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2004/09/01 | 夜店 |  | by:埼玉支部 |
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神楽坂界隈 連載(16) <2004/9/1> 夜店の草分け 毘沙門天の雑踏に揉まれる神楽坂芸者
戦争を境に神楽坂の夜店が姿を消してから半世紀以上も経つ。しかし、神楽坂と聞くと、いまでも、まず夜店と芸者の姿が頭に浮かぶ。戦争前は、夜、神楽坂に来さえすれば夜店も出ていたし、座敷に通う芸者さんも見かけものだった。ところが、現在ではその様な光景は全く無くなってしまった。 むかし江戸庶民は夏の夕方から夜にかけ[夕涼み]と言って涼しい場所に出かける習慣があった。両国の川開きはその最たるもので,両国橋を中心に川の両岸には夜店や食べ物屋の屋台が並び、大人から子供まで一夜を楽しんだ。[夕涼み]は両国に限らず江戸に各所に存在した。江戸庶民の狭い住宅事情によるものだったのであろう。 神楽坂が東京の繁華街と呼ばれた最大の理由は、夜店の数とおびただしい人出を指したものと言って間違いはないだろう。神楽坂に始めて夜店が出たのは明治20年(1887)のことであり東京で歴史が一番古いとされている。 神楽坂は江戸時代から毘沙門天の寅の日の植木市として知られていた。折も折り当時東京市内の家庭で盆栽や季節の草花を植えることが流行っていたこともあって、寅の日には植木を求める客でかなり繁盛していた。シーズンになると朝顔をはじめ季節の草花が並び、彼岸や盆には切花、暮れになると松竹梅のよせ植えや福寿草の鉢植えに正月を祝う客が東京中から集まった。 神楽坂に夜店が出るようになると、牛込の住人は大人から子供まで、家中で神楽坂へと出かけた。やがて人出は神楽坂周辺の住人だけに止まらず遠く四谷、早稲田、戸塚あたりからも続々と人の波が押し寄せることになった。 初めの夜店は坂上から外濠まで植木屋が中心に並んだ。毘沙門天の境内には猿芝居やノゾキからくり、大蛇の見世物などがいくつもかかり、神楽坂の両側には、季節の草花から盆栽、庭木にいたるまで並べられた。やがてそれに露天商が加わり、市内で3位と言われる程の賑わいを見せるまでにいたった。夜店を散策する学生の群れ、子供の手を引く親、若い男女、女学生、その間を走り回る子供、ありとあらゆる階層の人が何回も坂を上下して人の渦巻きをつくった。 盆栽の鉢を抱え、また庭木を担ぐ人が人の流れに逆らわず雑踏の渦に揉まれながら歩いていた。その中を座敷に通う芸者が人をかき分けていく光景が神楽坂の風物詩として知られるようになると、それがまた人を呼んだ。通行人は、物売りの口上や香具師の啖呵に耳を傾け、座敷に通う芸者に見ほれているうちに、すぐに時間はたっていった。腹がへれば蕎麦屋で蕎麦を啜り、屋台か居酒屋で一杯引っ掛けてまた雑踏の中に消えていった。花柳街を冷やかすのも神楽坂の夜店の遊びの一つだった。
娯楽の少ない時代で明治の終わるころには神楽坂には寄席が流行っていた。飯屋の2階が○○亭と言うように女義太夫の席であったりして、気軽に客が集まった。東中軒雲右衛門が修行をした若松亭も神楽坂にあった。しかし、表通りの喧騒をよそに1歩でも横町に入りと静寂の中に流れる三味線の音色が醸し出す世界も神楽坂だった。酒、料亭、芸者、待合、夜店、寄席総てが神楽坂の繁華に繋がっていたのである。この頃が神楽坂情緒の最も豊かな時代だったと言えよう。 子供たちも夜店の出る日は夕方から落ち着かなかった。親からいくら小遣いを貰うかが最大の関心事だった。夜店は大人だけでなく子供の別世界でもあった。男の子だけでなく女の子も連れ立って出かけた。もちろん子供目当ての店も多かった。女の子に人気のあった千代紙の着せ替え人形、海ほおづき、ぬり絵は夜店でしか手にすることができなかった。種類も多く選ぶのに時間もかかり小学生の女児が黒山になっていた。よくできた作品は店の周りの電灯の下に氏名と共に展示された。 貧乏徳利を揺すり塩酸と亜鉛の板から発生させた水素でゴム風船が膨らむのをじっと待つ親子、玩具屋でブリキの電車をせがみ父親の顔色をうかがう男の子、セルロイドの西洋人形に見入る女の子こんな光景は何処にでも見られた。 200軒の夜店に人が溢れ神楽坂は「車馬通行止」 さらに夜店が明るく華やいだは電気とアセチレンランプが現れた20世紀以後からのことだ。夜店が明るくなるにつれ震災前後を境に「バナナの叩き売り」で代表されるような威勢のいい香具師の啖呵が聞こえるようになると、植木屋は次第に隅に追いやられることになった。 そればかりかアセチレンランプからでる異様な臭いは夜店の臭いとも思われる時代に変わっていく。街路灯も少なく、ネオンもイルミネイションもない時代、日が暮れ神楽坂の夜店が一斉に明かりを灯すと、光の帯が明るく道路を歩く人を浮び上がらせた。そして時間がたつにつれて光に集まる虫のように人の数は次第に増えていった。 寅の日だけの縁日がやがて午の日にも出るようになり、寅の日と午の日は寅毘沙、午毘沙と言って200軒以上の夜店が狭い道路の両側に2列に並んだ。やがてそれが連日になり、人の出盛りの時間になると坂が人間で埋めつくされ、坂下と坂上には[車馬通行止]の提灯が下げられ坂は歩行者天国にされた。これで通行人は安心して神楽坂の夜店見物を十分に楽しむことができたのである。夜店を訪れた客は坂を2~3時間かけて2~3回上下するのが普通だった。200軒もでる店を見て回るのには1日や2日で終わるものではなかった。 夜店の範囲も通寺町から矢来町に達するいきおいでのび、大久保通りも人と店で溢れるようになったが、しかし、通行人は神楽坂の夜店のほうが格が上だと考えていたようだ。この状態は日中戦争が始まるころまでつづいたが、戦争が激しくなると急速に姿を消してしまった。敗戦後、米軍の空襲で焼土と化した街は復興したが再び夜店を見ることはなかった。 バナナ屋の啖呵で植木市が東京屈指の繁華街 震災を前後して「バナナの叩き売り」が本田横町の前辺りに店を出し夜店の立役者になると、それまで植木屋が主体であった神楽坂の縁日が露店中心の夜店へと変わっていくことになる。 ねじり鉢巻に腹掛けどんぶり姿はバナナ屋のユニホームだ。戸板の上の山盛りにしたバナナの一房を片手に、一方の手にムチを持ち戸板を叩いて値段を競るのである。 「サア買った。安くしとくよ。もってけ泥棒」の啖呵が響く。1房1円が70銭になり50銭になる。「もってけ泥棒」の声で30銭になる。客は競り落とすタイミングを考え次々と声をかかる。バナナの房は新聞紙に包まれて客にわたされる。威勢のいい啖呵と見物人のやりとりに人が集まり、バナナが無くなれば店が終わる。売れ残ったバナナを見たことは無く、店じまいも一番早かった。夜店に来た見物人は必ずと言って足を止めるところであった。
神楽坂の夜店は古本屋が多いことで知られていた
神楽坂の夜店は早稲田が近いせいでもあるまいが他の地域に比べて古本屋が多かった。古本をつめた細長い木箱をリヤカーに積んで移動、木箱をリヤカーの上に並べるだけで古本屋は開業する。裸電球の下で月遅れの月刊雑誌の連載小説や、講談本を読もうと子供から大人までいつも群がっていた。商店街の小僧さんや女中さんも暇をみてやってきた。 もちろん、参考書から英和辞典、店によっては専門書まで並べられていた。たまに本にはたきをかけるぐらいで、本屋の主人もお客が声をかけるまでうつむいて何時も本を読んでいた。しかし、流行作家や売れ行きのよい本や雑誌は手元において目を光らせていた。もちろん売れ行きのいい古本は高値で買い取ってくれたし、交換もしてくれた。 昭和の初期は不景気な時代であったが各出版社はこぞって全集物を出した。文学から講談、童話、教養全集と多岐にわたっていた。出版社が倒産すると,その本がそのまま古本屋に並び1冊でもばらして売っていた。
嫌われ者の蝮も夜店では立役者 蛇屋という商売があった。これには生きた蛇を売るのと、黒焼きにしたものを売る店とあった。生きた蛇を売る店は照明も無く周りの明かりを頼りにするものが殆どで暗がりが多かった。確か金網で栓をしたビンに生きた蝮をつめ、何本か籠にいれ、1本ずつ取り出して客に見せていた。黒蝮、赤蝮、蝮の産地・大きさで値段は客との交渉である。 店に蝮を並べないのはビンが壊れ、蝮が逃げると困るからだ。蛇屋は客が付くまで蛇の効能について得々と講釈を続ける。昭和の始めころまでは、蝮は万能薬と信じ込まれていたらしい。見物客は遠まわしに輪をつきり、覗き込むようにしてびんの中でとぐろを巻く蝮を見た。 「ビンの金網の栓をはずすと蝮が飛び出すから焼酎は必ず網の上から入れる。焼酎を注ぐと蝮は大きな口をあけて苦しがり焼酎の中を泳ぎまわる。この時蝮が口から吐く精が体にいい。1日さかずき1杯で十分効力がある。」と言う蛇屋の講釈に見物人は納得して聞いていた。
何故か蛇が最高の民間薬だった時代
もう一つの蛇屋は黒焼きの蛇を売る店である。黒焼きと言っても、殆どがシマヘビの燻製である。この店構えは、生きた蛇を売る店にくらべると明るく派手だった。人寄せのためか、何に効くのかセンザンコウの剥製、気味悪い素焼きの甕で蒸し焼きにしたサルの頭蓋骨を何時も並べていた。蛇の卵、ハブのアルコールづけのある店もあった。 蛇屋と相談する客の話に見物人はそっと耳を傾けていた。売り物のシマヘビは燻製にされてうず高く積まれ、申し訳に金網のかごに生きたシマヘビが動いていた。 注文があると、とぐろを巻き燻製にされたシマヘビを客の目の前で手回しの粉砕機で粉にして缶に入れる。初めから粉に挽いてあるものは売れない。蛇の効能のある部分は頭で、初めから粉になったシマヘビは頭を外してあると客が疑うからだ。同様に蝮の黒焼きも少なかった。焼いてしまえば蝮もシマヘビも同じに見えるからだそうだ。 昭和の初め、まだ蛇は万病の薬と考えられていた時代だったのである。 毘沙門天境内の植え込みは実は植木屋の売り物だった 夜店のはずれにはきまって古戸具屋と植木屋が店を出していた。古道具屋の店は暗かった。暗い店の奥で時折ハタキが動かなければ骨董の仏像と見違うように店主が座っていた。大きいものは長火鉢から茶箪笥、掛軸、骨董、焼き物がぎっしりと並べられ、売り声も無い静かな店だった。店の前を通り過ぎるものが殆どで、目ぼしいものを発見した客が声をかけて店が開いた。 震災を前後して植木屋の数は減り濠端の方へ押しやられた感があったが、朝顔など季節の鉢物が売られるときは活気があり、人が込み合ったが普段は静かだった。枝振りのいい松の盆栽から、万年青などの鉢物、桜、梅、躑躅,バラ,木犀、海棠の庭木の苗木を並べ、仕事着姿の植木屋が店番をしていた。 特に毘沙門天境内の植木屋は縁日に関係なく常時店を出し,売り物の樹木が元もと境内に植えられたものであるかのように茂っていた。四季折々に植え替えられて、緑が毘沙門天の伽藍に妙に合い風情を与えていた。 飴細工もシンコ細工も無形文化財 夜店というと大人も子供も食べ物に人気が集まった。飴屋もいろいろ出ていた。金太郎飴も鼈甲飴も飴細工もすべて見物人を前においての実演販売でどこも人だかりだった。 鼈甲飴 暖めた銅版の上に砂糖を煮つめた飴を鍋の口から流して孔雀、犬、猫を初め鳥から自動車、飛行機と客の注文によって何でも描いてくれる。しばらくすると飴は固まり銅版から外れる。ところが、これらの芸術作品は売れることはないらしく、いつも棒につけて店先に懸賞の賞品として並べられていた。 子供たちは1銭程で丸く棒に延ばした鼈甲飴を買う。飴の表面には瓢箪か刻印がされていて、飴をしゃぶりながら上手に瓢箪を外すと店先に飾られた作品が貰える仕組みになっていた。鼈甲飴の芸術の寿命は短く、一晩で形が崩れてしまい子供をがっかりさせた。 飴細工 水飴をねり飴の中に空気を入れて水分をとばすと白く固まってくる。さらし飴である。固まる寸前に飴に細工をするのだ。現在でも水天宮あたりの縁日で「無形文化財」の看板をかけて出ているのを見かける。 飴が冷えて固まらないように自転車の荷台に積んだ銅壺(どうこ)で暖めてある。10センチ程に切ったしの竹の先に飴をつけ、指先で丸めながら竹を吹くと飴は丸く膨れる。後はまったくガラス細工の要領である。飴が冷えて固まるまでの時間との勝負だ。成形は指先と和鋏一丁、赤と緑の食紅で色を施せば出来上がり。材料が大理石のように白くつやがあるのでお稲荷さんのきつね、狸、招き猫,鳩、犬がよく似合った。 シンコ細工 シンコ細工も[無形文化財]の一つだろう。うるち、つまり白米の粉を蒸して搗いたもので細工をして彩色する。粘土細工のようなものだ。 まず、シンコを捏ねるおやじの手から5センチほどの小さな皿が出来上がる。さらにシンコは手のひらの上で細く伸ばされへらの先で形をつけると、茄子や胡瓜,南瓜といったミニチユアが出来上がる。リンゴ、バナナ,柿などの時もある。次々に作られた野菜や果物が赤や緑に彩色され次々に皿に盛られると出来上がりだ。 おやじに頼めば何でも応じてくれた。出来上がると、見物人に披露して楊枝を添えられ黒蜜をかけて渡される。食べるには勿体ない出来ばえである。そっとシンコの皿の隅から蜜を舐めなめると黒砂糖の甘さが舌先に伝わってくる。 夜店の食の風物詩、夏は風鈴にカキ氷、冬は焼き芋に今川焼 夏になると朝顔に並んで風鈴がなり、暗がりには回り灯籠が回わっていた。蛍が篭に入れられて青白く点滅すると子供たちが周りをしゃがんで取り囲んだ。かき氷屋が店を出すのもその近所だった。秋には虫かごで鈴虫が鳴いていた。 冬になると氷屋が焼き芋屋、今川焼、お好み焼きの店に変わった。屋台の寿司屋、おでんや、今川焼などは常店のように縁日に無関係にのれんをかけていた。暮が押し詰まると救世軍が街角に社会鍋を下げトランペットを吹いて「歳末助け合い」の募金を呼びかけた。 人道りの疎らなところにの五目並べ、詰め将棋にはいつも5~6人の客が腕組みをして盤を眺め長考していた。また、易者が小さな机に蝋燭を灯し、筮竹をたて算木を並べて瞑想をしていた。 騙されても腹の立たぬ舌先三寸の香具師の商売 暗記屋なる商売があった。角帽に学生服の男が一段高い踏み台にのり、巻紙を片手に見物客に数字を言わせ筆で書きとめていく。ある程度数字が揃うと、巻紙が客の方向に向くように頭上にかざし数字を順番に暗証するのである。実演が終わると薄っぺらの暗記術なる本を売っていた。実際に本が役立ったか聞いた事は無い。 七味とうがらしの口上が始まれば、赤い帽子を被った唐辛子屋に集まり、何を売ろうが関係なく香具師の舌先に吸い寄せられていった。思わず手を出して「しまった」とすぐに後悔しても、翌日になるとまた同じことを繰り返すのだが、誰も腹は立てなかったようだ。 雌鶏になって卵を産むはずヒヨコがすべて雄鶏だったり、実演中はよく研げたはずの砥石が用をなさなかったり、書けない万年筆、なまらな刃物、おかしなものをつかまされても「夜店の品物だもの」と一笑に終わらせる構えがあったからこそ気楽に付き合えたのだろう。 だが一方、質を問わねば十分使用に耐える陶器、台所用品からメリヤスのシャツまで市価より安く手に入れられ、「値切る」魅力は夜店の楽しみであった。 何処の店にも寅さんがいた。品物はともかく香具師の啖呵に惹かれる 夜店の香具師には一芸を持つものが多かった。客集めに「寅さん」のように舌先三寸で客の足を止めるものと、がまの油売りを代表するように一芸を披露して客の流れを変えた。 表札屋が仕事を始めると、店先に人だかりができる。見物人の目は黙って表札屋の筆先を追っていた。間違えると何事もなかったように鉋を取り出し表札の表面に軽くあてた。代筆もかねるらしくたまに履歴書から表彰状までも書いていた。 大道に紙を広げ講釈交じりで虎や竜の絵を描くものがいた。虎の毛並みや、竜の鱗が筆さばきで驚くべき速さで描かれていく。別に絵を売る気配はない。人が集まると何かを取り出し見物客に売りつけてしまうのである。 当時の大道商人は人集めに、誰も真似のできない一つの技を持っていた。空中回転をするたびに幾つものどんぶりを出してみたり、両端を和紙で吊った竹を、紙を切ることなく木刀で竹を割って見せ、「客の中に掏りがいる。いま財布を掏りとり逃げようとしている」とまことしやかに喋り、通行人を引き止め、それから店を開くのである。その事情をよく知っている客は、技だけ見ると帰ろうとする。それを引き止めるのも技であった。 大道芸をみていてもすぐに2~3時間はたってしまう。 神楽坂の夜店を知っている人は少なくなった。地域の風俗史に係る夜店などの記録は無いに等しい。過去の東京の案内本などに記載されているものを中心に聞き込み資料を交え、不明の点は同時代の他地区の夜店を参考にした。 夜店に出た店も時代によって大分変化しているようだ。香具師の啖呵売りの口上は関東では共通のものが多い。また、同じ香具師が市内の縁日を回っていたようなので夜店の地域差は特に大きな差異は無いと考えた。 神楽坂の夜店について詳しいことをご存知の方がいたらご教授をお願いしたい。
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