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丸毛登の生涯<丸下三郎>


2005/03/11

栄光と影と

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連載(2) <2005/3/17>
栄光と影と
 

 
当時輸入された放送機にはマルコーニ社製のライツ型のカーボン式マイクが1個だけ付いてきたが、日本の湿気で忽ち雑音機と化してしまう、父丸毛登は東北帝大から借用した実験道具を用いて氷砂糖を減圧下で焼き、篩で粒度を揃え炭素粒を得る方法を考案し、特許を申請した。理学の基礎と実験を叩き込む物理学校で学んだ物理学と化学と数学を駆使し、東北大学の伝統である物性論の研究環境の中で父の独創と努力が実ったのであろう。これが後に東京理科大学での本多光太郎学長との出会いに繋がっていく。
  吸着度の高いアモルファスカーボンを、焼成条件により結晶化の程度(グラファイト化の程度)を調整して吸湿度を下げ、かつ粉体としての電導度の調節に至ったのであろう。

 
父の特許申請に対して、数件の異議申し立てがなされた。その主なものは当時電気炉や食塩電解用のカーボン電極をつくっていた会社などで、炭素粒を熱処理する方法は「公知の事実である」との異議であった。特許庁での審査の結果異議は退けられ「熱処理した炭素粒の粒度を篩で揃えてマイクロフォンに用いる」という申請が認められ昭和5年、正式に特許が成立したという経緯があった。

 こうして出来たMH型マイクのHは実験助手を勤めて下さった星佶兵衛氏のイニシャルである。 「前畑がんばれ」の頃迄の数年間全国で使われ、今も愛宕山の放送博物館に一つ残る。


  星氏は特許成立の翌年1月に、前年に設立されたばかりの技術研究所に転任されMH型マイクロフォンの製造と研究に従事され、後年内幸町の演奏設備部長などの要職に就かれた。
  研究の段階での試作品は特別な設備が無いので試験はナマ放送で、とは父の得意とする処だったが、湿気に強く感度、明瞭度、出力の極めて優れたもので、しかも製造コストは11円50銭であった。輸入品は炭素粒交換のため欧州に送る3ケ月の月日と経費300円が必要であったから、国産でしかも製造コストは僅か修理費の4%ということになる。特許は父の意志でNHKに寄贈された。
 NHKから功績賞の盾と父には2500円、星氏には500円の報奨金が授与された。併せて時価1000万円位であろうか?

 
星佶兵衛氏は昭和37年頃,NHKを55才で定年退職する少し前に亡くなられた。父は70才代半ばだったろう。そのころ父の理大での授業で使うビラ作りを手伝っていた私に、父はポツリといった。
 今日、協会(NHK)へ行って、規定の許す範囲で、星さんの退職金を増してあげて欲しいと頼んできたよと言った。その頃は専務理事(技師長)というポストが出来ていたので、その方にお会いしてのことだろうか。
 
MH型マイクロフォン丸毛登 NHK時代
  この時代は白黒テレビを一台買うにもやりくりせねばならなぬ未だ貧しい時代だったが、この時ひとはどこまで思い遣りをすればよいのかの限界を教えられた思いがし、私の終生の規範になったような気がする。

博士号辞退、テレビの研究も


 
電気試験所の当時の技師仲間7人のうちで父は若い方に属する。38才で所長になられた鳥潟博士とは5才年下に当たる。鳥潟氏が42才で亡なられたのが大正12年、父丸毛登の年令は37才。その3年ぐらい前の事か、或る日所長が父に云われた、「私の友人に九州帝大の教授が居る、君はデーターを沢山持っているから、論文を出せば博士号が貰える」と。これに対し父は多分即答したのだろう、「先輩を差置いて私が先にと云うわけには行きません」と辞退したのだそうだ(母よりの伝聞)。
  末は博士か大臣かと云われたこの時代を振り返って、後年、晩年の長兄と話をしていた折に、「何故親父さんは博士請求論文を提出しなかったのだろう?」という事に話が及んだ。兄いわく、「多分、審査費用などお金が無かったんだろう」。私もほぼ同意してその話は終わった。

  話はもう一つある。テレビジョンの可能性は恐らく1897年(明治30年)にブラウン管の発明がなされた頃、つまり父が10才の明治30年を少し過ぎた頃から考えられていたに違いない。
 この大正の中頃に、鳥潟博士は父に「君はテレビジョンの研究をやらないか?」といわれた、父は恐らく何日か考えての事であろうが、「私の時代にはテレビジョンの時代は来ないでしょう、だからテレビの研究は致しません」とお答えをした(これも母よりの伝聞)。まさか米国と戦争をして、敗戦後父が60才を少し過ぎた時に日本ビクターの技師長の職をテレビジョンの高柳健次郎氏に引き継ぐことまで、この時読んでいたわけではなかったであろうが、まさにピタリと言い当てていたことになる。
  鳥潟博士は開成中学の後輩である父、2年間在学して退学せざるを得なかった父に、温情あふれるサジェストをお与え下さり、間もなく亡くなられた。

  予言めいた話を尚続けるなら、話は真空管の事に及ぶ。大正5年(1916)には電気試験所で試作品をつくり、既に受信機の試験が行われていた。大正8年には東芝が送信用真空管をわが国で初めて完成、大正13年同じく初のラジオを発売、14年に放送開始となる。初期の受信機は鉱石式で大きなスピーカーを付けたりしていたのだから、ラジオ用真空管の量産は昭和6年頃からであろう。

  当事は放送機器を含む通信機器を造る会社が続出する時代で、NEC、沖電気などは主に電話関係、早川徳次郎氏によるシャープ、松下電器等は特許・実用新案を基に産声を上げたばかりの時代だった。無論戦後生まれのソニーや富士通は無かった。

  日本の電気学会の昭和8年頃迄の規定で投稿や研究発表は、通信は送信(強電)に関するものに限られ、受信(弱電)に関する研究は除外されていた。そのようなもの、拾ってきた石コロを削って作った半導体などは学問の領域外だったのだ。
  この頃から真空管万能の時代が戦後まで続くが、父は大阪の技術部長時代だった昭和7~8年頃に、すでに将来を見通していた。「真空管の時代は一時的なもので、将来は改良された鉱石検波器の時代が来る」と予言していた。

  面白いことに、アメリカも日本も同様に戦争中、真空管が壊れやすい欠点を持つことに悩んでいたことが戦後判った。アメリカは戦時下から”壊れない真空管”の研究が盛んになり、半導体の発明に及ぶ。

 
昭和18年頃、長兄の海軍技術研の部下の一人が招集され、軍艦の乗組員となって艦隊勤務をし、休暇の折に時々兄の所に遊びに来ての話。大和、武蔵の46糎は大丈夫ですが、巡洋艦の20糎はダメですといっていた。振幅よりも振動数、つまり高い音を出す大砲に真空管は弱かったのであろう。

  半導体は顕著な例だが戦前にもアメリカでは有効な特許には、惜しみなく賞金が与えられたので、欧州や日本から技術がアメリカに集中して、アメリカの産業の発展は目覚しく日本の発明もアメリカで有名になると、日本の社会で認められると云われていた。戦後60年の今日でも、その傾向は変わっていない。
  残念ながら日本の風習は、誰かが役に立つ良い発明をすると、軽視するだけでなくそれをけなして更に足を引っ張る。
 技術立国と云われて久しいのに最近まで、発明者に対する報酬の方法があまり論議されずに来ていること自体、不思議である。

 父が昭和9年、 今から70年前にNHKから放送事業の調査の為派遣されて米、欧で一年余に亘って過ごした時、アメリカの放送技術者に自分の発明のことを話したら、「アメリカでは良い発明をすると何万ドルも貰える」と云っていたよ、と父は話していたが、当時の1ドル対2円で換算すれば、今日の価値で数億円ということになる。

 昭和の初期、NHKは放送債券を一口200円で売り出した。債券を買えば受信料は免除になり、我が家の門柱にも購入を示す金属プレートがはられていた。
  受信料は月額1円で加入者は多くなく、債券の売れ行きも良くないという財政の貧しさの中で、父に最大限の事をして下さったことを有難く思う愚息の立場から、今思うことを敢えて云えば、利益を追求するための私企業である会社は、利益に見合った報酬を一時金とロイヤリテーのような方法でもよいから発明者に配分するべきものと思う。

---閑話休題---
 
 それにしても、鳥潟博士が若しもっと長く生きておられたら、恐らく逓信大臣になられたことだろう。

 当時の関係者は、テレビジョンの実用化は少なくとも10年早かったであろうと、嘆いていたがそれ程、時代の先を見通す力と、政治的手腕は著しいものを持っておられた偉大な方だった。

           JOBK(NHK大阪放送局)丸毛登技術部長の一年余の欧米視察談を報じる業界紙(昭和10年)

    昭和7年大阪放送局関西支部技術部長となって大阪へ移り、昭和9年には改組で大阪中央放送局の技術部長となった。昭和11年には、父の特許成立と同じ昭和5年に既に設立されていた砧の放送技研の所長代理兼務の第2部長となって東京に戻った。所長のポストは以後5年、父の退職にいたる迄空席だった。
 
  当時技研には3部あり、3部とはとは送信、受信、テレビジョンで、父は受信が担当だったが、因みに第1部長は箕原騏一郎氏(海軍技術中将)、第3部長は高柳健次郎氏(浜松高専教授)でテレビは試験放送に入る処だった。

 因みに云えばテレビの受像機は1台3000円(時価1000万円)だった。女優さんの姿や景色はかなり鮮明であったし、受像機に対し多くの人々が興味を示したが、値段に驚き、購入したという話は一度も聞かなかった。 設立後僅か10年のNHKには生え抜きの幹部はなく、学歴不問、即戦力の寄せ集め集団というべきで、父も高柳氏も大学出ではなかった。昭和16年の秋に満54才で退職するまで続き、在勤13年半という短期であったが、以後も会友として終生遇して頂いた。

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