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丸毛登の生涯<丸下三郎>


2005/03/31

松下幸之助氏とのこと

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連載 (4) <2005/3/31>
 
松下幸之助氏との事

  父丸毛登が日本ビクターに入社したのは昭和16年で、参与顧問を経て昭和19年から事実上4年間取締役技師長の職にあった。半年の桐生の疎開工場での暮らしの後、私の姉の友達のご好意で、昭和21年1月から雑司が谷に借家して住まうことになる。20年4月の京浜地帯の空襲で、主力の横浜、子安の本社工場は全壊してしまっていたので、この時から父は被災を免かれた戸塚工場勤務となった。因みに技師長の勤務場所は自分で決めるのだそうだ。
  昭和21年3月には預金封鎖、新円発行で、旧円の価値はものすごく下落したし、秋には公職追放が行われ、元軍の下級将校さえも、G項該当で公職追放となった。経済的には困難な時期だったが、米軍放出の食料で一息つき、巷はリンゴの唄などで明るかった。

  国富さんは気象台長という公職に就いておられたので、追放ということになったものか?21年10月に突然に東京へ帰るので、家をということになった。当時は家が少なかったので、階別の同居ということも極めて多かったし、一間に7人家族でということも珍しくなかった。
  父は家をあけてお返しすることに決めた時点であったと思う、或る日家族の皆に云った「国富さんがこの家(敷地だけで70坪位)を買って欲しいといわれたよ、そこでこういってあげた、”今は苦しいけれど家を売ってはいけません、辛抱する時です”」と。私はこうゆう父が好きだった。
  因みに国富家のその家には今もご子息のどちらかが住んでおられると伺っている。今の人には信じられない事だが、当時の土地1坪はお米1升(1.4kg)と殆ど等価で、焼け跡の土地は坪200~300円で、しかも買う人は殆ど居なかった。

  家が無くなったので4ケ月間家族は4つに分散して、親戚と兄姉達の居候になった。22年2月に都からの配給で買ってあった杉皮ぶきの2間の家を昔からの借地に昔からの植木屋さんの手で造ってもらった。ガラスの無い窓に紙を張って一家7人の暮らしの再出発であった。
  この年に次兄は第2回医師国家試験に一発で合格(合格率55%位)したので、少しすごいなと思った。昔からの大工さんが少し大きめの一間を造ってくれたのは翌年の事だ。

 日本ビクターは時の伊藤禿(かむろ)社長の方針で、リストラはせず、社員皆で力を合わせて再建することになったが、激変する経済情勢の中では抗し切れず、借金が重なることになり、借金の印を押すのが重役の重要な仕事となった。社内での父の評価としては、労働組合の人達から”中立重役”との異名が授けられ、借金に明け暮れる日が続き、昭和22年の終わりには、日本ビクターは身売りが決まり、父は役員の中で唯一人後始末の為残って整理に当たった。この頃給与は現金でも、賞与の代わりにワンスピーカーの電気蓄音機のこともあった。
  遥か後日、多分昭和50年頃だったろうか経済系の雑誌に、その時の日本ビクターの事を書いた記事を見た。5億円で松下電器が買い取り、「犬のマークだけでも3億円の値打ちがある」と松下幸之助氏が云ったとも書いてあった。

  私の兄達は中1になると親元を離れて東京の学校に入った。私は幸い学令の半年前に父が東京勤務となったので、全て自宅から通った。そのためか、母は兄達とは多少遠慮がちな所があって、打ち明け話をあまりしたがらなかったが、私はいつも母のそばに居たので、時々昔の話をしてくれた。
 「松下幸之助さんの娘さんの結婚式の時に、お父さんの所に2度もお使いの方が来られて、是非出席くださいと云われたのだけど、お父さんは2度ともお断りしたんだよ」と云った。大阪時代の事である。

  数学上の定義に、平行線は交わらないというのがある。仕事の上では著しく接近しても、重なることはなく私情で交わらない、これが公人として生きる人の鉄則であろう。「これ位の事は」という事から天下に恥じる事に発展する。苦労人の松下氏は百もご承知であられたであろうが、慶事に水を差すものと立腹されたかもしれない。察するに義理堅かった父の方も断腸の思いであっただろう。双曲線にも似たそんな事があったのだ。

  父の後任の技師長には放送技研第3部長だった高柳健次郎氏が就任され、独立色の強い松下の系列会社となった。この新生の日本ビクターが盟主となって、NHKをバックに日本のテレビの実用化が進められた事は広く世に知られる所である。

清水荘平氏と父丸毛登

  2人のめぐり合いはどのようであったか判らない、ただ父が清水さんより少し年上であったので、物理学校へ入るよう薦め下宿をお世話したりした。清水氏は東北帝大の長岡半太郎博士の下で研究され、その後は逓信省電気試験所に父の薦めで入所されたのであろう。こんな事で終生の付合いが始まっていた。
  試験所内で、廊下を歩きながら清水さんが「鳥潟さんより丸毛さんのほうが数学は出来る!」 と叫んで、 「止めろ!」と同僚に止められたという話もある。鳥潟さんは旧制一高、東大は主席なのだから、数学だって相当な筈である。しかしこのことは反面当時の物理学校の理数系の学力水準の高さを示すもので、卒業生がいかに誇りを持っていたかを物語るものだと思う。

  当時は落第させるのが物理学校の特色で、卒業生も少なかったが大勢入学しても、ストレートで卒業する者が少ない時代だった。父は開成中学を3年で中退して昼間働き、入学したのは1年後のことか、朝2つ持って家を出る弁当の豆のおかずが夕方は腐ってしまう、昼間の勤務の疲れで居眠りばかりして、こんなことで半年分落第となり、その後頑張って全科を卒業したのだそうだ。明治40年卒は数学科35名、理化学科1名、全科22名。

  事業家肌の清水荘平氏はしばらくして試験所を辞し、既に物理学校在学中の大正元年に設立してあった北辰電機の経営に当たられ、温度計測器や航海用の計器などから始めて横河や山武と並ぶ3大計器メーカーの一つに育て上げられた。
  清水荘平氏は鎌倉に住んで居られた、私の父は”足まめ”というか、人を訪ねることの好きだったので、鎌倉のお宅へよくお訪ねして昔話をして楽しんでいたようだった。

  ここで父が日本ビクターを退職した昭和23年春からの事を少し書いてみたい。この春から入社したのは今のエルナーという電解蓄電器を主業とする製造会社で、父の技術指導という形で、前の会社の時から関係があった。父の年令(60才超)ということを考慮して、今まであった定年制を全廃して父を迎え入れて下さった。しかも取締役で技師長格。必要に応じては工場長、製造部長という業務の職名もついた。
  父は生涯一技術者という姿勢の人であったから、神奈川県辻堂の会社へは、決まって朝8時に家を出て、夜遅くかえるという日課だった。家に居る時も、片側に対数を目盛ったグラフ用紙に書き込まれたケミコンの特性曲線示すグラフを見て思いを巡らしたらり、ターマンの専門書や、半導体の文庫本を繰り返し読んだりして楽しんでいた。

  時は移って父が70才の頃、取締役技師長として約10年間いたエルナーKKは社長の一身上の都合で急に経営不振に陥り、他企業の支配下に移ったので父は退職することになった、丁度藍綬褒章を受けた頃だった。父は清水氏をお訪ねし、退職することをお話しした、清水氏は父を常勤顧問にし、現職の課長と全く同じ待遇にしてくださった。高度成長期の電機産業は頗る好調でボーナスもかなり良かった。
  エルナーKKの親会社となったゼネラルから来られた新社長に「退職の挨拶に行ったら、就職か何か頼むのだろうと思っていたのだろうが、何も頼まなかったので、変な顔をしていたよ」と勝手にそう思ったのだろうが、父はそう云って実に楽しそうだった。

  北辰電機で父が任された仕事は、大学を卒業したての数人の技術者を指導して新技術の開発をすることだった。この分野の事はよく判らないが、薄膜の研究など将来を見通してのもので、父の死に至る11年余の間に10位の特許をチームで取得した。その時の若き仲間の一人が父の長女の娘、信子の夫である。会社時代米ジョージア大学に2年留学した窪寺謙之で測定器の小企業を個人で経営しその息子2人はソニー、富士通の技術者として、父登の遺志を継いでいる。

  清水氏は「財産も分けてあげるよ」と父を励ましてくださったりもした、清水荘平氏が亡くなられたのは父の死後2~3年の頃だったと思う。厳父荘平氏の片腕で2代目社長を勤められた御子息正博氏と私の次兄とはその後も交際があって「父上の亡くなられた時は北辰電機の状況も良くなかったので、十分な事をして差し上げられなかった」と申されたとか。息子の一人として振り返って思う事は、淋しかるべき父の晩年を盛り立てて下さり、父が死ぬまで長く最後の栄光を与えて下さった。大変なご恩を頂いたことに、心より今も感謝し続けている。

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