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2004/02/01 | 埋められてしまった神楽河岸 |  | by:埼玉支部 |
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神楽坂界隈 連載(2)<2004/2/1>
江戸湊から荷船が往来した埋められてしまった神楽河岸、芸者も舟でお座敷にでかけた
外堀道り側、 JR飯田橋駅に平行にセントラルプラザとラムラの2つのビルがつながるように建てられている。古い人ならご存じだと思うが、ここはかって神田川から分かれた水路が大曲から数百メートル入り込み神楽河岸があったところである。その河岸が埋められビルが出来たというわけだ。さらに河岸の地下には地下鉄有楽町線、南北線の2本が走っている。 一見、2つのビルは同じ新宿区内に在るように見えるがラムラは千代田区である。地図を広げると外濠が新宿区と千代田区の境界になっているが牛込見付のところだけ新宿区の神楽河岸のセントラルビルが千代田区に食い込んでいる。
ビルが出来る前は、河岸名残かJR飯田橋駅のホームから濠のよどんだ水を囲うように半ば壊れかけた石垣が見えた。濠に沿って大きな材木屋があり、いつ見ても丸ノコが回り製材をしていた。そして濠に崩れ落そうにおがくずが山になっていた。 神田川は大曲で二手に分かれ、片方は牛込見付で堀留になっていた。そして、川をさかのぼり江戸湊や下町から往来する荷舟の終端になっていた。濠の両側には石垣が組まれ河岸添いに土、砂利、燃料などを商う問屋が並び荷舟の荷揚げ場になり賑わっていた。揚げられた荷物は軽子坂を通り運ばれていった。神楽坂に比べ軽子坂の勾配が緩かったからである。 幕末になると 神楽坂のイキどころが舟で濠づたいの「芸者の出前」もあったと聞く。
濠の先が神田川を通じて東京湾につながり潮の満ち引きで水面が上下するのがよく分かった。満潮の時はまだしも、引いた時は濠の底にたまったゴミが顔をだした。神楽坂という盛場を控え、あまりに絵にならぬ風景だった。 河岸が埋められる寸前まで製材屋が太い原木をひく音が飯田橋駅のホームからも聞こえた。私にはごく数年前のことに思えるのだが、実際にはなん十年も時が過ぎている。2つのビルが出来て河岸は跡形さえも失われたが濠跡に作られた小さな人工的な流れが在りし日の神楽河岸を語っている。
上州道に向けた江戸城の城門、「江戸五口」のひとつ牛込見付
江戸城には36の「見付」と呼ばれる城門が作られ、うち東海道の虎ノ門、甲州街道の四谷門、上州道の牛込門、中仙道の筋違橋門、奥州街道の浅草橋門は「江戸五口」と呼ばれ、ここには幕府の侍が江戸の町に出入りする町人の出入りを検めた。 江戸城の護りに重要な位置をしめていた牛込見付は1635~36年(寛永12~13年)50年にわたる江戸城造成の最後の頃、阿波徳島の城主、蜂須賀忠英が造営したもので、 礎石に「阿波守」の文字が見られる。 当時牛込橋は庶民が気軽に渡れる橋ではなかった。外堀の外に屋敷を構えた旗本、御家人、番士 (下級武士)の江戸城への登城ルートとして賑わったが、庶民は目付の役人から出入りをあらためられるなどや っかいな存在だった。見付門は明治35年に撤去されいまは石垣を残すのみになっている。 1840年(天保11年)広重の「牛込神楽坂之図」は当時の様子を的確にとらえている。神楽坂の中程から牛込見付を眺めたもので登城する武士と門番の姿、それにまじって天秤を担ぐ魚屋、あんま、武家・町人の女房等、行き交う人の賑わいを克明に描いている。
いまでも外濠の水は道路下から暗渠で神田川に落ちている。牛込橋の名も消えそうだが、水音だけは昔のままに聞こえる。牛込見付JR飯田橋駅から神楽坂に来るのにはホームから丸天井の長い通路を抜け、改札を出てから牛込橋を渡る。駅のたたずまいは駅開業当時と少しも変わっていないという。見付の石垣も濠も昔のままだ。 半世紀前、私はこのコースを歩いて物理学校へかよった。今でも改札を抜けると50年前にタイムスリップする。
昭和の始めにタイムスリップする飯田橋駅と周辺風景、藤村も下りた飯田町
1895年(明治28年)甲武鉄道(中央線の前身)が新宿から延びてきて、飯田町~八王子間に汽車が開通した。ホテルエドモンドあたりにできた飯田町駅が始発駅になり全国に知られるようになった。信州、甲州方面からの旅客はここで下車している。島崎藤村もその一人だ。
甲武鉄道が開通すると飯田河岸として信州、甲州への荷物の集積地としても重要な拠点になった。明治37年(1904)飯田町~中野間に日本で初めて電車を運転した。 東京駅が中央線の起点になったのは昭和になってからのことで、そのとき牛込停車場は今の場所に移され飯田橋駅と名前をかえて開業した。1928年(昭和3年)のことで駅舎の外観は当時とあまり変わっ ていない。 それまでの牛込停車場は牛込見付より市ケ谷よりにあった。駅をおりた乗客は牛込橋と平行にかけられた橋で外濠を渡り神楽坂下にでた。つまり牛込橋は2本架けられていたわけだ。 その後飯田町駅は貨物専用の駅にかわった。交通網の発達していない時代、神楽坂は地理的にみて神田、日本橋をひかえた下町と山の手を結ぶルートとしても地の利を得ていた。
明治になって架けられた飯田橋、何故か橋の名がひとり歩き、どこかで残したい牛込の地名
JR飯田橋駅は千代田区に、地下鉄有楽町線南北線の駅は新宿区に在るといった具合にこの辺りの行政区分は複雑である。むかしこの周辺は江戸時代初期まで千代田村といったが、名主飯田喜兵衛の名前をとって現在の地名になったという。昔、九段坂も飯田坂といったそうだ。かなり広い範囲が飯田町だったことが分かる。 神楽河岸の水路が大曲で神田川に開いていた箇所に三角形の内心の様に新宿区、千代田区、文京区、3区の境界線が集まり、ここに飯田橋がある。江戸城には牛込御門から小石川御門まで外濠を渡る橋はなかった。江戸城を守る戦略だったかも知れぬが自由に城中を通り抜けられなかった庶民にとって、山の手と下町を結ぶこの橋の必要性を誰も感じていたにちがいない。
1875年(明治8年)までの地図には飯田橋の記載はない。1878年(明治11年)になると小さな橋が飯田橋と明記され地図に表記されている。この間3年の間に架けられたものと思われる。1910年(明治43年)になってようやく鉄橋になったのである。 しかし、明治になって外濠にかかった飯田橋の呼び名の方が何故か有名になり飯田町は何時の間にか影を潜めることになった。飯田橋が明治、大正、昭和にかけ市民の足になった市電ののりかえ場所であったことも理由の一つであろう。
加えて昭和初期の不況時代、とくに飯田橋職業紹介所には職を探す失業者が多数集まり、日本放送協会(NHK)でも職業紹介の時間で毎日のように飯田橋の名がくりかえし放送されたので子供だった私でさえ知っていた。 その飯田橋はいま千代田区の町名になっている。しかし、飯田橋職業紹介所が名を変えて文京区にあっても飯田橋ハローワークだし、新宿区に建てられても飯田橋ビルなのである。それだけではない。牛込見付一帯が飯田橋西口と呼ばれるようになったことだ。 牛込見付が隣の千代田区内にあっとしても、駅の出口ぐらい牛込見付口とか神楽坂口と言えないものだろうか。
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