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西村和夫の神楽坂

西村和夫の神楽坂 >> 記事詳細

2004/06/15

古代、都から東国への道

Tweet ThisSend to Facebook | by:埼玉支部
神楽坂界隈 連載(11) <2004/6/15>

古代、都から東国への道程

 古事記・日本書紀、ふたつの物語が伝える日本武尊・弟橘姫のロマンの舞台となった古代の東海道は両者でいささかルートに相違があるが、相模の国を抜け走水(浦賀水道)から船で上総に渡ったところでは一致している。
  それから下総・常陸へ向かった。このルートは武蔵野国を迂回するように外れていた。そんなわけで、都から武蔵への旅するものは近畿から中部山地を銃弾、碓氷峠を越えて上野国から入る東山道に頼った。

  奈良時代の後期になると走水から海を渡って房総半島に向かうルートは廃止された。新たに足柄峠を坂本に下り相模の国のほぼ真ん中をぬけて、店屋(東京都町田市)、小高(川崎市高津区)の両駅を通過、丸子付近で多摩川を渡る新たな東海道が整備された。さらに道は大井を経て豊島・浅草(台東区花川戸)へと続き、ここから隅田川(利根川)を越え下総から常陸に入った。ルートの変更で東海道と武蔵の国が直接結ばれるようになった。

  隅田川の河口・浅草は道潅の江戸城築城以前からも浅草観音 [推古天皇36年(628)隅田川で3人の漁師の網にかかった l寸8分(約6センチ)の黄金の聖観音像]で知られ、多くの信者を集めるほか浅草湊としても賑わいをみせた。本尊の発見前後は、海岸づたいにたどりついた渡来人がここから武蔵の国の内陸部に進出していったことも知られている。


なぜ古代の東海道は東京湾を渡ったか

  古代のルートでは武蔵野台地から下総台地に渡るのには大変な困難をともなった。この区間は(1)プロローグで述べたように6000年ほどむかし縄文海進が埼玉県の奥まで進んでいたところで、その後の海退で利根川を中心に多数の川が流れこみ、できあがった低湿地帯であった。
  繰り返す川の氾濫で至る所に無数にできた自然堤防とそれに囲れた湖沼が各所で見られた。今ではそんなことは忘れたかのように都市化されてしまったが、ごく最近まで自然堤防の上に作られた農家には、洪水に備えて舟が用意されていた。

  ここを通過するのは徒歩や馬だけでは不可能で、何度か舟を利用する必要にせまられた。そんな理由から古代の東海道は三浦半島から舟で上総へ渡るルートをとったのである。
  地形上、武蔵の国が上総、下総、常陸に比べ開発が遅れたことは、平安初期になって初めて牛込に牧場ができたことなども、これを裏付けるものとして考えてよいだろう。
  延喜式に記載される武蔵の国の神崎牛牧を牛込にあてていることは前にも述べたが、延喜式民部にも奈良時代初期から各地の牧場で乳牛が飼育され酥(そ)チーズが薬用として献上されたと記録されている。


延喜式東海道と当時の武蔵の国の状態

  平安時代に入り、延長元年(927)に延喜式が完 成すると、東海道は延喜式で定められた道路に手直しされ駅馬なども常備された。
  この時代の東海道は東京湾にせり出した武蔵野台地の縁をたどるように大井を経て豊島(浅草)に至り隅田川を渡りさらに先へとのびている。これからも分かるように、都からみちのくへの旅人は牛込神楽坂周辺を通過していったと考えるのは間違いだろうか。

  当時のこの辺りの様子は 1000年程昔、 上総介藤原孝標の娘が父と任地の上総から都まで戻る旅を記した『更級日記』から知ることができる。武蔵と相模の境、隅田川を渡る様子を次のように書いている。

  「今は武蔵の国になりぬ。ことにをかしき所も見えず。濱も砂子白くなどもなく、こひぢ(泥)のやう
  にて、むらさき生ふと聞く野も、蘆萩のみ高く生ひて、馬に乗りて弓もたる末見えぬまで、高く生い
  茂りて、中をわけ行くに、竹芝といふ寺あり。(港区三田辺りにあったという寺)」

  「野山、蘆萩のなかを分くるよりほかのことなく、武蔵と相模との中にゐてあすだ河といふ。在五中
  将(業平)の 『いざこと間はむ』 (名にしおはばいざこととはむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと)
  とよみけるわたりなり。中将の集にはすみだ河とあり、舟にて渡りぬれば、相模の国になりぬ。」

  業平(825~880)の歌は隅田川周辺の淋しい当時の様子を偲ばしてくれる。


頼朝にまつわる神楽坂  戦勝の祈願をした襟懸け尊像

  さて、牛込(神楽坂)が初めて歴史に登場すのは鎌倉以降になってからである。
神楽坂を上ると毘沙門天の少し先右手に天台宗東叡山に属する牛頭山行元寺(ごづさん・ぎやうぐわんじ)、俗称千手院呼ばれた古刹があった。明治末期五反田に移転して跡形もないが、この境内から神楽坂の色町が生まれたとされているところだ。

  起立年代は分からないが 開山は慈覚大師と伝わる。かっては牛込見付 辺りに総門があり、神楽坂はその中門の跡、寺域は三千坪という広人な面積を誇っていた。昔.境内に南天の木が多かったので南天寺と呼ばれていた。大水4年(1524)に起きた大永の兵乱(上杉朝興と上条氏綱の戦い・上杉氏が敗北し江戸城が小田原北条氏の手に落ちる)で破壊されてしまったという。

  頼朝が一夜、本尊に祈願したところ、その夜夢に「頼朝卿自らこの霊像を襟にかけたてまつり、源家の武運開くと見給ふ。後、果たして天下を統一せられたりしより、頼朝襟懸の尊像と称へ奉ると云々。」(江戸名所図会)と本尊縁起がある。本尊の千手観音大士は俗に襟懸の本尊と呼ばれていた。
  行元寺で祈願した話が事実ならば、奥州追討の時と思われる。事情については後で述べる。


若宮八幡宮に奥州討伐の宿願を

  理科大の先、外濠通りを少し市ケ谷に向かうと、逢坂の手前に幽霊坂という坂がある。気味悪く薄暗い幽霊坂と呼ばれる坂は何処でもある。嘉永市谷牛込絵図にはシンサカと記載されているが、坂を上ると毘沙門天のわきに通じている。上りきると以前は神楽坂花町通じていた。それは明治になってからの話で、昔は幽霊でもでそうな坂であったのだろう。
  この坂の途中に若宮八幡神社〈若宮八幡宮)がある。文治5年(1189)の秋、頼朝が奥州の泰衡追討に出発する際の宿願によって、奥州平定後ここに社を建立しという。後、文明年間(1469~1486)太田道灌が江戸城鎮護のため社を江戸城の方向に向けて再建、鎌倉鶴岡若宮八幡宮分祀移したと伝えられている。
  東海道はこの辺りで、信濃、上野、下野、奥州へと分かれていったのだろう。

頼朝、精兵3万を擁して隅田川を渡る

  治承4年(1180)8月、源頼朝が伊豆で挙兵して初めて戦った石橋山の合戦(相模足柄下郡石橋山)で、平家方の大場景親らに大敗する。しかし運よく大場景観の一族一梶原景時に助けられ三浦半島を経由して海路安房上総に逃れることができた。頼朝の下総上陸後、石橋山の合戦では敵方の武将だった畠山重忠以下多くの豪族が次第に頼朝の陣に加わり精兵3万の大軍を擁するようになり武蔵の国に進出する機会をねらっていた。
  頼朝の進路を阻んだのは利根川(隅田川)河口域の湿地帯と対岸の『江戸館』の主江戸太郎重長であった。重長は一般の武士集団とは異なった利根川河口の水運を差配する通運流通業者の棟梁だったと見るべきである。
  頼朝は重長との戦いを極力さけ、しばらく市川に止まったが、江戸氏の士族豊島靖光・葛西清重らの説得で、重長が頼朝に降伏する形で双方が折り合った。とはいえ精兵3万を渡河させることは容易ではなかった。 当時河口には相当数の民家があり、これを壊して湿地帯に敷くことも考えたが結局、3日がかりで釣舟と西国船とで舟橋を作ったようだ。
  降伏しても敵は敵と頼朝は江戸湊への上陸をさけて利根川を渡り滝野川から板橋を経て武蔵の国へと進んだ。このことについては「義経記」「源平盛衰記」に詳しい。

  ここで面白いのは、利根川河口域にかなりの民家が存在していたこと、釣舟はともかく西国船が四国.中国の船か、中国の貿易船を指したものか不明だが西国船の存在である。当時、利根川流域・佐野の鉄、上州吾妻郡の硫黄は中国最大の輸出品であったことからも貿易船であったことが窺える。

  さらに面白いのは、「大正2年鍛冶橋改築架工事の際、濠底より発掴せる頭骨」である。南北朝から室町に至る中世のものと思われる3個の梅毒重症患者を含む23個の頭骨が発見されたことだ。(日本人の骨、鈴木尚、岩波新書)いくつかの骨が梅毒患者であることで、自然死であり発掘された場所が墓地であったことが分かった。
  家康が江戸湾を埋立てる以前から.神田から日比谷にかけて江戸前島という半島状に突き出した陸地があった。鍛冶橋をはじめ中世の寺院や墓地の遺跡がすべてこの半島上にあることから、江戸前島には中世から陸地で漁師などの庶民の集落があったことが証明された。


当時の江戸湊の光景を想像してみよう

  今までの話を大胆にまとめ江戸館を中心に江戸湊を俯瞰すると、武蔵野台地を開析して流れる平川に沿ってできた沖積地には沼や水田が広がっていた。そして平川は江戸出島のつけ根、日比谷入江の奥で江戸湾に注いでいた。
  一段と高い麹町の台地上に建てられた江戸館からは日比谷の入江が眼下に広がり、日比谷入江を取り囲む台地には一族の館が並んでいた。理科大森戸記念館の発掘調査で須恵器、土師器が発見されたことからも、平安から中世にかけかなり裕福な生活をしていたと思われる。遠く牛込台地には行元寺の、甍が望まれ、台地には牛の牧場が開かれていたかもしれない。

  江戸湊の繁栄は江戸氏の利根川の水運を利用した通商と外国まで視野に入れた交易にあったと考えるのは間違いだろうか。
  入江には多数の舟と四国からの貿易船が行き交っていた。江戸前島や海岸に沿って寺院や民家が建ち並び釣舟から下ろされた魚や、周辺の農作物で市もたっていた。少し離れた浅草は浅草寺の参詣と隅田川の渡しに人が集まっていた。
  海岸沿いの東海道には隅田川を渡り下総、常陸に向かう旅人、ここで別れみちのくへ旅する者もいただろう。
  この状況は江戸、鎌倉の衰退と同時に北条氏の隆盛により、江戸が鎌倉への中継基地の役割を失い、大部分の船が江戸を通らずに直接小田原に向かうまで続いた。「家康の江戸入り」に伝わる一寒村江戸の光景の原因はここにあったのだろう。


頼朝は江戸太郎重長を何故か重職につけなかった

  頼朝は降伏後、御家人になった重長を武蔵国在庁官人(武蔵國衙の事務員)と諸郡司に任じたが、幕府成立後はあまり重用しなかったようだ。そればかりか江戸館の目の前の江戸前島を取り上げられたことは江戸の海運を差配する重長にとって人きな痛手だったに違いない。一度は頼朝に敵対してしまったことが理由か重長は、幕府成立後、歴史の表面から姿を消してしまった。

  しかし、江戸氏は幕府にとって他に変えられない江戸漠の運営に重要な存在だった。それは利根川上流の山林管理と木材の輸送、中・下流域の耕地の開発と維持、鉱石の採掘と冶金など全てを含めた経営と鎌倉ほか他地域を結ぶ海運業務だった。
  現在の皇居東御苑、麹町台地平川ぞいの東端に建てられた『江戸館』を本拠に一族の館は東京23区内に広がっている。
  畠山重忠が北条時政に殺された後、重長は江戸.木田見、丸子、飯倉、渋谷、高田、小日向一帯の重忠の土地を領したと言われるが(牛込区史)一族の流れと大体一数している。

                    (1250年前後の江戸氏の流れ)
 
江戸重盛
   氏家
   家重
   冬重
   重宗
   秀重
   元重
江戸太郎
木田見次郎
丸子三郎
六郷四郎
柴崎五郎
飯倉六郎
渋谷七郎
千代田区千代田
世田谷区喜多見
川崎市丸子
大田区六郷
千代田区大手町
港区飯倉
渋谷区渋谷

東国武士の出現

  平安時代から鎌倉時代にかけて武蔵、常陸、など関東一帯に武上集団が姿を見せてくる。
  武勇にすぐれた東国の人々は、奈良時代まで宮廷を守る衛士として、また北九州で唐、新羅の侵入を防ぐため防人とされてきた。8世紀から9世紀の初頭にかけて数回にわたる蝦夷征伐の軍事基地になったのも東国であった。このことが東国に多くの武士集団を育てた大きな原因になった。

  武士集団が、館兼城砦を中心に周囲の原野の開拓を始め、一族や従者をその中に土着させ、戦いになれば数百騎の兵力を動員できる体制を作り次第に力をつけていった。つまり、館の主は農場主であり、武士は百姓から年貢を取り立てるほか、外部の敵から農場を守るためのものだった。
  館を中心に推し進められた広い武蔵野の原野の開拓事業が武士集団を作り上げたといえよう。つまり広い農地を擁することが、強い武士集団を意味したのである。律令制度が弛むにつれて武士集団が随所で割拠して土地を奪合い増やしていた。
  しかし、江戸氏一般的な武士集団と異なった商人的な要素を持つ集団であったことが理解できよう。

江戸氏が牛込に移り牛込氏を名乗る

  やがて15世紀、室町時代に入ると江戸は関東管領上杉氏の支配するところとなった。ところが幕府の後継者問題をめぐり鎌倉公方・足利持氏が幕府に反旗を翻すと、その間の和解をはかろうとした関東管領の上杉氏に滅ぼされてしまうことになった。しかし、持氏の遺子成氏を京都から迎え鎌倉公方の後継ぎにすると両者の間の関係が再び険悪になった。鎌倉を追われた成氏は下総の古河に逃れ、古河公方を名乗り利根川をはさんで上杉方と対決することになった。利根川の覇権を守ることは上杉氏にとって江戸氏以来の至上命令であった。

  上杉氏は古河公方成氏に対して太田道灌に、利根川ラインを結び川越城修復と、その支城として江戸城の構築を命じた。結果、関東の実権は上杉氏が握ることになった。
  江戸氏が江戸館を築いてから300年、康正3年(1457)管領の執事、上杉氏の補佐役太田道灌が『江戸館』のあとに約1年を費やし新しく江戸城の建設を行なうことになる。当時の江戸城は石垣がなく、土塁と濠が3重にめぐらされた平城であったという。
  故牛込三郎氏(物理学校卒、元理窓会幹事)所蔵の牛込文書によると道灌の江戸城築城当時、江戸氏は江戸を去り牛込に移っていた。『江戸館』は無人の状態であり工事に何の妨害も受けなかったと考えられる。

  江戸氏は何故牛込に移り、牛込の姓を名乗るようになったか、はたして道灌に江戸を追われたのか、この間の事情について史料が乏しく分からぬ点が多い。ちなみに那智神社廊之房に残された記録によると応永5年(1420)の時点では大殿(江戸本家)として存在している。
  14、15世紀の江戸氏は16氏2流に分れたが、その 経緯について不明な点が多い。しかし、これが本家としての江戸氏を維持できなかった理由になったのかも知れない。
  牛込に移った後も江戸氏は律儀に関東公方方に仕えていた。江戸氏宛の持氏の感状、成氏から歳暮の礼状書状が牛込文書で見られることでも理解できる。江戸城主太田道灌は上杉方に仕え、江戸氏は関東公方方だったため江戸城の出現は、牛込にいた江戸氏にとって脅威であったに違いない。



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