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物理学校意外史

物理学校意外史 >> 記事詳細

2005/09/01

神楽坂校舎開校

Tweet ThisSend to Facebook | by:埼玉支部
連載(13)<2005/9/1>
                                           神楽坂校舎の開校

  明治39年9月29日午後2時より、神楽坂校舎で新築落成式をかね本校創立25周年の記念式典を行った。同年11月3日発行の東京物理学校雑誌(180号)には東京物理学校創立満25年、新築落成記念号に当日の模様が詳しく記載されている。
  式は午後2時にはじまり、冒頭中村精男校長より新校舎落成並びに創立25年を迎える祝辞と校舎建設の募金に協力した卒業生に対する感謝の言葉が述べられた。次いで同窓会と卒業生を代表して山下安太郎の挨
拶があった。来賓挨拶には加藤弘之男爵(明治10. 東京大学法理文綜理)、田中舘愛橘博士(大正14.第1回貴族院帝国学士院会員議員)は祝辞に代えてラジウムの実験を公開して式が終了した。
  当日の来賓は上記2人のほか菊池大麓男爵(理化学研究所初代所長)浜尾新東大学長、沢柳政太郎文部次官、藤沢利喜太郎、長岡半太郎、本多光太郎、田丸卓郎、桜井、高松、平山、池田等の諸博士、学士など理学に関係ある名士、同窓会員と卒業生をあわせて500名余が参集したとある。桜井は桜井錠ニ、池田は池田菊苗のことだと思う。
  桜井錠ニは維持員桜井房記の弟で東大在学中英国に留学、有機化学者A.W.ウィリアムソンの指導を受け、帰国した翌明治15年東大の教授となり退職するまで多くの優れた科学者を育てた。早くから理論化学の重要性を指摘した。研究として有名なのは門弟味の素の発明で知られている池田菊苗と共に溶液の沸点上昇の測定ベックマン法の改良で知られている。菊苗は漱石が英国に留学中、同じ下宿に同宿、親しい間柄であった。

 
錠ニは菊池大麓らと理化学研究所の創立に尽力し、大正6年開設後は副所長に就任している。大正15年帝国学士院長、後に学術研究会議長、日本学術振興会理事長を兼任しながら昭和14年死に至るまで国際的にも活躍している。東京物理学校職員録を見ると明治40年、寺田寅彦の名があるが漱石と桜井房記の関係かと思われる。明治30年前後に吉田茂が学習院に入学前に在籍するなど物理学校の人脈を調べるのも一興である。
 
今も変わらぬ志満金(島金)横の通学路 

  当時の母校の姿を復元、近代科学資料館として研究社の隣に建てられているが、昔は6号館の位置にあった。学生は志満金(島金)横の路地から入った。泉鏡花の「神楽坂の七不思議」の『島金の辻行燈』に「家は小路に引込んで、通りの角に「蒲焼」と書いた行燈ばかりあり。気の疾い奴がむやみに飛込む仕立屋なりしぞ不思議なる」とあるが志満金は神楽坂から路地を入ったところにあった。志満金が神楽坂で商売を始めたのは戦後からである。
 3号館角の石垣の上には私立竹内小学校があり石垣に沿って右に曲がれば鏡花横町、真っ直ぐ進めば物理学校だった。

 
来年は(平成18年)は物理学校が神楽坂に移転してから100年目の年にあたるが神楽坂下で当時から営業を続ける商店がある。志満金に続いて紀の善、山田紙店、オザキヤ靴店、翁庵、今は喫茶店になっている足袋のアカイで、山田紙店は学校へ試験用紙を納めていた。まだノートなどが無い時代で学生はまだ珍しかったB5の西洋紙を買い自分で綴じて帳面にして使っていた。当時紀の善は鮨屋で明治41年1月与謝野鉄幹の『明星』新詩社を脱退した北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、長田秀雄、長田幹彦などが蒲原有明を招いてしばしば会合を開いていた。

師範部を置くなど中等教員養成校としての性格強まる
       
 
神楽坂校舎の建設に同窓会員279名の寄付16,351円、維持同盟員13名、1人当たり300円の醵金とあわせて20,251円、小川町校舎の売却金を考えれば借金をしなくても済んだものと思われるが、母校は決して裕福では無かったようだ。 
  明治38年卒業の小倉金之助が物理学校の学生時代を回想し教員の国家試験の解き方のコツを教えるような学校だった書いているが、明治41年9月同窓会の有志若干名が集まり母校の一部を借りて高等予備講習会と名づけた予備校を始めた。
  この時代の入学者数を見ると、37年251名、38年283名、39年475名、40年334名、41年262名、42年245名、43年236名と明治41年から減少の傾向を見せている。学校経営の一助にと同窓会が始めた事業かもしれない。新校舎の建設、高等予備講習会など一連の同窓会活動は最早、学校の援助の面で維持同盟に代るものまで成長していたと考えてよいだろう。高等予備講習会は規則の改正で大正5年の4月から本校に移され高等受験科として正式な教科にされている。
 明治42年1月と5月2回にわたり入学規則が大きく改正された。これは文部省中等教員検定試験規則の改正に対応するものであった。それまでの検定試験には受験資格に制限がなく誰でも自由に受験することが出来た。しかしこの年から「文部大臣に於いて適当と認定した学校」の卒業生だけが特定科目(数学科、物理及び化学科、博物科、裁縫科、手芸科)に限って検定を受けることが出来ると受験資格を明確にした。 


 
これによって1月の改正では、
 「本校に入学する者は、修業年限2年の高等小学校(旧小学校令の規定による者は修業年限4年)を卒業し、かつ『略(ほぼ)代数学及幾何学ヲ解スル者若クハ之ト同等以上ノ学力ヲ有スル者』」と規定された。中学校、師範学校の卒業生は無試験で第2学期に入学を許可されることになった。
  さらに5月改正では、
「中等教育を施す学校の教員足らんと欲する者の為に特に本校に師範部を置く」そして師範部の生徒に「尋常科には毎週2時間、高等科には毎週1時間の終身を課し、成績の如何を問わず在学中3分に2以上の出席」(当時の規則では修業年限を3ヵ年として、これを6学期に分け第1学期より第4学期までを尋常科、第5,6学期を高等科としていた)を義務づけた。母校の師範部は文部省に認定され5月1日の官報にその旨が告示された。このような経過をたどることで母校は中等教員養成校としての色彩を強くしていった。しかし無試験入学の伝統は守った。
 ちなみに明治38年春の卒業生369名の内73パーセントにあたる268名が教職に、47名が技術者として実業界に進出している。坊ちゃんが東京物理学校を卒業したとされる1年前のことである。

日露戦争後、清国の留学生増える 
 
  明治44年7月母校の卒業生は外国語のみの試験で東北帝国大学理学部の正科に無試験でその撰科に入学が出来るようになった。これを機会に東北帝国大学の進む母校の卒業生が増えることになる。東大には高等学校卒業生以外は入学を厳しく制限したので母校からの進学はなかった。昭和4年、東京(蔵前)高等工業学校が東京工業大学に組織替えをした後、卒業生は集中して東京工大に進学するものが年毎に増えていった。そこで昭和16年から文部省は母校の卒業生を全てあわせて大学に入学できる者の数を54名以内に制限してしまった。東京工大に進学予定の高等学校の生徒を押しのける結果になったのが原因と聞いている。

 
物理学校は夜学である。昼間神楽坂で車の後押しを仕事にする学生が現われた。電機学校の学生と縄張り争いを起こすこともしばしばだったと伝わる。結構な稼ぎだったらしい。
 明治38年日露戦争が終わると清国から日本に留学するものが増えてきた。物理学校は留学生に門戸を閉ざさず自由に入学を認めたので38年の21名を皮切りに、40年から44年に至るまで72名、78名、57名、48名、43名と数を増していった。明治期だけでも360名を数えるほどだった。明治43年10月の東京物理学校雑誌に『東京物理学校卒業清国人』として当時の模様を報じている。
 「本年7月清国学部ニテ施行ノ瓢録試験(進士トナリベキ者ノ予備試験)ニ応ジタル者ハ総計770名ニシテ其中物理学校卒業生5名アリ、試験合格者300名中物理学校卒業生顧寶瑚ハ第1位、胡樹楷君ハ第2位、朱叔鱗君ハ第7位、周歩瑛君ハ第8位、彭清鵬君ハ第10位ノ好成績ヲ得テ何レモ合格せりと云フ」
 昭和20年終戦に至るまで物理学校を出た台湾人、朝鮮人、中国人が故郷に戻り活躍している。各国に同窓会の支部もあった。
        
物理学校の経営が維持同盟を離れ同窓会に移る

 大正2年7月5日、中村精男校長より維持会員並びに同窓会員役員に「学校の事に関し相談あり来集を求む」の案内がとどいた。
 明治14年、東京物理学講習所は21名の創立者によって始められた。その後学校の経営危機に陥った明治18年、学校の維持存続を図るため創立者のうち16名が維持同盟を設立しこれまで学校を運営してきた。
  学校の歴史には記載されてないが明治44年に私立学校令が「学校の維持に必要な資産、資金を備えた民法による財団法人を義務づける」と改正されたが、維持会が運営していた時代、東京物理学校が法人組織であったかどうか明らかでない。これを機会に学校を法人組織にしたのか検討の余地がある。
 大正2年中村校長が案内状を出した時点で維持員は死去等により減り13名になっていた。最高年齢者は桜井房記で61歳、最低年齢者は玉名程三の52歳であった。校長の中村精男ハ58歳に達していた。
  この三十数年間学校は維持員の合議によって全て運営されてきが、大正2年職員年表では中村精男校長、中村恭平幹事兼主計、菅沼温蔵書記の3名が常勤の職員であった。  
 校長の話の要旨は「維持員も最早平均年齢60に達し、而して設立当時の目的は今や予期以上に成功し、教育界、実業界、学会に多くの人材を供給せるは欣快とする所なり。是に於て今日我々同盟員が健在する間に適当な継続者の確定引継を見て、然る後此維持同盟を解かんは我々の切に祈望する所なり。学校は同窓会之を引受くるか、或は又同窓会中の有志者之を継承するか、兎に角学校は学校として経営し使用するを本義とすべしと思惟す。さて其了解、授受、条件、約束、等、両団体の間に後日の為十分の研究を要す。本日は腹蔵なく異見を述べられたし」(東京物理学校50年小史)であった。
  これに補足して中村恭平幹事から学校経営の現状、緊急事項の報告がなされた。内容について詳細は分からないが、会議の前後の関係から「将来的に見て最早維持会の学校経営は難しくなった。学校はそのまま今の状態で運営していくが、取り敢えず経営だけ同窓会で引き受けてくれ」というものだったと思われる。
  維持同盟員側から社団法人に関する書類がくばられ、学校を法人化して学校経営を維持員から同窓会に委譲するという方向に話は進められた。これまで維持員の個人経営に近い学校経営を学校を法人化して経営を同窓会に移そうとするものだった。集会はことが重大な問題なのでよく考え結論は後日出すということで終了した。
 だが当日参加した同窓会員の腹は決まっていた。集合した同窓会員は同夜ただちに会合を持ち藤井哲也を座長に協議をおこなった。そして

  1.同窓会が学校を引き受けること
  2.法人を組織するに就いては、維持員及び同窓会員の一部を以て理事を作ること
  3.維持同盟員との交渉委員7名を選ぶこと

の3項を決めさらに維持員との交渉委員には
藤井哲也、佐之井愿甫、田中伴吉・、金沢卯一、岡幸祐、笠原留七、後藤敬三の7名を決めた。
 その後、委員会を開くこと十数回、維持会との交渉も十数回に及び、維持、組織、教授、会計及び法的手続きに関し慎重、周到な協議を行ったすえ維持会と合意を得ることが出来た。
 
財団法人東京物理学校同窓会の発足
 
  大正3年5月17日の東京物理学校同窓会臨時大会で下記のように報告され、人見忠次郎を座長にして維持同盟員側から中村恭平、三輪桓一郎、同窓会員側から佐之井愿甫、笠原留七、池上泰次郎の説明があり満場一致で承認された。

  1.東京物理学校を財団法人として永遠に存続せしむること
  1.土地建物器具図書等一切の評価を5万5千円とし同窓会寄付の金額及新に維持同盟員会の寄付せらるゝ金額を控除し残金2万2千円を同盟会員に支払ふこと。但大正4年より毎年12月末日までに少くとも金1300円以上を支出し満5年にて皆済すること
  1.此返済期間三輪維持同盟員に学校事業の監理を託すること
  1.引継時期は大正3年8月1日とすること

以上の決定後引継準備委員7名 笠原留七、金沢卯一、後藤敬三、佐之井愿甫、河村深造、藤井鉄也、池上泰次郎を選出し法人決定までの事務処理を委任した。
  大正3年8月、維持同盟員は母校を同窓会に引渡し、学校の校舎、備品を譲り渡すと共に、敷地の寄付を行った。此の寄付行為により同窓会は社団法人東京物理学校を組織して同窓会員より理事5名、笠原留七、河村深造、山下安太郎、後藤敬三、人見忠次郎、幹事2名、建部遯吾、片桐鎌三郎を選出した。そして理事会は前維持同盟員中村精男を校長に、同じく前維持同盟員三輪桓一郎を主事に推薦した。 
 
 この原形は学校法人東京理科大学と理窓会の関係に残されている。
 
 財団法人東京物理学校寄付行為、第5 役員に関する規定 第8条には、理事及び幹事は東京物理学校同窓会之を選定しとある。
 
同窓念願の専門学校令による東京物理学校の認可  
 

 
大正4年5月26日、財団法人東京物理学校の設立が文部省の認可を得て発足した。
同年11月、同窓会は長年懸案であった母校の専門学校への改変に取り組み、定時総会の決議を経て牛窪徳太郎、山根真蔵、太田千頴の三委員を選出を行い専門学校基本金の募集を行った。
  ただちに549名の同窓会員が募金に申し出があり1万5931円の金額が集まり母校に寄付をした。神楽坂校舎建築の募金から15年余り同窓会の事業として快挙の出来事であった。この金額を専門学校の基本金に当て大正5年12月25日文部大臣に専門学校に組織変更認可を申請、翌5年3月26日、私立東京物理学校を同窓の念願だった専門学校令によって設置することがを認可されたのである。
  これにより高等師範科の卒業生は中等教員無試験検定を受ける資格を獲得、本科、高等師範科の生徒は徴兵猶予の特典を得ることが出来るようになった。
 
         早稲田派の忘年会や神楽坂   子規
 

 
明治38年と言うと母校が神楽坂に移転する前の年だ。東京電気鉄道外濠線が開通すると牛込見附の停留所から神楽坂を早稲田まで歩く学生が増えていった。せいぜい500名そこそこのそれも夜学の物理の生徒は数においても早稲田に敵わなかった。牛込亭(寄席)から安飲み屋まで早稲田の学生が占領し、早稲田と物理の生徒の出会いは数学の解答を頼むときぐらいだった。
  大正の始めは日本中に不景気の風が吹き荒れていていた。大正7年米騒動のあと東京市は貧民救済として横寺町に神楽坂公衆食堂を開設した。食堂では朝飯10銭、昼夜15銭で市民に支給し、この安値に1日、3000人のプロレタリアートと学生が集まった。神楽坂の色町と対照的に明暗を分けていた。

 
神楽坂は日本の新劇運動に縁が深いところだった。松井須磨子、水谷八重子、澤田正二郎もみんなここから育っていった。早稲田大学に起因する所が大きい。日本中を湧かせた抱月と須磨子の道ならぬ恋、赤城神社境内の貸席松風亭から生まれた芸術座、須磨子がトルストイの「復活」の劇中で歌った劇中歌「カチューシャの唄」は今でもカラオケで唄われている。須磨子が抱月の後追い自殺をしたときは日本中に新聞の号外も出た

 無声映画の黄金時代を築いた徳川無声、山野一郎、松井翠声も出演した牛込舘(日本出版クラブのあたりにあった江戸時代からあった寄席の跡)も東京物理学校と一緒に神楽坂に存在したが全く関わることは無かった。
                                                     (以下次号)

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