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物理学校意外史

物理学校意外史 >> 記事詳細

2004/11/01

開成校に学んだ創立者達、各藩のエリート

Tweet ThisSend to Facebook | by:埼玉支部
連載(2<2004/11/1>  
                
多くは各藩推薦のエリート、中には松下村塾出も

  明治3年まで大学南校の生徒は貢進生として政府の命令で各藩から推薦された人材である。つまり各藩のエリート集団であった。貢進生制度は現在の奨学生制度以上に優遇され全て国費でまかなわれ、明治3年この制度が決められた時、16歳以上という制約があった。年貢進生は安政2~4年か、それ以前に生まれた者が選ばれた。この制度は1年ほどで廃止された。
  明治4年大学が文部省の所管になると、文部省は貢進生に大学南校から退去を命じ、学校を一時閉鎖、南校と改称して改めて開校した。退去を命じられた大学南校の生徒は4年以降、南校に再度入学したものであろう。
  彼らは、南校でフランス語を学んでいたが、明治6年、開成学校から外国語学校が分離、新たにフランス語による諸芸学科が開設されると、それにともなって外国語学校か諸芸学科のどちらかに移動したものと思われる。諸芸学科は洋学を基にした天文、地学、数学など西洋近代科学を総合するような内容をもっていた。
  東京物理学講習所の設立にかかわった21名の卒業生は、明治2年から13年までの間、それぞれ複雑に改変した東京大学で新しい学問に取り組んでいた。(年度により校名が改称されていることがあるので、要注意)
 
・櫻井 房記

・高野瀬宗則


・千本 福隆

・中村 精男

・寺尾  寿

・保田 棟太


・桐山篤三郎

・信谷 定爾




・谷田部梅吉

・三守  守


・難波  正

・和田 雄治

・沢野 忠基

・三輪桓一郎

明治2年開成学校に入学、3年貢進生に選ばれ、同11年12月24日物理
学科を卒業。
明治4年19歳で貢進生として大学南校に入学、貢進生の制度が廃止され
た後、私費で再度(6年?)開成学校に入っている。明治12年物理学科を
卒業。
貢進生として南校に入学、明治11年12月24日物理学科を卒業。

明治4年16歳で松下村塾から東京へ遊学、同12年7月物理学科を卒業。

明治6年19歳で外国語学校・開成学校を経て明治11年物理学科を卒業。

明治3年、大阪開成所に入る。同7年東京開成学校に入学、天文学・諸芸
を修め,同13年7月物理学科を卒業。

明治13年7月10日物理学科を卒業。

明治2年開成所に入りフランス語を学ぶ。3年、大学南校の貢進生に選
ばれ、普通学と諸芸学を履修する。7年天文学科に移るが、廃止になり再
び諸芸に戻る。8年諸芸学科の廃止により物理学科に入り、11年12月卒
業。三守と同じコースをたどっている。(後で記載する)

13歳で貢進生に選ばれて大学南校に入学、明治12年7月物理学科を
卒業。
明治5年第一大学区第一中学に入学、天文学、諸芸から同年13年7月
物理学科を卒業。

明治6年、開成学校に入学し、12年7月物理学科を卒業。

明治12年7月物理学科を卒業。
 
外国語学校でフランス語を学び、物理学科に入学、明治13年に卒業。  

外務省でフランス人などから仏語を履修、東京開成学校の仏語の学生を
経て物理学科に編入、明治13年7月物理学科を卒業。
 
1組 (11年卒)
2組 (12年卒)
3組 (13年卒)
寺尾 中村(恭) 櫻井 信谷 千本
難波 中村(精) 高野瀬  和田 谷田部
三守 玉名 桐山 三輪 保田 沢野
 
  三守 守と保田棟太の二人(東京物理学講習所設立者)は、外国語学校で仏人から算術やフランス語を学んでいた。 たまたま、明治7年1月、開成学校の仏人教師レピシェが主任になって天文学教場が開設されることになった。そして、生徒を諸芸学科と外国語学校の中から募集することになり、二人はこれに応募した。   
 三守と保田は共に試験に合格、開成学校の生徒になった。2月授業が開始され、本郷の加賀侯の屋敷の長屋を教室と宿舎にして算術、代数、幾何、天文初歩、気象観測、測量実習が教授された。まもなく教師のレピシェが病気で故国に帰ることになり天文学教場は廃止され生徒は大学南校に戻り諸芸学科に合併する。
  三守は明治5年東京に出てきて第一大学区第一番中学に入学している。6年、開成学校から外国語学校が分離されると、それについて移る。保田は大阪開成学校から転入してきた生徒で、その時分からの三守の友人である。
  三守 守は「保田君のノ小伝ノ後二付記ス」に8年に諸芸学科が廃止されて物理学科が開設された経緯について次のように述べている
 「其後諸芸学校モ亦廃止ノ運命ニ立到リマシタ、此時ニハ生徒ノ中ニ全く目的ヲ変ヘテ法律家ニナリ判事検事、弁護士ナドトシテ名ヲ楊ゲタ人モアリマス、跡ニ残ッタ人々ノタメニ新タニ物理学科が置カレテ仏国から3人ノ良師ガ来任ニナリマシタ、其後学校ガ東京大学トナッテ明治13年7月に私モ保田君モ大学ヲ出ルコトニナッタノデ有リマス。」(大正8年8月、東京物理学校雑誌)

           
物理学校の伝統・実力の無いものは卒業させない
                       卒業の厳しさは彼らの体験から生まれた? 

 
  明治11年の卒業生を見ると、櫻井、信谷、千本、寺尾、中村(恭)は順調に卒業したものと考えても間違いはあるまい。13年の卒業生で三守と保田は、8年物理学科開設と共に入学している。この点においては11年卒の信谷と同じである。
 8年から13年まで5年間にわたるフランス物理学科の生徒移動の詳しい経過は分から。しかし、卒業時期に2年の開きがあることだけは確かだ。少ない資料で結論をだすことにお叱りを受けるかもしれないが、卒業がかなり厳しかったのではなかろうか。そして、この厳しさは物理学校まで受け継がれたのかも知れない。

            
かなり長期にわたり食った同じ釜の飯が団結精神を強くした
 
  彼らは、開成学校、外国語学校、天文学科、諸芸学科と各自いろいろなコースをたどるが明治8年物理学科が新設されると、みなここに集まることになる。在学中、学科にはいろいろ変遷はあったがフランス語ひとすじに歩いた仲間たちであった。明治3年から13年まで10年ほどの間に、少しの先輩、後輩の年齢差があったとしても同じ釜の飯を食い、同じ年に卒業した仲間なのである。それにフランス物理学科最後の卒業生となれば同窓生としての結束も固くても不思議は無い。東京物理学校が今にある原点は設立者21名のフランス物理学を軸にした仲間の団結と言わねばならない。
 この仲間の団結が明治18年の創立者による[東京物理学校維持同盟]の結成になり、この精神を受け継いだ卒業生が明治22年[東京物理学校同窓会]が発足させるのである。22年を含めて卒業生32名、8名を除き同窓会員になっている。
  
         
東京大学物理学科の卒業生
                   理学普及に街頭で演説会開催を計画
                            思わぬ横槍で学校開設に方向転換
      
 
 明治初年、開成校時代の貢進生は幕府の昌平坂学問所時代からの伝統的な思想を持ち続けていた。彼らは諸費用を全て国が負担、各藩(国)から選ばれた人材であり、諸藩(国)の先進的指導者になることを自負すると共に期待されていた。東京大学と変わっても当時の学生はみな其の気風がみなぎり、学生時代から自分を社会に役立させることが責務と考えていた。
 明治11年から13年にわたり理学部物理学科を卒業した20数名余の学生は、在学時代からわが国の理学の遅れを憂い、これを広く世間に普及し国の発展に役立てることを申し合わせていた。その手段として当時ブームになっていた街頭演説を行い理学思想を普及しようと計画していた。しかし、其の計画が思わぬ障碍に突き当たることになるのである。

  テレビもラジオも無い時代、新聞と演説の世論に対する影響力は想像以上に大きかった。全国的に広がった自由民権運動が演説会や新聞を通して政治批判にまで及ぶようになり明治政府の足元までも揺るがしかねない状況になっていた。東京では中江兆民の仏学塾、大井憲太郎の明法学社でフランス流の民権論、福沢諭吉の慶応義塾ではイギリス流の法律論に並んで多くの政治結社が生まれ、増え続ける演説会には何処でも喝采が起きていた。
  演説会に波乗る公衆の人気に政府は其の対策に苦慮していた。明治8年、反政府運動取締りで新聞は、新聞紙条例と讒謗律で制約を受け、さらに13年には新聞紙条例改正がされたが新聞の創刊は増える一方であった。12年、政府は、官吏の公衆に対する政談講学演説を禁止し13年には集会条例をだして演説会を弾圧している。これによって政治集会、結社は警察署の事前の許可を必要とし、臨検警察官に集会解散権をあたえ、軍人、教員、生徒の参加、政社相互の連絡、公衆の誘導などを禁止し、官立、私立各学校教員、生徒の政治的集会の参加・政治団体への加入を禁止した。たとえ学術演説でも許されなかったようだ。
  この禁止条例によって、当初計画した公開演説は変更せざるを得なくなり、協議の結果公務の余暇を利用して学校を設立することになったのである。
 
               
旧都市基盤設備公団の取得で125年目の里帰り
 
  明治14年(1881)9月11日東京理科大学の前身東京物理学講習所が麹町区飯田町4丁目、九段坂下、運河の西岸私立稚松学校(小学校)を借りて教師15名、生徒20名程で土日を除き夜間の学校を開校した。郵便報知新聞の東京物理学講習所の設立広告によると、講義内容は重力学、聴学、光学、熱学、電気学となっている。
 飯田町4丁目は現在の千代田区九段北1丁目、首都高池袋線の西側と考えられる。このあたりには、江戸末期に作られた古地図を見ると田安稲荷を中心に武家屋敷に囲まれるように町屋が広がっていたことが分かる。したがって、幾つかの寺子屋や手習い所の存在が考えられる。寺子屋は江戸時代半ばからかなり普及し東京府管内の寺子屋の数は、明治4年に521、明治6年には1128と、明治になって庶民の教育熱が高まりとともに急激に増えている。南総里見八犬伝・滝沢馬琴の旧居もたしかこのあたりだ。
 
 明治5年(1875)の学制改革で時の政府は全ての学校を文部省の管轄としたが、財政的に苦しく建物はもとより教師に至るまで江戸時代からの寺子屋・手習い所をかなり長い間そのまま使うことになった。稚松学校もその一つだったと考えて間違いはあるまい。
 地図で見ると稚松学校と今年理科大学が取得した旧都市基盤設備公団とは目と鼻の距離で125年目の里帰りと言うわけだ。設備公団の土地と建物を手に入れたことで125年もの時をこえてふるさとと結びついたというべきであろう。


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