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2004/03/15

外堀の鰻は江戸前?

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神楽坂界隈 連載(5)<2004/3/15>

外濠の鰻は江戸前?

  太平洋戦争が終わって間もなく外濠に貸しボート屋が再開した。 夏の日暮どき石垣の縁にボートを横付け、じっと鰻を釣る人が見られた。釣るというより石垣の隙間に鉤を付けた仕掛けを差し込み、鰻を引っ掛けて、引きずりだすといったほうがいいのかも知れない。ボートの底に数匹かの鰻がくねっていたのを覚えている。食料難の時代羨ましい風景だった。

  江戸前という言葉がある。「広辞苑」によれば 「芝、品川など江戸前面の海」「ここでとれる魚を江戸前産として賞味したのに始まる」と解説され、さらに「鰻では、浅草川・深川産のものをさす」とある。
 江戸川(神田川)は浅草川の上流である。鰻はかなり川上までさかのぼるから外濠の鰻は江戸前といってよいだろう。江戸時代「志満金」は江戸川河畔の隆慶橋で鰻の卸を生業としていた。      

牛込停車場から飯田橋駅へ

 大正の終わり頃、中央線は昌平橋(神田と御茶ノ水の中程にあった停留所)まで延びここが終点だった。まだ東京駅まで開通していない時代だった。その後、万世橋と駅名が変わり廃止された。駅舎は交通博物館になっている。駅前には日露戦争に従軍、旅順港で戦死した広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像があることで知られていた。戦後、撤去され今はない。 

 山手線も東京駅を始発して、品川・新宿・池袋をまわり上野で終点、東京~上野間はまだ線路がなかった。中央線の起点が東京駅になり、中央線と総武線が秋葉原でつながり、山手線が循環するようになったのは昭和になってからのことである。
 それを機会に中央線は複複線になり牛込停車場が飯田橋と名を変え現在の場所に移された。昭和3年のことである。昔の牛込停留所は牛込橋より市ケ谷よりにあり、駅舎をでると牛込橋と平行にかかるもう1本の橋で外濠を渡り神楽坂下に出た。坂下の公衆便所の辺りからから貸しボート屋へ細い道が続いている。かっての牛込停車場に至る道だったのであろう。

  長い丸屋根の陸橋を渡り飯田橋西口(牛込見付)を出ると「メガネドラッグ」の大きな看板が目に入る。どこか場末の駅前にいるような錯覚を受ける。私の知っている範囲では駅を下りるとすぐ正面にお外濠が大きく広がり、繋留されたボート越しに理科大の旧1号館が望見することが出来た。今では店の陰になりこの風景は消されてしまった。                


早慶戦で早稲田が勝っと神楽坂は早稲田一色

  神楽坂は、いや旧牛込区といったほうがいいのかも知れぬが、山手線の内側にあって鉄道の便には恵まれなかった。市内を移動するには牛込見付(神楽坂下)まで出て市電(路面電車)を利用した。

  牛込の住人だった作家の田山花袋は『東京の30年』で電車の無かった時代の東京の交通について 「……交通は十の八九は、車に由らなければならなかった。……本町の角で、そこに待っている車に乗って、濠端を九段の下に出て、飯田町の坂の上に、牛込見付から神楽坂へと来て、そこで車を捨てて、今度は原町乃至若松町の自宅までてくてくと歩いた」と書いている。このルートには現在、地下鉄東西線がはしっている。昔も今も人の動きはあまり変わっていないようだ。

 花袋は、この道が大変だったらしく「電車がないから、山の手に住んだ人達は、大抵神楽坂の通へと出かけていった」といい、都市交通の発展とともに銀座や日本橋が飛躍的に繁栄するようになったとも言った。逆に「交通の発展は、神楽坂に人は来なくなる」と読み変えるのはあまりに皮肉的な見方であろうか。                    
  早稲田の学生は坂下で電車を下り神楽坂を歩いて通う者が多かった。早慶戦で慶応が勝つと銀座を占領するように早稲田が勝つと、神楽坂が早稲田一色になった。交通が便利になると早稲田の学生も見られなくなった。
  市電の路線のあとが地下鉄のルートになっている。地下鉄東西線は中央線と都心を結ぶバイパスになり、都営大江戸線もそれに近い。


横丁の石畳に情緒

 江戸名所絵図では牛込神楽坂は階段状に画かれている。江戸時代から数回に及ぶ工事で現在は傾斜もかなり緩やかになっているようだ。
 関東大震災後は道路は何回も舗装しなおされた。戦後は一貫してアスファルトだが、戦前舗石になったことがある。アスファルトと舗石を交互にはったので蛇模様になり評判になった。どういうわけか剥がされて歩道ができ今に至っている。舗石は横丁や路地、特に坂道に移されて、町並みに趣を与えている。                      
  店をウインドショッピングしながら、ゆっくり坂を上ると勾配を感じないが、急ぐときつい。恋人や仲間と連れ立って、会話を楽しみながら散歩するには町全体が格好な坂だ。
  何といっても神楽坂の魅力は、石畳の横丁、路地である。坂を一歩横丁に入ると崖に阻まれたり、細い曲がりくねった道に迷い往生する。車は入れない。もちろん消防車も入れないから、牛込消防署の消防車には特にミニのものが作られている。

  前方を歩く人が突然、横丁や家の陰にかくれる。「かくれんぼ横丁」「見返り横丁」など地元の人が可愛らしい名で呼んでいる。運がよければ、三味線の音が聞かれる。日本髪の芸者姿にお目にかかることができれば宝くじに当たったようなものだ。

  神楽坂は何処を描いても絵になる。カメラマンにとってももってこいの試写体があるから、よくテレビに使われる。猫好きにとっても嬉しいところだ。もともと色町だったせいかそんな背景の各所に猫を見受ける。格子の奥、石塀の上からじっと道往く人を眺めている。
  江戸、明治、大正そして現代に次々と瞬時にタイムスリップさせることが出来る町並みが妙に人を寄せ付ける。そんな誘惑がを起こすのには、もともと色町としての素地があるからであろう。現在ではほとんど影を潜めたが、かっては何百軒の置屋、料亭、待合がしのぎをけずっていたところである。
              

神楽町の地名は明治になって付けられた
                    
  江戸時代武家屋敷には正式の町名がなかった。町名のついているところは昔からの町屋であったところ考えてよいだろう。
  嘉永4亥冬新鐫・安政4丁巳年改・市ケ谷牛込絵図では、牛込の町屋は外濠沿いに市ケ谷田町、船河原町、揚場町と並び、神楽坂を上ると肴町(ワラ町)、通寺町、末寺町、横寺町、袋町、岩戸町などが見られる。あとの大半は寺社地(門前町)か武家屋敷地である。
  それ以外の地名は明治5年(1872)の地租改正で付けられた地名でかっての門前町か武家屋敷地だったと考え間違えはない。それまで武家屋敷は非課税であり、課税の必要上とった策である。

  神楽町1~3丁目はその時新たに名付けられた地名で、武家屋敷地だったところである。昭和29年の住居表記変更でこれらの地域は神楽坂1~6丁目にまとめられたので、町名で武家屋敷地の識別は出来なくなった。
  維新で失業した侍が地租改正で税金を払えず家を手放し裏長屋に落ち、芸事を習わしていた娘を生活苦のため芸者に出したともっともらしく説明をする人がいるがいまのところ確証はない。だが、十分な調査結果ではないが、神楽坂には土地所有者でない人が住んでいる(借地、借家)ことが多いところにその問題を解く鍵がありそうだ。


横丁を知って神楽坂が分かる

  神楽坂を知る上、各論に入る前に予め地理的要素を頭に入れておきたい。まず、坂を上りながら大ざっぱに辺りの様子をうかがってみよう。

  上り口、志満金と田口花店に挟まれた横丁を土地の人は鏡花横丁と呼んでいる。突き当たれば理科大だが、右に道なりに曲がると泉鏡花と北原白秋の2人が住んでいて借家があったところだ。
  坂はこの辺りから少し勾配を増し本田横丁の入口まで至る。東京三菱銀行の少し手前、道路右側のサークルK前を右に折れると中通り、理窓会館の通りだ。

 中通りを入るとすぐに急勾配で神楽坂と平行に本田横丁向かう芸者新道が延びている。名のとおり、昔は待合がもっともひしめきあっていたところだ。
  毘沙門天まで上ると、平坦な道が坂上まで続く。この辺りから大久保通りにかけて通寺町、道路の右側が肴町であった。毘沙門天の並びに田原屋があり大正・昭和にかけて文化人の集まるところとして知られていた。この辺りが神楽坂の中心地で、山の手銀座として賑わった。行元寺の門前町として花町の発祥地になったところでもある。

  肴町の角から右に折れると昔藁商人が集まっていたワラダナで、坂を上ると光照寺に至る。牛込の地名ともなった牛込城が在ったところと伝わる。近くにあった牛込館は戦前、洋画で知られ山の手の映画ファンを集めたところだ。
  坂上の大久保通りの先左側、横寺町には島村抱月と松井須磨子の芸術座があった。ワラダナの俳優養成所と共に日本演劇にとって忘れられないところである。                                                                                               明治に刷られた版画を見ると、大八車と人力車が画かれている。話によれば坂の下にはアルバイトで車の後押しをする学生が何人か客待ちをしていた。坂上まで押し上げて労賃が5銭だったとか当時としたらよい稼ぎだったという。


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