった。石神井池を源に、牛込台地と本郷台地の峡間の谷間を切り開き、武蔵野台地の山裾の東京層と関東ロームの不整合面から湧き出す豊かな湧き水を集めて東京湾に注いでいた。その豊富な水は神田上水として利用されて、江戸の下町を潤おしていた。日本橋川はかっての平川の流れの跡である。
  幕府は伊達藩に命じ、江戸の町を平川の洪水から守る目的と江戸城の外堀の建設を兼ねて、本郷台地の鼻先を掘削して元和6年(1620)神田堀を通した。JR御茶ノ水駅のホームから俯瞰できる掘割である。そして平川の流れは小石川から神田掘に流され隅田川に落とされるようになった。この時を境に平川は神田川と呼ばれ、流れを失った平川は運河として残され日本橋川となった。
  神田川で切り離された本郷台地の南側半分の高台には駿府の家臣が移り住み「駿河台」と地名が付けられた。一方、錦町、小川町周辺の神田低地には舌状に張り出だした駿河台の縁から湧き出す豊富な崖水(ハケミズ)が何本かの小川になって流れていた。

 「武蔵野の小川の清水絶えずして岸の根芦をあらひこそすれ」道灌の歌にあるようにこの辺りは沢山の小川の流れる湿地帯で小川の地名は古くからあったようだ。家康の時代も「岩淵夜話別集」にあるように「東の方平地の分は、ここもかしこも潮入の茅原にて、町屋侍屋敷10町と割付くべき様もなく」と道灌が詩をよんだときと何ら変わらなかった。徳川開府当時は、湿地帯に広がる草原には鷹狩に使う鷹を飼育する「鷹匠」が住んでいたことから、元鷹匠町と呼ばれていたが、その後藩士の上屋敷が建つようになると安政年間に小川町と改正されている。

  靖国通りが神保町から淡路町にかけて大きくカーブするのは駿河台が小川町低地に舌状に張り出した縁に沿って走るからである。幕末になると、幕府はこの辺りを御用地として歩兵の駐屯所に使用していたが、維新後は廃止され、明治5年(1872)には周辺の武家地とともに整理され市街地にされた。しかし、徳川幕府の崩壊に伴い、武家屋敷の住人がみな国元に引き上げ、江戸市中の大半を占めていた武家地はみな空家同然になっていた。
  南市政裁判所に勤務した土方久元の回顧録によれば「なにぶんその頃駿河台などは明屋(空家)ばかりで盗賊が住んでいるという有様で・・・・明治3年の夏までは3尺もある草が茫々として・・・・いかにも不要(用)心であった」と書いている。
 だが、この辺りの開発は予想以上に急速に進み明治5年には武家屋敷が整理され、またたくまに市街地に変わった。神田に近く、旧市街地に比べて地価も安く学校などの大きな建物の進出を容易にしたという。

  明治の初め錦町の蕃書調所の隣、三番御火除地に開成学校(東京大学の前身)が開校すると、それに続くように、明治10年代に入ると東京の法科系大学のほとんどが小川町周辺で誕生した。10年代には東京法学校(法政大学)、専修学校(専修大学)、明治法律学校(明治大学)、英吉利法律学校(中央大学)、やや遅れて日本法律学校(日本大学)が明治22年に開校している。

 市街地になったが、武家地は正式に地名を持たなかったのでこれらの新しい町に町名が付けられることになった。 東京府の「昔から使われている耳に通りやすい名前を」の通達に従い町名を「小川町」に決めた。物理学校小川町校舎は小川町1番地にあった。何故か1番地の範囲が広く町の大半を占めていた。1番地が地番を表すのでなく小川町で一番繁華なところと言う意味があったのかもしれない。
  明治11年(1878)7月、地方三新法が制定されると、東京府は収入の多い地域を、麹町区・日本橋区・神田区など15に分け、区を設置し小川町は神田区に編入された。明治10年代には町並みが整い、寄席、貸席、大弓場、撞球場など各種の娯楽施設も整い、牛肉鶏肉料理店、割烹料理店から、小間物店、洋傘店に至るまで、また何軒もの勧工場(現在のスーパーマーケットか百貨店のような店)があるほど町は賑っていた。市電が開通すると、神保町、須田町は市電最大の乗り換え場所になり、さらに市内で指折りの繁華街として成長していった。

  明治33年、神田錦町3丁目、貸席・錦輝館では東京で始めて映画が上映され連日満員の盛況だった。庶民の町としての一方学生の町としても栄えた。東京大学の開設で周辺に予備門受験準備のための塾舎(予備校)が乱立し学生(書生)で溢れていた。交通の無い時代早朝から始まる塾舎にあわせるため学生は皆小川町周辺に下宿を余儀なくされたのであろう。さらに多くの私学の誕生はこの現象に拍車をかけることになったのである。官員を目指し立身出世を願う若者が殺到したのだった。古本屋の町としても栄え、一時は300軒を数えた。
  一方漱石の「坊っちゃん」ように1年200円で4畳半の下宿に蟄居すれば、学生生活を十分送れるような貧乏学生の町でもあった。その後何回か地名地番の変更があり昭和22年から千代田区神田小川町2丁目になっている。
  
開校後、所在地を移すこと5回
       ようやく落ち着いたところは神田小川町1番地
               4つの大法科学校に囲まれたど真ん中

 
 神保町の交差点を過ぎ、靖国通りをUFJ銀行の角を右に曲がると右側一帯が錦町2丁目、道路を隔てて左側が1丁目である。さらに奥に進むとUFJ銀行から、東京電機大学、神田警察署と続く。明治20年作成の参謀本部の地図(現在の国土地理院)には、UFJ銀行は東京法学校、東京電機大学は三菱商業学校、神田警察署は大蔵省用地と記載されている
  大蔵省用地(神田錦町2丁目)の、道路の反対側が1丁目である。明治14年末から15年まで東京物理学講習所(神田錦町1丁目1番地)が間借りしていた大蔵省簿記講習所兼倶楽部は大蔵省用地の中ではなく道路を隔てた反対側に存在していたと思われる。

  母校が錦町の簿記講習所に移転してきた明治14年暮れには、すでに東京法学社(明治14年開校)から分離独立した東京法学校が錦町2丁目の武家屋敷を借りて開校していた。東京法学校の隣では明治義塾が三菱商業学校の校舎の一部を借りて開校、三田の慶応義塾から若手の教師を呼んで毎夜講義が行われていた。三菱商業学校は明治11年、岩崎弥太郎の肝いりで三菱の社員の教育をしていたが、明治義塾開校とともに吸収され明治18年に廃校になっている。

  東京物理学講習所の塀の向こうの明治義塾では、大隈重信、福沢諭吉、三菱を巻き込んだ北海道の国有財産の払い下げ問題を舞台に、自由党の結成、自由民権、憲法、国会までの広い範囲の熱気をはらんだ論争がなされていた推測される。
 
法律学校はフランス・イギリス両学派に分かれ主導権争い
                      明治義塾は英吉利法律学校へ    

  廃校になった明治義塾の敷地(800坪)と建物(300坪)をそっくり引き継ぐ格好で中央大学の前身英吉利法律学校が開校した。当時東大教授だった中央大学の創設者増島六一郎が明治義塾法律学校の教壇に立っていたことが、英吉利法律学校の開校につながったと思われる。
  民法施行をめぐってフランス法学派とイギリス法学派が論争をまきおこしていた時代である。この論争は私学間で激しくどちらが選ばれるかは学校の将来の問題だとして死活をかけての対立だった。フランス派には、明治法律学校と東京法学校、イギリス派には英吉利法律学校があった。
  母校は時代的にも場所的にもそんな事件に囲まれながら理学の道1本に進んでいた。

  結局、対立は政府がドイツ・イギリス法にならったことでフランス学派は敗退することになったが、フランス物理学の系譜を担い、東京大学フランス物理学科最後の卒業生としてこの事実をどう見ていたのだろうか。
  前島は明治21年に前島の学んだミドルテンプルを模した錦町の名所となるような2層のレンガ造りの校舎を建築したが25年の大火で焼失してしまった。その後、大正15年(昭和元年)中央大学は駿河台の新校舎を建設と共に移転した。電機大学は中央大学発祥地の跡地に建っている。

激動する政治体制のなかで
           理学思想普及の演説会開催が講習所の開設に変わる


  明治14年、東京物理学講習所開設当時のわが国は西南戦争によって国家財政は破綻に近く、国民はインフレ、コレラなど疫病の蔓延に苦しみ、加えて立憲、議会開催を望む民衆の自由民権運動が日本の各所で蜂起、政権を揺るがしかねない状況にあった。政府は言論の弾圧、集会の禁止などで対処したが一向衰えを見せず、その沈静化に苦慮していた。この事態を何とか解消しようとして、明治13年12月の暮れも押し詰まる頃、政府の有力な参議、大隈重信、伊藤博文、井上馨の3人が大隈邸に福沢諭吉を招き政府の計画する新聞の発行に協力してほしい旨の依頼をした。民間に信頼の厚かった福沢に世論の結集を図らせかったのであろう。

 「政府が今のままでは新聞発行の意味は無い」と福沢は引き受けなかった。だが、翌年の1月、3人が福沢に議会の早期開催を約束し、多数の民意を得た党ができれば政権を移譲してもよいとの熱意に動かされ、新聞発行に協力するむねの約束、その準備に取り掛かった。
 しかし、3人の参議と福沢の新聞発行の約束は遅々として進まず、北海道国有財産の払下げが政治問題化されると、閣内で大隈、伊藤、井上の関係が険悪になり、ひとり大隈だけが浮き上がる格好になった。そればかりか大隈は三菱、福沢と密約を交わし、政権をのっ取るという陰謀が図かられているといううわさを呼ぶまでに至った。    
 岩崎弥太郎が三菱を作り上げていった裏に、大蔵省に絶大な権力を振るっていた大隈重信の存在を国民の誰もが疑わなかった。大隈は政商三菱に莫大な補助金と保障を与え、日本海運の独占をゆるしてきた。

 三菱と福沢の提携は明治12年頃から進み、明治生命の創立に始まり、続いて大隈、三菱、福沢のラインで横浜正金銀行が設立され、13年には三菱は福沢の仲介で高島炭鉱を傘下におさめるなど、大隈、三菱、福沢の関係は深まっていった。さらに三菱は北海道開拓使が運営する北海道海運を含む官有物の払下げを目論み、政府に願い出たが断られる結果に終わった。しかし、それから1年後、北海道の莫大な国有資産は、開拓使長黒田清隆が強引に、タダ同然の値段で黒田と同郷の五代友厚の関西貿易商会に払い下げられることになった。

  この問題が閣議で正式に決定を見る前に、明治14年7月27日から東京横浜毎日新聞そして大隈・三田系の郵便報知新聞が「北海道の国有財産の払下げについて」の大スクープを行い政府攻撃を開始した。各紙も一斉にこれに続いた。さらに福沢の門下生が北海道函館をはじめ全国各地で三菱をバックに政府攻撃の遊説活動を始めた。三田派、三菱が持てる全ての機関を使い、払下げの反対の政府攻撃は政府にとってクーデターに劣らぬ脅威だった。明治14年の政変である。
 大熊が払下げに反対し、さらに福沢と三菱が政府攻撃を始めたのは大隈が政府を乗っ取るといううわさになり、結果孤立に追いやられた大隈と福沢はその弟子までも政治の舞台から追いやられることになった。
 以上が明治14年の政変の表面に見えた事件の大方の顛末だが、これほど政府が大隈と福沢の関係に神経を尖らせていたのは、政府さえ倒しかねない民権運動の高まりに危機感を感じていたからである。伊藤博文が大隈陰謀説を政敵の粛清に利用したなど解釈はいろいろあるが後は歴史家にまかせよう。

  ここで母校の開学とまったく関係がないと思われる明治14年の政変をあえて取り上げたのは、開学当時わが国の政治情勢を知っておく必要があると思ったからだ。明治政府は時間がたつとともに有司専制に陥り、それに気づいた国民は新聞、民権家をはじめあらゆるところで民権拡大に向かっての運動を展開していた。政府は政権維持のために、警察力まで動員して政治活動に弾圧を加えた。なかでも政治に関する演説会や集会禁止の集会条例は、演説会の趣旨の広告、演説会の出席、屋外集会等の禁止など過酷なものだった。

 この条例の施行にあたる下級警察官が演説会や集会の目的、内容も分からずに闇雲に取り締まることを懸念して、東京物理学講習所の開学者は理学普及運動の計画を講演会開催から講習所開設に変更した。この変更が東京理科大学が出来る要因になったのかもしれない。
  郵便報知に東京物理学講習所の設立広告が掲載されたのは明治14年6月13日、同紙が政府攻撃を開始したのが7月27日、開校したのが9月11日だった。まさに政変の真っ只中だった。
 ちなみに政界を追われた大隈は翌15年東京専門学校(早稲田大学の前身)を創立、福沢は時事新報を発刊している。 
             
東京法学校の校舎を購入して母校の小川町時代が始まる    

  明治14年、東京法学社から分離独立、錦町の旗本屋敷に移転してきた東京法学校は生徒の増加により、17年靖国通りを隔てて学校の真向かい小川町1番地のレンガ建ての勧工場を買収、改修して自前の校舎を構えていた。
  明治19年11月、フランス語を通して維持会員の大半が属していた仏文会が東京法学校の校舎を借りてフランス語の学校を開いていた関係で、その教室を夜間だけ借用するという極めて複雑な約束で小川町に移ることになった。後に仏文会は仏学会(現在の日仏協会)に吸収されて東京仏学校となり東京法学校と合併して法政大学に発展する。
  しかし当時、東京法律学校には思うように生徒が集まらず、勧工場買収の時の借金が負担になり東京仏学校と合併して和仏法律学校となり、勧工場の校舎を東京物理学校に売却して現在の富士見町へ移った。母校が手に入れた勧工場の校舎は東京法学校の建物の半分にあたる1棟で平屋レンガ造り444.15平方メートル(約135坪)借地だったらしい。買収価格は2200円だった。

同じフランス学派東京法学校(法政大学)の存在で
          駿河台へ進出をためらった明治法律学校(明治大学)
 

 
明治11年開かれた第1回内国勧業博覧会に展示された物品を即売する場所として麹町辰の口旧評定所跡に東京府勧工場が作られたのが勧工場の始めである。その後、勧工場はよい品が安いということで評判をとり、民間のものまで市内に乱立したが出品物以外の偽物を売る店が出て評判を落とし、閉店する店もでた。しかし市民の間ではスーパーマーケットとして利用され大正の末期まで愛された。
  母校が神田錦町を離れ再び神田小川町1番地に戻る5年間に小川町界隈は法律学校の町として大きく様変わりしていた。明治14年、自由民権思潮の高まる中、有楽町の島原藩邸跡に開校した明治法律学校は授業料を取らないこともあって生徒が急増したため、19年東京法学校と目と鼻の先神田南甲賀町(現在の明治大学より小川町より)の600坪の土地を手に入れ、近くの東京法学校の躍進を気にしながら1万3000円を費やし市内でも有数の校舎を建設した。

  明治37年から夏目漱石は東京大学で講師をやりながら明治大学で講師を兼任している。東京物理学校から距離で200メートル程のところだから、物理学校の募集広告も見たし、坊ちゃんが200円で1年間生活可能の小川町を十分理解していたと思う。
  明治法律学校が小川町進出をためらったのにはわけがあった。もともと両校の創設者は法務省法律学校で『お雇い外国人』のフランス人教師ボワソナードからフランス法を学んだ仲だ。ボワソナードは明治政府が民法典を作るため、日本に呼んだ外国人だった。その人気の高いボワソナードを教頭にして、通訳つきのボワソナードの講義を目玉にした東京法学校の存在は同じフランス学派の明治法律学校にとって脅威だった。
  ちなみに明治15年、大隈は東京専門学校(早稲田大学の前身)の入学式を挙行している。東京専門学校の敷地は1500坪、450坪の建物の建築費はざっと1万円で大隈が出したという。
  明治17年母校の今川小路校舎が倒壊した翌18年、専修学校(専修大学の前身)が同じ今川小路の560坪の土地に81坪の校舎を建築している。
  明治10年代小川町周辺に開校した学校の規模を、敷地と建築費で比較するのも面白い。
                                
                                                  

  
先月、今月号で「坊っちゃん」にご登場願い小川町時代の母校の様子について語ると予告しておきましたが、取材の都合で来月号にさせていただきます。


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