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物理学校意外史

物理学校意外史 >> 記事詳細

2005/05/01

開校当初講義内容が難しく

Tweet ThisSend to Facebook | by:埼玉支部
連載(9)<2005/5/1>

 
 開校以来、小川町校舎に落ち着くまで7回も所在地を変更した時代を詳しく知りたいという望がありましたので、連載とは別に当時の母校の様子を色々な方面から探ってみたと思います。
  簿記講習所と統計学校は明治初年政府が官吏を養成した政府機関で学制が出来上がると商業学校などに吸収されていきました。

  進文学舎、成立学舎は共に当時有名な東京大学予備門の進学予備校で主に英語を教えていたようです。教師は東京大学の学生が学費稼ぎであたるものが多く、逍遥や漱石などもその一人でした。ですから講義は朝早く、午後は遅く始まったようです。交通機関の殆ど無い時代学生は、塾に近い神田周辺の安下宿に仲間と生活したり、塾舎に寮があるのも進学塾の呼び物だったようです。


 
東京物理学校は政府機関や進学塾を夜間借用して授業を行っていました。照明といえば石油ランプ、成立学舎などは環境が悪く窓に戸がないという状態で風どうしもよく夜学の母校の冬の授業は想像に余りあります。世間の目には母校は塾以下の存在にしか映らなかったと思います。
 明治時代の神田界隈の地図で物理学校の存在を確認するのは容易の業ではありません。現在の東京理科大学の存在感に比べたら問題にならぬほど小さく、間借りの学校の存在など目に入らず、地図にも載らなかったのでしょう。
  小川町時代に入り母校の卒業生が中等学校教員として全国に散らばり、中学の卒業生なら誰でも数学と理科で世話になったと言われるまでになりました。しかし、明治37年施行された教員免許状無試験検定の資格をとれる専門学校令に母校は認可されず大正6年まで各種学校として取り残されました。漱石の「坊ちゃん」が本校で学んでいたとされる時代です。「坊ちゃん」はチエが無く、無鉄砲な人間でしたが物理学校を卒業したというだけで教員免許状が無くても世間では先生として立派に通用しました。「坊ちゃん」は先輩の業績で先生になれた
言っても間違いはありません。  
 専門学校になれなかったのは卒業生が実力があると世間で評価されても学校の規模があまりに小さかったからだと思います。母校を専門学校に育てたのは同窓の力でした。同窓も増え、同窓会も維持会に勝る組織と経済力を持ち、神楽坂に新校舎を建設するまでに成長しました。そして、維持会に代わり開学の理想を引き継ぐことになりました。

開学当初の東京物理学講習所
         講義内容が難しく、教師も生徒もお互いに苦しんだ
  

 
明治14年麹町飯田橋4丁目の稚松学校に東京物理学講習所を開学してから現在の神楽坂2丁目に移るまで7回、所在地を変更している。なかでも開学から明治20年、神田小川町校舎に落ち着くまで約6年間の移転は5回と目まぐるしい。
  若き21名の青年学士が「理学普及を以て国運発展の基礎とする」の理想に燃えて始めた学校であったが、開学当時20名ほどの生徒も次第に減り1名になったことが2度もあったと東京物理学校50年小史は伝えている。この原因を講義内容の難解さもさることながら、教師の指導力にあったとしているが、フランス語で物理学を学んだものが科学的知識の皆無といっていい日本人に講義を行ったことは頭が下がるより、むしろ滑稽にさえ思える。
「・・・・此頃ハ衰微ノ極ニ沈ミタル時ニシテ生徒ハ浅村三郎唯一人ノミナリキ、此人ハ後大阪ニテ特許代願ヲ業トセラルルガ毎晩熱心ニ通学セラレタリ、又文部省ニ勤メラレシ教育家千葉實氏モ亦熱心ニ来学セラレタレド浅村氏トハ時期ヲ異ニシタル為メ是モ唯一人ニテ当時先生ハ實ニ拾有八名トイフ有様ナリキ、蓋此ノ二氏ハ本校ノ恩人ト謂フモ過言ニ非ラズ何トナレバ若シ生徒一人モ無カリセバ学校事業ヲ継続シタリシヤ不明ナレバナリ・・・・」(50年小史より)               [注]浅村氏、千葉氏ともに卒業はしていない。


 
当時の「規則要領」(明治15年11月印刷)によると、「本校ニ於テハ中学以下ノ学校教師タル者又ハ中学以上ノ学術ヲ脩メント欲スル者ニ適スル物理学科及数理学科ヲ授ク」とある。「理学普及」の理想を教師の養成に託しているように見られるがが、目標達成までまだしばらく時間を要した。上記の浅村氏、千葉氏の二人は規則の後半の部分に当てはまるもので職業上物理学の知識を必要としたものだろう。
  当時の世相からして、卒業しても何の資格も無い、直接職業に結びつかないような学校には人気が無かったようだ。技術は徒弟で住み込み、親方から学ぶ時代であったのである。「理学普及」の理想実現には程遠い茨の道だったのである。教師が夜間学校へ授業に来ると生徒が一人もおらず、空しく引き上げたことすらあったという。

  その様な状態のなかで、学校設立者を窮地に追い込んだのは学校維持の経費、つまり経済問題だった。教師の手当ては必要ないにしても、毎月、家賃、光熱費、実験器具を東京大学から運ぶ運搬費など合わせて4,50円がどうしても必要だった。授業料は決められていたものの収入は皆無に等しかった。理想と現実の狭間で若き創立者たちは理想を取り現実はポケットマネーの拠出で補った。学校経費月額50円を20人で分担するとして1人2.5円、小学校教員、警官の給料が15円だった時代である。

学校の危機を救った   
        東京職工学校の開設と教員検定試験の施行
               受験準備に予備校として受験生が集まる


 
この状態から母校が脱出できたのは明治14年5月26日、文部省が東京職工学校を蔵前に設立したことによることが大きい。授業を開始したのは翌15年11月だが、職工学校の受験生が予備校として入学するものが年とともに増加した。ちなみに母校は明治14年9月11日に開校している。加えて明治18年から中等教員免許状の文部省教員検定試験が始まりその受験準備のために入学生の増加を見ることになった。つまり、物理学校の理想「理学の普及」はどうであれ周囲の要望で職工学校と中等教員検定の予備校的な役割もはたすことになり、それが学校経営の財源にもなった。

  明治36年「専門学校令」(勅令61号)が公布されているが、母校が専門学校になり中等教員無試験検定の資格を得たのは、それからずつと後の大正9年のことであった。それまでの間、多くの理数科の教員を全国に輩出した母校はつまり中等教員検定試験の予備校、各種学校にすぎなかったのである。寺尾寿、三輪桓一郎、千本福隆らはその学力試験委員を勤めていた。特に寺尾は第1回からに二十回以上にわたって毎年学力検定試験に尽力している。
 当時、中等教員になるためには高等師範学校を卒業しなければならなかった。明治33年の「教員免許令」
令134号)によると「特定ノ規定アル場合ヲ除クノ外本令ニ依リ免許状ヲ有スル者ニ非サレバ教員タルコトヲ得ス但シ文部大臣ノ定ムル所ニ依リ免許状ヲ有セサル者ヲ以テ教員ニ充テルコトヲ得」とある。事実、明治末期の全国の公私立中学校では3分の1以上が高等師範を卒業しない、いわゆる無免許の教師が中等教育を支えていたのである。
 物理学校を卒業して無免許で教職に就き、何年か経験を積む傍ら勉強に励み、中等教員の検定試験に合格して正規の教員になるといったケースが多かった。実力があると定評のあった物理学校の卒業生は正規の免許状無くても漱石の「坊っちゃん」のように物理学校を卒業して8日目に四国の中学校からお呼びがかかったのである。
  明治末期には「坊っちゃん」が無免許で教員になれたのは、世間で母校が信用を博していたからで、数学と物理・化学の教員は物理学校出身ということが常識と言われるまでになっていたからである。常識は日本中の中学だけに止まらず、遠く朝鮮、台湾、中国までに及んでいたのである。


 
明治20年から37年までの間、卒業生369名(死者23名、行方不明者17名を除くと329名)の内中学校長、教諭及び教員168名、教員助手等53名、師範学校教諭、教員17名、計238名(72.34%)が中等教員として教鞭を振るっていた。教員検定試験に合格した者の中には、母校卒、在籍者、中途退学者が多かったことを見ても、いかに母校が中等教育界に多数の教員を送り出していたことか分かる。
 日本の有識者の大多数が中学時代、物理学校出身の教師の世話になったと言える。また、母校の存在感があった。しかし一方、技術官27名、実業家20名と少なかった。この方面での母校の卒業生の活躍は理科大になってから目覚しい。

簿記講習所から進文学舎時代
 
 明治14年9月飯田町4丁目の稚松学校を借用して開校した母校は、小学校施設を使用するという不便さから3月あまりで同年の12月神田錦町1丁目1番地大蔵省官吏簿記講習所を借りて移転した。講習所は、明治4年簿記学伝習所として大蔵省銀行局が開設、明治12年錦町に移るが、後一橋大学に吸収されたという。  
 15年9月、本郷元町2丁目進文学舎に移るが、何せ明治初年に始められた大学進学予備校というより個人の塾といった畳敷きの教室で、教師が立って授業を行い、生徒は車座に坐って聞くという不便な状態が続いた。机があったかどうかも定かでない。

 当時、大学といえば東京大学があるだけで、それも全生徒合わせて3000人、あとは私学で、慶応義塾、東京法学校(法政大学)、明治法律学校(明治大学)、英吉利法律学校(中央大学)、専修学校(専修大学)、東京専門学校(早稲田大学)の外は、おびただしい私塾であり、それが神田界隈に集まり大学進学塾つまり予備校をかねていた。
  その頃、東京の新しい人種といえば「書生」と「人力車夫」だった。明治15年の東京の人力車の数は2万5千台というから2,3万の車夫がいたことになる。車夫と書生が同数いたというから少なくても2,3万の書生が神田界隈に集まっていた。「書生々々と軽蔑するな 明日は太政官のお役人」(明治14年流行)と書生節に歌われたように全国から集まった書生は皆といってよいほど官吏になり出世することを夢見ていた。
 
ようやく建てた今川小路の校舎が暴風で倒壊、再び仮住まい
 
 
東京職工学校の受験者が増えるにしたがい、生徒数の増加があり、神田今川小路3丁目9番地の奥に土地100坪を借りて創立者が醵金を行い、木造建物22坪、うち教室12・5坪の校舎を建築し、定員80名、教員18名、校費は授業料で賄うが、不足が出た場合教員が醵金すると言う約束で明治15年暮れに東京府から移転が認可された。稚松学校と丁度日本橋川を挟み反対側にあたる。  
 だが、学校経費負担は創立者に重くのしかかり、次第に物理学講習所の存続の可否にまでの論議に及び、明治16年7月に開催された「物理学講習所改革総会」で「講習所ハシバラク此侭ニ(多ク更ニ費用ヲ募ル等ヲ事ヲナサズシテ)存続シ置クベキ事」として決定され何とか学校の存続がきまった。
 そして翌、明治16年9月には、東京物理学講習所を東京物理学校と改称、フランス留学から帰朝して東京大学理学部講師となったばかりの寺尾寿を初代校長に決めた。新校舎も完成、新しい学校の出発であった。               
                 
 
だが、年明治17年9月15日、東海道を襲った暴風雨は特に静岡県、東京府に大被害をもたらした。被害をまともに受けた母校の校舎は不幸にも倒壊してしまった。全てを水泡に帰した母校は振り出しに戻ったのである。創立者の心境はいかばかりか想像に余りある。幾度も相談を重ねたが建築資金の出る当ても無く、再び借家住まいから出発することになった。
 創立者は校舎探しにも懸命だった。この様子については前回少し述べたが、東京大学から実験用具を借用している都合で当時一ツ橋にあった東京大学に近いという条件をクリアする必要があった。
 10月、靖国神社付属地(現在の九段阪下公園内)の共立統計学校を5時から9時まで夜間借用する事ができ、授業を再開することが出来た。共立統計学校は長崎出身の開成校を出た杉享二が明治15年設立したもので簿記講習所と同じく官吏の技能養成校であった。   

 
不幸中の幸いとはこのことを言うのか、倒壊した校舎の古財が建築費の5パーセント売れ、諸費用に当てることが出来た。とは言え、新校舎の建築と暴風雨による倒壊は、学校の致命的な経済的危機に及ぼし、それは取りも直さず直接、教員の懐に響くものであった。
 それまでも東京物理学講習所の開設以来、講義は無料で奉仕し、赤字は創設者全員で負担してきたが、ここに来て物理学校を存続するために、設立者は自らに更なる負担を強いることになった。その結果が東京物理学校維持同盟である。母校の経営の最も苦しい時代であった。

  明治18年、開校以来校舎を建て、学校経費の赤字部分を負担してきた創立者はさらに、学校の維持存続のため東京物理学校維持同盟を結成することで決意をあらたにした。
 創立者21名の内すでに2名は死去、3名は加わらず16名が維持同盟に参加した。維持同盟規則から、当時の状況をしのぼう。

                    東京物理学校維持同盟規則
第1条 東京物理学校ヲ維持スル為メ左ノ諸条款ニ掲クル義務ヲ負担シ及ヒ其権理ヲ亨有スル者ヲ東京物理学校維持同盟者トス
第2条 東京物理学校維持同盟者ハ本校維持費トシテ明治19年4月以降金30円ヲ寄附スヘシ
此寄付金ハ必シモ一時納入ヲ要セスト雖モ毎月1円ヨリ少カラサル金額ヲ納ムルコトヲ要ス
第3条 東京物理学校維持同盟者ハ本校ニ於毎週テ2回ツヽ講義ヲ行フノ義務ヲ負フ者トス
本校ノ都合ニヨリ此定数ノ外別ニ講義ヲ課スルトキハ講義1回コトニ金25銭ヲ本校ヨリ講義者ニ交附スヘシ

在京セサル者及ヒ本校ノ都合ニヨリ若シクハ事故アリテ定数ノ講義ヲ行ハサル者ハ講義ヲ闕クコト1回コトニ金25銭ヲ以テ本校ニ出金スヘシ
第4条 東京物理学校維持同盟者ニシテ在京セサル者ハ第2条ノ寄付金ト第3条ノ出金併セテ毎月2円ヨリ少カラサル金ヲ本校ニ送ルヘシ
第5条 東京物理学校維持同盟者ニ限リ本校ノ財産ヲ共有シ及ヒ本校ノ負債ヲ負担スヘキモノトス
 
  さいわいにして明治20年頃になって母校も授業料で学校の経費が賄えるようになり、維持同盟者はようやく寄付金から逃れることが出来た。
 
化学実験で火事の危険を危惧                         
          家主に追われ成立学舎に移る


  明治18年9月の学則の改定で修業年限が2年になり、新たに指導科目に化学が加えられた。ところがこの化学が災いして「物理学校は化学を教えるから、実験で火事を起こす心配がある」という理由で立ち退きを迫られることになった。何回かの交渉に及んだが、話し合いはつかず、明治19年9月駿河台の成立学舎に一時移ることになった。
  しかし、成立学舎にいたのも束の間、11月には小川町校舎に移転している。

母校が借りた進文学舎・成立学舎は
               東京大学予備門の予備校だった 
    

  明治10年、東京開成学校と東京医学校が合併、東京大学と改称すると共に大学に付属させる予科予備門を創設した。このことによって、小学校から大学までの学制がひかれ当時唯一の最高学府東京大学を目指す若者が続々と上京してきた。それに応えるかのように東京大学の周囲には予備門を受験する学生の塾と称する予備校が乱立することになった。漱石、子規、鴎外などみな予備門に入る前に世話になっている。この慣習は現在まで続いている。
  当時、中学校で英語を学んで卒業したものは殆ど無試験で予備門に入れたようだ。しかし漱石や子規のように英語の学力の無い者は入学が難しく、そのため大抵の者は入学試験準備のために英語の塾舎に通った。
  母校が開学当時わずかな期間だが間借りした進文学舎、成立学舎ともに予備門進学のための予備校で明治の著名な文学者が在籍したのでその名は文学辞典にまで記載されているが、間借りしていた物理学校の名前は出てこない。進文学舎、成立学舎、共立学舎などが有名で、東京大学の学生の学費稼ぎの教師が多かったようだ。
 おそらく母校は、夜間、使われることの無い寺子屋のような進学塾の一室を借りて、ランプを灯し、理想を高く、毎夜学習を続けていたのであろう。塾の様子については、成立学舎のところで取り上げたい。

進文学舎は鴎外がドイツ語を学び
            坪内逍遥が英語を教えていた進文学舎


 進文学舎(社) 本郷元町2丁目、本郷壱岐坂上の交番から右に入り右側、現在の本郷1丁目、桜陰高・中の辺りにあった。東京物理学講習所が明治15年9月より同年今川小路3丁目に自前の校舎が完成する暫くの間、間借りしていた所だ。
  高松藩・上橘機郎が設立、明治18年頃まで大学進学予備校として存在していた。明治12年、坪内逍遥が東京大学文学部に入学した頃から16年7月卒業したあとまで進文学舎に関係して英語を教え、若い学生の面倒をみている。逍遥は16年9月高田半峰(早苗)の勧めで早稲田と因縁を持つことになるが、母校が進文学舎に間借りしていた当時昼間、坪内逍遥は同所で英語を教授していたことになる。
  また、森鴎外は明治5年10歳から2年間同所でドイツ語を学び、2年後東京医学校予科(東京大学医学部の前身)に入学、14年東京大学医学部を20歳で卒業している。    
 正岡子規は16年6月松山から上京、一時須田学舎に入るが後共立学舎(開成中学の前身)移る。そして翌17年東京大学予備門に入学するが、子規は進文学舎で坪内の英語の夏期講習を受けたというが、16年の夏ということになる。
  子規が進文学舎に在学した時は母校が転出した後ということになる。校舎は畳敷きで机などもなく、先生を真ん中に車座に坐って暗いランプの下で講義を聴いた様子が想像される。

漱石が学んだ成立学舎 

  進文学舎、共立学舎、後で出てくる成立学舎のように当時東京大学の周囲から神田界隈には東京大学予備門に進学希望者に勉強させる語学の予備校がたくさん存在していた。
 成立学舎 淡路町2丁目(現在駿河台4丁目)母校が明治19年9月から2ヶ月間小川町校舎に移転するまで夜間借用した。近くに関東大震災で倒壊した石づくりの万世橋が神田川にかかり眼鏡橋と呼ばれ市内の名所となっていた。周辺は神田川沿いに火除け地になっていた。
  明治15年、笹田総右衛門が設立した成立学舎には明治16年、夏目漱石が東京大学予備門に入る準備、英語の学習のため入学している。17年に予備門に入学しているから、母校との出会いは無い。
  漱石は「私の経過した学生時代」の中で成立学舎の様子を次のように書いている。
 
 「・・・・その頃、私の知っている塾舎には、共立学舎、成立学舎などというのがあった。これ等の塾舎は随分汚いものであったが、授くるところの数学、歴史、地理などいうものは、皆原書を用いていた位であるから、なかなか素養のない者には、非常に骨が折れたものである。私は正則の方を廃してから、暫く、約1年許りも麹町の二松学舎に通って、漢学許り専門に習っていたが、英語の必要――英語を修めなければ静止していられぬという必要が、日一日と迫って来た。そこで前記の成立学舎に入ることにした。
 この成立学舎と云うのは、駿河台の今の曽我祐準さんの隣に在ったもので、校舎と云うのは、それは随分不潔な、殺風景極まるものであった。窓には戸がないから、冬の日などは寒い風がヒュウヒュウと吹き曝し、教場へは下駄を履いたまま上がるという風で、教師などは大抵大学生が学費を得るために、内職として勤めているのが多かった。・・・・」
 漱石自身大学に通う傍ら江東義塾の教師、東京専門学校の講師を勤めている。
 
          
当時の物理学校を知るいい手がかり
            「坊っちゃん」から読み取れる物理学校の評価

 「黙れ」と山嵐は拳骨を食わした。赤シャツはよろよろしたが、「これは乱暴だ、狼藉である。理非を弁じないで腕力に訴えるのは無法だ」 「無法で沢山だ」とまたぽかりと撲ぐる。「貴様の様な奸物は撲らなくっちゃ、応えないんだ」とぽかぽかなぐる。おれも同時に野だを散々に擲き据えた。
   祝勝会の日、中学と師範の生徒同士の喧嘩に巻き込まれた坊っちゃんと山嵐は顔面に人前に出られぬような怪我を負ってしまう。その上に新聞にまで書かれ、町中でも評判になりさらに事件は尾を引いていく。山嵐は「ああやって喧嘩をさせて置いて、すぐあとから新聞屋へ手を回してあんな記事をかかせたんだ」と喧嘩に巻き込んだのは赤シャツの策略と坊っちゃんに言い聞かせる。

 山嵐は辞表を書く羽目なり、単純な坊っちゃんはこれに同調する。すっかり山嵐の言いなりになった坊っちゃんは、教師を辞めて四国を去る決心をする。去るにあたり山嵐の計画通りに門屋から出た赤シャツと野だを街外れの杉並木で捕まえようとあとをつけ、徹底的に叩きのめし積もり積もった鬱憤を晴らす。だが、小説「坊っちゃん」はこの格好のいい場面から主役を山嵐に譲って物語は終わる。江戸っ子で無鉄砲を自負する「坊っちゃん」の結末としたらいささか後味が悪い

 
「どうしても早く帰って清と一緒になるに限る。こんな田舎に居るのは堕落しに来ている様なものだ。新聞配達をしたって、ここまで堕落するよりはましだ」と考えながらも「どうも山嵐の方がおれよりも利巧らしいから万事山嵐の忠告に従う事にした」と山嵐に加担することになってしまう。そして「おれと山嵐は不浄の地を離れた。船が岸を去れば去る程いい気持ちがした」とさりげなく四国を後にする。
 ここでの「坊っちゃん」の行動は文学者がもっとも興味のあるところらしいが、全く別の観点で物理学校の卒業生としての「坊っちゃん」が約3カ月の間に教師から街鉄の技手に変わった状況について考察してみたい。


 
東京に戻った坊っちゃんは街鉄(東京市街鉄道)の「技手」となり清と一緒に四国の時代とはうって変わって静かに暮らすことになる。給料は松山時代の教師の月給40円がから25円に下がる。数字は当時の収入から見たら妥当な額だがその時代の中学教師の給与水準が高かった。
 「坊っちゃん」が書かれた明治38年は、卒業しても何の資格も無い物理学校だが卒業生の能力は実力共に高く評価され全国に知れ渡っていた。無鉄砲に入学した物理学校だったが、彼の行き先には高い知識を要求される教師の社会と、街鉄という当時花形の技術畑が待っていた。だからこそ当時としたらかなりの高給で処遇されたのである。
 
教員免許状無くても日本中何処でも立派に教員として通用した

 
20世紀始め、わが国の中学校と生徒数の伸びは著しく、文部省の統計によると明治33年(1900)には194校(生徒数78,315名)であったものが、坊っちゃんが教員になったと考えられる38年になると259校(生徒数104,968名)に増えている。わずか6年間で学校数で1.24倍、生徒数で1.34倍の勘定になる。この間教員数は、公立中学校だけを見ても3,726名から5,084名と1,358名に増加している。
  明治34年から38年までの5年間に高等師範を卒業した者の数は829名であり、単純な計算でも相当数の教員を高等師範の卒業生以外から補充していたことがわかる。さらに高等師範の卒業生から高等女学校や師範学校の教師に流れた者を除くと、実際に中学校の教師になった者はもっと少ない。この欠員を物理学校などを卒業した無資格の教員が埋めていたのだ。

  だが、高等師範の卒業者以外が中等教員の免許状を取得するのには文部省が実施する検定試験をパスしなければならなかった。
 現在では無免許の教員など考えられないが、明治後期から大正の初めにかけての中学校は多くの無免許の教員で支えられていた。明治33年の教員免許令によると「特別ノ規定アル場合ヲ除ク外本令ニ依リ免許状ヲ有スル者ニ非サレハ教員タルコトヲ得ス但シ文部大臣ノ定ムル所ニ依リ免許状ヲ有セサル者ヲ以テ教員ニ充ツルコトヲ得」とあるが、実際には但し書きが横行していたのである。


  坊っちゃんが教員になったとされる明治38年には、全国の公私立中学校の統計でも無資格教員は36.5%に及んでいる。明治の中等教育の伸張の陰にはこういった無免許教員にかかることが多かったといっても過言ではない。そういう意味でも物理学校の存在は重要だったのである。物理学校卒業生の多くは無免許で教職につき何年かのうちに中等教員の検定試験を受け正式な教員となるコースをたどった者が多く、教員検定試験の予備校的役割を果たしていたといってよいだろう。
  しかし、文部省の教員検定試験は難しく毎年全教科合わせて合格者は受験者の10パーセント前後にしか過ぎず、特に数学については34年と36年にそれぞれ1名の合格者が出たに過ぎず、坊っちゃんが卒業したとされる38年には合格者0という有様だった。この数字で見る以上母校を出たばかり卒業生の大部分が無免許のまま教員として全国へ散らばっていったと推測される。
 
そして、同窓会からの要望もあり東京物理学校を各種学校から中等教員無試験検定の資格が与えられる専門学校に改組する必要に迫られることになった。このためには母校は幾つかの問題を解決していかなければならなかった。これについては後で詳しく触れたい。

 さて、坊っちゃんは、物理学校に入学したのも教師になったのも本人の無鉄砲な性格に起因するものだとしている。さらに「教師になる気も、田舎に行く考えもなかった」と教師になり地方下りを否定するのは漱石の経験から出た言葉かも知れないが、結局、教師になって田舎へ行ってしまう。

  坊っちゃんが校長からの四国行きの教師の口を即座に快諾した時「教師以外に何をしようと云うあてもなかったから」と痩せ我慢を張るが、当時の物理学校生らしい姿を垣間見る事ができる。

  漱石は街鉄の技手の給料をかなり高額に奮発しているようだがが、当時としたら物理学校卒が教師以外の職業につくことしたら適当なものであったようだ。恐らく東京帝国大学卒なら直ちに「技師」と肩書きがついたであろうが、物理学校卒の坊っちゃんは技手として技師の下で一生、中級の技術者を立派に勤めたと思う。
 わが国の技術畑では徒弟制度が根強かったこともあって、技術系の専門学校がまだ十分に整備されて無い時代において、物理学校は理科系の各種学校として教師の外に、「技師」と現場を埋めるかなり質の高い数少ない中間技術者を社会に供給していた。
  この様なことからも、日本が近代国家を目指した明治後期から大正にかけて、実力が評価されながらも、表道りを歩かず教育界に産業界の下支えをしてきた先輩の活躍を改めて評価したい。


教員ばかりではなく
      技術者の中にも優秀な人材を輩出した  

 
  明治36年「専門学校令」公布され、専門学校が帝国大学に次ぐ高等教育機関に位置付けられると、早稲田、慶応をはじめ多くの学校がこぞって専門学校になり、専門学校卒が帝国大学卒に次ぐ新たな階層として誕生した。このようにしてわが国の学歴社会は着実に形成されていった。
  しかし、これは法文経に限ったことで、理工科系に関しては整備が遅れ、技術系の帝国大学の卒業生は極めて少なく、母校のような理科系の各種学校卒が技術者として活躍の場を広げていった。東京のシンボル街鉄も技手によって動かされていたと思う。このことは明治30年代に入り入学希望者が急激に増加したことからもうかがえる。物理学校が専門学校になったのはそれからずっと遅れて大正5年のことだった。

  帝国大学、専門学校とピラミット型に学歴社会が作られて行く中で、坊っちゃんのように学歴社会からはみ出した人間が、中学校で学歴社会の人材を養成するといった皮肉な社会現象の底辺に物理学校が存在したのである。帝国大学を除き高度な理工科教育の整備の遅れが目立つ中、各種学校でありながら唯一高度な理数系の知識を身につけた卒業生の活躍がわが国の技術面で貢献したのも、物理学校の存在価値を高めるものであった。
  昭和の初期なっても、東京で理工科系の専門学校以上の学校は私学では殆ど見られず、わずかに大学では早稲田大学理工学部、日本大学工学部、専門学校では東京物理学校が1校あるのみであった。
坊ちゃんは、書かれた時代の特異な物理学校の一面を描き出しているといってよい。

坊っちゃんは頭がいい江戸っ子だった
                            
 小説では坊っちゃんが物理学校に入学して3年間を無事に過ごし卒業して数学の教師になっている。物理学校がどんな学校で、そこで何をどのようにして学んだかについては一切触れてない。物理学校の記述はわずか1行「物理学校の前を通り掛ったら生徒募集の広告が出ていたから、何も縁だと思って規則書をもらってすぐ入学の手続をしてしまった」とあるのみである。
  漱石が坊っちゃんを執筆するにあたって、どの位、物理学校に関する情報を持っていたか疑問だが、「人並みに勉強はしたが」「席順はいつも下から勘定する」「3年立ったら・・・卒業してしまった」と卒業するのが難しいと誰もが認知している学校を意図的に逆に捕らえていることからも、かなりの知識があったと思われる。

 漱石は明治37年から明治大学の講師を兼任していたから、毎週、駿河台に来ていた。当然物理学校の前を通ったこともあっただろう。当時の明治大学は現在の位置よりもっと母校の小川町校舎に近かった。
  当時の物理学校がどんな学校で、そこで何を学んだかをはっきりすることで「坊っちゃん」の読み方も変わってくる。だが、これについて触れたものは皆無といってよい。この点をはっきりしなくては、坊っちゃんを物理学校卒として読み取ることが出来ないだろう。文芸作品としての「坊っちゃん」でなく、読み方次第で、その時代の物理学校を知ることができる貴重な1冊であると思う。


誰もが考える坊っちゃんのモデルは漱石自身か
          数学の教師だから物理学校卒にすることで誰もが納得

 
  小説は明治28年、漱石が松山中学の教師時代を背景にして書かれていることから登場人物のモデルがいろいろ取り沙汰されるが、主人公の「坊っちゃん」が漱石そのものというわけかほとんど論議されたことは無い。
 漱石自身――「坊っちゃん」の中に赤シャツという渾名を有(も)っている人があるが、あれは一体誰の事だと私はその時分よく訊かれたものです。誰の事だって、当時その中学に文学士といったら私一人なのですから、もし「坊っちゃん賞坊ちゃん」の中の人物を一々実在のものと認めるならば、赤シャツ即ちこういう私の事にならなければならんので――登場人物のモデルをはぐらかしている。                                        
 小説にでは「坊っちゃん」はご存知のように「東京物理学校」卒業生である。物理学校が東京理科大学の前身であることも「坊っちゃん」の本の注釈には必ず書いてある。しかし、漱石が何故坊っちゃんを物理学校卒にしたのか論じたものは見たことはない。恐らく、数学の先生を主人公にする小説では物理学校卒業としたほうが読者には納得が得られたのだろう。もっとも単純に考えたら、中学の数学の教師は物理学校卒と世間では相場が決まっていたからかもしれない。

 
だが、漱石が坊っちゃんを物理学校を卒業させたのにはもっと深い意味がありそうだ。

小説から探る坊っちゃんの履歴
 
  小説から推測すると坊っちゃんは明治38年7月に物理学校を卒業している。喧嘩の発端となった日露講和条約の祝勝会が開かれたのが明治38年の初秋であるからことからも分かる。当時、母校は2月と7月の2回卒業生を出していた。
 「ぷうと云って汽船がとまると、艀が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。船頭は真っ裸に赤いふんどしをしめている。野蛮な所だ。尤もこの暑さでは着物はきられまい。」と四国へ赴任したのは夏であるから卒業は7月である。坊っちゃんは一度も落第していないから、入学したのは明治38年7月から逆算して35年9月と言うことになる。しかし中学校を卒業しているから無試験で36年2月に入学したかも知れない。
 (当時の母校の就学年限は明治25年から従来の2ヵ年を3ヵ年に延長し、1学年を2学期制として、3年を6学期編成にしていた。そして1年に2回、2月と9月に入学させ、2月と7月を卒業月としていた。32年2月の学校規則改正で中学校、師範学校を卒業したものは無試験で第2学期から入学することが出来た)

 母校は開校以来、夜間に授業が行われていたが、明治30年から、生徒増のため初めて昼間部、夜間部の2クラスを開設した。(明治22年7月生徒増のため昼間部1クラスを開設したことがある)坊ちゃんは昼間部か夜間部かどちらに入学したのか明らかでない。3年間600円という学費が用意され働く必要もなかったので昼間部としておこう。小説ではそのことに触れてない。

 
生まれてから鎌倉以外は東京から踏み出したことも無い坊っちゃんは、物理学校に入学しても4.5畳の下宿に蟄居し勉強するだけで無趣味な男だったと想像される。この辺にも物理学校生の生真面目さが必要以上に強調されている。

  母校は入学することは容易だが、進級と卒業は難しいことで知られていた。これを一度も落第もしないで「席順はいつでも下から勘定する方が便利であった。しかし不思議なもので、三年立ったらとうとう卒業してしまった」にせよ3年で卒業出来た坊っちゃんはよほどの秀才だったと考えられる。当時の進級、卒業の合格発表は成績順に発表されたので誰が一番で、またビリであるかは一目瞭然であった。漱石はそういう事情を踏まえて、落第させずに卒業させることで坊っちゃんを秀才として暗に読者に読み取らしている。そうでなければ卒業して8日目に校長から呼び出しも来ないし、40円と言う高給の話も出てこない。

  だが、そんな坊っちゃんが「碌なものにならない」とか「懲役に行かないで生きているばかり」と江戸っ子特有な気負った自虐的な悪態をつき、教員免許状を取得しなければ何の資格も得られない物理学校に紛れ込んでしまったことを「親譲りの無鉄砲」だったと自認する。その一方で「卑怯な人間ではない。臆病な男ではないが、惜しい事に胆力に欠けている」とインテリにありがちな一面をみせている。そのくせ本人は「社会性の欠如」と「智恵の無さ」の自分に絶えず自問自答する。
 坊っちゃんは優秀な成績で学校は出たが、学生時代、学校と下宿で蟄居した3年間、勉強をしたかどうか分からぬが世間勉強を全くしなかったのだ。結局は、世間にたけた山嵐についていってしまう。
 そんな一面を理解しないと、本人も言うように坊っちゃんは文字通りの「親譲りの無鉄砲」「知恵のない人間」として単なるユーモア小説に終わってしまう。
  
物理学校で漱石に一番近かった男、櫻井房記
 
 
漱石の住居に近かったと言うことから、物理学校3代校長の中村恭平が「我輩は猫である」の苦沙弥先生のモデルとされることがあるが、苦沙弥先生は多分に戯画化された漱石の自画像だろうというのが一般的な説である。
  交際が長かったと言う点から言えば、桜井房記であろう。桜井が明治24年から16年間熊本の第5高等学校に在職した時代、同じ職場で29年から33年まで漱石が英国に留学するまで英語の主任教師をしていた。そんな関係から桜井は漱石の謡曲の先生であり「紅葉狩」を教わり褒められたと鏡子夫人が回想している。桜井自身宝生流の奥伝を極めていた。また、留学中も桜井と文通があつた事を漱石の日記にも記載されている。職場の付き合いだったかも知れないが、物理学校の話しがされたかどうか分からぬが、一番漱石との付き合いが長かった人間だと言えよう。
  33年櫻井が五高の校長になった年に漱石は英国に留学し34年に帰国する。第5高等学校から留学したのだから元の五高へ戻るのが建前だが、櫻井が熊本に慰留するのも聞かず漱石は東京に留まりたく第1高等学校の講師と小泉八雲の後任として東京帝国大学英文科講師を兼任することになる。
           
坊っちゃんを物理学校だけのマスコットにしてよいのか
                    「坊っちゃん」が世に出た背景

 
 漱石は明治39年3月3月中旬から24日までの1週間ほどで「坊っちゃん」を物理学校に託して書き上げている。「別に腹案など無かった。3日ばかり前、不意に頭に浮かんものを書いてしまった」というが前々から「坊っちゃん」を書きたくなるような何事があったからこそ、『ホトトギス』に「猫」を執筆途中に突如3日で構想がまとまり、一気に仕上げる事ができたと言うのが大方の見方である。このことについては次回に譲る。

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