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西村和夫の神楽坂

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2004/05/01

桃太郎

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神楽坂界隈 連載(8)<2004/5/1>

鏡花も桃太郎も共に不幸な生い立ちを背負っていた


  前回でも少し触れておいたが、鏡花は彼自身の年譜にも書いているように、流浪に近い生活をかさね苦労のすえ、運よく横寺町の紅葉の玄関番として住み込ませてもらうことができた。紅葉から貰う月額50銭の小遣いを割いて金沢の祖母と弟に仕送りを続け、鏡花の生活は清貧を極めていた。
  紅葉は「青葡萄」で「…金沢には七十余の祖母と十五六の弟とを抱へて、我玄関にゐながら、幽に粥の料を仕送った男である」と書いている。
  これらの生活環境が鏡花の人間性と作品におおきな影響を与えているが、ここでは桃太郎との関係についてのみ一般的に是認されている範囲で話を進めたい。
 
  妻伊藤すヾこと桃太郎の母は夫に死なれ、芸者になった。すヾも母に芸妓屋に売られ吉原仲之町で育った。仲之町は吉原のもっとも華やか場所で、江戸に向かって開く大門から南北に桜並木の続くメインストリートに面した一帯である。茶屋から変わった揚屋が並び、芝居やテレビでお馴染みの桜が満開の吉原の風景はここだと思ってよい。芸者の母が相場師の世話になっていた時代、すヾは裕福に育てられる。しかし、事業に失敗した相場師に恩義を感じていた母はその穴埋めにすヾを手放したのである。

鏡花と桃太郎の神楽坂、料亭常磐での初めての出会い

  尾崎紅葉は同好を募って「硯友社」を組織し、「我楽多文庫」創刊、明治の文壇に一時期「硯友会時代」を作った。「硯友会文学」は江戸の戯作者の徒弟制度的なものをそのまま引き継いだ紅葉の門人集団によって作られていた。紅葉は神楽坂の料亭で硯友会つまり門人の会合をたびたび開いた。

  鏡花も門人とともにそのお供をして、いつも末席に座り先輩達の話を黙って聞き、彼らと芸者の遊びを遠くから眺めていた。それまで後にも先にも鏡花自身茶屋遊びはしたことはなかったという。
  桃太郎は座敷ではあまり目立たない取り柄のない芸者で座敷の隅に座っていることが多かった。そんな2人が明治32年1月、神楽坂の料亭常磐屋で開かれた硯友会の新年会で初めて出会い、夫婦約束まで交わす間柄になる。
  玄関番だった鏡花も「夜行巡査」「外科室」「湯島詣」「高野聖」等の作品を発表して次第に流行作家の地位を固めていった。
 当時、紅葉は「金色夜叉」「続金色夜叉」を連載した読売新聞と契約を破棄、他社と契約を結ぶという事件を起こしていた。これが原因で紅葉は読売新聞を辞めることになるが、鏡花はその後釜に連載小説を書くよう依頼される。が、師匠を辞めさせた読売には書かぬと断わる。鏡花の流行作家としての実力はそこにまでいたっていたのである。
 それから4年後、桃太郎を落籍した鏡花は紅葉の家の目と鼻の先で師紅葉に内緒で夫婦同然の生活を始めていた。そんなことは狭い神楽坂で師匠の耳に入らないわけがない。

桃太郎と夫婦気取りの鏡花になぜ紅葉が激怒したか

  一方紅葉も鏡花の才能を十分見抜いていた。世間の人気も日に日に鏡花に集まり、病気で衰えて行く紅葉は自分と対象に、弟子の鏡花が自分を追い抜き作家として前途が開らけるのをはっきり意識し嫉妬した。その門人鏡花が師匠に内緒で芸者と夫婦気取りでいる。
  紅葉一門の鏡花が流行作家なり一人歩きするようになると、師匠と弟子の立場が逆転、弟子がライバルになる。この場合、一門の秩序を保つには弟子を追い出せばよい。それをせず、師弟関係を続けようとするなら、師匠に隠れて桃太郎と同棲していたことを理由に鏡花を門人の前で叱責しなければならない。

  それで、紅葉は鏡花を他の弟子たちの前で恩知らずの不埒者にして折檻におよんだというのが大方の見方である。
 村松定孝はそんな難しい問題ではなく、紅葉は単純に鏡花を芸者桃太郎と別れさせ、然るべき家から嫁を迎えてやり末長く師弟関係を続けたかったのだろう結論づける。ごくありふれた世間的な理由に過ぎなかったという。あとは読者に判断してもらおう。
 
  どちらの理由にせよほとぼりがさめれると師匠との約束を破り、桃太郎を家に入れている。その師匠をなめたやり方を知っていたが、紅葉はすでに病状が進み、鏡花を詰問する体力を失っていた。
  紅葉の6月24日の日記には「9時晩食を了へ、鏡花を訪はんとせしかど胃張り気萎へて果たさず、懐炉を擁す」とある。3ケ月前の折檻があまりに激しかっただけにもし仮に鏡花が居直った場合、自分の惨めな姿がはっきりと目に浮かんだからであろう。

紅葉の愛人小ゑんがばらしたか、内緒のはずの二人の情事は筒抜け

  二人の秘密はかなり以前から紅葉にばれていた。しかし、鏡花は知らぬ存ぜぬで押し通していた。紅葉には神楽坂の芸者で毘沙門横丁の芸妓置屋相模屋村上ヨネの養女「小ゑん」という愛人がいた。「婦系図」の酒井先生の小芳である。

  この話は、昭和28年、朝日新聞に連載された邦枝完二の小説「恋あやめ」によって紹介されている。同業の小ゑんを通して紅葉が鏡花と桃太郎のうわさを聞かぬはずはない。二人の一部始終は紅葉に届いていたものと考えて間違いはないだろう。
  いくら小ゑんが師匠紅葉の愛人であったとしても、所詮愛人にしか過ぎず妻の座を狙うことは不可能なことは分かっている。桃太郎は紅葉の弟子であっても鏡花のれっきとした妻である。小ゑんにしてみれば桃太郎は後輩だし売れない芸者である。こんな僻みから、鏡花と桃太郎の関係が嫉妬を込めて相当悪意に満ちたものとして小ゑんから紅葉に伝わったと想像される。

  鏡花が神楽坂の家で紅葉から折檻を受ける前の年に逗子に一軒屋を借り自炊していたことがある。
たまたま神楽坂から遠出した桃太郎が鏡花と一緒にいたところに前触れもなく突然紅葉が訪れ大騒動になった。恐らく小ゑんあたりからえた情報だろう。   
  急いで桃太郎を隣家に逃がすが、物干しの腰巻を見つけた紅葉は「誰のものか」と詰問する。周囲のものは「近所のお手伝いに来る娘さんの物」と誤魔化そうとするが「…素人の女が紐のない腰巻をしめるか。あれは商売女に違いない…」と一喝され皆青くなり震えだしたと、村松定孝は「泉鏡花」で書いている。
                                         
明治の文学史を語る上で重要な神楽坂
「もるひねの量ませ月の今宵也」   その秋もすぎ偉大なる文豪紅葉の死

          
 明治36年4月桃太郎が神楽坂の鏡花の家を出て半年後、10月30日紅葉は「死なば秋露の干ぬ間ぞおもしろき」の辞世を残し死んだ。
 狭い横寺町の道は車や馬車や生花と人でいっぱいに埋まり、ほとんど歩くことは出来なかった。棺は神楽坂を通り、濠端を市ケ谷、四谷見付を抜け青山へ向かった。

  近代思潮に浴した新文学でなかった。しかし、江戸文学に学び戯作集団だったとは言え、日本に近代日本文学が興るまでの過渡期に、美文調で日本的な思想や感情を写した文学として硯友会の残した足跡は大きい。紅葉の死と時をおなじくして近代思潮の波と共に自然主義運動が起こり、硯友会派の文学は文壇から急速に姿を消していくことになる。

 葬儀に参列し、このことを深く感じ取った花袋は、次のように記している。
「…私の胸には、個人主義が深く底から眼を覚まして来てゐた。宇宙にわれ唯一人あり、共同は妥協だといふ心持や、普通の悲哀を強いて噛殺して了ふやうな新しい思潮や、乃至は自然主義的思想が、外国の書物を透していつとなく私の中心を動かしてゐた。私は紅葉の葬式に列しながら、かう心の中に叫んだ。『かゝる盛大な葬式、世間の同情、乃至義理人情から起る哀傷、又は朋黨、友人、門下生などに見る悲哀、さういふものは新しい思想から見て、何であらう。舊道徳のあらはれの単なる儀式ではないか。寧ろこの盛んな葬禮よりも、まごころの友の二三によって送らるゝ方が、かれの爲めに美しくもあり又意味もありはしないか。こうした外形的、壟断的勢力は、もはや新しい世界には起らぬであろう。かうした大名か華族のやうな葬式をする文学者は、かれ紅葉をもって終りとするだろう。友人の情、門下生の義理、さういふものに、我々は既にあまりに長く捉へられて来た。普通道徳に拘束されすぎて来た。これからは、我々は我々の「個人」に生きなければならない!』かう思った私の眼からは、拂っても拂っても盡きない涙が流れた。」

 花袋は紅葉の死で、自然主義の作家の世界が開けると涙を流して喜んだのである。花袋が感じ取ったように日露戦争が終わるとすぐに自然主義が台頭、秋声、花袋、藤村の全盛期になるのと反対に鏡花は全く売れなくなってしまった。桃太郎と逗子に引っ込み生活にも困る状態の中、明治40年1月からやまと新聞に
「婦系図」の連載を始めた。

ふたつの芸術が生まれた朝日坂

  それからわずかもたたぬ間に、同じ横寺町に島村抱月が松井須磨子とともに日本の近代演劇を誕生させた芸術倶楽部を興こす。紅葉宅も芸術倶楽部も神楽坂6丁目朝日坂を入ったところである。  

武骨な武家屋敷町に牛込花街の出現

  岡場所、岡惚れ、岡っ引というのがある。岡とは正式に認められていないものをいう。銭形平次は小説や映画では十手をあずかるお上の御用聞きとなっているが、実際は番屋の下働き位にしか過ぎず、正式に認められない町方で、十手など持たしてもらえない、いわゆる岡っ引きであった同じく岡場所も幕府が正式に認めない花街を指した。        
  江戸時代、幕府の認めた吉原は格式が高く庶民はそう簡単に出入りが出来ず、長引く江戸の不況もあって人の足はとうのく一方だった。それと反対に1760年(宝暦10年)頃から一般庶民が手軽に遊べる「岡場所」と呼ばれる遊女屋が増えはじめた。度々の幕府の取締にもかかわらず、品川、千住、板橋、新宿などの宿場町を含めて70ケ所に及んだと言われる。その最も繁盛したのが「深川」である。
 
三度目は面白い地へ御鎮座


  神楽坂毘沙門天をさす江戸の川柳に、神楽坂を面白い地とよんでいる。善国寺は寛政4年(1792)の火事で全焼、翌5年に麹町から神楽坂に移転した。
  神楽坂を上り左手、毘沙門天の裏辺りに安政4年(1857)神楽坂花町(牛込花町)が出来たいう。 川柳どうりなら善国寺が移転する前に、すでに花町が出来ていなければならない。順序が反対である。 神楽坂に花街が出現する以前からこの辺りに「山猫」と呼ばれる売春婦が跋扈していることは江戸市中でもしられていた。
  もともと神楽坂の大部分は武家屋敷で占められていたが善国寺の裏一帯は藁店という菰筵を商う町屋があり賑わいをみせていた。この辺りの町屋中心に花街が出来てもおかしくない。同じ時期、新橋[金春花街](安政4年)、烏森(安政6年)にできている。

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