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西村和夫の神楽坂

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2004/04/15

泉鏡花と神楽坂

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神楽坂界隈 連載(7)<2004/4/15>

泉鏡花と神楽坂

一里は神楽に明けて神楽坂、玉も甍も朝霞
江戸川近き春の水、山吹の里遠からず
   筑土の松に藤咲けば……
船は首尾よく揚場から
   霧の明りに道行きの……
色に露添う御縁日、毘沙門様は守り神

  付近の地名を巧みに織り込んだ鏡花のこの詞は 「神楽坂をどり」として長唄に作曲され、かっては神楽坂の美妓によって舞われたが最近では見られなくなった。

  むかし神楽坂は三業地と呼ばれ料亭や芸者屋(置屋)とくに芸者と客が情事を繰り広げた待合が多かった。日が落ちると街中を褄をとり行き交う芸者の艶(あ)で姿に、男のだれもが男女の艶かしい別世界に想いを巡らした。              
  いまでは待合は無くなったが、花柳街華やかなりし頃、待合の格子をくぐるのは飲み屋の暖簾をくぐるようなわけにはいかなかった。お座敷でさえ誰もがそう簡単に入れてもらえなかった。
 花柳街にはこの街だけのしきたりがあった。何も知らずに土足で入り込むような奴は、いくら金があってもやぼ「田舎者」だと相手にされなかった。初め誰かに連れていってもらい女将か芸者の何人かと顔馴染みになってから本格的に出入りができるようになった。ましてこの世界を傍から興味本位で探ることなど唐変木と言われくらいの覚悟は必要だった。
 花柳街は男だけの世界であり、ここで遊ぶものは世間から「男の甲斐性のうち」とまで言われ、一方では西洋のサロン的意味合いももち、花柳街の閉鎖的な性格から会議の場としても利用された。
  あえてこの世界を知ろうと芝居、落語等を通じてそのあらましを想像できたとしても、なかなかつかめないところがある。
  江戸、明治、大正、昭和の初期まで続いてきた花柳街は最早、現代社会とあまりに落差が大きく次第に噛み合わなくなり遠い過去のものになろうとしている。しかし野暮と言われようが、男はこの世界に郷愁を感じるのである。

縁日の人出に揉まれる芸者と雛妓

  むかし神楽坂の夜は、毘沙門天の縁日で坂いっぱいの人出で溢れた。その人の波に揉まれながら座敷着の芸者衆と雛妓(おしゃく)が座敷に行く姿は神楽坂しか見られない光景だった。

    名さへ賑はし あの神楽坂
    こよひ寅毘沙 人の波
    可愛い雛妓と 袖すり交わしや
    買った植木の 花が散る
     (新東京行進曲 西條八十 昭和5年)

「婦系図」の原型の街神楽坂
     そのたたずまいを残す本田横丁周辺

  泉鏡花の「婦系図」の主人公お蔦は、後に泉鏡花夫人になる神楽坂、芸妓置屋蔦永楽の芸妓桃太郎、本名伊藤すゞがモデルだと言われている。だから、鏡花は桃太郎と神楽坂の生活そのももを「女系図」に書いたとみて間違いないだろう。
  明治4年、金沢に生まれた鏡花は尾崎紅葉の小説「色懺悔」を読み、門下生にしてもらいたく上京、運よく横寺町の紅葉宅の玄関に机を置き勉強をすることを許される。
  鏡花は紅葉の茶屋遊びに門人達とよく御供をした。鏡花がすゞこと芸妓桃太郎と知合ったのは、神楽坂の料亭常磐家で開かれた硯友会の新年会の宴席だった。芸妓置屋蔦永楽は森戸記念館の裏辺り、料亭常磐屋は理窓会館、軽子坂よりにあったようだ。(古老の記憶で書かれた震災前の地図によるもので正確を欠くかも知れない)              
  すゞは鏡花より8歳年下「明治32年1月、伊藤すゞと相識る」と自筆の年譜にさりげなく記している。すゞが17歳の時である。その後夫婦約束をするまでの深い仲になったが師紅葉には隠しておいた。すゞは早くに父を失い5歳の時芸者だった母に芸妓屋に売られ吉原仲之町で育った。鏡花は落籍した桃太郎と横寺町の紅葉の家に近い神楽坂下の新築の二階家に新居を構え二人ですんでいた。東京理科大学神楽坂キャンパス2号館すぐのの崖上である。 

 「お蔦は湯から帰ってきた。艶やかな濡髪に、梅花の匂馥郁として、繻子の襟の烏羽玉にも、香や隠る、露地の宵。」
  神楽坂にいまも語られる神楽坂の風景そのものである。かっては夜の帳がおりると黒塀が続く小道を賑やかにおしゃべりをしながら駒下駄の音を響かせ粋な座敷着姿の芸者衆が行き交った。
 戦前は神楽坂一帯には料亭や待合が多かった。善国寺毘沙門堂の裏手一帯の料亭は大分少なくなったが、細道が迷路のように入り組んでだ本田横丁のあたりはまだ昔のままだ。
  本当の神楽坂の情緒は本田横丁周辺の細い迷路のような坂道にあると思う。「婦系図」原型の街としていまでもその雰囲気は十分に残されている。神楽坂を紹介する写真にここが選ばれることが多いのはその何よりの証拠だ。              
 夏の宵、御影石の敷石を敷き詰めた小道に打ち水がされ、黒塀の奥から三味の音に交り風鈴がひびく。東京理科大学森戸記念館は今に残る神楽坂情緒のど真ん中に建設されたといってよいだろう。記念館の横から坂を下り軽子坂にぬける小道のたたずまいは昔と変わらない。最近急激に料亭の廃業が目立ち芸者の数も少なくなったが、正月など運がよければ座敷着姿の芸者に出くわすことができる。

「婦系図」の名場面「湯島境内別離の場」

   鏡花と桃太郎の恋は恩師紅葉によって無慈悲にも裂かれることになる。 その有様を芝居が見せてくれる。 新派十八番「婦系図」の名場面「湯島境内別離の場」は明治40年やまと新聞に連載された原作にはない。翌41年新富座で初演の際、喜多村緑郎の筋立てに、鏡花と同じ紅葉門下の柳川春葉が台本の中に書き加え清元「忍逢春雪解」を使って演出効果をあげたものだ。のち大正3年、鏡花が若干補筆している。  
  主人公の早瀬主税は恩師酒井俊蔵の命令で夫婦同然に暮らしていた芸者お蔦(蔦吉)との恋を断ち切られる。主税はもと「隼の力」といわれたスリだが酒井俊蔵の諌めで改心し、勉学に励みひとかどのドイツ文学者になる。主税にとって酒井先生は大恩人である。
  鏡花にしても紅葉は貧乏のどん底から玄関番に住まわしてもらい、文筆で名をなすまでに至ったまさに大恩人である。
 「是も非も無い。さあ、たとえ、俺が無理でも構わん、無情でも差支えん、婦が怨んでも、泣いても可い。憧れ死んでも可い。先生の命令だ。切れっ了え。俺を棄てる歎歟、婦を棄てる歟。むゝ、此の他に文句はないのよ」この科白はまさに紅葉の言葉そのものだ。               
 「俺を棄てるか、女を棄てるか」の恩師の言葉にさからい切れず、主税は「婦を捨てます。先生」と先生にいうはめに追い込まれる。           

 芝居「婦系図」お蔦の名科白

 白梅の咲きほころびる湯島天神の境内でお蔦は主税に突然、別れ話を持ち出される。
 「切れるの、別れるのッて、あたし何か悪いこでもしたの……。なら、謝るわ、直しもするわ……。でも縁を切られるおぼえはないわ……。切れる別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云ふものよ。…… 今のあたしには、はっきり死ねと云って下さい。蔦には枯れろ、とおっしゃいましな」の名台詞が出る。芝居「婦系図」の見せ場はここにあり、これは鏡花自身の体験にもとづいているといわれる。

     湯島通れば 思い出す
     お蔦主税の 心意気
     知るや 白梅 玉垣に
     残る二人の 影法師
          (佐伯孝夫)

  いまでもカラオケで歌い継がれる昭和17年ビクターレコードの「湯島の白梅」である。同年、上映された東宝映画、長谷川一夫の早瀬主税、山田五十鈴のお蔦の「婦系図」は太平洋戦争の殺伐した世相のなかで一抹の潤いを与えた。 

酒井先生の科白は紅葉の日記にある

  明治36年4月14日の紅葉の日記に「婦系図」の主人公、主税とお蔦が無慈悲にも酒井先生から引き裂かれるモデルを見ることができる。
  その頃の紅葉の毎日を日記でたどると胃癌による胃痛の悩みと不安、日毎の体調、食事、見舞客の対応、狂言の鑑賞など日常ごくありふれた内容で埋まっている。ところが14日になると突然、激しいまでに鏡花と桃太郎の関係に怒りをぶつける。      
 
  「夜風葉を招き、デチケエションの編輯に就いて問う所あり。相率て鏡花を訪ふ。■妓を家に入れしを知り、異(意)見の為に趣く。彼秘して実を吐かず。怒り帰る。十時風葉又来る。右の件に付再人を遣し、鏡花兄弟を枕頭に招き折檻す。十二時頃放ち還す。疲労甚しく怒罵の元気薄し。」
 かなり激しい折檻だったことが想像できる。
 さらに16日には「夜鏡花来る。相率いて其家に到り、明日家を去るといえる桃太郎に会い、小使い10円を遣す。」にうかがえる。
  なぜ、紅葉が鏡花と桃太郎の間を執拗なまでに裂いたか考えてみたい。
                                                    
  註 ■は日偏に匿   ■妓(じつぎ、馴染みの妓 )


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