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2004/06/01

江戸芸者のルーツは両国橘町の踊り子から

Tweet ThisSend to Facebook | by:埼玉支部
神楽坂界隈 (連載10)<2004/6/1

江戸芸者のルーツは両国橘町の踊り子から


  毘沙門天が麹町から神楽坂に移されたのは寛政5年(1793)と前にも紹介した。江戸川柳「三度目は面白い地へ御鎮座」からも分かるように、この頃すでに神楽坂周辺に岡場所があったと考えて間違いはないだろう。しかし、吉原や深川などに比べて記録が少ないことから、推測の域を出ないということも否めない。       元文(1736)の始めからから寛保(1743)にかけ 両国橘町に町芸者の祖先ともいわれる踊り子が姿をあらわした。同じ時期、行元寺辺りにも踊り子がいたと記載されているから、神楽坂に町芸者が誕生したのは深川よりも古いかも知れない。      

粋でいなせな辰巳芸者を育てた深川

  江戸の町芸者はもとを正せば踊り子である。始めの頃は、町芸者は踊り子の振り袖の姿で茶屋に来て、留袖に着替えて接客した後、もとの振り袖に戻り帰っていった。幕府の踊り子禁止政策に対する抜け道だったのかも知れない。
  後になって、町芸者は前回述べたように娘風の縦縞の小袖に年中素足という姿に変わり、深川だけは「羽織」を着た。これが粋だと江戸中から愛され、「羽織」を着るのが深川だけの特権のように思われ、「羽織」と言えば深川芸者を呼ぶことにもつながっていった。

一方、江戸の各所に低級淫売女       川辺に夜鷹・大川筋にお千代船が現われる

  寛保元年(1741)踊り子はころび芸者と取り締まられたことで、逆に芸者は芸だけでは生活が成り立たず売淫することを余儀なくされた。そんなわけで両国回向院、行元寺など寺社の周囲に山猫という名前の淫売女が跳梁することになった。       
  この頃一方では、わずか100文、200文で媚を売る、最低の淫売女、夜鷹、切見世、船中で売春する船饅頭、お千代船などいろいろの名で呼ばれた私娼が江戸の各所で姿を見せるようになった。多くは貧家の女性の内職が多かったようだ。
  当時は、女性が職業につける場所はこんな所にしか無かったのである。

    客二つつぶしてそばを三つくい

  夜鷹の相場は28文と決まっていた。俗にいう二八そばが一杯、洒落ではないが二八の16文、夜鷹の稼ぎは客2人分つまりそば3杯というわけだ。たまに宵越しの銭を持たぬ江戸っ子が100文はずんだとしても零細な稼ぎだったのである。ちなみに当時の米相場は1升100文だったという。         
  宝暦年間(1751~1763)から明和・安永(1764~ 1780)にかけ、赤坂氷川明神の社寺地で隠売女がさかんに客を呼んだかどで3回も追い払われたことがあった。当時の江戸町ではこんなことは日常茶飯事であった。                    
   辰巳よいとこ 素足が歩く    羽織やお江戸の誇りもの……(江戸小唄)

  しかし、安永元年(1772)田沼意次が老中になると隠売女を黙認し運上金を取り立てたので江戸の各所に岡場所が出現町、芸者の全盛時代をみることになる。
                     
  岡場所の筆頭深川は、深川芸者・辰巳芸者で知られるようになった。深川は江戸から見て辰巳(東南)の方向にあり、吉原から見れば千住は場末の田舎、根津は職人相手、品川は旅人、僧侶に田舎侍、深川は商家の番頭・手代クラスの遊び場と相場が決まっていた。
  その後、深川は江戸詰家老クラスの会席の場としての性格を帯びるようになり、ごく最近まで「待合政治」の原型としてその悪弊が残されることになった。

  吉原では足袋をはき羽織を着ることが許されなかった。深川ではその逆をいき、素足に羽織を着た。特に天保の頃まで子供と呼ぶ14~5歳以下の見習い芸者に男装をさせ羽織を着せ座敷に上げたのが江戸中から評判になり羽織芸者の名で江戸中の人気をさらった。
 天明7年(1787)、天明の大火で吉原が全焼し、復興まで深川で仮営業することになった。これにより深川は今までにまして活気づくことになった。
 しかし、深川は岡場所でありもともと遊女がいた。深川は吉原の芸者と違い売春を兼ねた町芸者だったので遊女と金銭上のトラブルが絶えなかった。元来、芸者は芸のみを売り売春はしないことが建前になっていたから、町芸者は下級の淫売女からもそしりをまのがれ無かった。               

  そこで深川芸者ははっきりと一人2役、つまり芸と売春の2枚鑑札を掲げることになった。この風潮が次第に江戸中の町芸者に伝わり、文化年間(1804~1817)になると芸者と売春を職業とするものが下町・山の手を問わず江戸市中に定着しすることになった。                      
  ただ三味線を弾けるだけでは一人前の芸者と扱われず、目下芸者の修業中とされてしまい玉代も少ないことから半玉と呼ばれた。芸者など客商売の女を玉と言ったことに起因する。           
  もともと町芸者は自由業で、母親がマネジャーになり娘を酒席に侍らせた。そこで美人の娘であれば三味線をまねごと程度に習わせ、芸者にして売春で稼がせ楽に暮らそうとする親子も決して少なくなかった。その結果芸者の品位が低下したのは勿論だった。                         
     駒下駄の雪見に転ぶ奥二階         三味線のこまがゆるむと転ぶ也               三味線の下手はころぶが上手なり

 幕府はたびたび町の風紀を乱すと「女を召抱、芸者ニ致候儀一切相成候」と岡場所の取締を行なったが、逆に岡場所の盛況を見るにいたった。これにはわけがあった。取締が形式的であり、さらに「親兄のため無拠(よんどころなく)娘妹などの内、芸一ト通ニて茶屋向え差出候儀ハ格別」と例外を認めていたからだ。                  
  やがて家が貧しく、親の金欲しさから娘を置屋に売るものもでてきた。俗にこれを年期勤めといって前借、つまり身売りした娘を年期で縛り、25~6歳を満期として14~5歳から「下地ツ子」として長い 時間をかけて芸ごとを身につけさせ芸者に育てた。 置屋には年期勤めのほか、好きでこの道に入るものもいたが、養女が多いのはこんなところに理由があるのかも知れない。              
  この風習は戦前まで続いた。

辰巳芸者から江戸芸者までの変遷
    江戸末期に黒縮緬に染出しの紋   緋縮緬の襦袢のスタイルが決まる

  田沼時代には町芸者は全盛時代を迎え江戸芸者のスタイルが完成を見るのである。
 『素足に黒ビロードの細鼻緒の下駄をはき、黒縮緬に染出しの紋、裾回には金糸の縫い、江戸褄の二つ重ねの江戸紫の無垢の下着、緋縮緬の長襦袢、緞子の廣帯』といった町芸者の姿は取締りをよそに江戸の各地へ広がりを見せた。
  寛政年間(1789~1800)深川仲町、根津、芳町など、文化・文政になると芝高輪・下谷広小路・浅草仲町・湯島・柳橋に広がり幕末になり新橋・神楽坂の名前が上がってくる。

安政4年(1857) 神楽坂に芸者がやってくる

  善国寺の毘沙門天の縁日が始まる以前からある神楽坂周辺の寺社の御開帳、霊場参りにあわせ境内、門前町に茶屋が開かれ山猫が跳梁したことは容易に想像できる。

  岡場所の筆頭深川辰巳の里が天保の改革(1830~1844)で営業停止の処分を受けることになった。深川は、前々から、各藩江戸詰幹部が幕臣と繋がりを密にするという名目で、接待の場として使われていた。接待費つまり藩費も馬鹿にならず、営業停止の理由になったのだろう。
  職場を失った深川辰巳芸者が集団で移動したのは大川(隅田川)の船遊び拠点、柳橋だった。ここから花火舟、涼み舟、雪み舟、猪牙舟の客の供をするようになった。柳橋芸者の起源である。

  爪先に紅をさし素足で屋形船にひらりとすべりこむ小粋な姿は江戸芸者の原型とも言われ、深川辰巳芸者の面影を唯一残すものと自他共に許した柳橋も、明治からの遊客の変動で後発の新橋にその座を奪われることになった。
 
西の「都をどり」に対し東の「東をどり」は新橋の美妓によって舞われる

 幕末の、安政4年(1857)同じ年に牛込神楽坂と新橋の2ケ所に花町が誕生している。それから2年して安政6年に烏森、赤坂は明治4年と新しい。
 だが、明治5年の鉄道の開通によって新橋が東京の玄関口になり、銀座が目覚ましい発展をとげる。したがって新橋、赤坂の花町が官僚、政党、政商が結びつくヨーロッパのサロンに代わるものとしての性格を帯びるようになると、新橋芸者・赤坂芸者の名声が上がり、柳橋と同等かそれ以上とも言われるようになった。

 牛込神楽坂芸者の起こりをどう見るか。これについては周辺の山猫が進化したもの、よそから移転してきたものと二説あるが、私は後者を取りたい。
 当時の規模や場所については確かめられないが、もともと武家屋敷と寺社地の多い神楽坂では花町が作られた範囲は決められてくる。門前町か藁町・肴町・通寺町辺りが候補に上げられるだろう。
  

招魂社(靖国神社)の並びに料亭    神楽坂から人力車で芸者が通う

  そして芸者は幕末から明治にかけて江戸川沿いの花見、船遊びに色を添えた思われる。神楽河岸から船で江戸の各所への招きに応じかなり遠い所まで足をのばしたようだ。神田川を下ると神田、日本橋、隅田川に至ると柳橋である。
  明治になり神楽坂は一時さびれたようだが、明治4年、幕府の歩兵屯所後に靖国神社の前身招魂社が建立され、鳥羽・伏見の戦以後函館戦争まで官軍の戦没者が祀られた。初めての大祭以降、門前に作られた競馬場で競馬が行なわれ、東京市民から人気をさらった。

  富士見町には招魂社の創立により生まれた料亭が並ぶようになり、さらに近衛連隊ができると、将校を相手に盛況を極めたと聞いている。神楽坂から芸者も毎日のように忙しく人力車で牛込橋を越え乗りつけた。    明治20年頃になると、富士見町にも芸者置屋ができ日清・日露戦争、第1次世界大戦と急成長した花町であった。しばらく前まで古老は懐かしげに富士見町の名を口にしものだ。

武家屋敷屋敷跡に色町が広がる    富士見町は軍人・神楽坂は文化人

  明治の始め頃の神楽坂は色里といっても大半は武家屋敷と寺社でしめられ、それに寄り添うかのように神楽坂、横寺町、通寺町には左官、石屋、豆腐屋、八百屋、乾物屋、錺屋(かざりや)などの江戸時代からの町屋が並んでいた。徳川崩壊と共に武家屋敷と寺社には空家が目立ち、想像以上に荒廃していたと思われる。維新、屋敷を維持できなくなった武士が二束三文で手放したことが原因という。

  維新後、しばらくの間おとろえを見せた神楽坂も、明治10年(1877)西南戦争を境に前にも増して賑わいを見せ始めた。さらに、日清・日露の戦争はこの状態に拍車をかけた。聞くところによると当時、神楽坂の中心部は横寺町、通寺町周辺にあり牛込亭を始め沢山の娯楽場、鰻屋、牛鍋屋、飲み屋が立ち並び賑わっていたそうだ。
  明治14年(1881)通寺町に東京貯銭私立銀行が資本金2万円で開業している。昭和30年刊新宿区史によると「昨今牛込神楽坂に待合の増える事大分ならず、一昨年までは僅か7,8軒なりしも今では15,6軒の多きに及べり」(明治編第9・明治28・9・7)とある。嘉永年間の地図に料亭、置屋、待合の位置を重ねてみると、武家屋敷の跡が色里に変わっていった様子が理解できる。
 加えて、明治15年、早稲田大学の前身東京専門学校の開校(大正9年に早稲田大学となる)、牛込が文化人の住宅地となることで神楽坂がさらに一段と賑いを見せるようになる。
 さて明治からの神楽坂については一時後に譲り次回から中世以降の神楽坂の歴史を追ってみたい。


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