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丸毛登の生涯<丸下三郎>


2005/03/24

父と息子と海軍と、東京大空襲

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連載 (3) <2005/3/24>

父と息子と海軍と


  長兄が当時昭南島と名付けられていたシンガポールへ出張する時の事、「おやじさんが羽田に来て見送ってくれたんだ」と父の死後長兄は語った、その兄も今は居ない(平成9年没)。
  敗戦間近の昭和19年秋口、レイテ出撃の連合艦隊のレーダーや通信設備の整備の為の約1ヶ月の出張であって、兄は滞在期間中、宿代わりに旗艦武蔵に宿泊していた。間もなく始まったレイテ沖海戦で、援護機の無い裸の日本艦隊は航空機攻撃で散々にやられ、不沈艦と誇った武蔵はマニラ東方シブヤン海に沈んだ。

 「この艦は絶対沈まない、一戦交えたら呉へ帰るから貴様も乗って行かんか」と兄に薦められた艦長の猪口大佐は艦と運命を共にされ少将に進級された。「万一の事があると本分に反することになりますから」とお薦めを辞退した兄は生きて帰って、その直後弱冠27才になったばかりなのに少佐に進級した。短期現役の造兵中尉に任官して4年半の事だった。

  父は決して子ぼんのうではなかった。殆ど放任主義で干渉しない、とも云えるのだが子供が多かったから、せざるを得なかったのだろう。もしも他人の子と自分の子と同時に解決するべき問題が生じたら、他を優先させる人だった。ただ子供が節目や曲り角に差しかかると、そっと手を加えて道なりに軌道修正するやり方だった。
  学校の父母会にも滅多に参加しない父が羽田に息子を見送るなどは異例の事で、戦局は絶対不利、故障するか日本列島に接近する機動部隊の艦載機グラマンに喰われるか、今生の別れになるかも知れないと思ったからであろう。

  海軍の話はまだある。総動員令が出たのは昭和18年、学徒出陣の儀式が雨の神宮競技場で行われたのもこの年の秋であった。人も物も乏しくなった日本が総力を集めてという趣旨である。昭和19年4月から父は日本ビクターの取締役技師長に就任していたが、メーカーの技術のトップを海軍嘱託という職名にして、日本の工業技術を結集しようとしたのであろう。父も大佐待遇になった。
  或る日の夕食後のひと時であったか、「海軍将校の人が、いきなり何年度のご卒業ですかと訊いて来たので、大学は出ていませんと云ったらびっくりしたような顔をしていたよ、技師長というと東大出だとおもったんだろうね」と笑っていた。「大佐」は一年余りの短い期間だった。
 

悪夢-死神に追われて

 
  昭和19年の秋から、サイパン、グアムの基地から飛来するようになったB29による空襲は、3月10日の東京大空襲以後益々ひんぱんで激しさを増していった。昭和20年5月25日夜の空襲で、東京都目黒区の一角に建つ築後7年余の約70坪程の我が家は忽ち灰燼に帰した。ボタンを押す0.1秒が生死を分けた。前々夜の空襲で玉川通り(246)の向こう側がやられ、我が家の近くの旅館に一発落ちたのを、大勢で消しとめ、それで終わりかと思って居たが。

 
鋼鉄製の差渡し8cm、六角形、長さ凡そ50cm位の油脂焼夷弾が束になったまま、B29の進路の上手30m位の所に落ちたのは昭和20年5月26日0時半頃だったろうか、爆撃手の手のほんの瞬時ボタンを押すのが遅ければ、私達家族8人が入っていた防空壕を直撃した筈である、平屋の建物に落ちて轟音と共に10数mの火炎が深夜の空を照らした。1本が壕の東側3mのところに落ち、ローソクの様に隣家に突きささって燃え上がるのを見た。周辺一帯がぼんやりと明るくなり始めガソリンのような油の匂いと煙がたちこめ、もはやこれ迄と全員退避をきめた。

 夜具の一枚とか薬缶一つとか持って、淡島通りに出るまでに10数mは私道で竹垣に火がついて倒れて燃えているのを踏んでようやく通りに出た。
  今は神泉町交差点とよぶ246通りの角(今のNCRの建物)にあった憲兵隊の並びで渋谷よりは、強制疎開で空地となっていた。そこでうずくまって夜の明けるのを皆で待った。一時間程して我が家と覚しき辺りに高熱を示す白い炎が上がって長く続いた。三軒茶屋の方向から無数の火の玉が、火事風に乗って渋谷駅の方向に流れてゆくのをぼんやり眺めているだけだった。夜が白々明ける頃には、住居の一帯は燃えるものは尽きて、火は収まったので、皆で我が家へ戻ると、家は跡かたもなく、無論柱の一本も残らずで、焼けた瓦が一面に散乱している有様だった。
陽が登り8時頃だったろうか、区役所から派遣された被害に遭わなかった方々が炊き出しをして握り飯を持ってきてくださった。その人達の口から、近所の方々の悲しい消息が伝えられた。
  我が家の玄関脇にあった元井戸に、毎朝水を汲みに来ていた隣家の65才ぐらいの上品なお婆さんは、結核の病人をリヤカーに乗せて一家4人で避難する途中に、腰に直撃弾を受けて、明け方に亡なられた。
  淡島通りのパン屋さんの新婚の若いきれいなおばさんは、大腿部に直撃弾を受けて同じく朝までに、おばさんと立ち話していた少年は直撃弾で即死。そのななめ向かい、今のトヨペット渋谷営業所のある淡島通りに面した当時の郵便局長さんは、位牌を持って出ようとした所で上半身に直撃弾を受けて即死された。今、目黒区青葉台4丁目という周囲800m程度の範囲で、名を知っている方だけでも7人が一夜の空襲で死亡された。
 一瞬の違いで生き残った私たちであったが、生きていて良かったという気持ちには到底なれなかった。むしろ、私たちが犠牲になれば、あの方々は助かったに違いない、と思うと無しょうに済まない気持ちにかられた。私たちが死ねば又何人かの人が死ぬ。戦争とは残酷極まりない忌み事だとつくづく思った。
  その後は梅が丘の親戚に一週間程お世話になり、日本ビクターの疎開工場へ行くことになる。


 
父は家が無くなっても平然としていたし、終生惜しかったという素ぶりも一切見せなかった。何も感じていなかったかというと、そうではないらしく、亡くなる前の数年間のある日、私にしみじみといった。「人生で一番良い時代は40代だよ」、丁度NHKに入社したのが39才、退職したのがちょうど満54才だから、NHKの時代が一番恵まれた楽しい時代で、その昔も晩年も悲哀と苦しみの多い父の一生であったといえよう。

  話は少し前に戻るが、住むに家なく親子8人のうち海軍技研に勤める長兄と、9月には海軍々医中尉に任官する予定の次兄(慈恵医大)の2人を除く6人だけで、桐生市へ行った。桐生の郊外には、父が勤めていた織物工場を改造した日本ビクターの疎開工場があった。因みに父が勤めていた横浜子安の本社工場は4月の空襲で全滅していた。

敗戦を挟んで桐生での日々 

  降り立った桐生駅前の通りで「あれが戦災乞食だべ」と地元の人たちが囁くのを耳にした。駅前の旅館で休息したのちバスで目的地に向かった。住む所は足利尊氏の家臣が住んでいたという4km程離れた市郊外の武家屋敷(現在は文化財)の母屋の一隅で、慢性的食糧不足で芋と高梁と野菜が殆ど、夜は蚤に悩まされた。敗戦の日を境に工場動員から開放されたが、九月から始まった桐生中(現県立桐生一高)では週の半分が農作業で、山の斜面の木の切株を取除いて開墾する労働が課せられ、半分が授業だった。

  夏のまだ盛りの頃、両親と私の3人と、同じ屋根の下の別の区画に住む父の親しい同僚、伊藤三洲さん(米加洲大卒)御夫妻と桐生駅から有蓋貨車に乗って、一日がかりで南瓜を夫々リュック一杯買って来たことがあった。桐生はJR両毛線が通っていて今でも列車が一時間に一本位であるが、その頃は客車はあてにならず買い物は貨車を利用する人が多かった。

  敗戦の前夜、全国民が何も知らされていなかった時、「ポツダム宣言受諾」を二世仲間の短波放送で知って居た伊藤さんは、我が家にこられ、「日本はもう負けるのです、5年間辛抱すれば戦前と同じ生活になるし、10年経てばもっと良くなりますよ」と話して下さった。翌日が8月15日の玉音放送。7月に東京から来た長兄が、もう艦(ふね)は殆どないよ、もう負けだよと言っていたが、強がり屋の軍部があれほど簡単に崩壊するとは思ってもみなかった。
  毎日のように空襲に来たグラマンの影は消え、セミの音は高く考えようではこの時期が一家団らんの一番幸福なひと時だったかも知れない。

  秋もかなり深まって、帰京したい思いの募っていた頃、いつも豆や野菜を分けてくださる、近所の農家の中年のご夫人が二人連れ立って尋ねてこられた。来訪の理由は次のような事である。
「お宅の今年の収入をそのまま申告されると私共土地の者が大変迷惑します、多額の住民税が来ますから減額して申告をして下さい」。
  応対に出た母が静かに「どのようにすればよいんですか?」と問うと、「年収の数字の上2ケタを削ってください」という驚くような申し入れであった。何と年間の現金収入が数百円しかない。その瞬間私が思ったったことは、桐生駅に降り立った時、「戦災乞食」と、さげすむように云ったあの町行く人々も、衣や住に困らないにしても、決して豊かな生活ではないのではと思い至り、許せる気がした。
  しかし、全国の都市は焦土となり、皆乏しく、その時代の一家の給料の多寡は、もはやステータスの指標を示すものではなく、民生品について云えば下駄やタワシのような物以外は殆んどない、たかだか芋(1貫目=3.75kg・20円)や南瓜を多く買えるかどうかの差に過ぎず、物々交換で色いろな品物も手に入るし食料を生産出来る農家の方が、サラリ-マンより、ずっと上位にあり、羨望の的だった。

  赤城下ろしの風が冷たくなった頃に、姉の友人からお便りで、雑司ヶ谷墓地の近くに当時大阪気象台長の国富さんのお留守宅があり、お貸ししても良いというありがたいお話があった。大晦日の前日一家六人手荷物だけ持ち、窓に木の板を張り巡らしたうす暗い東武線の電車で帰京した。朝出て雑司ヶ谷に着いたのは夕方で、何とかガソリンを手に入れてトラックで荷物を運んでくる手筈であったが、いくら待っても来ず、一家分散して束の間の居候となった。やがて1台の牛車で荷物が運ばれて来たのは数日後の事だった。
  正月に開成中2の同級生原島康廣兄〈後弁護士。平成9年没〉からの年賀状が転送されて来た、食糧事情の為授業は1月21日から始まるとあった。食料不足は深刻で、200万人が餓死線上にあると、ラジオ、新聞は報じていた。
私達もその仲間だった。   

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