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Alumni Stories

さまざまな分野で活躍している
卒業生の今をインタビューしました。

創域理工学部 製造・化学

ホタル飛ぶ里山あり、良き水と米あり。熱き心、深き技あってこそ「酒」。

創業1830 (天保元)年 あの淡麗辛口の 「久保田」を開発した
歴史ある 「朝日酒造」 を率いる、 細田康社長に聞く

朝日酒造株式会社 代表取締役社長

細田 康さん

細田 康さん
細田 康さん

プロフィール

大学卒業後、化学メーカーに勤務。
研究者を経て、1995年に朝日酒造株式会社へ入社。
2012年12月、代表取締役社長に就任。

医師一家で育ち、目指した人工臓器研究の道

新宿区生まれですが、半年後に新潟市に引っ越しとなり、そこから中学3年生まで新潟県で過ごしました。
父は歯科医、母は看護師という医師一家で育ったので、医学部に行くのが当然という流れの中、興味を持ったのが人工臓器。母が師長を務める病院が腎臓移植をよく行っており、移植待ちなどの話を聞いていたので、生物と化学の力で人工臓器を作って、移植に困っている人の力になりたいという想いから、東京理科大学に入学しました。
理工学部応用生物科学科の研究室では、タンパク質の精製を学び、培養液を分離させる日々。その時ハマっていたのが一人スキーで、冬スキーに行くためにそれ以外の季節はバイト漬けで、そのバイト時間を作るためにいかに実験のデータ整理を早く終わらせるかを常に考えていましたね(笑)。

仕事との向き合い方を学んだトクヤマでの経験

卒業後は、初志貫徹で人工臓器の研究をするために、研究所もある化学メーカーに勤めたいと考えトクヤマ(旧・徳山曹達)に。つくば研究所に配属され、高脂血症に関する研究や、梅毒の高感度迅速診断などの研究に携わりました。
トクヤマにいたのは約4年でしたが、ここで仕事をしていく上で大事なことを学んだんです。それぞれに研究テーマを与えられるのですが、一年目から誰かのサポートという立場はなく、そのテーマに取り組んでいるのは自分だけという状況。ですから、分からないことを上司に聞きにいっても、「このテーマをやっているのは君しかいないのだから、会社の中で一番分かっているのは君だよ」と。教えてくださいというスタンスが当たり前ではないと気づかされました。

生まれ育った新潟で酒の道へ

トクヤマでの仕事は充実していたのですが、30歳を前にふるさとの新潟に戻りたいという想いがあり、新潟へUターン。
これまでの研究職同様、生物に関わる仕事をしたいと思い、それであれば日本酒だと。父のつながりでご縁もあった朝日酒造に入社しました。

営業から情報システムまで経験値のない業務に挑戦

朝日酒造では、最初の半年間製造部門で酒造りを学んだ後、営業部門に配属。その時、会社の改善活動にも取り組んでいて、情報共有チームのリーダーを担当していました。実験のデータ整理でPC操作は得意だったので、その能力を見出してもらい、情報システム部門の課長に抜擢され、会社の基盤となるシステム構築に携わりました。その後、総務課長・営業部長・取締役・常務取締役を経て、2012年12月に代表取締役社長に就任しました。こう振り返ると、営業や情報システムなど経験のない部署を歴任していたのですが、経験値がないことにどう取り組むかは、トクヤマの一年目時代に学んだことが活きましたね。

約200年続く品質本位と挑戦の酒造り

朝日酒造は、1830(天保元)年創業、もうすぐ創業200年を迎える酒蔵です。酒蔵があるのは、新潟県長岡市の越路地域。ホタルが飛ぶ水田と里山が豊かに広がっており、酒造りに欠かせない「水」と「米」を生み出しています。
酒造りに使う水は敷地内を流れる地下水脈で、新潟県内でもとりわけ硬度が低い軟水です。米は契約栽培農家さんに作っていただくのはもちろんですが、「酒造りは、米づくりから」との考えから有限会社あさひ農研を設立し、蔵人も米作りに関わるなど「農醸一貫」を実現しています。
創業当時から掲げているのは「品質本位」の酒造り。そして、もう一つの特徴として、時代に先駆けた開発です。低アルコールの吟醸酒や発泡性の日本酒など、今でこそ当たり前に売られている日本酒を30年以上前に既に発売していました。新しい味わいの開発に挑戦をしていく、その最たるものが「久保田」と言えます。

時代の変化に合わせて生まれた「久保田」

「久保田」が誕生したのは1985年のことです。高度成長期、日本酒の消費量は拡大していましたが、1973年をピークに減少。さらに大量生産を背景に安売りされるようになっていました。そんな日本酒の失地回復を図りたいという想いから、4代目社長の平澤亨が高品質な日本酒の開発に着手したのです。

名前に寿がついた「久保田」6商品

名前に寿がついた「久保田」6商品

その当時好まれていた日本酒は濃醇甘口でしたが、肉体労働から知的労働に移り変わり、食卓に並ぶ料理も濃い味から薄味へと変わっていく中で、好まれる日本酒の味わいも変わると予見し、淡麗辛口を志向しました。当時の新潟県醸造試験場の嶋悌司を招聘して、新しい酒造りに挑戦し、約1年半で完成させたのが「久保田」です。「久保田」という名前は、創業の精神に立ち真剣によいものを造っていこうという決意を込めて、創業時の屋号である「久保田屋」から名付けました。

「久保田」を売る=どう情報を伝えるか

「久保田」を売るにあたって考えたのは、どう情報を伝えるかです。発売当時は、広告は一切行わず、酒販店の店主による口コミや店頭での体験で伝えていきました。また、酒販店の個性に任せていたので、酒販店それぞれで発信する情報が異なっていました。
しかし、発売から35年以上経った現在は、ネットやSNSで情報の流通の仕方が大きく変わりました。さらに情報が大量に溢れているので、情報の出所がどこかというのも重要になっています。そのため、メーカーがお客様に正しい情報を直接伝えていくことが必要で、それができるツールや環境が今はある。SNSやメルマガ、オウンドメディアなどを駆使して、色々な情報を発信していっています。直接発信していくことで、お客様づくりにもつながっています。
本質である体験価値を提供するところは変わらないし、その価値はやはり味わってもらってなんぼの世界なので、お客様の美味しいという笑顔をもらうために、デジタルを活用して究極のアナログ活動を展開する感じですね。

世界中の食べ物と楽しめる日本酒へ

日本酒は、和食と合わせて飲むという位置づけからなかなか脱却できずにいると感じています。和食以外の時でも選択肢にあがる飲み物になる、そのポテンシャルはあると思っています。世界中のどの国の食べ物を食べる時でも、日本酒が選ばれる状態が一つの到達点かなと思っています。よく、飲みやすくて美味しいものの代名詞にワインが使われますが、それを日本酒にしたいというのが個人的なモチベーションです。
また、米からフルーツのような吟醸香や味わいが生まれる、これって不思議ですよね。海外では、日本酒はミステリアスとも表現されるようです。この米の不思議さをもっと伝えていきたいと思っています。

社会人人生を切り開く覚悟と意識を

トクヤマ時代の先輩にどうしたらいいかと聞いた時に言われた「勉強の仕方を大学で学んできたはずなので、何をどう勉強するかは自分でわかっているはずだから自分で考えなさい」。この言葉と、前述の上司からの言葉は、その後の社会人人生の考え方を決定づけるものになりました。
仕事は会社から与えられるものですが、知らないことでも自分で見つけないといけないという覚悟と能力を身につけることができるか、成果を出すためにはいかに自分ごと化できるか、これが自分の道を切り開いていくためには重要だと思います。

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