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物理学校意外史

物理学校意外史 >> 記事詳細

2005/10/01

専門学校第1回卒業式、卒業生より多い来賓

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連載(14)<2005/10/1>
 

  維持員は同窓会と協議の結果、東京物理学校を財団法人にして同窓会が存続経営することに決定した。二者は土地、建物、器具、図書などすべての学校財産を5万5000円と評価した。そのうち同窓会が寄付した金額と新たに維持員が寄付した金額を控除して残り2万2000円を維持員に支払うことに取り決めた。
 支払いは大正4年から始まり5年間を費やし完了した。このようにして東京物理学校は大正4年5月26日文部省の認可を受け維持員の手を離れ財団法人にして同窓会が経営することになった。
 
専門学校の第1回入学生は269名、3年後無事に卒業したのは15名
 
  大正6年4月、同窓会は東京物理学校を専門学校に組織替えして財団法人東京物理学校校長に中村精男、主事に桜井房記を選んだ。この年新たに発足した専門学校には本科、高等師範あわせて269名が入学した。入学資格は中学校卒業程度とし入学試験は行わなかった。
 専門学校は従来の3年6学期制を3学年制に改め、大正9年3月専門学校として始めて第1回の卒業生を出す。記録によると高等師範科の卒業生は15名だったことからも進級は相変わらず難しかった。

臨席した有名著名人の来賓の数は卒業生より多かった

  3月28日に行はれた第67回(専門学校第1回)の卒業式に出席した来賓は次の通りであった。菊池大麓(理化学研究所初代所長)、辻新次(日本教育学会初代会長)、浜尾新(帝大総長)、桜井錠ニ(東京帝国大学理科大学長)、久原躬弦(学士院会員)、中川元、山川健太郎(東大総長)、藤沢利喜太郎(学士院会員)、渡辺洪基(帝大総長)、高松豊吉(稿本化学訳語集の編者)、杉浦重剛(東宮御学問所御用係)、田中館愛橘(学士院会員)、村岡範為馳(算術教科書著作者)、木下広次、長岡半太郎、大森房吉(地震大森公式の発見者)、平山信(小惑星の研究者)、田中正平(邦楽の5線譜化)、高山保綱、隈本有尚、池田菊苗、鶴田賢次の諸氏が列席した。[役職名は卒業式時点とは必ずしも合致しない]

  とくに前回明治39年、創立25周年を兼ね神楽坂新校舎落成の記念式の来賓(前回記載)と、第67回卒業式の来賓名を列記したのは、母校を現在に見る総合理工科系の大学の基礎を作ったと言うべき第4代校長大河内正敏を迎える人脈があったと考えられるからである。これについてはあとで詳しく触れる。
 卒業式に列席した学校職員と来賓の数を加えれば卒業生の数をはるかに上回った。この年を境に昭和4年まで卒業式を中断する。理由は明らかでないが大正8年から銀時計下賜と卒業式を廃止した東京帝国大学に習ったのではないかと言われている。
  この間の,本科、高等師範科他入学した生徒、在学生の数は次の通り。

          予科     本科・高等師範科
         (1年制) 1学年  2学年  3学年  聴講生  計
 大正 6年    54名  269名           25名  586名
    7年    45名  331名  42名      18名  656名
    8年    52名  325名  84名  20名  8名  665名
    9年   164名  403名 111名  47名 23名  807名
    10年  286名  534名 111名  69名 29名 1047名
    13年  453名  928名 140名  59名 34名 1614名
    14年  477名 1410名 171名  92名 38名 2188名
    15年  648名 1540名 209名 112名 41名 2550名
 昭和 2年  583名 1742名 212名 138名 32名 2707名
     3年  446名 2014名 256名 130名 38名 2884名
     4年  448名 2170名 284名 156名 39名 3097名
     5年  311名 2197名 297名 194名 41名 3071名
         計には別科(大正10年廃止)、専攻科(昭和5年開始)の数を含む 
                              (50年小史による)

     大正6年入学志望者が1000名を越え200名の入学を断る
     12年1部(昼間部)を作って生徒増問題を解決   
          
  上記の表からも分かるように、専門学校になってからの生徒増は著しい。神楽坂に移転した明治39年から専門学校に組織替えをした大正6年までの生徒数は大体400名を推移していた。ところが大正10年には在籍が1000名を越えることになり、校舎に収容できず入学生を200名断るという事態が生じた。
  もともと物理学校は2部つまり夜学を主体とする学校であったが、大正12年から昼間部1部を作って入学生の増加に対応した。数字だけで読み取ると1部が出来た大正12年から生徒数が増えている。生徒数は大正の終わりから昭和にかけてざっと7倍以上に膨れ上がった。
  入学生の増加は教員志望の学生が多かったことにもよるが、授業料の安かった点が上げられる。中学校の教員を目指す昼間の勤めを終えた小学校の先生や勤め人が夜間勉強に集まったのである。
  だが大戦後のインフレは授業料を月額2円50銭(大正8年)から5円(大正12年)まで2倍に押し上げてた。生徒数が多く「落第生が学校を支えていた」と悪口を言う輩もいた。
 幸いなことに関東大震災、空襲にも校舎の炎上が避けられ、2回にわたる東京が焦土と化した中で学校が続けられたのも幸運だった。
 いずれにしろ生徒増は学校の経済を豊かにして、徐々に周辺の土地、建物を買収して昭和11年、旧1号館が完成したときは明治39年神楽坂に移転した当時の規模(敷地面積340坪、建築面積226坪)を大きく上回り(敷地面積1178坪、建築面積624坪、4階建て1部5階延2291坪)になっていた。
 
戦局の悪化を理由に昭和19年文部省の指示で無試験入学制度を廃止
 
  母校の特色、無試験入学と徴兵延期の制度は、満州事変から太平洋戦争までわが国が軍事色を強める情勢の中でも続けられた。軍需産業の台頭で理数科の人気と徴兵を避ける志願者で入学願書受付けの朝、校門の前には長い行列が出来る有様で生徒増に益々拍車がかかった。
 この加熱ぶりに戦局の悪化を理由に、昭和19年文部省の指示で無試験入学の制度が廃止され入学定員を1部400名、2部250名と定め入学試験を実施した。開学以来の無試入学験制度はここで終了することになった。
 
そのころの東京物理学校の置かれた時代背景

  大正3年7月、第1次世界大戦が始まると欧州諸国の経済は一時麻痺状態に陥り、遠くヨーロッパから離れた日本でも様々な影響を受けることになった。為替相場が混乱し、海運の不安から輸出は止まり主力の生糸は3割も暴落する有様であった。一方、欧州からの染料、薬品などの輸入品が品薄になり逆に暴騰し染色会社などは打撃を蒙った。
  ただでさえ日露戦争後の不景気の世の中、さらにこれらの影響を受けて各地の銀行で支払い停止の銀行が出てきた。
  しかし翌4年の後半になると欧州に向けての軍需品の輸出が増え、戦争景気の米国への生糸の輸出が好況になった。さらに戦争でストップしていた欧州から中国、インド、東南アジア、遠く豪州、南米に向けた輸出品に代って日本の商品が進出すると同時に海運界も引き手あまたの状態だった。
  5年~6年にかけて企業は高収益を上げるにいたった。しかし労働者の賃金は物価高の追いつかず、インフレは常に生活を脅かした。大正3年の物価指数を100とすると7年には202、賃金指数は同年153と差を大きくしている。
  大戦中の産業の発展は都市に人口を集中させ、好景気で労働者が都市に集まった。だが大戦後、巨額な利益を上げた者の多くは戦争の波に乗った投機的なもので、戦後の恐慌には一たまりも無かったのである。
  大正7年、大学令が公布され公私立大学の設立が認められると、私立の専門学校が大学に昇格するものが多く大学生の数が増えていった。大学生の増加は年とともに中学から専門学校、大学へと順に下の学校の入学者を増加させる結果になった。
  その様な時代背景の中で、東京物理学校は大正4年維持員から同窓会が経営する財団法人に改組し、6年には専門学校になった。
  しかし、大正の終りから昭和の始めにかけ日本中に吹き荒れた恐慌により、昭和2年、小津安二郎監督の映画「大学は出たけれど」題名が流行語となったように就職難を迎えることになる。大学を出て実際に就職できたのは65パーセント位だったという。だが、進学率は衰えを見せなかった。
  昭和の初めまでにわが国では人材の登用には学歴が尊重される慣習が出来上がっていた。国民の誰もが高学歴を望むようになっていた。これにともなって大正5年(1916)から15年(1926)にかけて中等学校の生徒数は2倍以上に増え、特に女子においては3倍以上に達した。
  大正6年に母校が専門学校に組織替えしたときは、中等学校の教員養成という学校であり教員の求人も多かった。就職難を尻目に教員の採用は比較的順調だったのである。教員志望者も多くこの意味では母校はラッキーだったと言えよう。やがてそれも昭和になると学校数も頭打ちになり卒業しても教師の口を探すのが難しい時代が来ることになる。
 
大正5年~15年の学生数と学校数の増加
 
          大正5年(1916)       大正15年(1926)
 
 種別       学校数  生徒数      学校数  生徒数
 中学校       325校 147467人    518校 316759人
 師範学校      92   26307      102   48647
 高等女学校    229   80764      662  299463
 実科高等女学校 149   21168       199   26745
 実業学校     568   99714      853  233433
 専門学校      90   42430      139   73909
 高等学校       8    6346       31   18107
 高等師範学校    4    1676        4    2719
 大学           4    9705       37   52186
                     
                    大学の生徒数には大学院予科を含む。
                    『学制百年史資料編』(1972)より
 
 昭和5年刊「東京物理学校50年小史」の最後のページに昭和5年までの母校の卒業生の職務状況表が示されている。

     職務          生存者      死亡者       計
教育者 大学及び専門学校   70       10        80 
    中学校           1011       45      1056
    その他            30        3        23
官吏                206        3       209
実業家 保険関係         79        2        81
    銀行及会社         77        6        83
自営                  66        2        68 
官営に在らざる研究所      28        -        28
その他                 9        -         9  
不詳                 71       170       241 
計                 1637       241      1876

 実に50年間の卒業生1876名のうち不詳241名を除く84パーセントが教育者と官吏になっている。保険、銀行、会社、民間の研究所など企業に就職した者は12パーセントに過ぎない。 
  だが、昭和2年3月15日大規模な金融恐慌が勃発した。その前日、14日の3時頃衆議院予算総会で『震災手形』の処理問題で質問に立った野党政友会の吉植庄一郎代議士の答弁にたった大蔵大臣片岡直温の「渡辺銀行」の破綻の公言から始まった。
  別に片岡蔵相の失言で金融恐慌が起きたのではなく、前々から多くの銀行では経営状態が極めて悪くなっており何時破綻しても可笑しくなかった。4月に入ると鈴木商店の破産で台湾銀行が休業に追いやられ若槻内閣がたおれ銀行界は全国的な大混乱に落ちいった。巷では相次ぐ倒産で失業者は町に溢れ、各所で労働争議が続き、それでも比較的恵まれていた教員希望者にも刻々と就職難が押し寄せてきた。
 
             東京物理学校年度別卒業者数
          卒業生数             卒業生数
    大正2年   31名       昭和2年   74名
      3年   44名         3年  110名
      4年   45名         4年   99名
      5年   32名         5年  123名
      6年   31名         6年  135名
      7年   35名         7年  166名
      8年   27名         8年  140名
      9年   31名(専門学校第1回卒業式)
     10年   51名         9年  216名
     11年   37名        10年  175名
     12年   48名        11年  203名
     13年   53名
     14年   45名
     15年   71名(1部,2部卒業生)

  昭和9年の就職状況を見ると同年の卒業生は開校以来最高の216名を送り出した。しかし、その大多数が高等師範部の生徒であり2~30名の卒業生が教員としての職を得えられなかった。つまり過剰な教員希望の卒業生をだすことになったのである。ちなみに9年の就職状況を見ると
      
             卒業者数  教員就職者  その他就職数
       数学科   104名    28名     44名
       理化学科  104名     9名     73名

この数から見ても教員になる者の数が極めて減っている。教員にならず技術者として他の職業を探すにも不景気な時代困難を極めたのである。
 
教員養成校だけでは立ち行かなくなった東京物理学校
                         新たな方向を求めて

 
  さらに追打ちをかけるように昭和5~6年になると、税収の上がらない市、町、村では給料の値下げ、未払いの出るところまで現われ、新卒の採用どころでなかった。卒業生の大半が教員、官吏でしめる母校では卒業生の就職に頭を痛めることになった。
  私も中学生時代この不況時代教師になった先生から授業の中で「教師になるのにしばらく市電の仕事をしていた。数少ない教員になるのには競争が激しく、給料も引き下げられていた」という話を聞いた。教員養成校として年毎に生徒数を伸ばしてきたが、教員需要は年毎に減り卒業しても教員の就職口は無く不景気の中教員以外の職業を探す有様に母校と同窓会はジレンマを感じていた。

  昭和2年4月、時代を察知した東京物理学校同窓会では人事部を設置した。人事部には部長1名、常務委員3名、人事部委員5名を置き、各支部には委員1名を置いた。部長には東京物理学校校長を推し、委員は部長が選出した。常務委員には幹事が当たった。人事部は同窓会と連絡を取り合って卒業生の状況を調べ就職に参考となる資料を備え、常時就職の斡旋が出来るよう便宜を与えるものであった。目に見えてきた同窓の教育界への教員就職難に対応するものであった。
  同年7月に新たに年4回同窓会報(6,9,12,3月)を発行して会員全員に配布する。もともと同窓会には「東京物理学校雑誌」という機関誌があったが内容が学術的で、同窓相互の厚情を図るようなものではなかった。新たに企画された「同窓会報」はそれまでと異なり論説、母校の記事、会員の動静、詩歌、俳句、所感に至まで同窓の関係を密にする企てを図るもので、不景気と卒業生の就職難は同窓の絆を深めるものであった。昭和6年6月号の会報(14号)より季刊であった会報が月刊になっている。
 
昭和5年、中村恭平は維持員最後の校長、同窓会長も兼ねる
                                                     
  昭和5年、初代校長寺尾寿の後を継ぎ明治29年から第2代校長を勤めた中村精男が死去した。維持同盟者21名の内生存者はすでに中村恭平、三守守、玉名程三の3名を残すのみになっていた。
  東京物理学校同窓会は昭和5年1月7日、第3代校長に中村恭平を委嘱した。
 
 財団法人東京物理学校寄付行為
 第8条 理事及幹事は東京物理学校同窓会之ヲ選定シ・・・・・
 第9条 理事ハ教務ヲ教務ヲ処理セシムル為メ校長主事其ノ他ヲ委嘱スルコトヲ得
 
  この年、昭和5年母校は創立50周年を迎えた。10月17日、午前中亡くなった東京物理学校創立者以下教職員276名の追悼式を神式で行い、午後は閑院の宮臨席のもと東京物理学校50年式典が行はれた。式のあと内閣総理大臣代理橋本伯、文部大臣田中隆三、東京府知事牛塚虎太郎、東京市長代理、来賓代表山川健次郎らの祝辞があり、田中伴吉の「ヴイタミンBの主体に就て」の講演で記念式を閉じた。
  記念式典は3日にわたって行われ、2日目は丸の内報知講堂で記念講演会、3日目は生徒の祝賀会が同講堂で余興や菓子が配られるなどして開かれた。
  なお、10月14日には天皇より金5千円が下賜されている。
 
昭和12年11月6日維持員玉名程三の死去で維持同盟員の全てを失う
 
 昭和7年1月22日、同窓会長三守守死去にともない、同窓会長は中村恭平が兼ねることになった。しかし、昭和9年1月21日第3代中村恭平死去で、同窓会長と校長を同時に失うことになった。規則によれば同窓会長と校長は維持会員のただ一人の生存者玉名程三になるはずだったが、取り敢えず、理事の田中伴吉が校長事務取扱をつとめた。東京物理学校同窓会規則によれば同窓会長は維持会員が推薦されることになっていた。
 
 東京物理学校同窓会規則
 第5条
  1、名誉会員トハ左記各号ニ該当スルモノニシテ本会ニ於テ推薦シタル者ヲ云フ
    (イ)東京物理学校創立者
    (ロ)特ニ本会ニ功労アリタル者
 第13条 会長ハ名誉会員中ヨリ之ヲ推薦ス
 
  玉名程三は維持員であったが京都に在住して東京物理学校には創立が8年間教鞭をとった以外は学校に就任した経歴は無く高齢でもあったことが理由と考えられる。昭和12年11月6日の死去で母校の創始者維持同盟員の全てを失うことになった。
 
卒業生が教員に代って産業界の進出が目立つ   
 
  前にも触れたように、昭和の初めから卒業生の多くが教員に代って、陸海軍や官民の研究所、軍需品工場を中心に精密機械工場、化学工場等に進出する者が次第に目立ってきた。だが、理数科の基礎知識は叩き込まれたが、もともと教員として養成され技術者としては応用能力に欠ける面が指摘された。
  中村恭平校長死去にあたって母校は2つの大きな課題を抱えていた。1つは極端とも言える生徒増に対応するため校舎の増築問題と、2つは、教員の就職難を解決すべく新たな卒業生の進路先の開拓を積極的に進めることだった。それには教員養成を目標においた従来の学科を、技術者の養成に向いた教科になおす必要があり、つまり時代が要求する技術者を生み出す新たな学科を開設することが急務だった。
 
初めて学外から学校長を招聘
          依頼するなら実力者理研コンツエルン創始者大河内正敏に 
 

 昭和9年1月21日、中村校長死去のあと財団法人東京物理学校理事の田中伴吉が当座校長事務取扱をつとめ、理事会は各方面から意見を聞いて第4代校長に理研の所長、工学博士子爵大河内正敏に依頼しようと決定した。それまで大河内は母校とは何の縁も無く、学校の記念日や卒業式の来賓にも名前さえ無かった。大河内は明治36年東大造兵学科を銀時計組で卒業、44年33歳で東大教授、寺田寅彦と同年である。大正10年に理化学研究所(理研)の第3代所長になった。

 大正4年、大隈首相が理研の創立を決定、いわゆる半官半民の研究所として理研が創設されたのは6年のことであり初代所長は菊池大麓、副所長は桜井錠ニが任命された。大麓が5ヶ月で死亡、古市公威が2代目を継いだが理研が実質的な活動を展開するようになったのは大河内所長になってからといってよい。在職期間、博士を150人、教授・助教授を100人を育てた。理研発展の裏で活躍したのは桜井錠ニと言われている。
 大河内が第3代理研所長になったのは山川健太郎の推薦による。大河内の画期的な手法は理研で開発研究したものを製品・商品化して利益を研究に還元すると言うものであった。
 理研のビタミン、理研の合成酒、理研のピストンリング、桜井錠ニの息子季雄の発明になる理研の陽画感光紙、理研のアルマイトなど、大河内の業績は理研コンツエルン約60社の創業であり日本の産業に果たした役割は大きい。大河内について書かれた書物は多いが何故か東京物理学校の校長だったことが記載されたものは皆無と言ってよいだろう。

  大正10年、大河内が理研の所長に就任した当時、所員はわずか100名に過ぎなかった。11年から主任研究員制度を採用主任研究員に長岡半太郎、池田菊苗、鈴木梅太郎、本多光太郎、真島利行、和田猪三郎、片山正夫、大河内正敏、田丸節郎、喜多源逸、鯨井恒太郎、高峰俊夫、飯飯里安、西川正冶の14人を当てるなど改革した。
  5年後に所員は400名にまで成長し、13年には大河内は寺田寅彦を理研に呼び、真島正市も参加し、真島利行、田丸、寺田は母校の教員だったこともある。神楽坂校舎の落成式の来賓、山川、菊池、真島利行は理研の関係者、専門学校第1回の卒業式の来賓には理研の主任研究員になった者が多い。こんなことから理研の関係者と東京物理学校とは密接な関係にあり、本多と真島正一は理科大の学長になっている。
 
仕掛け人は平川仲五郎と真島正市というが   
            全く面識も無い大河内に誰が校長を依頼したのか


  私が物理学校の学生時代、何回か先生から「仕掛け人は平川仲五郎と真島正市だった」と聞いた。真島は平川の東北大1年先輩で、真島を母校の先生に連れてきたのは平川であったと言われている。東京物理学校を教員養成校から技術者を育てる学校に脱皮させるためには経済方面に明るい大河内をおいて他にはないと白羽の矢を立てたのだった。
  話だと始めての会見は門前払い同様だったらしい。物理学校に関係の深い理研の先輩の口添えがあったと推測される。再度に渡る平川らの「これからの研究・技術者を育てくれないか。学校の経営は全て任せる」の説得に応じることになった。
  同窓会主催の大河内校長歓迎会の中で大河内は次のように所信を述べている。

――今日の産業は昔のやり方とは全然趣を異にし、少しでも理学を余計に取り入れた方が産業戦の勝を制するのであります。即ち理学を根底とした産業は生産費を低減するので、良品を安価に提供することが出来るのであります。
 実際工業に従事する技術者に理学の素養深い人が入るといふことは非常に重要な事であります。本校が率先理学の教育を施して、その普及を図り、今又時代の要求に応じて一部の者には応用方面の教科を課するといふことは、国家社会にとって最も必要なことと思うのであります。――

 大河内の学校経営の方針の一端が表れている。 そして、昭和9年4月2日第4代校長大河内正敏を迎えることになった。維持員に変わって外部から校長を迎えるのは開校以来始めてのことだった。
 
教員養成校から技術者養成の学校に脱皮
             鉄筋コンクリート校舎と応用理化学部の設置
      

  第4代大河内校長の就任によって、前々から懸案になっていた生徒増による校舎の拡張問題、教員の就職難を緩和する方策として卒業生の進路先を産業方面に向ける技術者の養成手段がここで矢継ぎばやに解決することになった。
  昭和10年校舎改築に当たって木造建築の意見があるなかで「これからの学校建築は鉄筋コンクリートでなければいけない」の大河内の主張が通ったと聞いている。工事は11年6月から始められよく12年10月に竣工した。旧1号館である。同月18日、来賓700名、生徒3000名が参加し校舎新築落成式が行われた。
 昭和10年1月18日には応用理化学部に設置認可がされた。応用理化学部設置の構想には大河内の主張がかなり入れられているという。4月より応用理化学部のうち「物理学を主とするもの(応用物理学科)」、翌11年4月「化学を主とするもの(応用化学科)」の授業が開始された。
 昭和12年7月7日、北京郊外の盧溝橋で起きた日中両軍の衝突は太平洋戦争まで広がりを見せ、皮肉にも卒業生は技術者として拡大する軍需産業を中心に進出して行った。

  第8回理事会長には大河内正敏が選ばれ、理事に平川仲五郎、真島正市らがメンバーに入った。始めて同窓会の外から理事が参加した。大河内が学校長に就任した翌年の昭和10年、応用理化学部が設置され、昭和11年5月から12年9月まで学校長と理事長を兼務した時代は旧1号館が竣工した。


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