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物理学校意外史

物理学校意外史 >> 記事詳細

2005/11/01

小倉金之助と物理学校

Tweet ThisSend to Facebook | by:埼玉支部
連載(15)<2005/11/1>

小倉金之助と物理学校
 
  東京物理学校の卒業生で大学に進まず独力で学問をつづけ私学の卒業生としては日本で始めて理学博士となり、国際的に名が知れた数学者であった。さらに数学教育、思想家として百科事典にまで名前が載る小倉金之助の価値は当時としては想像に絶するものがあった。著書の数も極めて多く、小学校の教育現場に特に小学校教師に影響力を与えた大正13年刊「数学の根本問題」(玉川大学出版部から復刻)、昭和5年『思想』に発表した「階級社会の数学」は日本の科学史思想界を大きく変革するものであった。しかし、東北大、阪大に席を置いた小倉は助教授、教授など重要なポストから外されていた。小倉が帝国大学の出身者でなかったことに理由があるといわれている。

  小倉金之助は、明治18年(1885)酒田市船場町の回漕問屋、小倉金蔵の長男として生まれ祖父母に育てられた。鶴岡の荘内中学校を卒業直前に家族に無断で出奔、上京する。明治38年(1905)東京物理学校全科を卒業、東京帝国大学理科大学化学科選科に入学するが、39年祖父の病気で酒田に戻り生家の家業を継ぐことになった。しかし学究の念去りがたく家業を継ぐ傍ら物理化学を捨て実験を伴わず一人でも学問をつづけられる数学を選ぶことにした。
  小倉の学力と家庭の経済力からしても東京帝国大学に進学できるだけの条件が整っていたが何故東京物理学校を選んだか分からない。このことが東北帝国大学と大阪帝国大学の教授の席を得られないことになったが、これにより彼の反骨精神が国際的に知られた数学者に育てたばかりか数学教育から思想家まで広い分野で独自の世界を作り上げることができたと思われる。

  数学者林鶴一の指導で数学の研究を始めた小倉は明治43年再び上京して1年間、母校の講師に名を連ねる。この間、小倉の独学による研究は東京物理学校雑誌の38年から43年にわたり掲載されている。
  明治40年(1907)東北帝国大学が設置されるが、教授予定者が外国留学中などの理由で準備が遅れ、開学したのは43年(1910)ことであった。林からの誘いで小倉は物理学校講師から東北帝国大学の助手として移り林らの「東北数学雑誌」の編集を手伝いながら本格的に数学の研究に取り組んだ。
 
小倉金之助、東北帝国大学より学位、私学出身初の理学博士
 
 44年には東京物理学校の卒業生は外国語の試験のみで理学部に入学、無試験で選科に入学できることになった。  
  もと平川仲五郎理事長(明治41年全科)と黒須康之介(44年数学科)は明治41年母校を卒業している。平川と黒須が東北大で学んだのは小倉の助手時代である。東北大の大正4年第2回の卒業写真に3名が写されている。
  黒須が母校の教員になったのは大正4年、大正7年、8年には真島正市が教員として名を連ねる。真島は東北大で平川より1年先輩で真島は大正3年、平川は4年に卒業している。平川と真島のつながりは物理学校から理科大まで続き特に理科大時代は平川理事長と第2代学長真島のコンビで薬学部と工学部を開設している。そして野田キャンパスの黎明期を演出した。ちなみに初代学長本多光太郎は明治30年東大卒、大正1年東北大教授になっている。

  小倉は大正5年(1916)「保存力場に於ける質点の経路」で東北帝国大学がら理学博士の称号を授与される。当時東北大学には総長推薦による学位授与制度があり、これにより多数の学位が生まれたようだ。しかし、論文提出による博士は小倉金之助が最初であると同時に私学出身者として、また物理学校卒としても始めての博士であった。だが、小倉はすでに国際的に知られた数学者であり思想家であったが将来東北大では講師にも助教授になれる見込みはなかった。
 そこで、翌大正6年、前年塩見正治が塩見理化学研究所の建設資金100万円の寄付で新設された大阪医科大学と医大付属塩見理化学研究所の所員兼大阪医科大学予科の教授に招聘に応じることにした。(大阪医科大学と塩見理化学研究所は昭和6年大阪府の寄付で大阪帝国大学の医学部、理学部として開学する)
 第1次世界大戦でドイツから染料や医薬品などの輸入が止まりわが国の化学工業が危機にひんしたのを機会に多くの民間研究所が発足した。大正6年、理化学研究所が創立され、それと前後して塩見理化学研究所、北里研究所などが設立された。
 8年小倉は3年間ヨーロッパ各地を歴訪してフランスパリのソルボンヌ大学,コレージュ・ド・フランスに留学、帰朝後大正14年から塩見理化学研究所長、となり、昭和6年の大阪帝国大学の創立の際にはかなり尽力したが教授の選から外され勅任教授扱いの講師に止まった。当然理学部のトップの座と考えられたが第1代阪大総長長岡半太郎の反対にあったと言われている。当初研究所が大学の校舎として使用される時、小倉は何を考えていただろうか。

  冒頭にあるように小倉が数学だけで幅広く社会、歴史に至るまで探求した自由主義者であり著書は多くの人々に感銘を与えた。東北大の助手時代日本の数学教育の欠陥に気付き海外のすぐれた数学教科書を翻訳したが、フランス留学中特にこのことに痛感して、大正13年「数学教育の根本問題」を著し、数学教育の改造運動に大きな影響を及ぼした。特にわが国の戦争突入を真近に控え、昭和11年中央公論に発表した「自然科学者の任務」は台頭するファシズムに警鐘をならした。昭和12年(1937)52歳で研究所を辞して東京に戻りもっぱら著作の仕事に従事した。

  昭和14年5月、母校の理事長に選ばれるが翌年15年1月辞任する。しかし、15年11月に再任され、18年10月まで理事長に就任、校長事務代理を勤めた。大河内校長が多忙で昭和11年4月から20年12月まで学校では校長事務代理を置いている。
  だが、16年ごろから情報局の言論機関に対する圧力があからさまになってきた。「個人的に忠告」という非公式な要望というかたちで小倉は執筆禁止の状態になり失意のまま酒田寿町の正伝寺に疎開、さらに黒森の郵便局に疎開して終戦を迎える。18年小倉が母校 を去るについて想像に余りある。
  戦後ただちに言論活動を開始、「自然科学者の反乱(21年世界4号)」「自然科学者と民主戦線(21年中央公論5月号)」「科学発達史上における民主主義(21年自然6月号)」などを矢継ぎ早に発表して敗戦後の科学界の指標となった。21年から民主主義科学者協会会長、23年日本科学史学会会長、37年日本数学史学会会長を歴任し、同年77歳胃ガンで逝去。

東京物理大学の構想
          昭和15年(1940)紀元2600年記念事業として

 
  昭和24年東京理科大学設置の認可がおりた。同年2月20日、東京物理学校同窓会は理窓会と改称して初代会長に小倉が就任した。7月8日には財団法人東京物理学校が財団法人物理学園と改称され、さらに昭和26年になると私立学校法施行に伴って3月14日学校法人東京物理学園になった。小倉は再度、第13回理事として戻った(24年11月~28年3月)。ちなみに東北勢、本多、小倉(理事長)、平川、黒須の4名が理事に同席についている。

  昭和15年紀元2600年を記念して母校に大学を設置する計画が持ち上がった。母校の卒業生には向学心の旺盛の者が多く大学への進学希望者が多かった。しかし物理学校の卒業生には大学への門戸は閉ざされていた。唯一開かれていたのは明治40年に開校した東北帝国大学ぐらいで後は高等学校の卒業生でなければ入学できなかった。明治末期までに開学されていた帝国大学は東京帝国大学、京都帝国大学(明治30年新設)、東北帝国大学(明治40年新設)、九州帝国大学(明治43年新設)の4校であった。
 明治14年21名の東京帝国大学理学部物理学科の卒業生で始められた東京物理学校の生徒は全て東大卒の先生に教わることになったが、卒業生は決して大学に進学して学べない仕組みになっていた。当時大学といえば東京帝国大学が1校あるだけで、大学で学ぶためには高等学校から改めて入りなおさなければならなかった。吉田茂のように明治29年物理学校入学、30年学習院に移り、華族の外交官を養成する学習院大学に進むが37年廃止になり東京帝国大学に転入している。

  このように物理学校を足がかりに東京帝国大学に進学していった生徒に明治23年第7回卒業の建部遯吾(文学博士、昭和14年貴族議員に勅撰、第6、8、9回理事)がいるが、卒業後高等学校から入りなおしている。母校の卒業生が物理学校から直接大学に進学できるようになったのは前にも述べたように明治40年東北帝国大学の開学からである。開学と同時に平川、黒瀬、長尾譜志朗(大正8年~昭和12年理事)らとともに東北大に入学している。
  当時は東大と京大を除いて高等学校から東北大学に進む生徒は少なかった。物理学校の卒業生を収容できる余裕があったのである。それに加えて母校からの生徒は成績がよかったのであろう44年度から外国語の試験のみで入学が許可されるようになった。だが東北大学の志望者が年とともに増えるしたがい、物理学校の卒業生の入る余地は次第に狭められていくことになった。と言うことは実質上すべての大学の門から閉ざされることになったのである。
 母校の卒業生は大学に入れない以上独力で勉強をするほか手段が無かったのである。

同窓会は親睦団体と言うより研究組織だった
                   学内に大学の講座を開講する 


  昔から母校の卒業生は向学心が旺盛だった。同窓会の規約第1条にもあるように

「本会は東京物理学校の目的を體し理学の普及を助け併せて同窓の親睦を厚うせんとするにあり。会員は本校卒業生及生徒に限り毎月1回本校に集会して理学の関する維持員、講師、及び会員の理学に関する談話演説等を催し、毎月1回雑誌を発行して本会記事、論説、講義、雑録等を掲載し・・・・雑誌は当初『東京物理学校同窓会雑誌』と題し明治22年6月其第1号を発行す」と 同窓会自身親睦団体というより研究組織だったようだ。
  明治26年「10月、生徒の有志者70余名、学習院教授森則義を聘し、毎週3回本校内に於て仏蘭西語学を修む」と50年小史に残されている。
 
  明治38年12月攻学会を結成している。東京物理学校雑誌明治39年2月号に

「昨秋東京物理学校同窓会大会の席上にて三守先生より時々同窓の有志相会して談話講演等の方便により知識を交換し兼て交情を親密ならしむるやうなしては如何との説を述べられたるに基づき客年12月10日有志者25名物理学校に会しこゝに攻学会なるものを組織し去る1月14日(第2日曜)午後始めて其例会を開きたり」とある。
 
 明治41年9月、同窓会員中の有志が何人か集まり、学校内に高等予備講習会という受験科つまり予備校を開校した。大正5年、高等予備講習会は高等受験科として学校に吸収されたが大正9年に廃止された。東北大に向けての母校の受験対策だつたと思われるが高等学校から大学を目指す者が増え始め次第に専門学校など傍系から大学に入るのが困難になってきた。
 この年大学令により始めての私立大学として慶応義塾大学、早稲田大学が設立認可されると明治、法政、中央、日本、国学院、同志社の各私立大学が続いた。昭和元年までに20の私立大学が認可されている。
 
専攻科で大学進学の夢を果たす
 
  昭和5年度から修業年限を2年の帝国大学理学部程度の学術を修める専攻科を置き、数学、物理、化学の3科を設置することにし、とりあえず数学科から開講した。7年に第1回生として7名が卒業を出し、10年には高等教員検定試験の合格者2名を出している。さらに同年研究科を新設するが19年専攻科は研究科統合、修業年限が1年に短縮されるが24年理科大学が設立されるまで大学レベルの授業を続け大学設立の足がかりとなった。
 
 これについて「東京物理学校同窓会会報14号」には次のように書かれている。
 「正規の系統を履まずに数学の蘊奥を学ばんとする人々にとって此の専攻科こそは全国唯一の機関であろう。・・・数学を1歩進んで研究せんとするも、帝大数学科は門戸を堅く閉ざして、現在は聴講の制度すら廃止せられ、空しく希望を抱いて長嘆するのみであったのであるが、此の専攻科の設置によって充分と迄と行かずとも、相当の満足を得られることになったのは、実に吾等の甚だ愉快とするところである」
 いずれにしろ卒業生の大学進学の夢は閉ざされていたのである。
 
文部省が卒業生の大学進学を54名に制限
             「自分たちの大学を作ろう」の機運起こる

 
  昭和4年東京工業大学が設置されると、ここは物理学校の卒業生を受け入れてくれるとあって、かなりの数が受験、それなりの入学生を見た。しかしこの問題について他所から苦情が出ることになった。「高等学校の卒業生を押しのけて入ってきては困る」に対して昭和16年10月14日、文部省は通牒で物理学校の卒業生のうち大学に学部に入学志望できる人数を54名以内にするという制限を設けてきた。
 10月16日、戦時中の措置で大学、専門学校などの卒業を6ヶ月短縮することに決定、母校でも12月525名を卒業させた。つまり大学進学志望者は卒業生の10パーセントに制限されることになった。このように卒業生の大学進学の道が閉ざされるなら、いつそ物理学校を大学にしてはどうかという機運が具体的に盛り上がっていた。
 昭和15年(1940)紀元2600年記念事業に「大学設置」を目標にすることに学校、同窓会が決定した。戦後、紙がない時代「大学設置趣意書」の裏側を試験用紙に使ったことがあるが[東京物理大学]と印刷された文字を見た。関係者に配布された残りか、配布を予定していたか分からない。
 準備は着々と進められ昭和17年府中町国分寺に大河内校長の寄付4万円の資金援助もあって大学予科設置を予定して約6万平方メートルの敷地を購入した。この土地は理科大のラグビー部が練習や試合の会場に使用していたが昭和33年東芝に売却して、野田の土地2万6466坪(8万7491平方メートル)を購入している。
 また昭和18年に八王子市中野町に大学予科校舎に当てるため戦争で廃業した機織工場用地を建物付き約700坪(約2500平方メートル)を購入した。建物は手入れも殆どなされぬまま昭和21年から開講した農業理科学科が一時使ったようだが,学生が神楽坂に戻ってきた後は学生が宿舎に使っていたようだ。
 大学設立の準備が着々と進められ19年大学設置認可申請をするまで漕ぎつけた。もう1歩のところで戦争が厳しくなった理由で国の方針として新規事業は取りやめと不審議にされてしまった。

 母校は戦後21年八王子の郊外に約8万900坪(約16万3000平方メートルの土地を入手している。周囲を関東山地で囲まれ見渡す限り遮るものはなく、なだらかな平地が続いていた。もともとは農地で地主が「物理学校が大学を作るなら学校用地として使って欲しい」と寄付を申し出たものらしい。地主にしてみれば農地解放で失われてしまう土地なら学校用地にという思惑があったのであろう。学校では新設した農業理科学科の教室と実習場を予定していた。そしてこの土地を拠点に戦時中、中止になった東京物理大学の設立の夢を託した。しかし、23年、自作農創設特別措置法(第2次農地改革案)(昭和21年10月11日衆議院成立)により強制買収されてしまった。
 このようにして敗れ去った大学設立の構想は、昭和22年来日した第1次米国教育施設団の勧告による教育改革、いわゆる6・3制が始まることになり、殆どの専門学校が新制大学に改変されることになり東京物理学校も本多光太郎を学長に東京理科大学として生まれ変わった。昭和24年4月1日のことであった。
 東京物理学校の生徒を募集したのは昭和23年度までだった。この年入学した生徒は24年に開学した東京理科大学の1年生として再度入学したが、大学進学を希望しない者は2部の数学科と理化学科に集約され物理学校の2年生に残った。24年の物理学校の卒業生は編入試験を行い大学3年になった。

  こんな訳で校舎内は角帽姿の大学1,3年の学生と、丸帽姿の物理学校1部3年生と2部2、3年生とが混在することになった。今ではどの大学でも角帽姿は全く見られなくなったが理科大の角帽は東大型で理大の漢字を隷書にした校章を付けていた。開学当時は珍しいのか角帽を被る学生が目立った。
  25年になると大学3年に物理学校の卒業生が転入して1~4年生がそろい最後の物理学校2部の生徒が3年生になった。そして26年3月10日、東京物理学校最後の第100回卒業式、3月31日には東京理科大学第1回卒業式が行われた。このようにして東京物理学校70年の歴史に幕を下ろした。
  ちなみに21年から開校した農業理化学科は八王子の農地が23年農地改革で強制買収されることになり実習場を失うことで25年廃止された。24年と25年の2回の卒業生を出すに止まった。23年の入学生は24年大学の1年生に入学した。

東京物理学校応用物理学科・応用科学科・農業理科学科
          廃止直前で教員免許無試験検定指定校認可試験を受ける


 戦後焼け野原になった都会にも人々が戻り学校が再開され、新学制63制が実施されると日本中の市町村で教員の採用が目立って増えた。戦争後の不景気の中で母校の卒業生にとっては良い就職口であった。だが数学科と理化学科以外の卒業生には教員免許状の無試験検定の認定がされず、応用物理学科、応用科学科、農業理科学科の生徒から免許状取得の要望が多く出された。 
 卒業試験も終わり率業式を目前に控えた25年2月13日、「平均点が合格すれば全員が免許状がもらえるから1点でも取るように頑張ってほしい。就職の決まった生徒も他の生徒を助けるつもりで真剣に受けてくれ」と廊下に並んだ先生に励まされて試験会場の講堂に入った。ここで不合格になったら実力を標榜していた物理学校の世間に対するいい恥さらしと学校の名誉がかかるだけに真剣だった。
 試験監督は文部省の役人で「教員免許無試験検定指定校認可試験」が無事終わり25年以降の卒業生が免許状を取得で来るようになった。と言っても25年の後には卒業生は出ていない。

戦中戦後にかけての物理学校事情              
 
 昭和の初めから教員の就職難の被害をまともに受けた母校であつたが、昭和6年満州事変を境に卒業生が教員から工場の技術者として進出する者が目立って増え解消されていった。技術者の養成を目指した応用理化学科(応用物理、応用科学)は勿論のこと、理化学科の卒業生までも引き手あまたの状況であった。昭和13年「会報」の第97号に当時の模様を「昨年度迄は就職者が大凡卒業生の3分の1か良くて2分の1でありましたが、本年度は1人残らず全部決定し殊に応用理化学部の如きは昨年11月中に全部決まり、芳しくない口は御断り申上げてゐるといふ有様であります」と記載されている。
 この時代を振り返ると、首都圏には国立、私立共に理工科系のある大学は東大、工大、藤原工大(後の慶大理工学部)、早稲田大があったが、専門学校は不思議なことに母校を除いては皆無に等しかった。国立の高等工業は近くでも横浜で、あとは浜松、桐生と離れていた。戦争が苛烈になるに従い軍需工場が拡大し極度に技術者が不足していった。
 
物理学校が徴兵のシェルターになった   
 
  昭和16年12月ハワイ真珠湾の空襲で開始された太平洋戦争は日本軍の連戦連勝かに見えたが翌17年6月、半年たつや経たずのミッドウェー海戦で空母4隻を失い戦況に影を落とし始めた。昭和18年に入るとガタルカナル島撤退、アッツ島玉砕、と連合軍の攻勢に日本軍は戦線の縮小を迫られていった。
  戦争が激しくなるにつれ政府は17年より大学、専門学校などの修業年限を6ヵ月短縮の決定にあわせ母校でも卒業を6ヵ月繰り上げた。
  昭和18年10月12日、政府は戦争遂行上技術者を養成する目的で文科系の大学にも理工科系の専門学校を併設させ、技術系の各種学校は全て専門学校に格上されるという措置を講じた。さらに理工科系と教員養成校を除く全ての学校は徴兵延期の措置を停止され、文科系の学校の生徒は21日、明治神宮外苑競技場で雨の中行われた「出陣学徒壮行会」を皮切りに続々とあきらめに似た複雑な心境で戦場に赴いていった。
 これらのことを予期してか昭和17年母校の入学志願者は第1部5495名、第2部3680名に達した。
 18年までは何とか無試験入学制度が続けられたが翌19年2年生の進級時に進級のほか各科原級を200名に制限され残りが放校処分にされた。放校処分された者にはただちに徴兵が待っていた。
 この年の6月「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、6月から生徒の一部が東京陸軍造兵廠大宮製造所に動員され風船爆弾の研究開発を行っている。しかし終戦までの詳しい動員体制については明らかでないが、あまり動員には協力的でなかったようだ。
 その様な中でも2部の授業は続行されていた。動員されている生徒を夜間集めて授業を行った教師もいたと言う話がつたわる。

 19年に入ると戦争が一段と厳しさを増し6月のマリアナ沖海戦で日本海軍の空母、航空機の大半を失い太平洋の制空権を失った。日本軍は転戦先で完全に孤立無援の戦いを強いられた。7月の東条内閣総辞職で、はっきりと勝敗は明らかになった。
 この年から無試験入学制度に目を付けていた文部省は入学定員と入学試験の実施を学校に指示した。学校では数多く集まった志願者を書類選考で合格者を決めた。無試験入学の伝統のこだわりだったのかも知れない。新入生には学徒動員が待っていた。2年に進級すると、どうせ軍隊に行くのならと手当ての貰える陸海軍の科学研究要員になった方が得とばかり依託学生を志願する者も増えた。
 20年には日本中全ての学校で入学試験が取りやめになり入学者を書類選考に拠った。東京物理学校で他校と同じように入学試験が実施されたのは昭和21年からである。
 
「何の因果か知らないが高等学校に見捨てられ、泣く泣く物理に入り来て・・・」すーちゃん節に唄われたように、戦争が厳しくなる中で、高等学校の入試に失敗した者が再度の希望を物理学校の無試験入学、徴兵延期の制度に身を寄せた。だが戦争末期になり文科系学校の徴兵延期制度が中止になると戦争が終わるまでの徴兵のシェルターとして文科系はもとより芸術、音楽系希望の生徒まで物理学校に入学してきたことも事実である。中には華族から政府高官の子弟まで物理学校には似合わない生徒まで在籍していたと聞いている。戦争が激化する中、アングラで仲間が集まり美術、音楽、文学が息づいた瞬間でもあった。
  戦争が終結すると彼等はそっと学校を去り、軍隊から復員した学生が教室に戻ってきた。

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