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物理学校意外史

物理学校意外史 >> 記事詳細

2005/12/01

戦中戦後を切り抜け昭和26年最後の卒業式

Tweet ThisSend to Facebook | by:埼玉支部
連載(16)<2005/12/1>  (最終回)
 
開校60年にして校章、校歌、創立記念日が決まる

  昭和9年(1934)維持員最後の校長中村恭平の死去にともない第4代校長に大河内正敏を迎え学校のスタイルががらりと変わった。
  昭和12年、日中戦争が始まった翌13年、創立以来半世紀にわたって制服、制帽も無かった母校に新たに校章と校旗が制定された。
 校章は象形文字の「牛」で「物」を表し、これに「理」の文字を組み合わせ「物理」としたものだが、デザインがチューリップに似ていたことから「チューリップ」の愛称で親しまれた。襟章は各科問わず1年生は緑のチューリップの中に「理」、2,3年生になると紺、赤のチューリップに変わり数学科は「S」、理化学科は「R」、応用物理学科は「B」、応用科学科は「K」と刻印されていた。アルファベットの文字のついた襟章を付けると本当の物理学校の生徒になれたと自他共に認識した。
  矢継ぎ早に翌14年、創立記念日が制定され、15年には校歌が作られた。創立記念日は東京物理学校の母体となった東京物理学講習所の設立広告が郵便報知新聞に掲載された日が明治14年6月13日であったことから6月13日とした。来年東京理科大学は創立125周年を迎えるが記念式典は創立記念日の6月13日に行われる予定である。
 15年、皇紀2600年記念事業として「東京物理大学」の設置が具体的に検討され申請まで至ったが19年戦時体制のため不審議となり中断されたことは前回述べたとおりである。

軍事教練が制服を決めさせたのか?

  もともと母校は夜間が主体で、日中社会人である生徒が夜間学ぶという学校であり思い思いの服装で登校していた。学生服を着用する者は校章が決まるまで、洋服屋が勝手に意匠した校章をつけていたという。
  半世紀という間学校も生徒も、校章、制服などどうでもいいと言う気風があったのだろう。だが、昭和14年、第1部の生徒に軍事教練が正科に課せられると、そうもいかなくなった。
 大正14年に公布された「陸軍現役将校学校配属令」より中等学校以上の学校では現役将校による教練が実施されることになっていたが、大学学部と私立校は申請制だったため母校では教練は正科として実施されていなかった。しかし昭和14年文部省が大学などにおいても軍事教練を必修にしたのにともない母校もそれに従った。
 16年になると8月8日文部省は各校に学校全体を組織した報国隊(団)を編成させ全ての学生を国の要員に組み入れることを図った。さらに8月30日になると、大学などにも軍事教練担当の現役将校を配属することを義務づけた。それに先立って東京物理学校は陸軍に「陸軍現役将校」の配属を申請して2月10日、陸軍大佐大森多忠を受け入れた。これ以来学校の公式行事には校長と並んで大森大佐が同席することになった。4月1日には「本団ハ数学ノ本義ニ基キ全校一体ノ活動ノ下ニ心身ノ修練ヲ為シ以テ報国精神ニ一貫スル校風ヲ発揚スルヲ目的トス」を目標に東京物理学校報国団を結成した。
  以後、学校報国団が主体的な自治を否定し、国の方針に沿う一方的な統制的指導下に入ることになり、軍事教練、学徒動員などに協力することになった。この制度は戦争終結後も続きこの呪詛を取り除こうと20年10月学校の民主化を求めて物理学校は戦後わが国で初めての同盟休校に入るが詳細は後に譲る。
 10月16日になると戦時措置として大学、専門学校などの卒業が3ヵ月短縮され12月に卒業式を行い、さらに翌17年からは6ヵ月繰り上げて9月に卒業することになった。かくして東京物理学校も時間とともに第2次世界大戦の方向に巻き込まれて行くことになった。狭い中庭や屋上で絶え間なく軍事教練が開始され、号令の大声が構内に響き渡るとともに学校は日増しに戦時色を深めていくことになった。
 昭和16年は国が戦争に向けての準備を進めている中でもまだ6月14日に創立60周年の記念式典をあげることが出来た。だが12月8日、ついに太平洋戦争に突入することになってしまった。

戦時色が深まるにつれて学校体制が混乱
                 それでも最後まで授業を続行


  昭和17年に入り半年は戦況を何とか持ちこたえたが、6月5日ミッドウェーの海戦で4空母を失うなど戦局は目立って厳しい状態に陥ったが戦争はさらに続けられた。一方国内では1月塩、2月味噌,醤油,衣料の配給が実施され生活必需物資の困窮が目立ち始め、5月には金属回収令で寺院の梵鐘はもとより家庭の鍋釜まで兵器にと集められていったが、国民はまだ戦勝気分に浸っていた。「欲しがりません勝までは」の標語が出来たのはこの年である。
  昭和18年6月25日「学徒戦時動員体制確立要綱」の閣議決定は学徒に本土防衛のための軍事訓練と勤労動員の徹底を図ることにした。さらに翌19年1月閣議は緊急学徒勤労動員方策要綱を決定、はじめ学徒の勤労動員期間を年間4ヵ月継続して行うとしたが、3月になり通年実施と決定した。これにより母校の生徒の一部は大宮の第一造兵など各所へ報国団の名で動員されることになった。
 19年から学徒動員の体制はさらに強化され、1部の生徒については正常に授業が行うことは難しくなったが「本来、学生は勉強すべきものである。勉学を中止して学徒動員とはいかがなもの」という教師がいて学内に学徒度員に消極的な意見が根強かった。しかし口には出せぬ時代だった。 
 そのためか他校に比較して動員された生徒は少なく、学校に残った者は疎開の取り壊しや、空襲が激しくなると報国団員の一員として首都防衛の仕事に従事しながらでも学校で勉強していたと聞いた。動員されていた生徒も夜間学校に戻され授業を受け厳しい試験を受けたなど物理学校らしい話が残っている。国を挙げての戦時体制の中で厳しい圧力の中、学校の取れた精一杯の処置だったのであろう。

  数学科を除いて母校には徴兵延期の制度が適用されたので、これを理由に入学者が極端に増えるのを懸念した文部省は19年度の1学年から入学定員を400名、2部を250名と決めこの遵守と入学試験の実施をせまった。しかし入学志望者の数が多く入学試験を行えないとの理由で書類選考にかえて入学生を決定した。落第だが各学年、各学科ともに200名に制限され、あとは放校処分にされた。このことは19年3月には落第があったことから18年度は学校が正常に運営されていたことになる。
  昭和20年官公私立の高校、専門学校の入学試験は取りやめになり書類選考で入学者を決定した。この年、私の友人で東京物理学校に志願した者がいて、試験を受けずに「合格」の手紙が郵送されてきたそうだ。日本中の学校ではもはや入学試験どころではなかったのである。
 
東京大空襲でわずかな損傷で残った校舎
 
 19年に入ると神楽坂にも異変が起きていた。3月警視庁は高級料理店、待合芸妓屋などの閉鎖を命じた。それまで「星に錨に闇に顔」と細々ながら営業を続けていた神楽坂から完全に灯が消えた。疎開で家をたたむ者も多く輸送できぬ家具を神楽坂に値札をつけて並べた。連日報国団が手伝いに出かけていった。アップライトのピアノに10円の値段が付けられても買い手が付かなかったという。商店もみな閉まり時間が来ると雑炊の店と国民酒場が開き長い列ができた。
  夜電気をつけているところといえば神楽坂演芸場ぐらいで空襲で焼けるまで木戸を空け先代の正蔵などが落語を聞かせていた。
 11月24日マリアナ基地からB29爆撃機70機による東京初空襲に始まり、B29による波状的な爆撃は日を追うごとに東京の町から全国の町へと広がっていった。学校に残った生徒は教職員と寝泊りして校舎の警備をする一方連日のように夜間交代で市内の各地区の消防署、役所などの応援に出掛けた。
 3月9日江東地区を襲った東京大空襲当日この地区へ応援に出掛けた生徒は帰ってこなかった。この日、学校周辺にいくつかの焼夷弾が落ち校舎の外壁に炸裂した油脂焼夷弾の油脂が付着して燃焼したが警備の教職員や生徒で消し止めた。幾度か東京が空襲で襲われる中で神楽坂に直接被害をもたらしたのは4月13日と5月25日の両日である。
  4月13日の空襲で校舎周辺に火災が生じたが校舎の延焼はまのがれた。だが5月25日の東京大空襲では山の手一帯が一夜にして焼土と化した。校舎にも20発に及ぶ焼夷弾が落下したが幸い消し止められ火災を回避することが出来た。この空襲による火災で神楽坂に残されたのは物理学校と研究社の建物だった。
 
かくして神楽坂は焼土と化した
 

 25日の空襲は25日深夜から26日早朝にかけて行われた。2時間ほどの時間だったが被害者にとっては一生のうちでもっとも長い一日となった。
  その晩も皆、神楽坂に焼夷弾が落ちぬことを願い固唾を呑んで空を凝視し敵機のさるのを待っていた。だが、サーチライトに照らし出されたB29の編隊が頭上に来た瞬間、投下された焼夷弾が空中で炸裂し、線香花火のように無数の火の玉が弧を描き暗闇に吸い込まれていった。ほんの数秒間、坂上に突如火の手が上があがったと見る間に、坂下にも焼夷弾が落ち始めた。
  どの位の時間が経過したのだろう。坂上の火勢が目の前に迫ってきた。「もう駄目だ」避難を始めたときにはすでに周囲に真っ赤な炎に包まれていた。驚くべき火の早さに家族に声をかけあい、飛び出すのがやっとだった。神楽坂の町内会では被害を受けたら避難先は靖国神社と申し合わせていたが、避難先まで走れず外堀の土手までがたどり着くのが精一杯だった。火は牛込見付を逃げまどう人を赤々と照らした。誰も無言で地獄絵のように燃えさかる神楽坂に誰もが放心の状態だった。
  5月の日の出は早い。26日の朝はどんよりとして暗く明けなかった。煙が空を覆い陽がささず太陽が輝きを無くし黄色の球のように見えた。
 「皆さん物理学校に行きましょう」町内会の役員の声でようやくわれにかえり人々が土手から動き始めた。幸い空襲の災害を免れた校舎に26日学校付近の罹災者1970人を収容したと記録にある。
 罹災者の受け入れ、救援物資の搬送に手を貸したのは生徒の協力に負うところが大きかった。当時は炊き出しの握り飯ぐらいだったが誰彼と無くトラックに乗り救助に手を貸した。罹災者の大半が数日のうちに落ち着き先を見つけ学校を引き払っていった。

混乱からの復興、民主化を求めて同盟休校
            戦後わが国ではじめてのストライキ 
    
           
 学校は空襲の被害を受けなかったものの大半の生徒は学徒動員に徴発されており、900名以上の生徒の家が焼かれ、20名近い教員が罹災する有様では学校運営はもはや不可能の状態におちいっていた。さらに空襲による都内の交通の麻痺はそれに輪をかけていた。
  その中で一人平川仲五郎が授業を続けていてことは伝説として語りつなげている。

  8月15日悪夢のような戦争は終わった。
  戦争が終わると個人的に授業を始める教師もいたが、正式に学校が再開されたのは8月30日1部1学年の授業が始まったことによる。学徒動員に出ていた生徒が学校に戻った。9月、3学年1030名の卒業式を行い、卒業式の終了後復員してきた3年生は翌21年3月卒業している。だが、学校らしい雰囲気を取り戻すのにはまだ時間を要したが翌21年2月、全学級の授業が再開することができた。
  学徒動員に出ていた生徒も学校に戻り、学校が再開されると2年生の一部から学校の民主化を求める声が出てきた。当時は自治会などという組織はなく戦時中結成された学校報国団がそのままの形を維持、生徒集団をまとめていた。大きな目的は学校報国団に変えて自治制の学友会の創設を学校側に求めるものであった。
 戦争が終わってわずか1ヵ月あまり、わが国では学校のストライキが珍しい時代東京物理学校、水戸高校、上野高女ほか各地で学校民主化を求めて同盟休校が起きている。あまり自慢にはならないが物理学校はそのトップバッターというべき存在であった。上野高女は教員の生徒の勤労奉仕による農作物の横領事件から校長辞任問題まで発展した事件であった。盟休に当たって上野高女の生徒が「女性では心もとないから先輩の物理校の生徒の助言を」という話が残っている。
  さて物理学校の同盟休校だが、10月に入り1週間にわたって行われ主催者の呼びかけで上野公園で学生大会を開催「学生の自治による学友会の創設」などを決議し、学校側も全て容認することで何の混乱も無く解決した。世間ではお堅い物理校がストライキと全国ニュースになり多くの卒業生が心配して学校に訪れた。

最後の物理学校長は本多光太郎

 20世紀の前半、科学者の自由な楽園と始められた理化学研究所の所長大河内正敏は18年、陸軍から原子爆弾の製造の依頼を受けことになった。戦争終了後、軍需産業、内閣顧問、原爆製造計画の責任を問われ12月6日戦争犯罪人に指名され13日巣鴨拘置所に収監されることになるが、その後容疑が晴れ翌21年4月に釈放された。大河内は20年11月理化学研究所所長を辞任、12月25日東京物理学校の校長を辞任している。大河内が昭和9年4月から昭和20年12月まで11年余にわたり東京物理学校の校長だったことは物理学校の関係者以外にはあまり知られていない。ほとんどといっていいほど大河内を紹介した書物にも触れていない。
  大河内自身学外にあまりに要職が多かったのか、学校では11年5月から12年9月まで理事を務めるが、11年から20年まで校長事務代理を置き平川仲五郎、小倉金之助などがこれにあたっていた。戦争を批判した著書が批判され18年小倉が学校を去った後は平川が終戦の混乱期、ストライキ、大学開設等を乗り越えている。大河内辞任の当日、平川仲五郎が第5代校長に選出された。東京理科大学125年の歴史の中で母校出身の校長は平川一人である。
 ちなみに大学の開設に当たって24年から東京物理学校校長は東京理科大学学長本多光太郎が兼ねることになり26年最後の卒業証書は本多光太郎の署名で出されている。
  戦争終結の際、校舎の一部を軍隊が使用、空襲時には罹災者を収容、大半の生徒が学徒動員と一時期正常な授業体制を失った学校は21年(1945)に入るとほぼ正常に戻った。21年度には毎週水曜日を休日として実験室を日吉の校舎を米軍に接収された慶応義塾大学工学部に使用させるなど便宜を与えている。その後混乱期を乗り越えた東京物理学校は急速度で東京理科大学へ向けて急ピッチで衣替えをしていく。
                                                     おわり

  激しいインフレの波が襲う中、大学設立基準を満たすため学校周辺の用地の獲得、校舎建設、図書館・研究室の整備、とりわけ体育設備を持たなかった大学はどの様にしてその場をやり過ごしたかなど表面に出ないなみなみならぬ工夫と苦労があった。
 その積み重ねが現在の東京理科大学が存在しているのだと思う。しばらく時間をおいて今では想像もできないような神楽坂で生まれた小さな大学の誕生の物語について触れてみたいと思う。


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