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物理学校意外史

物理学校意外史 >> 記事詳細

2005/07/01

明治20年やっと経済的に独立

Tweet ThisSend to Facebook | by:埼玉支部
連載(11)<2005/7/1>               
         
 開校後5年、明治20年なって
               ようやく母校は経済的に独立することが出来た
 

  明治19年11月、神田淡路町成立学舎の仮住まいをわずか2ヵ月で引き払った母校は小川町1番地の仏文会に移転した。仏文会の建物というのは仏文会がフランス語の学校を開くため東京法学校(現法政大学)から借りていたもので夜間は教室が空いていた。そこでここを仏文会から夜間だけ借用して授業を開始したのである。また貸しという妙な貸借関係であったが小川町時代の始まりになった。この校舎が明治39年神楽坂に移転するまで20年間使われることになり物理学校の揺籃の地になった。
  明治18年中等学校の教員検定試験が始まり、翌19年、師範学校令、小学校令、中学校令(第2次世界大戦直後までの教育制度の基礎となった)が公布されると理数科教員志望者が次第に増えるにしたがい、検定試験を目指すものが母校に集まるようになった。当時の検定試験は受験資格を問わなかったので、在学中でも検定試験に合格するとすぐ退学してしまうと言う学校だった。つまり検定試験の予備校的役割を果たしていたのである。
 『坊ちゃん』が職員会で校長の狸から単独で団子屋だの蕎麦屋に出入りしないほうがよいと言われる。「すると赤シャツが又口を出し『元来中学の教師なぞは社会の上流に位するものだかして・・・・』」当時の「立身出世」は政府の優秀な行政官僚養成をめざす方針もあって法律を学んで官吏になることであった。しかし、一方赤シャツの言うように「中学教師」もその部類に入っていたと見るべきであろう。

  それらの世相を反映して、設立される学校は法科系のものが多く理科系のものは少なかった。明治22年に発行された「官公私立諸学校一覧」によると物理学校のほかに、数学専門敬勝舘、数理学校、数学専修舘、順天求合社など幾つかの理数系の学校の名前が見られる。しかし、いずれの学校も短時間で姿を消している。
  東京専門学校(早稲田大学)も15年、開学と同時に理学科を設置しているが翌年に廃止、22年、京都の同志社も理科学校を開校するが7年で閉校している。まだ一般社会では理数科の知識など必要なかったのである。順天求合社なども東京職工学校が発足すると母校と同じように受験生の指導を依頼されているところを見ても、当時の理工科の学校は職工学校の予備校程度に扱われていたものらしい。
  こういった状況からも分かるように当時私立で理数系の学校を経営をすることが如何に難しかったが理解できる。その中、母校だけが唯一私学で理数科の教員試験に合格できる人材を輩出できる学校として生き残った。
  明治36年、東京工業大学の前身東京職工学校(23年に東京工業学校と改称している)は専門学校令によって東京高等工業学校になっている。36年の専門学校令で理工科系で専門学校になったのは、東京高等工業のほか大阪高等工業の2校だけでいずれも官立であり私立では皆無だった。ちなみに早稲田大学に理工学部が開設されたのは明治42年のことで、東京物理学校が理数系の専門学校として発足したのは大正6年だった。
 
     
学歴社会の厳しい中「社会の上流」を目指して
          卒業生の7割が教員検定に合格して中学校の教員に

 
  当時の社会では、文部省の教員検定試験という国家試験に合格さえしてしまえば、たとえ小学校卒であっても、たちどころに赤シャツの云う「社会の上流」に上れる時代だった。明治30年代の小学校教員、巡査の月給は15円、中学校教員になると坊ちゃんは40円とやや高額だが30円
を下らなかったようだ。そんな理由から小学校の先生、役場の吏員など夜間時間が自由になるものが、夜学の物理学校に通い中学校の教師になる者が多かった。母校の卒業生の7割近くが教員試験に合格して教員免許状を取得しているとなれば教員になって「社会の上流」を目指す者にとって魅力のある存在だったのである。母校が昔、貧乏人の学校、苦学生の学校の代名詞のように言われた原因はこんなところにあるのかもしれない。

  そんな世相を反映してか明治20年から37年までの卒業生369名中、死亡23名、不明18名を除く328名の進路先の状況を見ると、中学の校長と教諭及び教員が186名、師範学校の教諭及び教員17名計203名がなんらかで中等教員の職に就いている。卒業生の62%が中等教員になっており、さらにその他教員・助手等53名を加えれば実に78%が教職に就いている。当時はまだ卒業生に技術者、実業家の道が開かれておらず、この方面に進んだ者は計47名で僅か14%に過ぎない。仮に数少ない企業や研究所に職を得ても当時の厳しい学歴社会では「坊ちゃん」のように街鉄の技手か天文台、測候所の助手どまりで、教師のほうが給料面で優遇されていたのである。
  この数字からも分かるように、卒業生の8割近くが何等かで中等教員の職に就いていたことは、難しいとされた中等教員の検定試験に合格していたことになる。卒業生は検定試験に合格できるだけの学力が求められた。つまり検定試験に合格出来る学力がなければ卒業させて貰えなかったのだ。必然的に落第も多かったわけである。おかしな話だが世間では落第が有名になり卒業生の評価を高めることになった。
  どんな地方に行っても、数学と物理と化学の先生は物理出身者であり、どの教師にも実力があると高い定評を受けた。ちなみに明治20年12月の学則改定で引き続き2年以上落第する者は退学と決められた。2年も続けて落第するようでは、教員検定試験の合格はおぼつかないことが予測されたからであろう。
 
      同窓会の結成は学校にも同窓にも生き抜くための急務だった
 
  現在では教員の採用から配転など教員の人事は全て各地方の教育委員会が行っている。従って県外の移動は殆んど無くなった。第2次世界大戦が終結するまでは、中学校の教員の任命と配転は校長の裁量に任されており、転勤先が見つかれば全国的な移動も可能であった。また教員の生殺与奪も校長の手に握られていた。小説『坊っちゃん』では赤シャツの策略で古賀さんが日向に飛ばされるが、この時の様子をっ坊ちゃんと下宿の婆さんの会話から窺おう。
 
 「校長さんが、ようまあ考えてみとこうと御云いたげな。それで御母さんも安心して、今に増給の御沙汰があろぞ。今日か来月かと首を長くして待って御いでたところへ、校長さんが一寸きてくれと古賀さんに御云いるけれ、行ってみると、気の毒だが学校は金が足りんけれ、月給を上げる訳にゆかん。然し延岡になら空いた口があって、其方なら毎月五円余分にとれるから、御望み通りでよかろうと思うて、その手続きにしたから行くがええと云われたげな。――」
 「じゃ相談じゃない、命令じゃありませんか」
 「左様よ。古賀さんはよそへ行って月給が増すより、元のままでもええから、ここに居りたい。屋敷もあるし、母もあるからと御頼みたけれども、もうそう極めたあとで、古賀さんの代りは出来ているけれ仕方がないと校長が御云いたげな」
 「へん人を馬鹿にしてら、面白くもない。じゃ古賀さんは行く気はないんですね。どうれで変だと思った。五円位上がったって、あんな山の中へ猿の御相手をしに行くと唐変木はまずないからね」(坊っちゃん・新潮文庫)
 
  明治20年を境にして、わが国の中等教育制度が整備されるに従って、教育社会に赤門派、茗渓派などいくつかの派閥が出来上がりお互い同士反目して勢力を競はじめた。やがて各派閥は、教員の採用から地位の消長まで大きくものを言うようになってきた。当時の官学優位の世界の中で私学の物理学校卒業生も、自分らが教育界で築いてきた既得権を擁護する手段として、また他の派閥と対抗するためにも同窓生集団をより強固にする必要に迫られた。同窓会の組織が出来たのは明治22年と、他校に比べても早いようだ。

  同窓が集まり精神的な人間関係を作ることは、自分の属する集団の利益を守ることになり、集団に属する一人一人が同窓会という組織を通して採用から転勤、昇進に至るまですべて自己の利益に直接つながるものであった。官僚の世界がそうであるように、教員の社会でも特に同窓との交流は日頃から大切であった。これらの相乗効果が理窓会(昭和24年2月20日、東京物理学校同窓会より改称)という東京物理学校同窓会を特に教育界で全国的な組織まで成長させたのである。
  物理学校から理科大学まで約1世紀にわたり多くの教員を輩出してきた母校の同窓会は教員社会に全国に有機的に広がる組織として広がりをみせると同時に母校の発展に大きく寄与することになった。このことについては後で詳しく述べたい。
 全国を県単位でわけ、さらに市町村に分割し、それぞれに責任者をおいて軍隊なみの同窓会を組織することは当時の教員社会では容易だった。現在も母校が地方で大学の説明会を開くとき、また学生の募集に同窓会の協力を強力に要請ができるのもその辺りに起因するものだろう。
 
            理窓会が教員主流だった時代  
 
  昭和28年、私がはじめて川崎市で教員として採用された時、先輩の一人が宿直の晩近くの学校から同窓を集めビールを抜き歓迎会を催してくれたことを覚えている。理窓会員になったのも確かその頃だ。機会があるごとに市内の同窓の知己が増え、1年足らずして50名近い殆どすべて市内の仲間の消息をつかめるまでに至った。
  先輩の昇進を祝い、後輩新任の歓迎会を開き、研究会や町で同窓に出あうと声を掛け合い、たまには一杯飲むときにも同窓の動静を知った。狭い地域であったこともあって同窓の交流も頻繁で冠婚葬祭の付き合いまでするほどであった。ばらばらな同窓を終結して、閉鎖的と言われながら他と対抗する必要上組織を強化する必要があった。そして「あいつは物理だ」と言われることが誇りにもなっていた。
  神奈川県の他地区を見ても同じことが言える。川崎を含み神奈川の各地区も何十年にわたり教員を主体に同窓会が組織されてきた。全国の支部を見ても同じことが言えるのではなかろうか。同窓の大半が教員になった時代であれば当然のことであった。

  だが、太平洋戦争前後から事情が大きく変わった。川崎市に多くの工場が進出するにしたがって、昔なら思いもよらなかった理科大の卒業生が技術者なって各企業に姿を見せるようになった。卒業生の就職先が学校から企業へと徐々に移り始めたのである。
  卒業生が技術者として実業界に進出が目立つようになるのは「中等教員の就職難に反し新興産業方面に技術者の需要多く、従来の理化学部の教科配当がこの方面に対して必ずしも適切でなかった。ここに応用方面の教科を加えて新時代の要求に応ずる技術者を養成し教員志望者の就職難を緩和しようとするものである」(東京理科大学百年史)と新しく第4代校長に大河内正敏を迎え昭和10年より応用理化学科(応用物理科、応用化学科)の開設以後のことである。
 
         何故卒業生が同窓会に入らなくなったか  
 
  企業で働く同窓の数を調べたことはないがその数は相当数に及ぶはずだ。同窓の数が多い企業では神楽会、○○理窓会と名づけて企業内に親睦団体を組織しているところが多数あると聞くが実態は分からない。川崎、神奈川によらず全国でも理窓会員の減少は、企業に働く同窓を組織出来なかったことに原因がある。今までに何度か理窓会の拡大発展のため企業の理窓会員の獲得を論議されたことが、具体的な手立てをさぐりえず現在に至っている。

  数年前、神奈川県支部総会を川崎地区が幹事役で開いた。会の運営は全て教員を主体とした従来の川崎の理窓会員で運営された。教員以外の会員も参加をと呼びかけたが、結果教員以外の会員の参加協力は殆ど得られなかった、と言うより呼びかける方法を持ち合わせなかったと言ってよいだろう。詳しい分析はなされなかったが、少なくとも半世紀にわたって教員によって組織されてきた理窓会が、手探りで理科大の卒業生全てに呼びかけた結果だった。
  現在まで東京理科大学の卒業生の数はおよそ15万人、理窓会の正会員(年額3000円の会費を納入している者)は1万人をはるかに下回っているのが現状だ。毎年開かれる理窓会幹事会でここ10年来会員の増強を訴えているが年とともに右下がりジリ貧の状況である。年4回に送られてくる同窓会雑誌「理窓」の支部だよりで各支部会の参加者数を見るとクラス会を開いたかと見間違う支部の多いことに驚く。
  卒業生が作る同窓会組織はただ単に旧知を楽しむクラス会、同好会のような小さいものから、学校を横並びにして組織される大きいものまである。母校のように卒業生の大半が教員になった時代、同窓会は理数科教員の専門職集団になり、全国的に教育界で強力な一つの「派閥」と言われるまでの集団として成長した。

 だが、物理学校と理科大の卒業生の数を比べると理科大になってからの数の方が圧倒的に多くなっている。ところが、最近の卒業生の就職の動向を見ると教職の分野に進む者の数が極端に減ってきた。卒業生も企業に進む者が増え理窓会の構成メンバーも大きく変わった。卒業生が日本中に分散、職域も大きく広がっている現在、従来のように教員を主体とするような軍隊なみの方法での同窓会の組織することは難しくなった。その上教育界も新会員の増加も望めず、唯一末端で理窓会を支えていた教員組織も年とともに力を失っているのが現状である。
 21世紀の理窓会はどんな姿が望ましいか分からないが、15万と言われる同窓の結集力を失った理窓会は、早急に同窓会の再構築を模索して実行に移すべきであると考えるのは私一人ではないと思う。

         明治22年、卒業生21名で同窓会を結成

  明治22年4月15日4月15日、同窓会が誕生した。22年2月までの卒業生は僅か21名だった。それでも会員は毎月1回学校に集まり理学に関する演説会や懇談会を開くなど精力的な活動を展開し組織を強化していった。6月には東京物理学校同窓会雑誌第1号を刊行、月刊に近い形で学校・同窓会の動向、論説、講義その他を掲載して、全国の同窓に発信している。同誌は明治24年12月から、『東京物理学校雑誌』と改題して月刊となり市販もされて、昭和19年まで53年間継続された。異色の科学雑誌として評判を呼んだが第623号で戦争のために休刊となった。
 注目すべきは同窓会員が卒業生だけでなく、在校生まで網羅し名誉会員として維持同盟員、教員を客員に学校全員で構成されていたことである。東京物理学校同窓会は学校と精神共同体であると同時に学校と同窓の利益共有集団でもあった。この関係は現在も続いている。 
 
         
維持同盟に代わって学校の援護者になった同窓会
 

 維持同盟が結成された明治18年当時が経済的にも一番厳しい時代だった。小川町に移転すると、下記の表のように20年には生徒数が2倍以上に増え、小川町に移転してからの生徒数の増加は目覚しい。記録によると授業料収入で学校の経常費が賄えるようになったという。学校でも18年9月、通信質問規則を設け、21年7月、東京職工学校の依頼で同校の受験予備校を開設、24年9月には農商務省権度課長の内議に応じて度量衡科を設置するなど、授業料収入の拡大を図っている。
 21年2月神田区長に届け出た授業料収入は年間、592.60円とある。(東京理科大学100年史)そして21年12月11日、建坪約145坪の小川町校舎を22,000円で東京法学校(法政大学の前身)より買収することが出来るまでになっていた。25年に書記居宅として隣家を買収、28年には物理実験室を増築している。

  明治18年始めて卒業生を出してから10年あまり卒業生の数は260名に達していた。22年に発足した同窓会有志は物理実験室の建設に併せ報徳会の組織、理化学実験器具購入資金の醵金を呼びかけて十数の物理器械を寄付をしている。これは同窓会が組織的に行った始めての寄付行為でもあった。同窓生が母校を愛し、創立者の理学普及の理想を引き継ぐものであった。

 東京物理学校同窓会規則第1条に「東京物理学校ノ目的ヲ體シ理学ノ普及ヲ助ケ併セテ同窓ノ親睦ヲ厚ウセントスルニアリ」とあり、同窓の利益集団たるべしとは書いてない。
 そして50年史には精神共同体としての同窓会を「維持会員の献身的努力と時運を揮?する識見の結実たる主義の徹底並びに理想の実現とは、茲に全然物質を超越せる純精神的徳化的校風を?成し、同窓会は漸く師弟関係を形體としてこの校風の維持及び発揮の枢要機関たるべく運命を賦せられたり」としながらも、実際は先に述べたように同窓の実利的な目的のため組織された利益集団としての働きが強かった。全国に県単位で支部を置き、所によっては支部を細分して組織を密にし同窓を組み込み教育界では他の派閥が1歩も2歩も譲る力を擁していた。事実、何処の中学校にも理数科の教員に物理学校出身の教員が力を発揮していた。

  同窓会の設立と活動については次回に譲るがその前に特に強調しておきたいのは、明治33~4年の同窓会の総会で「校舎があまりに狭くて汚い」と会員から寄付金をつのり新校舎の建設を呼びかけたところ279名が賛同し16,350円の募金が集まったことである。33年までの卒業生の数約380名実に73パーセントの同窓が醵金したことになる。これからも学校と同窓の絆の強かったことが理解できる。これを資金に小川町校舎を神楽坂に移転することができ今の大学の基礎となった。その建物は二村記念館として復元されている。
 
  明治14年に開学した母校が、小川町校舎に移転し経済的にも自立できるまでの過程を生徒数を中心に簡単にまとめると 
生徒数
明治14年?20名9月稚松学校 12月大蔵省簿記講習所
15
1640
17709月共立統計学校
18維持同盟結成
191069月成立学舎 11月小川町校舎
20237
212月21712月小川町校舎を購入
3037月職工学校受験科設置
225844月同窓会結成   
3986月同窓会雑誌刊行  
23352
375
243527月職工学校受験科廃止
4139月度量衡科設置
25350書記居宅購入
373
263147月度量衡科廃止
322
27
28
物理実験室増築

  これまで数回にわたり小川町校舎について触れてきたが、ここで神楽坂に移るまでの20年間を簡単にまとめておこう。
         
         狭く劣悪な環境で過ごした小川町校舎
 
  靖国通りから小川町1番地(現在の小川町2丁目)に折れるとすぐレンガ建て平屋の物理学校があった。この建物は東京法学校(法政大学の前身)が、もとここで営業していた勧工場を買収したもので2階建ての望楼を中央に左右対称にレンガ建ての同型の建物を配していた。右側の建物は東京法学校が使い、左側の建物は昼間、仏文会(後に仏学会に吸収される。日仏会館の前身)がフランス語の学校を開いていたものを明治19年11月、夜間だけ物理学校が借り、成立学舎から移転した。望楼の下は通路になって左右を分断していた。

  明治21年東京法学校の移転に伴い校舎は望楼から2分され、母校は左側の半分を2200円で購入、右側は印刷工場に売却されたらしい。(当時ニコライ堂の塔屋から撮影された母校の写真では、撮影位置の関係から母校が右側になっている。建物は瓦葺レンガ建て別棟の便所を合わせて約145坪、借地と記録に残っている。支弁方法については分からないが学校の経済状態から見ても自力で購入したものと思われる。建物はレンガ建てで外見はモダンな趣があったが、内部は「北極学校」といわれるほど荒れていた。北極、つまり北の極み「キタナイキワミ」と洒落たものらしい。

  レンガ建ての建物の真ん中に廊下を通し、左右を区切って教室にしており、25年の届出の記録によると教室の面積は合わせて105.5坪であった。25年前後の生徒数は350名以上在籍していたから、計算の上では1坪の面積に3名の生徒が学んでいたことになる。これでは机や椅子などを置くスペースなど及びも着かない満員の状態だったことが想像される。夜間、石油ランプを吊るし、照明も十分でない満員の教室の授業風景は想像するに余りある。教室にガス灯の設備が出来たのは30年9月のことだった。ちなみに早稲田では34年に各教室に電気照明の設備ができている。夜間の物理学校に電気照明が施されたのは神楽坂に移ってからのことである。
  満員状態を打開するため明治30年2月の入学生から昼夜2クラスに分けられることになった。本校として始めての昼間部の設置だった。ちなみに22年9月に昼間部が設置されたことがあったが間もなく中止されている。
 ニコライ堂からの写真からも分かるように当時の母校の周辺には空地が無く増築の余地が無かったがそれでも25年には書記宅として隣家を買収、28年には物理実験室1棟を建築した。これが小川町校舎の全てで明治39年神楽坂校舎に移転するまで約20年間を過ごすことになる。
  明治、中央、専修、法政など周辺の大学が立派に成長するなかで20年そのままという劣悪ともいえる小川町校舎に見かねた同窓が「母校がこの有様では」と神楽坂に新校舎を建築する運動に立ち上がる。と同時に専門学校になる夢が学校、同窓の共通の目的であった。

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