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丸毛登の生涯<丸下三郎>


2005/04/07

私の思春期

Tweet ThisSend to Facebook | by:埼玉支部
連載 (5)<2005/4/7>

私の思春期 -(主に中・高時代)-


 今書いている文集の予告編に開成時代と書いたのを今悔いている。この頁に開成卒業50年誌に書いたような知らない個人名や交友のことを書き連ねる事は、ただ退屈を誘うばかりだから本当はカットしたかった。
 いざ書き直す時期が迫って、何をどう書けばよいか迷い、三日三晩呻吟した有様は御想像頂きたい、とまずホンネを申し上げておく。そこで、
 (1)後悔:だからこうすれば良かったか
 (2)失敗:その結果どうして反面教師の効果が現れて、良かったのか
 (3)成功:私がこうだったから良かった
以上のことを、良い事ずくめで筆を進めたい。

(1)後悔

  中学に入った頃は戦時色の濃い昭和18年だったから、戦闘帽に校章をつけ、足にゲートルを巻きつけ、体操や教練や柔・剣道がやたらに多いのが、まず気に入らなかった。
 入学当初の一週間は、今で云うガイダンス、最上級生の話もあって、こんなものかと判ったが、よくはわからなかった。
  最初の歴史の試験はひどかった。たった2題、新石器時代について述べよ、古代メソポタミヤについて述べよ。たいていの同級生は零点をもらった。大人になって判った事だが、小学校とは違うぞということを教える為の先生の作戦の一つなのだ。
  小学校時代に出来たという慢心は忽ち萎縮に変わる。しかも平均点が60点以下、2科目60点に達しないと、若しくは一科目でも50点以下の科目があると、学年末に進級止め置きになる。これはきつかった。多くの先輩後輩が涙した場面だ。それに比べて毎学期の成績順の席替えは当たりまえなので、何とも思わなかった。

 中一の頃は開成の先生は裁判官のようなガウンを着ていて、しかも年配のかたが多かったので、こわくて近寄り難かった。陸軍将校の教官は「努力にまさる天才はありません」と、むなしかった。
 ある日、授業の終わった教室でだと思うが、私の名を云ったあと「勉強しないとお父さんに云いつけますよ」と少し下がりぎみの眼鏡ごしにみてそう云われた。

  一寸驚いた。「はい」と答えて、家へ帰ってから父に尋ねたが、「知らないね」という返事だった。戦禍という段差はあったが、高校を卒業して暫くしてから、判ったよ、「高橋次郎さんは物理学校の数学科に居た人(明治41年)だよ」と父は云った。父の一年後輩に当たる。
 小さな貨物船の乗客が、いきなり潜水艦から魚雷を頂くような、命のちぢまるような思いをすることが人生でよくあったが、その時に如才なく先生と話をすれば、結んだ糸がほどける様にお話が進み、或いは数学のみならず、勉強のやり方を教えて頂けたのではと思うが、後の祭りである。時は萎縮したまま進んだ。

  もう少し書けば、中2の同級生の畏敬の友は、柏崎正一、寺島尚彦、前記の原島康廣等の諸兄で、柏崎兄は東大法科を経て、司法試験主席合格、弁護士の道を歩まれ今も賀状のお返しを頂いている。昨年亡くなられた寺島兄は芸大に進まれたが、此の頃から作曲家を目指していた。原島兄は検事になってのちに弁護士に転じ、個人的にお世話になったが、このころはザコの一員だった。戦災で3度も家を焼かれた上、父親を失ったりして志を曲げられた優れた友も多く居る。

 この年の11月から、中2の私達にも動員令が下り、陸軍第一造兵廠・弾丸工場の工員の仕事につき、翌年8月15日につながる。工場では時々機械に材料を補給して見ているだけだから楽だったが、楽をすると死に目に遭うとは爆弾が教えてくれた。勉強もそんなものだ。
  昨今、進度別授業を実行して失敗したという報道がなされているが、およそマト外れと云いたい。昔から父の背を見て子は育つというが、友の生き様を見て生徒達は育つのだ、玉と石とが混合するから磨かれるのである。もっと磨かれておけばよかったが・・・。

(2)失敗

  「失敗」はと聞かれたら、トランプのストップ51のように、良い場が出たら、カスの手5枚と全部取り替えたい、それ位、というと、逃げるのかと云われそうなので、一つにしぼって話したい。
 試験勉強は2週間前から、というのを聞き違えて、大体はそれしかしなかった。それと気づいたのは、高2の時、数学のノートを貸して欲しいとお願いし、見せて呉れた畏敬の友、友と云うには畏れ多い伊豆山健夫兄だ。
  試験の10日前には全て終わっていて、「前の日に見るだけだから」といわれた時は頭に血が昇るのを感じた。実はこの人はノートを持っていないのではと思っていた。聞いただけで全て頭に入るのだと
思っていたからだ。授業中に忙しくノートするのを見たことがなかった。

 後年、私達が中年になってから、小学生時代からの友に、伊豆山君のお母さんの悩み事は、「勉強して、うたた寝をしているので、そっと掛けぶとんを掛けてやること」という話を聞かせて貰った。小学時代からの友であればよかった。私は何も知らずグースカ夜は寝ていたのだから。かくして後に述べる愚息は、既に出来上がろうとしていたのだ!!
  因みに高3での彼の成績は平均点95点、開成歴代の中の秀才。数物化地生は全て満点で、私は化地生はほぼ満点でも、数物は80点を越えることはできなかった。英語も雲の上。上を向いて歩こうよだ。「努力する天才」にまさる鈍才はない。天才に追いつこうとすると眠る時間がなくなる。だから、中1の頃から睡眠時間をつくれるような勉強法を学ばせ実行させる。これが中学時代に教えておくべきことなのだ。

(3)成功

  留年したことが非常に良かったと云えば強がりのやせ我慢と思われるだろうが、そうではない。何かの因縁かも知れないが、私の父は父親に死なれて中3で退学したが、私は同じ中3で家族が法定伝染病と疑われて、大病院に押し込まれ、桐生から引揚げてきての唯一の試験を受けられず、従って戦時特例の恩恵に浴せなかったのだ。
 桐生中(旧制)の担任の阿形先生は、挨拶に行った母に、「良く出来るのに転出するのは惜しいことです」と世辞かも知れないが云って呉れたのであったが。では留年で得たものとは、と問われたら「伊豆山兄と会えただけでも犬のマークと同じ位の値打ちがある」と云いたい。どこかに書いて来た言葉だが・・・。
  あの1年間のブランクのままだったら、ただでさえ怠惰な私であったから、追いつくのは容易でなかったろうし、個人的にその後も、今日も、少年に数学を教える気にはならなかったろう。
 いつか書きたいが、一次関数、二次関数を教える時に、「ただし、等速直線運動はこの世に実在しないのだよ!!」だから微積が必要なのだとか、予習すると結果はこんなに楽しいのだよ、と云って付き合ったりして教えておけば、私のように萎縮せず、多くの少年が迷わず豊かに育つものと思い、及ばずながら今も実行している。多分、魚雷が来ても大丈夫である。

 その頃の学校生活はのんきで、先生も「受験勉強は自分でやるものだ」。やっている者も素知らぬふり、我が家の家訓は「浪人ご法度」「文系はX」、かくて開成の同級生松下茂、松本匡史の2兄と共々受かったので理大へ進むことになった。 

理大での父と愚息の話し

  昭和44年の夏の終わる頃、父は臨終を迎えた。当時の安立電気社長、磯英治氏の弔辞の中に「丸毛登氏は教育者でした・・・」というくだりがあり「おや?」と思ったが、しばらく経つうち、それでいいのだと思うようになった。「教えることは自分の勉強になるんだよ」ともよく云っていた。
  早大理工の講師は、逓信省時代の終わり頃の2年間だけ。 NHK時代は中継局の設立、研究、 1年2ケ月位に及ぶ外遊と多忙で教育の実績はなく、ビクターの時代は都落ちして桐生で半年間桐生高専の講師を兼務しただけだった。

 父が東京理科大(以下理大という)の講師になったのは、私の入学が決まった直後の昭和25年3月の事。その時の父の話によると、「愚息がお世話になります」といって学長室に本多光太郎学長をお尋ねしたら、「君を探していたんだよ!教えに来てほしいが」というのが事の始まりで、「何を教えればいいのですか?」の問いに学長先生は「プラクチースなものがいい」というお言葉で話が決まったそうである。
  ここで繰り返し記せば、その時の父は日本ビクターが立ち行かなくなり、その後始末をして松下幸之助氏に譲り渡した後、研究指導を以前からしていた現エルナ-KK(当時は三光社KK)の取締役、兼製造部長となって辻堂(神奈川県)へ通っていた。この25年3月から会社勤めと平行して母校理大で昼と夜を毎年交互に週一回「電気通信」を講じることになり、連続して八十才まで続けた。

  学長の本多光太郎先生は、元東北帝大の総長で磁石鋼の研究で世界的に知られた著名な方で、父の仙台放送局時代に知り合う仲で、色々と交流があった。仙台放送局時代に父の方からお訪ねし、教授の先生方の前で、無線電信の発信の方法を実物でご披露して、大層喜ばれたとの事だった。
  マイクの特許の時にはお世話になり、祝賀会を開いた席にはお招きした筈である。電磁気系の各教 授の先生方といわば友人のような関係にあった。また、製造されたM、H・式マイクロフォン1個を東北大に寄贈してあったことも後で判った。このマイクは今、私の家にある。ここで話は愚息のことに移る。

  私が理大で卒論の時、父の薦めで現NTTの三鷹の研究所(略称通研)ヘ行くことになった、独りの積もりで行ってみたら、都築洋次郎教授(当時化学8研)の計らいで交渉されたのであろう、同期生が数名一緒になり、心細くなかったが少し驚いた。卒業時には私立の有名校(旧制高校付属)の専任教員にという良い就職話もあったが、その話の前に私の知人の伝で、通産省東京工業試験所で当時課長の太田暢人先生を紹介して頂いていたので、給料ゼロの研究生としてお世話になることにした。

  行ってみて驚いたことに、その第3部第3課長の席は、前出の私の所属する化学科主任教授都築先生が教授になられる前のいわば古巣なのである。私一人でお世話になる積もりで居たのが、今度は太田先生の方から、あと5人位卒業研究生を受け入れてもよい、都築先生に伝えてくださいと云うことになり、私が都築先生に太田先生のご意向をお伝えすることになった。
  奇しくも、私が8研の外研である「電通研」と「東工試」の仕掛け人というめぐり合わせとなった。父や理大と離れた世界でという熱き願望は無残にも果たせなかった。

  太田暢人(のぶと)先生は今もご健在で、その後は部長、試験所長、工技院長へと栄進されるが、30代後半の若さで東大大学院教授も兼ねておられたし、石油酸化などの第一人者でかつ、塩素系有機化合物の合成も得意とされる。後に三菱油化K、Kの専務取締役も勤められた碩学であられる。
  pキシレンの空気酸化における各種金属塩の効果」が私の課題で、学会発表も経験させて頂いた。

  ㈱鉄興社は中堅の化学会社で、太田先生が顧問であられた事と、役員に父の知人が居られた事から、入社することになった。 Cr、 Mnと云った稀有金属、塩ビや多数の製品群を保有していたが、入社半年後からメタンの直接塩素化法を取り入れた通産省の後おしによるわが国初の試験プラント(静岡)に2年半従事したり、武蔵野に新設された鉄興社中研で新規の稀有金属の分離実験や、1800℃のプロパン焼成炉をつくって、耐火焼成物を造る実験をしたり、7年に及んだ。
  ただこの間、シリコンなど電子材料の研究を始めてはとしきりに思っては居たが、提言もせず終わったことは、唯一心残りなことである。
  会社は昭和50年頃、興銀の仲立ちで東ソー㈱に吸収合併されることになるのだが。

  鉄興社に6年間在籍した昭和36年頃、理大に大学院が出来たという話を聞いた。越後からは餅つきに来るものだが、丁度 「新潟に造る新しいプラントヘ行く」話も持ち上がっていたし、大学の方が面白そうなので、都築先生にお願いして思い切って会社を辞して修士コースの学生になった、昭和37年のことだった。
 目黒謙次郎教授の研究室でコロイド学でお世話になったが目黒先生も鉄興社の顧問の一人だった。後の近藤昇一教授と大江修造教授は学部では4年と8年も後輩に当たるが、この時、博士・修士両コースの先輩と同輩の友人という関係になった。
  父と都築先生とは、大学側の理大評議員で親しく話し合う間柄でもあった、私と同期の小林恭子さんの父君(都立大教授)も同窓で、かつて母校で教鞭をとられたこともあり、このとき評議員であられた。


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